蝶のように花のように
インペリアルタワーへと走りながら、アンナは何度も背後を振り返った。リーゼロッテがどんどん先に進むからついてきたが、本当にアトラスを一人で置いてきてよかったのだろうか。
レムリアでリーゼロッテが指摘した通りなら、彼の父親エリオスはアンナよりも剣の腕前は上のはずだ。あの頃よりは強くなった自信はあるが、それでも今のアンナでも勝てるかどうかは分からない。だがアトラスは剣聖の弟子の中でも一番弱いのだ。
いくら相手が彼の父親であり、アトラス自身が望んでいたからと言って、放ったらかして先に進んでよかったのだろうか。せめて、手を出さないまでも見守るくらいしても良かったのでは無いか。
「それは二人に非礼なだけですよ」
「でも……」
「戦争とは尊厳を踏みにじる行為です、だからこそ礼儀を失ってはなりませんよ。礼を欠いては、それはただの虐殺になる」
リーゼロッテはもう十分距離を離したと考えて、一度だけ振り返ってそれを確認すると、ゆっくりと歩き始めた。アンナがその後を追う。
「それに残りたいなら残ればよかったんですよ。あなたがそうしないで私についてきたのは、早く先に進みたい気持ちが強かったからでしょう」
見透かすようなことを言われ、アンナは眉根を寄せた。実際、その通りだったのだ。
この作戦を考案したウルフが言うには、もし大軍同士の決着がついてしまったら、魔王はさっさと降参して、逃げるか特攻するかして居なくなってしまうはずだろう。大軍になぶり殺しにされるのを座して待つようなタイプではない(そしてそれは恐らく不可能だ)。最悪の場合、この戦況を覆すような作戦を用意している可能性すらある。
だから何故こんなことをしたのか理由が知りたいなら、大陸軍の本隊がローデポリスに到着する前に、決着をつけるしかないだろう。
「その焦りは相手に見透かされますよ。エリオスさんも3人相手なら戦い方を変えるでしょうから、我々が勝てるとしても確実に消耗を強いられることでしょう。時間稼ぎはお手の物ですからね」
「……そう、なのかな?」
「実際、100人で降下してきた私たちは、いつの間にかたった2人になってるじゃないですか」
それを魔王の計算通りだったとするのは、考えすぎかと思いもするが……それが無いと言いきれないところが彼の恐ろしいところだった。まず降下作戦を読んでいなければ、そもそもあの待ち伏せはあり得ない。そして部隊がバラバラになれば、魔法使いでない一般兵士は集合地点に合流するしかない。必然的に時間が惜しい魔法使いは別行動となり、実際そうなっている。
インペリアルタワーの入り口をくぐると、5階まで吹き抜けになったロビーに一人の男が佇んでいた。言うまでもなく、魔王の配下の一人クロノアである。10年前とは違い、鎧を着てはいなかったが、同じ場所に配置されてるところを見ると、彼はこの城の門番的な存在なのだろうか。
いや、多分、どうせここに来るであろうからと、リーゼロッテを待っていたのだ。
奇しくも10年前と同じく城にたどり着いたのは、リーゼロッテとアンナの2人で、そのアンナはあの時一緒に居たアナスタシアの娘だった。
最初はエリックとマイケル、フランシスや近衛隊。次にアトラス、そして最後は剣聖である自分。露払いは完璧だ……リーゼロッテは、ふぅ~っと溜息をつくと、
「私の役目はここまでです。社長を頼みましたよ」
アンナはそのセリフを聞いて、また迷いを見せた。しかし、手出しは無用だとその表情から読み取ると、
「待ってて。必ずすぐ戻るから」
と言って、クロノアの横をすり抜けて階段を昇っていった。
まるで門番の役目を果たしていないクロノアが、ニコニコとしながらその背中を目で追いかける。
「いいのですか? こんな簡単に通してしまっても」
「何故です? 娘さんが父親に会いに行っただけですよ」
「どこまで本気で言ってるのか分かりませんが……敵は私だけと言うことですか」
するとクロノアは焦ったような表情をしてブンブンと首を振り、
「敵だなんてとんでもない。私はただ、ここにやって来る人達を通さないように、閣下に頼まれただけですよ。申し訳ございませんが……」
そう言って、本当に申し訳無さそうな顔をして、リーゼロッテを通すことが出来ないと詫びたクロノアは、まるで15年前からタイムスリップしてきたかのように、当時のままであった。
思い返せば、駐屯地で見たトーと言い、さっきのエリオスと言い、二人共見た目は殆ど変わっていないように思えた。
「私は一度死んだ身ですから。そのせいで年のとり方が少しおかしくなってしまったのでしょうね」
「……やはり、あなたたちは死んでいたのですか」
「ええ、閣下に言わせれば、肉体的な死に意味は殆どないそうですが……おしゃべりが過ぎましたね。ここに居ると話し相手が居ないせいか、つい多弁になってしまう」
「なら何故、こんなところに居るんですか。エトルリアに帰ってきてくれれば、いつだって話相手になりますし、私だって心配することはありませんでした」
クロノアは実に困ったように苦笑いしながら、
「それが無理なのは、なんとなく分かるでしょう。ここで閣下の露払いの役目をおえるのは、私しか居ませんから……しかし、あなたがまた来るとは。10年前、閣下に相当イジメられていたようでしたので、てっきりもう来ないのかと思ってました」
「私だってゴメンでした。けど、子供だけに任せるわけにはいかないでしょう」
リーゼロッテは腰にぶら下げていた剣の柄だけを引き抜くと、その先に光の剣を作り出した。ブーンという振動音が小さく響く。
「それに、私のほうが本家本元です。分家をいつまでもいい気にさせてはいられませんからね」
クロノアはそのセリフを聞くと愉快そうに笑いながら、同じく光の剣を作り出し、
「そのセリフ、閣下っぽくて良いですね。私もあなた達みたいになれたらなあ」
「さあ、おしゃべりはここまでです。始めましょう」
リーゼロッテはそう言うと、右手に剣を持ち、ほぼ構えもなくツカツカと自然体で歩み寄っていった。クロノアもそんな彼女に応じて、ほぼ棒立ちのまま左手に持った剣を構え、お互いに間合いを測るようにその剣先を軽く触れた。
次の瞬間、スッと踏み込んだリーゼロッテが剣を突き出し、それをバックステップで避けたクロノアが、お返しとばかりにくるりと回転して迫る。リーゼロッテは死角から横薙ぎに来た剣を飛び越えて、着地と同時にまた突きを繰り出し、クロノアは迫りくるその剣先をちょんと叩くと、剣と剣が反発しあい軌道がずれる。彼はその反動を利用して手首だけを返して剣を叩き込もうとするも、それを予想していた彼女は難なく交わし、一歩間合いを外した。
光の剣での戦いは、とにかく力を抜くしか無い。体のどこかに当たったら致命傷で、おまけに使用者の意思で消したり出したりも可能なのだ。鍔迫り合いのつもりで突っ込んでいったら、相手の剣が消えてバランスを崩す、なんてことになったら目も当てられない。おまけに全てを断ち切る剣は、それ同士がぶつかると強く反発し合い、それは加えられた力をそのまま反射するため、体重を乗せた攻撃ははっきり言って自殺行為だった。
相手の攻撃を受け流す時の、その反発力を生み出しているのはマナエネルギーであり、術者の筋力ではない。独特の反発が返ってくるため、結果、双方ともに手首の返しだけで剣を振り、相手のすきを窺う戦法に終止することになった。二人はにらめっこしながらバトントワリングでもしているような、とても剣豪同士の戦いとは思えない奇妙な状況を作り上げていた。
それは細剣の戦いにも似ていたが、剣のしなりがない分戦略性に欠け、単調な打ち合いであった。だが、ほんのちょっとでも体に触れれば勝敗が決してしまうため、やってる本人たちは至って真剣なのだ。
リーゼロッテはこれじゃ埒が明かないと、
「……腕が鈍ったんじゃないですか。以前はもっと大胆に打ち合ったものですが、アクビが出そうです」
「あなたの剣技も単調ですよ。多彩で華麗な体捌きはどうされたんですか? まるでリウマチを患う年寄りのようで、いささか心配になります」
「歳のことは言うなぁっっっ!!!」
挑発しようとして逆に挑発されたリーゼロッテは、自分が扱っている武器のことも忘れて、剣を両手で持つと体重の掛かった強烈な一撃をクロノアに御見舞しようと飛び込んでいった。
それがかえって意表を突き、驚いた彼が避けてバランスを崩したところを彼女は見逃さずに畳み掛けた。
流れるような華麗な剣技は見る者すべてを魅了した。突きと思えば払い、払いと思えば斬る、泰然自若としながら、どこから刃が飛んで来るか分からない。同じ攻撃でも自分がやるのとでは大違いの、鋭さを持ちながらも波のように流れる無形の剣に、クロノアは思わず見とれていた。
そうだ、これが自分の目指した剣聖の技だ。15年前、毎日のように挑んでは退けられた、華麗にして大胆な剣さばき。もう30年近くも前、これを真似しようとして挫折して、彼女に一歩でも近づこうと、自分なりの型を手に入れるまで足掻いて足掻いて苦い思いをした、唯一無二の剣術。
懐かしい……またこれと戦える日が来るとは。
激しい猛攻に冷や汗をかきながらも、胸の奥で弾けるような感動を覚えつつ、彼はリーゼロッテの剣を捌いた。普段通りなら互角の勝負であったろうが、今の彼女は激高して我を忘れている。故に、徐々に押し返し始めたクロノアに、彼女はいよいよ怒り心頭と言った感じに、幾つものフェイントを掛けた後、渾身の一撃を放ってきた。
その全てのフェイントを見切り、飛び込んでくる彼女を剣で迎え撃ちながら、クロノアは内心、勝った……と思っていた。
彼女がこのまま飛び込んできたら、全体重を乗せたその剣が反射して、彼女の方が吹き飛んでしまうはずだった。しかし、怒りで我を忘れた彼女の剣が、いよいよ交錯しようとしたまさにその瞬間……
フッ……と、リーゼロッテが振り下ろしていた光の剣が消えた。そして彼女は、それを受け止めようとしていたクロノアの剣をかいくぐり、腰だめに作った拳を思いっきり突き出すと、全体重とマナの波動を乗せたパンチを、容赦なく彼に浴びせたのである。
それを食らったクロノアは吹っ飛んでいった。地面にバウンドすること無く宙に浮いたまま、十数メートル先の壁に直接叩きつけられると、ドオオオーーーーンッ!! ……っと言う盛大な音とともに壁がガラガラと崩れ落ちる。
もうもうと煙が立ち込める中、瓦礫の山をかき分けて、ホコリまみれのクロノアが咳き込みながら立ち上がった。普通ならそれで即死しそうなその攻撃を食らって平気なのは、彼がマナを使って衝撃を和らげたからであったが……
「エリザベス様……どうして手加減したんですか?」
彼はそんな死にそうな目に遭いながらも、それが不服であるとリーゼロッテを睨みつけるのだった。
「あなたなら今の一撃で私を殺すことも出来たはずだ……剣が消えた瞬間、私は完全に虚を突かれていました。拳ではなく、また剣を作り出すことも出来たのでは」
「別に。10年前の借りを返したまでですよ……借りっぱなしは癪ですからね。どうです? 命のやり取りの最中に、手を抜かれた気分は。悔しいでしょう」
「……最悪ですね。いっそ殺されたほうが良かったなんて、そんな気分になる日が来るとは思いもよりませんでしたよ」
「そうでしょうとも。これで貸し借りなしですよ……とは言え、ちょっとやり過ぎたかとも思いましたが……」
リーゼロッテは冷や汗をかいた。本当はもうちょっと手加減して、壁には激突しても、せいぜいそれだけのつもりだったのだ。まさか崩壊するとは思わなかった。なんやかんや、やっぱり腹を立てていたのだろうか。
「怒りで我を忘れてるのかと思ってましたが、それも演技だったんですね。私はあなたがとち狂って剣を振り回してるのかと」
「とち狂うって……あなた口が悪くなったんじゃないですか。まあ、最初は演技だったんですが、途中からはそうでもなかったんですよ」
「……と言うと?」
「どうせ私の剣は女の剣……力押しでは分が悪いですし、元々、どんな剣でも触れれば私なんて簡単に死んでしまってたんですよ。だから、以前から私は出来る限り剣を受けないで、速さと正確さを重視していた。それを思い出したんです。当たらなければ、なんてことないでしょう?」
言われてクロノアは背筋が凍りつくような思いがした。
彼女は簡単に言ってのけるが、言うのと実際にやるのとでは大違いだ。相手のいる戦いで、受けずに避けるだけで正確に相手を打つなんて芸当は、普通なら出来ない。ましてやそれが殺し合いなら尚更だ。ところが、確かに思い返してもみれば、かつての彼女のスタイルはひらひらと舞って、ここぞの場面で強烈な一撃を放つ、そう言う技巧タイプだった。
圧倒的な魔力と技で返り血すら浴びることのない、あの華麗な剣技は、そうするしか無くて自然と生み出されたものだったのだ。
「大体、あんなへっぴり腰では当たるものも当たらないですよ。私たちは、もしものことを考えすぎて、基本を疎かにしていただけです。そんな剣を避けることなど、造作もないことでしょう」
「……なるほど。言われてみればそうですね」
「何年同じことをやってきたことか、私達の剣は体に染み付いたものです。今更、戦い方を変えようたって、そんなの無理なんですよ。さあ、分かったら再開しましょう。ここからが、本当の戦いですよ」
そう言って光の剣を再度作り出したリーゼロッテは、ただ剣を持って自然体で突っ立っていた。だが、そんな彼女から受ける圧迫感はさっきの比ではない。
クロノアは彼女が本気になったのを見るや、自身もマナを解放してオーラを纏った。二人の魔力に呼応して、周囲からマナが集まってくる内に、どんどん気温までもが上昇していくようだった。
彼女はスッと正眼に剣を構えると、間合いを測るように前後左右に体を揺らし始めた。クロノアはそんな彼女の射程に入らないように、動きを合わせて、前後左右に揺れ動きながら相手の出方を探った。
まるで社交ダンスでも踊るかのように、正確なステップを刻む二人。先に仕掛けるか、相手の出方を見るか、これでは埒が明かないと、クロノアがフェイントのつもりで一歩彼女の射程に入った瞬間だった。
フッ……っと彼女の姿が掻き消えて後方に出現する。クロノアは咄嗟に背後に剣を振るって攻撃を防ぐと、その反動を利用してお返しとばかりに剣を繰り出した。
リーゼロッテはそれを身を捩って交わすと続けざまに目にも留まらぬ速さで彼の背後に回り込むと、今度は巨大な炎をぶつけてきた。クロノアはそれを自分の魔力で相殺する。
縮地も火炎も弟子の技を彼女がコピーしたものだった。たった今、ずっと同じことばかりやってきたと言っていたくせに、ちゃっかり新しいものも取り入れている。バカ正直に彼女の言葉を信じていると痛い目を見るとばかりに、クロノアはニヤリとした笑みを浮かべると、お返しに自分の周囲に大量の光弾を生成して、彼女に向けて一斉に撃ち込んだ。
不規則な動きを描いて迫ってくる光弾の雨あられを、彼女は身を翻し防ぎ剣で弾いて交わしきった。光弾は当たっても痛いだけで殺傷力は無いが当たれば弾ける。その衝撃で彼女の体が上ずった隙を彼は見逃さずに飛び込んだ。
すると彼の飛び込んだ先に、スッと光弾が現れたかと思うと、目の前でパチンと弾け目がくらんだ。まさかたった今やったことをもう真似されるとは思わず、彼が方向感覚を失ったその瞬間、さっきまでそこに居たリーゼロッテの姿が消えていた。嫌な予感がしたクロノアが咄嗟に前転受け身の要領で地面を転がると、ほんのちょっと前まで彼の居たスペースに、彼が作った以上の光弾が次々と撃ち込まれていった。その数はもうクロノアのそれと互角である。
しかしそんなことに驚いている場合ではない。
彼女はどこへ行った!? 飛び起きて剣を構えると、リーゼロッテがまるで空中を散歩するかのような気安さで迫ってくるのが見えた。彼はそんな彼女を迎撃するために飛び上がると……
バチンッ!!!
っと、剣が交差した瞬間、強烈な衝撃が走って二人の体がのけぞった。
反動で後ろに吹き飛ばされたリーゼロッテは、クルクルと何回転もバック宙してからピタリと着地する。クロノアはその着地点に向けて再度、周囲のマナを集めて光弾を撃ち放つ。すると彼女はバトンのように剣をクルクルと回してそれを全て叩き落とす。そしてまた、隙だらけの大振りで躍りかかってきた。
だが流石に二の鉄は踏まないと、クロノアは剣をしまって右手にマナを集中し、それをボディブローのように彼女に向けて放とうとした。すると次の瞬間、彼女は空中でのけぞるようにして姿勢を変え、彼の直前に着地したその一歩で縮地を行い、彼の側面へと回り込む。
変幻自在。蝶のように花のように、華麗に舞う彼女の剣に魅了される。これが剣聖の戦い。いや、これが魔法使い同士の戦いだった。
横薙ぎの剣を咄嗟に受け止め、その反動でクロノアが吹き飛ぶ。しかし彼は空中で態勢を整え壁に着地すると、今度は彼が弾丸のように錐揉みしながら、彼女へと一直線に突撃していった。剣と剣が交錯し、衝撃波がまるで本物の波のように周囲に伝わっていく。
ドオオオオオォォォォーーーーンッッッ!!!
っと二人の剣が弾かれた瞬間、あろうことか地面までが抉れて、大量の瓦礫が宙を舞った。
もうもうと砂埃が舞う暗闇の中を、無数の光弾が飛び交っている。それは傍から見れば、まるでホタルの群生が遊んでいるかのような、そんな幻想的な光景だった。沢山のホタルが縱橫に飛び交うその中心では、二つの大きな光が付かず離れず、ぶつかっては離れ、離れてはぶつかり、点いたり消えたり点滅を繰り返しながら、激しくダンスを踊っていた。
打ち合いはどんどん激しくなる。二つの光が飛び回り、回転しあい、打ち合い、フェイントで剣が消えたり、遠距離から光弾が飛んできたり、360度あらゆるところから飛んでくる攻撃を、二人は全身の神経をそばだてながら感じ取り、悉くを撃ち落としていく。
これが魔法使いの戦い。古の魔法使い、但馬波瑠と言う圧倒的な存在を前にしたあの時から、自分たちが目指した究極の形。もはや視覚情報すらただの蛇足で、目をつぶれば光の波が押し寄せ、エネルギーの流れが手に取るように分かる。フィールドのすべての情報を彼らは処理しきっていた。転がる石の破片の一粒まで、彼らの支配下にあったのだ。
身震いするような殺し合いをしているというのに、なのに二人は笑っていた。
「さすがの迫力ですね。命のやり取りの最中に、余裕の笑みとは」
「余裕なんかありませんよ。ご自分の顔を鏡で見てらっしゃい」
軽口を叩き合いながら、いつまでもいつまでも撃ち合う二人は楽しんでいた。もはや最初のように、反動を恐れて剣を引っ込めるようなこともしない。その衝撃すらも相殺して肉薄する方法を、二人は戦いの最中に編み出していた。
いつか二人で城の前庭を借りては毎日のように行っていた、斬り、払い、打つ、当たり前の剣豪同士の戦いが、今そこで繰り広げられていた。二人はそんな懐かしい光景を思い浮かべながら、自然と笑みが漏れるのを抑えきれなかった。
だが、そんな懐かしい戦いもいつまでも続かなかった。
次第に衰えてくる二人の動き。月面に築かれた古の機械をも凌駕する二人の読み合いに、脳が追いつかなくなってきたのだ。
仮にマナが無限に存在しても、人間の体は一つしか無い。体内のエネルギーはとっくに枯渇して、彼らの脳は糖分を欲して悲鳴を上げていた。
リーゼロッテは目が霞んできたと思ったら、クロノアの目から血涙が流れているのが見えた。どうやら二人共、そろそろ限界のようらしい。
それでお互い同意づいたのか、先ほどまでと打って変わって、二人はピタリと動きを止めて、間合いを測りながらゆっくりと動き始める。
リーゼロッテは深呼吸をした。体力的に劣る自分では、恐らく、次の一合、よくて二合……打ち合ったらもうそれで終わりだ。全神経を集中させ剣先に乗せる。
クロノアは、彼女の感じが変わったことに気づくと、一歩下がって半身となり、剣先を相手から見えないように背後に控え、脇構えで応じた。彼がそんなことをするのを初めて見た彼女は、剣が見えない構えを選んだことを訝しんだ。しかし恐らく何かあると思っても、結局は蓋を開けてみなければ分からない。自分は自分の剣を振るまでと、そして彼女は最後の一撃を放つために地面を蹴った。
正眼に構えた彼女が剣を振り上げる。
脇構えで迎え撃ったクロノアは地面を擦り上げるように迎え撃つ。
二人の剣が交錯し、カッ! っと閃光が迸った。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! っと地面が叩き割れるような衝撃音があちこちから響いてきて、信じられないことに、15階建ての巨大建造物が本当にグラグラと揺れていた。
その中心にいた二つの影は、ぶつかりあった後、一拍の間をおいてから、お互いに逆方向へと吹き飛んでいった。
土煙を上げて壁に激突し、その壁の高いところからガラガラと瓦礫が落ちてくる。
5階もの高さがある吹き抜けの至る所には穴が空いていて、外から光が差し込んできた。二人が衝突した地面は抉れ、バツ印の巨大な穿孔が口を開けていた。
建物が倒壊しそうなその振動は数分間も続き、もうもうと立ち上る土煙が辺りを埋め尽くす。それがようやく収まった時、インペリアルタワーの一階には動く者が無く、辺りは異様な静けさに満たされた。
そんな時、ボロボロに倒壊した瓦礫がカラカラと音を立てて崩れ、中から人が這い出てきた。瓦礫に埋もれた時に切ったのだろうか、額から流れ出した血で全身血だらけになりながら、その影は震える二本の足でしっかりと大地を踏みしめた。
先に起き上がったのはクロノアだった。
彼は立ち上がると、まだ震えて覚束ない足取りで、自分の正面にあったもう一つの瓦礫の山へと向かった。そしてその前にひざまずくと、必死になって瓦礫の山をかき分けた。
中から呆然と宙を見つめたままピクリとも動かないリーゼロッテが出てくる。
彼女は全身のマナと体力を使い果たして、もう一歩も動けなかった。
「……最後の一撃、どうして私の剣は、あなたに届かなかったのですか?」
じっと見つめるクロノアの目を一切みることなく、虚空を見つめたまま彼女が問う。
「光の剣を、あなたはどのような長さで作ってましたか? 恐らく、自分が一番扱い慣れた剣をイメージしていたのでは?」
言われてみれば確かに。彼女の剣の長さは、かつて自分がずっと振り回していた大剣バルムンクと同じくらいだった。
「私のアスカロンはああ見えて、実は槍でして……」
「……射程、長かったんですか」
「はい」
それで最後、彼は自分の剣先が見えないようにそれを隠したのだ。彼女がその長さを錯覚するように……リーゼロッテはやられたな、と思うと同時に、その時になってようやく相手の目を見つめ返すことが出来た。
「……殺しなさい」
ハァハァと肩で息をしながら、彼女を瓦礫の山から引きずり出そうとするクロノアに向かって、彼女は一言そう言った。
「殺せません」
すると彼はそう言い返して、強引に彼女を瓦礫から引きずり出すと、すぐにあちこち傷を負っていた彼女の手当を始めた。
リーゼロッテはその屈辱に耐えながら、
「本当の命のやり取りで、手加減されることほど悔しいものはありません。それも一度ならず、二度とあっては、私は生きながら辱められてるようなものですよ。殺しなさい」
「だから殺せませんって……それより、あなたにいつか勝つ日が来たら、ずっと言いたいことがあったのですよ」
クロノアはそう言うと、涙を流す彼女の目尻をそっと拭った。そして彼女に向かって言った。
「エリザベス様。結婚してください」
その言葉があまりに自然に出てきたため、最初彼女は何を言われているのかが分からなかった。しかしその意味が徐々に臓腑に染み込んでくると、彼女は自分の頬が熱を帯びてくるのを感じた。
クロノアはそんな彼女の背中を支え、じっとその目を見つめながら、真剣な表情で続けた。
「あなたに出会った30年前から、ただあなたに追いつくことだけが私の目標でした。しかし華やかで美しいあなたは、そんな私が背中を追いかけていることなど知りもせず、どんどんと日の当たる場所へと出ていってしまった。だから私は他の男にあなたが取られてしまうのではないかと、焦ってあなたに愛を告白したのです。ですが、あれはいけませんでした。私が自分の気持ちを押し付けたせいで、あなたはとても混乱してしまった。私は自信がなかったから、そんな戸惑うあなたを強引に引き止めることも出来ず、返って関係を悪化させてしまったのです。私はそれを後悔し、ちゃんと自信を持ってあなたのことを好きだと言える自分になりたいと思いました。それでいつかあなたに勝つことが出来たなら、その時こそプロポーズをしようと、あれ以来ずっとそう考えていたのです」
彼女のことを支えるクロノアの手が震えている。感無量といった感じなのだろうか、彼は力を込めて後を続けた。
「15年もかかってしまいましたが、今ようやくその願いが叶いました。あなたは屈辱と感じているようですが、あなたと並び立つことが出来る男になれたこと、これは私の誇りなのです。もし、あなたがそれでも屈辱に感じるのであれば、その時は私のことを切って捨ててください。最初から私に勝ち目はなく……あなたと戦う以前から、私はあなたの虜だったのですから」
しかし、ぽかんとした顔をしながらそれを聞いていたリーゼロッテは、じっと彼女のことを見つめるクロノアのことを鼻で笑った。
「あなたがそう言って、私の気を惹こうとしてくれることは正直うれしいです。ですが、私はもうお婆ちゃん。あの頃と何一つ変わってないあなたとは、全然釣り合いが取れませんよ。もし、私を殺したくなくて、そんなことを言ってるなら、もうやめてください」
するとクロノアはブンブン首を振って、
「とんでもない! あなたは初めて会った時から変わらない。あの頃の美しいあなたのままですよ」
「冗談はよしてください」
「冗談なんかじゃありません。もっと自信をもってください。私が好きになったのは、この世で一番美しい女性です」
リーゼロッテはため息を吐いた。それを素直に喜べればよかったのだが、とてもそんな気分にはなれなかった。
「はぁ~……私はもう子供を産める体じゃありませんし、女としての役目は終えました。あなたに相応しい人がその内きっと出てきますから、もうこんな女のことは忘れなさい」
「忘れられるわけないじゃないですか。30年! 30年ですよ? あなただけを見つめて、あなたに追いつきたくて、ようやくここまでたどり着いたのです。私が愛を囁くのは、この世にあなたただ一人なのです」
「やめてって言ってるでしょう!」
リーゼロッテは首を振って叫んだ。嬉しいと思う気持ちと、悔しいと思う気持ちが、交互に押し寄せてきてどんな顔をしていいか分からない。彼女はただとめどなく溢れる涙を拭うこと無く言った。
「私があなたのことを意識してなかったと思いますか? あなたに告白されたあの日から、いつかこんな日が来るんじゃないかと、いい歳したおばさんが、まるで少女みたいに心躍らせていたものです。でもそれはもう15年も前のお話。所詮、昔の話なのです。あなたがそう言ってくれるほど、私は惨めになっていく。あなたは全然変わらないのに、私だけがどんどん歳を取って見窄らしくなっていく。それを、愛する人に見られるのが辛いのです」
クロノアは思った以上に強い彼女の拒絶にショックを受けたが、それでも最後に彼女が言った愛する人と言う言葉に縋るように、ぐっと奥歯を噛み締めながら尋ねた。
「私に……見られるのが辛いんですか?」
「ええ」
コクリと頷く彼女の姿を見た彼は、おもむろに手近にあった瓦礫を取り上げた。それは崩れ落ちた窓ガラスの破片は、持っただけでその手をズタズタに切り裂いていく。彼はそれを鋭利な破片を血の滴る両手でしっかりと握ると、ズブズブ……と、自分の目にその先端を突き刺した。
「なっ!? 何をやってるんですかっ!!」
必死になって止めようとする彼女の手を振り払い、ひと思いに自分の目を潰した彼は、きっと死ぬほど痛いだろうに、それを感じさせないような笑顔で愛する人に向かって言った。
「これでもう、あなたに恐れるものはありませんよ」
「どうしてそこまでするんですか!? 私にそんな価値はないでしょう」
「とんでもない。あなたは誤解しているのです。私にとって大切なのは、あなたの美貌なんかじゃなく、あなたの存在そのものなのです。子供が出来ようが出来まいが、あなたが一緒に居てくれる、ただそれだけで私は十分なのです。共に歩み、共に生き、同じものを見て聞いて、一緒に笑ってくれたなら、それが私の幸せなのです」
そしてクロノアは開き直ったかのように清々しい笑顔できっぱりと言い放った。
「何故なら、あなたと共に見れば、この世の全てのものが、美しく見えるから」
「……馬鹿じゃないですか。そんなことをしてしまったら、同じものを見るなんて、もう出来ないじゃないですか」
「いいえ、そんなことありません。私は目が見えずとも、あなたが喜んでくれる姿なら見える」
リーゼロッテは何と言って応えて良いのか分からず、そんな彼の顔を見上げながら息を殺していた。何か言おうとすると、胸が張り裂けて感情が溢れ出てしまいそうだったのだ。彼女は必死に涙を堪えながら、言葉を探していた。
するとそんな空気を察したのだろうか、クロノアがまた真剣な表情で、
「エリザベス様、結婚してください」
そして彼は彼女の手を握ると少々強引に迫ったのであった。
「私には、あなたの笑顔が見えますよ」
すると彼女は今度こそ堪えきれなくなって、決壊するダムのようにとめどなく溢れる涙を噛み締めながら、一生懸命に笑顔を作り、
「……大爆笑ですよ」
と言った。
その後、二人がどうなったかは知らない。この後、この場にやってきた者は、そこに残された瓦礫の山しか見つけられなかったからだ。
だがもう、結果なんてどうでもいいだろう。蛇足である。剣聖と、それに挑んだ一人の男の物語は、こうして幕を閉じたのだった。