アーサー王の戴冠
出陣式の式典パーティの最中、突然現れた白髪隻眼の男は、15年前、リディアのクーデターの際に消息を断っていたカンディア公爵ウルフその人であった。偶然、その場に居合わせていたパーティの出席者一同は、公爵の帰還を喜び、この15年間何をしていたのかを聞きたかったが、死んだと言われていた父親との再会を喜び、彼にすがりついて泣いているアーサーを見ていたら、暫くは親子水入らずにしておいてやろうと、その日はそれでパーティはお開きになった。
翌日、一夜明けて落ち着いたアーサーはもう泣いたりはしなかったが、初めて父親と会えたことが嬉しくて有頂天になってしまい、朝から彼にピッタリと張り付いては、足の不自由な彼のために甲斐甲斐しく世話を焼こうとして、返って煙たがられていた。
「父上! 俺がご飯をよそいましょうか? 父上! 肩をお揉みしましょうか? 父上! お手洗いですか? このアーサーが肩をお貸ししましょう! 父上!」
「ええい、鬱陶しいわっ! 女子か、貴様はっ!!」
食事や散歩の介添えだけではなく、トイレにまで付いてこようとする息子にキレたウルフが彼を蹴り飛ばす。そんな二人のやり取りを、母ジルはニコニコとしながら優しく見守っていた。
因みに、アーサーの元を去ると言って別れを告げてきたエリックとマイケルは、実はウルフに仕えることになっていたらしく、結局カンディア公爵家の衛兵と言う元鞘に収まっており、本気で心配していたアトラスや子供たちにちくちくイジメられていた。暫くは許してもらえないだろう。
そんな一家団欒から少し離れて、アンナは遠巻きにそれを眺めていた。魔王の娘で、母を亡くしてる自分がその輪の中に入ったら、きっとみんなが気を使うだろうと思ったからだ。
正直言って、羨ましくないと言ったら嘘になる。アーサーと出会った当初、彼は父を亡くした上に実家から追い出されたと言っており、その境遇が自分と似ていたから共感を持っていたのだ。だがそれはもう過去のことで、彼には素敵な両親がそばに居てくれるのだ。
アンナは溜息をつくと、彼らに気づかれないようにそっと広場から出ていった。カンディア宮殿には沢山部屋があるから、そのどこかを借りてふて寝でもしようかと思ったが、アンナがいないことに気づいたらみんなが心配するかも知れないから、代わりに人気のないバルコニーに出て、景色でも眺めることにした。
カンディア宮殿の周りでは、今大勢の兵士たちが気勢を上げて訓練をしていた。昨日のアーサーの魔法が空を明るく染めたのを見て、兵士たちは最初魔王が攻めて来たと思ったらしい。ところが、それが自分たちのリーダーが魔法使いとして覚醒した瞬間だったと知って、彼らは色めきだった。
あの凄い力があれば勝てる。今こそは積年の恨みを晴らすチャンスだと、兵士たちは気合が入っていたのだ。
実際、アーサーの魔法使いとしての能力は群を抜いていた。天才とは彼のことを言うのだと、剣聖をして舌を巻いたくらいなのである。アンナは自分が如何に井の中の蛙であったかと恥ずかしくなった。
2ヶ月前、レムリアの飛行船の上での彼との会話を思い出す。あの時、彼はアンナが迷っているのなら、無理して魔王と戦わなくてもいいと言った。アンナが無理なら誰が行っても同じだと、だったら自分が行くからと言っていた。それは彼の優しさだったが、今となってはまるで別の響きを感じる。彼なら魔王を倒してしまえるのではないか……そんな気にさえなってしまうのだ。
宮殿のバルコニーで兵隊の隊列を眺めながら、アンナがそんなことを考えている時だった……ふと、彼女は周囲に気配を感じて振り返った。すると彼女の背後の方で、ふよふよと青いイルカっぽい物体が、いつもみたいに不鮮明な姿で空中を泳いでいた。
彼女はその姿を見てドキリとした。以前はそんなことを感じることは無かったのに、何か罪悪感めいたものを感じるのだ。2ヶ月前、レムリアの雑踏の中で会話して以来、全く出てくることがなかったイルカが、目の前にいた。
彼女はドキドキとする心臓の鼓動を気取られまいとしながら言った。
「キュリオ……二ヶ月ぶりじゃない。呼べばいつも側に居るって言ってたくせに。ずっと呼んでいたのに、どうして出てこなかったの」
『僕は居なくなったりしないさ。ただ、君が僕のことを必要としなくなっただけなんじゃないのかな。君が望んでいなければ、僕は出てこれないんだから』
「それは……私が心変わりをしてるって言いたいの?」
イルカは何も答えなかった。
「心配しなくても、私はこれから魔王と……いいえ、お父さんと決着を付けるつもり。アーサーに任せるつもりなんてないよ」
『そうかい』
「キュリオの望んだ通りじゃない。あなたが拗ねる必要なんかどこにもない」
『別に拗ねちゃ居ないさ。ただ、僕と君の目的が、根本的に変わってしまったのを残念に思ってるだけさ』
「……どういうこと?」
『今の君じゃ、魔王に挑んでも最後の最後で躊躇するんじゃないかってね……君は多分、魔王と戦っても命までは取りたくないと考えてるんじゃないかな』
「それじゃいけないの? そんな意気込みじゃ、魔王に勝てないって言うなら分かるけど……」
『そうじゃないって。みんな勘違いしてるけど、あれは本当にエルフを使って世界征服を目論んでいるだけの、ただの悪いヤツなんだ。なのに今の君はそれを信じてくれない。それじゃもう魔王には勝てないよ。もういっそ、アーサーに全部任せたほうが良いんじゃない』
「辛辣ね……私はまだ、アーサーに負けるつもりはないよ?」
『それはどうかな……さて、それじゃ僕はもう消えるよ』
するとイルカは最後にそう言った。いつも好きな時に出てきて、好きな時に消えてしまうくせに、今日に限ってどうしてわざわざ断りを入れるのだろうか……アンナは訝しげに思いながら、ふと、思い立ったように聞いた。
「キュリオ……あんたは一体、何者だったの? どうしてそうまでして、私に魔王を殺させようとしたの?」
『……それは魔王を殺したあとになら教えてやれるよ』
アンナは返事を返せなかった。魔王を殺す……半年ほど前の彼女なら、その言葉を躊躇なく口にしただろう。だが今の彼女には、イルカが言うとおり、それを決意することは難しかった。
人は憎しみだけを原動力に生きてはいけない。沢山の人との出会いが、人を変えてしまうから。
「アンナ!」
彼女が返答に窮していると、バルコニーの入り口の方から声がかかった。見ればアーサーが独り黄昏れてる彼女を見つけて、こんなところに居たのかといって駆けつけてくる。
そんな彼に手を振り返すと、イルカはもう姿を消していた。
イルカが彼女に話しかけてきてから5年の月日が経過していた……あの、何も出来なかった幼子が、毎日人が死ぬような戦場で生きてこれたのは、あのイルカが彼女に生きるすべを教えてくれたからだった。
5年と一口に言っても、それは彼女の人生の三分の一にも当たる。本当に小さな頃の記憶なんて曖昧なものだから、彼女の人生はいつもイルカと共にあった。それは母と過ごした時間よりも、血の繋がらない親戚に疎まれ、孤独に過ごした時間よりもずっと長かったのだ。
本当に、イルカの言うことを聞かなくても良かったのだろうか?
最後くらい、彼の言うことを聞いてやっても良いんじゃないのか。例え、それが実父を殺すことであっても……
「アンナ、ここに居たのか。探したぞ」
やって来たアーサーを振り返って迎えると、彼はキョロキョロと辺りを見回してから、
「今、ここに何か居なかったか?」
「……別に何も」
「そうか。なら見間違いだろう」
そう言ってあっさり納得する彼から感じる魔力は、昨日と今日ではまるで別人のようだった。レムリアの時のリリィもそうだったが、あのイルカは決して全ての人間に見えていないわけじゃないらしい。多分、魔法的な才能が必要なのだろうが、彼はもう、あのイルカが隠れていられないほどの鋭さを持っているということなのだろうか。
アーサーはバルコニーの手摺にもたれかかると、ヘラクリオン港に停泊する艦隊を眺めながら言った。
「すまんな」
「……え?」
「貴様の気持ちを考えもせず、俺ばかりはしゃいでしまって」
彼はちらりとアンナの方を横目で見てから、申し訳なさそうに背中を丸めて、
「父上が生きていたことが嬉しくて、周りが見えていなかったようだ。俺が浮かれてる影で、貴様が魔王を倒さなければならないという運命に葛藤していることを忘れていた。これでは仲間失格だ。すまなかった」
するとアンナはプーッと吹き出し、
「そんなこと気にしないでいいよ」
「ん? そうか?」
「だってアーサー……私に最初に会ったときのこと覚えてる? 私が魔王を倒すって知ったら、だったら俺の家来にしてやるって言ってたじゃない。私に何のメリットがあるんだか、さっぱり分からないことを自信満々に」
「うっ……そう言えばそうだったな。あの頃はまだ世間を知らなかったのだ」
「傲慢なセリフを平気で口走って、いつもお気楽で、他人に頭を下げるなんてこともしなかったでしょ。お父さんに会えて浮かれている方があなたらしいから、それでいいよ」
「そ、そうか……」
アーサーはそんな風に見られていたのかとがっくりしながらも、プルプルと首を振って、ここに来たのは別にそのためじゃなかったと思い出して続けた。
「いや、貴様が気にしてないのなら、それでいい。ところで、その父上がお呼びなんだ。一緒に来てくれないか?」
「ええ? あの家族団らんの中に入ってくのは嫌だなあ……」
「そう言うのではなくて。父上が、俺のお祖父様やビテュニア侯、リリィ様も集めて色々と話しを聞かせてくれるそうなのだ。今までどこでどうしてたのか、それを貴様にも聞いて欲しいのだ」
「へえ……」
そう言えば、アーサーの父ウルフは、リディアのクーデター前にあの聖剣もろとも行方不明になっていたのだ。推測では、魔王に船ごと沈められたと言われていたが、今となってはそれは疑わしい。金髪は白く染まって片目片足を失い、人相が変わってしまうくらい色々あったようだが、実際のところ15年前に何があったのかは気になるところだ。
アンナは頷くと、アーサーのあとに続いて建物の中へと戻っていった。バルコニーから中に入る時、ふと背後を振り返ってみたが、もうイルカは見えなかった。
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アーサーの父ウルフ・ゲーリックは宮殿の二階に作られた謁見の間に、各国のリーダーを集めていた。
アスタクス方伯、皇王はもちろんのこと、ミラー伯爵、レムリア大統領、ロンバルディアの大司教、ちょっと変わったところでシルミウム王党派で前方伯の息子である子爵なんかもいた。
更には、リディア王家に仕える近衛隊と、各国リーダー達のお付きも加わって、謁見の間は名だたる名士で埋め尽くされ、まるでお祭りのようだった。
アンナが、この中に自分が入っていってもいいのだろうかと尻込みしていると、出席者の中で一人だけ椅子に座っていたアスタクス方伯が彼女を見つけて手招きした。高齢で足腰の弱った彼を気遣って用意してくれたのだろうが、その椅子にちょこんと腰掛ける義理の祖父は、以前故郷で見た時よりも大分縮んで見えて、ほんの少し寂しくなった。
彼に付き従っていたサリエラが場所を空け、アンナが祖父の隣に並んでその手を握ると、彼は嬉しそうに微笑んだ。そう言えば、血が繋がらなくとも家族は家族だと、以前アーサーが言っていた。その時は素直に受け取れなかったが、今はあの時彼が言ったことが心地よく感じられた。
その方伯や皇王に遠慮してか、ウルフは出席者と同じフロアに玉座を置いて座っており、謁見の間の中央にある一段高い玉座には、代わりにクラウンが置かれていた。宝石の散りばめられた綺羅びやかなクラウンは、見たことのないものだったが、多分リディア王家の証かなにかで、今は居ない皇帝ブリジットを象徴しているのだろう。
そんな厳かな雰囲気の中、ウルフの話は始まった。
「今日集まってくれた皆に感謝と謝罪を。15年も姿を晦ましていた俺が突然現れたことに、皆は戸惑いや不快感を覚えているだろうが、俺が何故姿を隠していたかといえば、それは今日この日のためだった。と言っても、何がなんだか分からないだろう。順を追って説明しよう。
まず、15年前、どうして俺が姿をくらましたのか……それはクーデター軍に襲撃されたからだ。あの日、失脚した魔王に代わり、ブリジットを補佐するためにリディア入りを決めた俺は、引き継ぎのためにここカンディアを目指す船の上に居た。クーデター軍はその船に潜んでおり、陸地が見えなくなるとすぐに俺を襲った。
知っての通り、犯人一味の中には叔父がおり、完全に信用していた俺は不意打ちを食らって腹に大穴を空けられた。このままではもう助からない……そう思った俺は、奴らの真の狙いがクラウソラスだと気づいて、それを海に放り投げたのだ。
その後、激怒したクーデター軍の首領に海に突き落とされた俺は、腹に空いた穴のせい泳ぐことも出来ず、藻掻きながら海底に沈んでいき、やがて意識を失った。
だが、皮肉なものだ。生まれてから、死にかけたあの時まで、それこそ死ぬ気になって研鑽を積んできたというのに、一度も応えてくれなかった魔法の才能が、どうやらこの土壇場になって目覚めたらしい。上から落ちてきた俺のマナに、海底に沈んだクラウソラスが呼応すると、俺は魔法に目覚め、海中のマナを利用して生きながらえていたようだ。そして無意識のまま海中を流され続けた俺は、やがてリディアの浜辺に流れ着いた。
それを見つけたのが俺の二人の従者、エリックとマイケルだった」
二人はウルフの言葉を引き継いで続けた。
「俺達はその時、クーデター勢力に襲われて、仲間を見捨てて逃げ出したところでした。逃げたは良いものの、自分たちがしでかした行為が胸糞悪すぎて、ショックでもう殆ど動けない状況でした。悔しい、逃げたくない、でも、戻ったところで何の役にも立たない。いっそ死んじまおうかってくらいどん底に落ちて、トボトボ浜辺を歩いていた。
そんな時、浜辺に打ち上げられている人が居るのを発見して、俺達は助けようと駆け寄りました。すると、酷い大怪我で人相が変わっていましたが、それがウルフ様であることに気づきました。カンディアに帰ったはずのウルフ様が、こんなところに倒れているはずがない。すぐにこれがクーデター勢力の仕業だと気づいた俺達は、このまま奴らに見つかったらおしまいだと思い、メアリーズヒル近くの集落にウルフ様を運んで潜伏することにしました。
しかし、ウルフ様は息はあるものの怪我が酷くて、今にも死にそうな状態でした。腹の傷は縫合して血も止まっていましたが、根本的に流した血が多すぎて、顔は真っ青。おまけに海中を彷徨っている間に、その血に寄ってきた魚にやられたのでしょう。片目と片足が壊死して、酷い高熱を発していました」
医者も居ない中で二人に出来ることは、近所の家から薬を探してくることと、栄養のあるものをどうにか食べてもらうことだけだった。それでエリックが深夜に探索して薬や何やを探し出し、マイケルが見つけた材料からウルフにも食べられる栄養価の高い食事を作ると言う分担作業で、ウルフの看病を始めた。
暫くすると、リディアから逃げてきた避難民達が街道を通過し、クーデターが失敗したことは分かったが、残党がどこに潜んでいるかも分からない。未だに昏睡状態のウルフを動かすことも出来ない二人は、避難するのを断念し、とにかくウルフの回復が先だと潜伏を続けた。
それから三ヶ月。やがて人が居なくなりエルフが跋扈し始める中を、彼らは恐怖に怯えながらもその場に踏みとどまった。そして家を電磁的に遮蔽して潜伏を続け、ようやくウルフが喋れるくらいに回復し始めた。
「ようやく目が覚めた時には、三ヶ月も経っていたとは気付かず、俺は痩せこけて軽くなった自分の体を呆然と見ながら、その間に起きた出来事を二人に聞いた。幸い、体が回復したら、俺は魔法で自分の体を強化することが出来、エルフとも戦えるようになっていた。それでリディア崩壊から三ヶ月後、俺達はようやく避難を開始し、海岸線を徒歩で移動しながら1週間かけてハリチへとたどり着いた。
だが、そのときにはもう、国民は脱出を終えてハリチには人が殆ど残っていなかった。俺達は途方に暮れながら、誰か居ないかと高原のザナドゥ離宮に向かった。するとそこには霊廟を管理するためにハリチに残っていた宮殿の侍女たちと、リディア王家の再興を諦め近衛を除隊した者たちが残っていたのだ。
俺は彼らの力を借りて、王家復興のためにカンディアと連絡を取ろうとした……ところが、その頃カンディアでは、旧リディア貴族とミラー家がカンディアの領有を巡って争っていて、ジルとアーサーがその権利を勝ち取ったばかりだったのだ。
すると、いま出ていくと、せっかく片付いた問題が元の木阿弥になりかねないだろう。それで、息子が生まれてイオニア国が安定するまで、俺は姿を隠しておいた方が良いだろうと判断したんだよ。伯爵はイオニア国を作ったばかりで、これに水を指すわけにはいくまい。
ただ、妻にだけは連絡を取らないわけにも行かず、それでエリックとマイケルを使いに送っていた」
それで二人はイオニアで、ジル個人に仕えていたというわけだ。
アーサーは小さい頃から時折彼らを見かけていたから、てっきり家中の使用人だと思っていたが、実際はウルフの使い走りだったのだ。まさか、死んだはずの父の使いがそんなに近くに居たとは知らず、アーサーは開いた口が塞がらなかった。
「その後、俺は近衛を組織し、ハリチを拠点にエルフと戦っていた。10年前のビテュニア侯の作戦にも、個人として参加していた。結局、この作戦は失敗に終わり、俺達は撤退を余儀なくされたが、この時に作った橋頭堡は今でも残っている。ローデポリス近くで上陸に適した場所はあそこ以外に無く、来るべき日までここを維持していくのが、俺の第二の人生だと考えたのだ。だがそれも今日、終わりを告げるだろう……アーサー」
「はいっ!」
呼ばれたアーサーが返事をすると、ウルフは真剣な表情で彼に命じた。
「おまえのエクスカリバーを貸せ。俺はこれからアナトリア帝国の摂政として、最後の仕事を行わねばならない」
「父上の仰せとあらば」
一体何をしようと言うのだろうか? 疑問に思ったが、父に逆らうということを知らないアーサーは、ウルフが座る玉座の前に歩み出ると、膝をついて恭しく両手に剣を掲げ持ち、彼に差し出した。
ウルフが形を変えたリディア王家の聖剣エクスカリバーを持つと、それを一目見ようと集まった聴衆からどよめきが走った。あれが昨晩、星降る夜を真っ白く染めた聖遺物かと、人々は口々に感嘆の息を漏らした。
ウルフが目配せすると、エリックとマイケルが音もなく寄ってきて、その両脇を抱えて彼を立たせた。ウルフは義足をついて部屋の中央にある一段高い玉座の前まで歩み出ると、くるりと振り返って聴衆を見回してから、
「アンナ・ミンストレル。前へ」
と言った。
アンナはまさかこんな注目の集まる場所で、いきなり自分の名前が呼ばれるとは思わず、驚いて周囲をキョロキョロと見回した。もしかして同姓同名の誰かが居るんじゃないかなと思ったのだが、もちろんそんなことはない。
手を握っていた祖父がニコニコしながらその手を握り返してきたので、多分おかしなことにはならないのだろうが……彼女は渋々立ち上がった。
注目を浴びることを嫌う彼女が、おっかなびっくりウルフの前に歩いていくと、アーサーの母ジルが仕立ての良いマントと勲章を持って歩み出てきた。それを見てアーサーが目を丸くしている。多分、彼も聞かされていない何かが始まるのだろうが、一体なんだろうと思いつつ、アンナがいつもの眉毛だけ困った顔をして立ち尽くしていたら、
「……アンナちゃん。さっき坊っちゃんがしたみたいに、ウルフ様の前でしゃがんでくれませんか?」
困惑しているアンナを見兼ねて、エリックがそっと耳打ちしてきた。
ハッとして彼女がウルフの前に膝をつくと、ジルがその肩に略綬をつけたマントを羽織らせた。彼女が離れると、今度は聖剣を携えたウルフがアンナの前に立ち、その剣の腹で彼女の左右の肩を、ポン、ポン、っと叩く。
「アンナ・ミンストレルを、リディア王国女準男爵に叙する」
その言葉を聞くやいなや、謁見の間に集まった半分くらいの人たちから、驚きとどよめきが走った。手を叩いて歓声を上げるもの、おめでとうと祝福の言葉をかけるものとで、室内は一時騒然となった。
アンナはその意味が分からなくて、キョトンとしていたが、みんなが祝福してくれるのだから、きっと良いことなのだろうと、唇だけをほころばせながら、左右の聴衆に向かってちょこんとお辞儀した。
シルクのような手触りのマントがふわりと揺れる。その背中には、リディア王家の紋章が記されていた。このマントを所持しているのは彼女を除けば、最後は魔王・但馬波瑠だけだった。
ウルフはその姿を感無量と目を細めながら、
「ようやく、肩の荷が下りた気がする……もう明日死んでも悔いが残らないくらいだが、あと一つだけ仕事が残っている。アーサー! 前へ出よ」
「はっ!」
アンナ同様、良くわからないが会場の雰囲気に飲まれてにこやかな笑みを浮かべて拍手していたアーサーは、今度は自分が呼ばれて驚きながらも、父親の前へと歩み出た。
アーサーのカンディア公爵は自称であり、実際にはウルフのものだから、多分、彼にもアンナみたいに何かの爵位を授けようという、父の粋なはからいなのだろう。
そう思って父の前で膝を曲げようとした彼は、その瞬間、左右から彼の従者たちに押しとどめられた。彼らの手には厚手のガウンが握られており、それを恭しく肩にかけられたアーサーが面食らっていると、父ウルフが玉座の前から脇へと退いた。
すると彼の前に道が開け、一段高い場所に置かれた玉座の両脇に、皇王リリィとザビエル大司教が立っているのが見えた。その皇王……いや、エトルリア聖教教主リリィの手には、今、リディア王のクラウンが握られている。
アーサーは目を見開いて左右を見た。
父ウルフ、母ジリアンが厳かな表情で頷いた。彼は両親のその表情で、これがただの叙勲式ではないことを悟り、そして、改めて気を引き締めてから、一段高い玉座の前へと歩み寄った。
ガウンを纏った彼が玉座に座ると、両側に立っていた聖職者の二人が、そのふわふわの金髪の上に大きなクラウンを乗せた。そして彼らが玉座の左右に立ち聴衆の方を振り返ると、続いてウルフが赤絨毯の上を歩いて玉座へと近づき、アーサーの前で一礼してから、聴衆に聞こえるように声高に叫んだ。
「我、カンディア公爵ウルフはアナトリア帝国摂政として、皇帝ブリジットに代わり宣言する。初代皇帝ハンスの血を受け継ぎし、このアーサー・ゲーリックを、リディア王と認める」
そして彼は最初アーサーがやったように膝をつくと、聖剣を両手に掲げて恭しく差し出した。
「リディア王よ。我らの王たる証、聖剣エクスカリバーをお受け取りください」
アーサーは全身を駆け上がってくるような、ゾワゾワとした震えを押さえつけながら、玉座から立ち上がると、父の差し出す聖剣を手に取った。そして両手でその柄を握りしめ、自分の胸の前に構えると、聴衆に見えるようにその腹を向けて、高々と突き上げた。
その瞬間、謁見の間に集まった人々から盛大な拍手が沸き起こった。アスタクス方伯が、コルフ総統が、レムリア大統領が、そして祖父ミラー伯爵やその後継者ベネディクト、その他各国から集まったリーダーたちが、たった今生まれたばかりのリディア王にエールを送った。
アーサーはクラウンの重みを感じながら、視界がボヤケてくるのを必死になって堪えていた。見ればエリックとマイケルの顔はもうグシャグシャで酷い有様である。そんな二人の顔を見ていたら、あの日、3人で誰もいない荒野に立ち尽くした日のことを思い出した。今、こんなにも大勢の人々が祝福に駆けつけてくれた宮殿は、あの日、草も生えない荒野の中に静かに佇んでいたのである。
ああ、ついにここまで来たのだな……そう思うと、いよいよ胸にこみ上げてくる衝動が抑えきれなくなり、気が付けばアーサーは叫んでいた。思い返せば、自分はリディア王になる男だと、あの日から何度口走ったことだろう。彼はその言葉を現実のものとしたのである。
だが、言うまでもなく、その若き王にはまだ使命が残されていた。リディア王になるためには、そのリディアを奪還しなければならない。彼は集まった人々の祝福を受けながら、まだ足を踏み入れたことのない遠き故郷に思いを馳せていた。