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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第九章
358/398

最後の戦い①

 フランシス、アトラス、リーゼロッテと、仲間たちに背中を押されアンナは駆けた。魔王の居城となったインペリアルタワーの階段は、当時のままの姿を残していたが、初めて来るアンナには何の感慨もなく、ただ狭いだけのそれを彼女は必死に登り続けた。


 建物内はとにかく暗く、ところどころに採光用の小窓が付いていなければ、歩くのも困難だったろう。吹き抜け部分を昇っている時はまだマシだったが、そこを抜けると上階は電気も無く真っ暗で、狭い階段を手探りで昇っていると、自分が上に向かってるのか下に降りているのか分からなくなるくらいだった。


 と、突然、階下からドーンっと大きな振動が伝わってきて、アンナはバランスを崩して地面に尻もちをついた。


 どうやら、リーゼロッテが戦いを始めたらしい……どれだけ激しい戦闘を繰り広げていたら、こんなことになるのだろうか。そのグラグラと揺れる振動を感じながら、彼女はこのまま建物が倒壊してしまうんじゃないかと不安になった。しかし、今更そんなことを気にしても仕方ない。


 彼女は地面に手をついて起き上がると、その手についた埃を払おうとして、ふと気づいた。建物は15年も無人で放置されたとは思えないほど手入れが行き届いており、手には埃一つついていなかったのだ。


 まるで時間が止まっているかのようだ。そう言えば、さっきローデポリス市内に入った時も思ったが、この街は15年も人が居なかった割には綺麗すぎる。市内には高木がまったく生えておらず、雑草すら殆ど伸びていなかった。


 そんな芸当、どうやったら出来るのかさっぱり分からないから、もしかすると本当に、魔王は時間を止めるすべを持っているのかも知れない。仮にそうだとしたら、そんな相手とどうやって戦えばいいのかわからなくなるが……


 アンナは両手で自分のほっぺたをパチンと叩いた。


 ここまで来て弱気になってどうするのだ。彼女は勇気を振り絞ると、それ以上あまり考えずに先へ進んだ。


 階下から絶えず聞こえてくる爆音を聞きながら、それ以外はしんと静まり返っている不気味な階段を、アンナは息を潜めながら昇った。やがて最上階にたどり着いたのか、上り階段が途切れた踊り場に光が差しているのが見えた。


 いよいよ魔王と対面か……ドキドキしながら慎重に階段を上ると、アンナは姿勢を低くして身を潜めながら、続く廊下を進み謁見の間へ続く扉へと近づいた。


 するとその中からは何とも形容のし難い異様な臭気と、ネチャネチャクチャクチャと粘りつくような、やけに耳障りな音が聞こえてくる。


 アンナがそっと部屋の中を覗き込んでみたら、そこには以前リーゼロッテが話して聞かせてくれた通り、かなり異常な光景が広がっていた。


 最上階の謁見の間という、ほぼフロア全部を使った広い部屋の壁一面に、びっしりと赤黒い肉塊がこびりついていたのである。


 それは光を反射してテラテラと光り、ところどころ軟体動物みたいにウネウネと蠢いているのが分かる。見ているだけで不快な肉塊は天井まで覆い尽くしていて、時折その天井からボタボタと腐り落ちては、ジューッと焼けるような音を立てて、地面に黒い染みを作った。


 もし、事前にその話を聞いていなかったら、見ただけでショックで倒れそうな光景だ。魔王はこの部屋で何をしていたんだ……? 不快に思いながらキョロキョロと部屋の中の様子を探ってみると、アンナは部屋の中が無人であることに気がついた。


 どうして誰も居ないんだろう。ここは魔王の居城では無かったのか。


 首を傾げながら恐る恐る部屋の中を更に探ると、奥の方にアクロポリスの世界樹でも見た、大きな水槽のようなポッドが見えた。リーゼロッテの話では、10年前に皇帝ブリジットが入ったポッドを見かけたと言っていたから、多分それだろうと思ったアンナがそれを確かめようと、更に目を凝らしていると……


 彼女は、ふと、どうしようもなく懐かしい気持ちに襲われ、心臓が跳ね上がるような衝動に駆られた。


 今、彼女の目の前に、母がいる。


 10年前に魔王討伐に向かったっきり帰ってこなかった彼女が、当時の姿のまま、生体ポッドの中でプカプカ浮いていたのだ。


「お母さん!」


 その瞬間、アンナは自分がどこにいるのかも忘れて叫んだ。そして魔王がどこに潜んでいるかも分からない部屋の中へ飛び込むと、奥にある母親のポッドの前まで一目散にやってきた。


 ハァハァと息せき切って見上げると、そこに居たのは紛れもなく彼女の母アナスタシアだった。


 記憶は薄れ、最近では思い出すことも難しくなっていたが、それを見た瞬間にはっきりと思い出した。記憶の中の母と目の前のそれがピッタリと一致して、彼女の記憶が鮮やかに蘇ったのだ。


 ああ、そうだ、母はこんな顔をしていた。いつも優しくて、いつも綺麗で、世界で一番、アンナのことを愛してくれた。物静かな彼女が歩いていると、誰もが見とれて振り返る。それがアンナにはとても誇らしかった。母はそんな女性だった。


 彼女は思わずその場で泣き崩れてしまいそうになったが、こみ上げてくる感情を必死に押し込めると、ポッドの中の母の姿を慎重に調べた。


 母は血色が悪くて表情が無かったが、肌艶は瑞々しく張りがあり、まるで生きているようだった。時折、ゆらゆらと揺れる彼女の口から気泡が上がり、じっと見ていると非常にゆっくりとだが、胸が上下しているようにも見える。生きていて欲しいと思う気持ちがそう錯覚させるのだろうか? いや、決してこれは見間違いじゃない。アンナは何度も何度もそれを確かめた。


 メディアの亜人ジュリアは、アナスタシアは生きているんじゃないかと言っていた。魔王が愛した女性に手をかけるなんてことは、彼女は出来ないと信じていたのだ。どうやらその予想は当たりだったようだ。


 やっぱり、魔王はみんなが思ってるような人では無いのでは……?


 アンナはふと思い立ち、隣りにある別のポッドを覗き込んだ。部屋の中には3つのポッドがあり、母の他にもう一つ、人が入っているポッドがあった。その中には金髪で小柄ながらグラマーな女性が入っており、母と同じように顔色は悪いが肌艶は生きた人間そのものだった。


 するとこの人が皇帝ブリジットだろうか……?


 見たところ母同様に、彼女の方も今にも動き出しそうな感じである。


 いや、もしかして本当に動くんじゃないか? どこかに彼女たちを解放する方法は無いか。アンナは周囲を見回した。


 謁見の間は見渡す限りグロテスクな肉塊で埋め尽くされている他に、このポッドの脇に見知らぬ機械がずらずらと並んでいた。正直、何をする機械かはさっぱりだったが、見たところ何かの計器のように見える。


 下手に触ると何が起こるかわからないのでそれは後回しにするとして、気になるのはもう一つのポッドだった。


 ポッドはアナスタシアとブリジットの入った物の他にもうひとつ、得体の知れないグロテスクな肉塊が入ったものがあった。その肉塊はポッドの中でムクムクと膨れ上がると、まるで湧き出る泉のように増殖し続け、やがてポッドには収まりきれなくなり、上部の穴から外へと漏れ出している。


 それが壁から天井から一面を覆い尽くしているのだ。


 何故、こんなものがあるのかさっぱりだったが、二人と並んで置かれてるということは、これに何か秘密が隠されているのだろうか?


 アンナがそう思ってそのポッドに近づいた時だった。


 コツンと何かが足にぶつかって、カランカラン……っと転がっていった。なんだろうと足元を見てみれば、そこには一本の細剣が転がっている。魔王のものだろうか? どうしてこんなものが無造作にここに置かれているんだろうと、彼女がそれを手にとって矯めつ眇めつ眺めていたら、


『それはアーニャちゃんのお母さんの剣だよ』


 突然、彼女の耳元で声がして、アンナは心臓がひっくり返りそうになった。


「キュリオ!」

『10年前にここに来た時に落としたそのままなんだね。魔王はお母さんを殺した後、死体を保存したけど、その持ち物にまでは関心を払わなかったんだな』

「ううん、見て。お母さんは死んでないよ。さっきからちゃんと呼吸してるみたいに胸が上下してるんだ。ここから出したら目を覚ますかも」

『……それは生きていると呼べるのかい?』

「え?」

『10年もこの中に閉じ込められて眠ってたんだとしたら、果たしてそれを生きていると呼んでいいんだろうか。肺や心臓は本当に自力で動いてるんだろうか。もし脳が死んでいたら? それをここから出しても、目が覚める保証はないんだよ』


 アンナは不安になった。確かに自分が考えたことは希望的観測に過ぎない。


「でも、それじゃあ魔王はどうしてこんなことをするの? 脳を殺して体だけ生かしている意味がわからない。こうして体が生きている以上、ちゃんと元通りになる方法はあるはずだよ」

『どうかな。僕はそうは思えないけど』

「どうしてそんな意地悪を言うの?」

『意地悪するつもりは無いさ。ただぬか喜びして、駄目だった時のショックは大きいだろう? 僕にはそれは生きている人間のようには思えないのさ……なんだか、その中央にある肉の塊が、彼女たちの出汁を吸い取っているようにしか感じられないんだ』


 そう言われてアンナは改めてそれを仰ぎ見る。


 確かに、その肉塊の入ったポッドは、二人の体の入ったポッドに挟まれるように置いてあった。アナスタシアもブリジットも死人のように真っ青でぴくりとも動かないのに、肉塊の方はムクムクと旺盛に増殖し続け、部屋の中にまではみ出している始末だ。


 この禍々しい物体は何なのだ? このまま放置し続けても良いのだろうか。イルカの言うとおり、これが母の生命力のようなものを吸い取っているのだとしたら、もしこれを破壊すれば、彼女の母は生き返るのでは……


 アンナがそんな保証の無いことを考えつつ、フラフラとその真中にあるポッドに近づこうとした時だった。


「標本に触るな」


 突然、背後から聞きなれぬ声が聞こえてアンナはその場から飛び上がった。


「魔王!」


 振り返るとそこに魔王が居た。たった今まで気配すら感じさせなかったと言うのに、いつの間に現れたのだろうか。ティーバ砦で人類に宣戦布告したあの男が、あの時の姿のままで、アンナのことを見下ろしていた。


 その瞳はビー玉みたいにのっぺりとしていて何も映し出していないように見える。実際、彼はアンナが飛び退いても彼女の方へは一切の注意を払わずに、ただゆっくりとポッドへと近づいて、その前に立ちふさがるように停止した。


 魔王はアンナに一瞥もくれることなく、肉塊の入ったポッドを点検するようにぐるりと見回すと、何もされてないことを確認してホッとしたような顔をしてから、ようやくと言っていい感じに、彼女の方へと視線を送った。


 まるでおまえなど眼中にないと言わんばかりの態度に、他の魔法使いたちの思いまで踏みにじられたような気がして、アンナは胸の内に怒りの炎が燃え上がるのを感じた。


 だが、それも長くは続かなかった。死線をかいくぐり、他人を犠牲にしてまで、こうしてやってきたというのに、彼女はその人を目の前にしたら、何もかもが吹き飛んでしまった。


「魔王……いいえ、お父さん。あなたが、私のお父さんなの?」


 すると魔王はそんな彼女のことを白けた表情で言うのであった。


「誰だおまえは」


 アンナは全身を貫くようなショックを感じていた。ここに来るまで様々な葛藤があった。憎んだ時もあった、恨んだ時もあった。でも最後には、今までに出会った人たちの思いもあって、そんな気持ちは雪解けのように流れていった。


 だから仮に戦うことになっても、後悔しないように、彼女はここへ魔王という人類の誰かが作った巨悪ではなく、純粋に父というただ一人の人間と相対するために、彼女はやってきたつもりだったのだ。


 だが、そんな彼女の気持ちを踏みにじるかのように、今、目の前の男は、アンナのことなど知らないと言ったのだ。母を殺され、偽物の父の記憶で自分を慰めて、それでも本物の父親だからと葛藤した日々は、何もかも全て無駄だったというのだろうか。


「何故お前はここに居る。エリオスとクロノアはどうした。俺に断りもなく人を通すなんて。奴らには後でお仕置きが必要だな」


 魔王はそう言うと周囲からマナを集めて光る剣を作り出した。それはリーゼロッテと同じ魔法の剣だったが、いきなりそんなものを作ったということは問答無用で戦えということだろうか。


 アンナは戸惑いながらハバキリソードを抜くと、バックステップして彼から距離を取りつつ叫ぶように言った。


「お父さん! 聞いて! 私はここにあなたと戦いに来たんじゃない。もうこんなことをやめてってお願いしに来たの!」

「何を言ってるんだ、おまえは……いや、俺のことを父と呼ぶと言うことは、おまえがアンナか?」

「そう! そうだよ、お父さん。私がアンナ。お父さんとお母さんの子供だよ!」

「そうか……」


 魔王はそう言って何か珍しいものでも見るようにマジマジとアンナの顔を見つめてから、


「なら丁度良い、そろそろおまえを迎えに行こうと思っていたところなんだ」

「え……?」


 それは父親が娘に会いに行くというような意味ではなく、


「巫女の力を持つ個体が必要だったんだ。おまえの母アナスタシアは、おまえを産んだことでその資格を失った。まあ、この10年はそんな出がらしでも役に立ったが、そろそろ限界だ。空の太陽を操作するためには本物が必要だったんだ」

「何を言って……」

「この世界を破壊するために、おまえの力を寄越すんだ!」


 魔王はそう言うと、腰だめに光の剣を構えてほぼ予備動作なしで飛びかかってきた。


『アーニャちゃん、避けて!』


 戸惑うアンナの耳に緊迫した声が響く。彼女はハッとしてその場から飛び退くと、たった今彼女が居た場所に容赦なく光の剣が振り下ろされた。マナの操作を覚えたアンナだから分かる。その光の剣は触れただけで即死するほどの高エネルギーを持つものだった。もしイルカの声が聞こえなかったら、彼女は今この世から居なくなっていただろう。彼女は背筋が凍る思いがした。


『アーニャちゃん。君がどう思っていようが、魔王は君のことを道具としか見ていない。やっぱり、さっき僕が言った通り、君のお母さんと皇帝は、あの肉の塊に力を吸われていたんだよ!』

「そんな……本当なの!?」


 魔王の繰り出す攻撃を交わしながら、アンナはポッドの中に浮いている肉塊へと視線を向けた。それは相変わらず泉が湧くように新たな肉塊を生み出し続け、床から天井から、この広いフロアいっぱいに広がっていく。


 と、その時、その天井の一部がむくむくと隆起したと思ったら、触手のようなものが彼女に向かって伸びてきた。


 彼女はおぞましいそれを咄嗟に切り落とすと、更に床から壁から天井から、次々と現れては迫りくる触手を必死になって振り払った。


 魔王が光剣を振り回す、アンナはそれを必死になって避けながら、迫り来る触手を切り捨てる。まるで部屋全体が蠢く肉の檻のようだった。


『アーニャちゃん、このままじゃ埒が明かない。あのポッドを焼き払うんだ!』

「でも、隣のお母さんまで巻き込まれちゃう!」

『そんなこと気にしてる場合か! どうせあれはもう助からない、ただの死体なんだ!』

「でもっ! でもっ!!」


 アンナは魔王から距離を取ると、円を描くようにハバキリソードを振り回し、自分の周辺にある肉塊を焼き払った。それでも迫りくる触手を切り捨てながら、彼女はどんどん自分がジリ貧になっていくのを感じていた。


 もう、覚悟を決めるしか無いのか? 話せばきっと分かってくれる、そう思ってここまでやって来たと言うのに……


 母は生きているのだろうか? ブリジットは? イルカが言うとおり、あの気味の悪い肉塊が彼女たちの生命力を吸い取ってるのだとしたら……ジュリアやレムリアの人たちが言っていた魔王の印象は、全て間違いだったのだろうか。


 分からない。だがもう、そんなことを考えている余裕がなかった。


 彼女はハバキリソードを立てて八相に構えると、意識を集中してマナを練り始めた。周辺から続々と光の礫が集中し、彼女の剣が徐々に輝きを増していく。


 魔王はそれを見るなり、何故か構えていた自分の剣を下ろして、代わりに空となった右手を彼女に向かって翳した。まるで意味をなさないその行為に、何をしてるんだろう? とアンナが訝しんでいると……


「製造ロット○○×△、天羽々斬、リクリエイト」

「……え!?」


 パキンッと音を立てて、突然、アンナの持つハバキリソードが真っ二つに折れたと思ったら、次の瞬間、サラサラと砂のようになって崩れ落ちていった。唖然とする彼女を冷徹な目で睥睨する魔王の右手には、そのハバキリソードが握られていた。


『ハバキリは元々魔王の剣なんだ! あいつには通用しない!』

「だったら……」


 アンナは咄嗟に先ほど手に入れたアナスタシアの細剣を構えると、同じように周囲からマナを集中してその剣に乗せた。剣聖に習った技は得物を選ばないのだ。使い慣れたハバキリソードで無いのは不安だったが、それでも戦うための力は残されている。


 しかし、彼女のそんな望みすらも打ち砕くような理不尽な出来事が、またすぐ彼女に襲いかかった。


 光剣を生み出したアンナを見た魔王は、忌々しそうに眉根を寄せると、彼女から奪ったハバキリソードを下ろして、右手の指で宙に何かを描き始めた。その指先に空中のマナが呼応し、何もない空気のキャンバスの上に見たこともない文字が刻まれていく……


 一体、彼は何をしてるんだろう……アンナが警戒して魔王の出方を窺っていると、


「……え!?」


 突然、彼女が作った光の剣からマナが拡散して行き、そして彼女の体がズシッと重くなる。ローデポリス市外に入ってから、彼女はずっと魔法使いらしく身体強化をかけていた。それが今、突然解除されたのだ。


 魔王が何かやったのは間違いない。彼女は慌てて再度周囲のマナを集めようと集中し始めたのだが……


「そ、そんな!」


 彼女がどんなに集中しても、周囲のマナが呼応してくれない。いつも当たり前のようにやっていた、体内のマナ操作さえ、彼女は覚束なくなっていた。こんなことはあり得ない。ある日突然、呼吸の仕方を忘れたようなものだった。


 もしかして周囲のマナが枯渇したのかと思ったが、そんな彼女の希望的観測をふいにするように、魔王はハバキリソードを構えると、ブーンと彼女がさっきやってみせたような光の剣を作り出した。


「……おまえは魔法をなんだと思ってるんだ? 誰のお陰で使えてると思っていたんだ」


 そんなことは分からない。考えたこともない。アンナはパニックになりながら、残された細剣を振り回しつつ後退する。魔王はそんな彼女を追い詰めるように距離を縮めながら言った。


「魔法は古代の人間が作り出した技法、地球上にマナを拡散したのも、全部人為的なものだっただろう。それを制御していたのは世界樹と、月面にあるコンピュータだ。何故、俺が魔王を名乗っていると思っている? 魔法を作り出した古代文明人とは、つまり俺のことだ。お前たちは、魔法を作り出した相手に、魔法を使って戦いを挑んで来たんだよ」


 アンナはショックで動けなくなった。彼はつまり、魔王相手には魔法が使えないと言っているのだ。すると彼女は今、丸腰で世界最強の魔法使いの前に無防備を晒しているということになる。


 天井から壁から、肉塊の触手がグイグイ伸びてくる。


 勝てない……!


 彼女はこの絶望的な状況でようやくそれを悟ると、踵を返して逃げ出そうとした。二人が対峙している部屋の中央から入り口まで、およそ十数メートル。そのたった十数メートルが、今はとんでもなく長く思える。


 彼女の行く手を阻むように、何度も何度も絡みついてくる触手を振り払って必死に逃げる。こんな遅々とした歩みでは追いつかれてしまうのではないか? その恐怖に後ろを振り返ると、魔王は彼女のことを追いかけること無く、さっき居た場所にそのまま佇んでいた。


 大丈夫だ、逃げられる……この部屋から出さえすれば、後は階段を降りるだけなんだ。10年前のリーゼロッテも逃げ切れたんだ。いや、きっと逃してくれたんだ……だったら、アンナだって……


 しかし、そんな彼女の願望は、次の言葉で粉々に打ち砕かれた。


「キュリオ、そいつの足を止めろ」

『やれやれ、仕方ないね』


 彼女の目の前に、青くて丸い物体が飛び込んでくる。もう何年も一緒に居て見慣れたその物体は、アンナ以外の人間には見えなくて、いつも好き勝手に現れては消える実態のないものだった。


 ところが、驚愕するアンナ目掛けて、いつもは絶対に触れることが出来なかったそいつが、今日に限って実体を持って飛び込んできたのである。


「うっ!? ……ぐぅ……キュリ、オ……なんで?」


 なんで実体があるのか分からない。そして何故裏切ったのかも分からない。完全に虚を突かれたアンナは無防備に攻撃を受け、息が詰まって目がチカチカする。


 イルカは彼女の腹部目掛けて思いっきり体当りすると、フラフラと倒れた彼女の上空を泳ぎながら言った。


『出来ればもう少し君と遊んであげたかったけど。ボスの命令じゃ仕方ない。お別れだ、アーニャちゃん。5年前、君の前に現れた時から、僕は魔王のために君をここへ連れてくるのが仕事だったんだよ。君はアナスタシアの娘で現在の巫女、その巫女は太陽の制御をするのに不可欠な存在だった。それは太陽を元通りにするにも、逆に無くしてしまうためにもね。でも君はアスタクス方伯に庇護されて手が出しにくかった、だから僕は君を騙して彼から引き剥がし、自分でここまでやって来るように仕向けたのさ』

「そんなの、嘘だ……嘘だと言ってよ!」

『言うだけだったらいくらでも言ってあげるよ。嘘だ嘘だ。僕が言うことは、みーんな嘘っぱち。あははは。さあ、アーニャちゃん、今度こそお別れだ。巫女は別に生きてる必要はない。体だけあればいいんだから、君もこれからあのポッドの中で、彼女たちみたいになるんだよ』


 ショックで視界がグラグラと揺れる。そいつのことをまともに見ることも出来ない。アンナは酸欠にあえぐ鯉のように口をパクパクしながら、その憎たらしいイルカの姿を追っていた。


 と、そんな彼女の視界に男の姿がかぶさる。


 魔王はショックで放心状態のアンナの首を両手で掴むと、グイッとそのまま体を持ち上げ、彼女の首をへし折るように力を加えてきた。


 脳への血管が詰まり、途端に酸欠になった彼女は、襲いかかる強烈な頭痛と死の恐怖から必死に逃れようと、魔王の腕を引き剥がそうとして暴れた。しかし、魔法も使えないか弱い少女の力では、大人の力を振りほどくことは出来そうも無かった。


 それでも必死になって暴れる彼女は、その時になってようやく自分が母の細剣を握っていることに気がついた。これを使えば逃げられる。今すぐ魔王に突き立てろ。彼女は細剣を振り上げた。


 しかし、それを振り下ろそうとした時、彼女は一瞬躊躇してしまった。


 目の前に、ポッドに入れられた母の姿が見える。


 その時、彼女の脳裏に走馬灯のように様々な思い出が駆け巡った。ビテュニアで母と二人で過ごした日々、いつも嬉しそうに父の思い出を語った美しい母の姿。音楽家の父が残したと言う数々の譜面。ギターを弾きながら思いを馳せた、亡き父への憧れ。


 レムリア大統領は魔王を尊敬してると言っていた。リオン博士は彼が居なければ人類はエルフに立ち向かうことさえ出来なかったと言った。ジュリアは魔王が優しい人で、とても母のことを愛していたと言っていた。エリックとマイケルは、魔王の話をする時、いつも寂しそうな顔をしていた。そしてアーサーの父ウルフは、いい意味でも悪い意味でも魔王を信頼していると言っていた。


 振り上げた剣を振り下ろすことが出来ない。


 アンナは苦しみに喘ぎながらも、彼女に今、危害を加えている相手のことを、心底憎むことが出来なかった。


 本当に、この人はそんなに悪い人なんだろうか? アンナを追い詰めてるふりをしてるだけじゃないのか。


 認めたくない。


 だって認めてしまったら、自分も、魔王も、独りになるしかないじゃないか。


 フヨフヨと浮かぶ青い物体が視界を横切る。初めから、アンナを魔王に差し出すのがこのイルカの目的だったと彼は言った。それは本当か? だったらこんなまだるっこしいことしないで、さらって来ればよかったじゃないか。アンナは何の力も持たないただの子供で、魔法を教えてくれたのは、彼だったじゃないか。


 アンナの意識が徐々に薄れてくる。抵抗しようにももう体が殆ど言うことを聞かない。彼女は最後の気力を振り絞って言った。


「お……父さん、の……嘘つ……き……」


 カランカラン……っと、彼女の握っていた細剣が地面に転がる。


 魔王の手の中で、意識を失ったアンナの体がだらりと垂れ下がった。


 魔王は彼女が意識を失ったのを確認すると、その体を地面にそっと横たえる。


 イルカがそんな彼の周りをフヨフヨと泳いでから、消えた。


「……また……死に損なったか」


 魔王はアンナが落とした細剣を取り上げると、倒れている彼女の手にそれを握らせた。そしてその切っ先を自分の首にあてがうと、徐々に体重をかけていった。


 しかし、その鋭利な刃先は、彼がどんなに強く押し当てても、彼の体を傷つけることは無かった。魔王はそれを確かめると、眠っている娘をそこに残し、謁見の間から見える外の景色をぼんやりと眺めた。


 インペリアルタワー下の公園で、アトラスがエリオスの手当をしていた。さっき生体チェックしたときは危険な状態だったが、アトラスの献身的な看護の甲斐もあって、多少弄っただけで持ち直した。多分、このまま放っておいてももう大丈夫だろう。


 階下のクロノアとリーゼロッテはいつの間にかその気配が感じられなくなっていた。共倒れということは無いだろうから、多分、二人でどこかへ去ってしまったのだろう。彼らには彼らの人生がある。いつまでもこんな男に付き合っている必要もないだろう。


 空を見上げると、相変わらず燻った燃えカスのような太陽が茫漠と浮かんでいるのが見えた。時折、海が光っては空中にマナが発散していくこの光景は、あとどのくらい続くだろうか……


「さて、これからどうしたものか……」


 やれるだけのことはやった。だがもう、自分に打つ手は残されていない。このまま、ここから逃げ出して、人類とともに朽ち果ててみようか。それともまたあの地獄のような日々を繰り返そうか。


 暗澹とした気持ちで彼は部屋の中を振り返る。ポッドの中に、彼が愛した二人の女性の姿が見える。せめて、この二人だけでも助けたい。なら、答えは最初から決まってるではないか。


 二人を生き返らせるために、自分が消えよう。もし次に目覚める時があるとするなら、それは千年後か二千年後か……果たしてそれまでこの地球はもつのだろうか。


 いや、多分無理だろう。この世界はもってあと数百年といったところだろうか。だがもう彼にはどうすることも出来ない。これが人類の選んだ選択なのだから。


 彼はため息を吐くと部屋の中に置いた機械の方へと歩いていった。アンナが目覚めた時、自分に何が起きたのか、それを伝える記録を残しておく必要がある。かつてメディアの世界樹で見た勇者みたいに、愛してるとかボイスチャットでも残しておこうか……


 しかし、彼が自棄になりながら足を踏み出した、その時だった。


 突如、窓の外が明るくなって、南の空が白く染まった。


 魔王は窓から身を乗り出すと、駐屯地の方角を眺めた。今、西の方から放たれた光線が、駐屯地に逃げ込んだエルフを焼き尽くしていた。


 そうだ、まだ彼が残っていた。


 アーサー王。初めはアンナを手助けするための適材だとしか思ってなかったが、思えばアンナの仲間の中で、一番化けたのは彼だった。彼の持つエクスカリバーはクラウソラスが形を変えたものだそうだが、それにしても彼はどうやってあんなものを手に入れたのだろうか。


 あるいは彼なら……


 自分の予想を軽々と越えてきた彼ならば……


 魔王は何かを思いつくと、部屋の中で眠る娘の元へと戻っていった。その背中のマントにひるがえるリディア王家の紋章……


 最後に彼が縋ったのは、その彼が唯一仕えた王家の末裔だった。


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