カンディア公爵の帰還①
「カンディア公爵は二人も要らん」
そんなセリフとともに構えた剣の腹を見せた男は、失われたリディア王家の聖剣クラウソラスの名を口にした。
その瞬間、辺りをまばゆい光が包み込み、強烈な光で目を焼かれたアーサーは痛みに耐えかね瞼を閉じた。
ゾクゾクゾク……
っと全身に悪寒が走る。彼は、咄嗟に腰に差していたサーベルを引き抜いた。
ギンッ!!
っと、金属がぶつかりあう音がする。
全体重を乗せて打ち込まれた斬撃を受け止めきれず、アーサーはサーベルごと吹き飛ばされた。ゴロゴロと地面を転がり砂を噛む。相変わらず視界は真っ白な残光で何も見えない。
このまま転がっていたら殺られる……そう思い、必死になって立ち上がると、彼がたった今居た地面がえぐれて土が舞った。
それを卑怯だと思うよりもなによりも、彼にはもっと気になることがあった。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ! もしやあなたはっ!?」
「問答無用っ!!!」
ギンッ! ギンッ!
っと、へっぴり腰で突き出す剣に容赦なく斬撃が浴びせられる。アーサーは真っ青になりながらそれを必死に受け止めた。口を開けたら舌を噛みそうな激しい攻撃に、彼は一生懸命になって食らいついていくのがやっとだった。
それにしてもこの男……自分の勘が正しければ、もしやこの男アーサーの父ウルフなのでは……? そう考えるが、しかし目の前の男と、自分が抱いていた父のイメージが重ならない。
隻眼片足だと言うのに、それを感じさせないこの剣技。次々繰り出される攻撃はどれも正確にアーサーを捉えて、一瞬でも気を抜いたらあっという間に持って行かれそうである。
アーサーの父ウルフは金髪碧眼の色男で、生真面目な性格で稽古を欠かさなかったが、残念ながら剣も魔法も才能がなかったと言われている。今、彼の目の前にいる男はそんな父のイメージとは打って変わって、白髪隻眼で憎悪に満ちたその瞳は見る者を容赦なく圧迫する。そしてなによりもこの剣技は、剣聖の弟子であるアトラスやフランシスに匹敵した。
もし、そのアトラスたちと稽古をしてなければ、とっくに殺られてしまっていただろう。そのくらい、目の前の男の剣技は凄まじいのだ。
だから、それはアーサーの思い込みなのかも知れない。それでも、目の前の男が自分の想像通りの人かどうかが気になって、彼はそのすさまじい攻撃に耐えながらも、徐々に集中力を欠いて押され気味になっていた。
「待ってください、あなたは……あなたはもしや父上なのではないのですか!?」
「問答無用と言っておろうがっ!!」
そんな劣勢だと言うのに、何かを期待するようにアーサーがそれを口にした瞬間、男は苛立たしげにそう吐き捨てると、まるでギアが変わったかのように、更にスピードを上げてアーサーに踊りかかってきた。
力を示せと彼らは言った。なのにお前は何をやってるのだと言わんばかりの迫力に、アーサーは完全に気圧される。
必死に受け止めるサーベルの隙間を縫うように次々と繰り出される剣撃に、ついに受け止めきれなくなった彼の薄皮が一枚二枚と切り刻まれ血しぶきが舞った。
やばい……そう思った時は後の祭りで、男がアーサーの持つサーベルを絡め取るように、回転させながら強引に剣を上下させると、シャンっと金属が擦り合わされるような音がして、アーサーの腕が痺れてサーベルが宙に飛んでいった。
丸腰になってしまったアーサーが、真っ青になって自分の得物を取り返そうとダイブする……男はそこを狙いすましていたかのように駆け出し、寝っ転がっているアーサーに冷徹な視線を浴びせかけると、容赦なくとどめの一撃を叩き込むべく上段に剣を振り上げた。
殺られる……っっ!!
もはや絶体絶命と、アーサーが目を瞑ったその時だった。
「だめええええぇぇぇーーーーーっっ!!!」
そんなアーサーと男の間に、金切り声を上げて小さな影が飛び込んできた。
男は振り下ろそうとしていた剣を、まさに間一髪で止めていた。
二人の間には大の字になってアーサーを庇うリリィが立っていた。彼女の前髪の一房が、止めきれなかったクラウソラスの鋭い刃に切断されて、ハラハラと地面に落ちていく。
突然の乱入に水を差された格好の男が舌打ちする。
「……ちっ。子供に庇われるとは、情けない奴め」
何も言い返せないアーサーが悔しさを噛み締めていると、
「情けなくない!」
リリィはそんな男に向かって突っかかっていくと、そのお腹をポカポカと叩きながら叫んだ。
「タコ壺の中に取り残された私を、王子は助けてくれた。だから今度は私が王子を守る番だよ。悪いヤツ、このっ! このっ!」
小さな女の子に剣を振るうことも出来ず、男は困惑気味にその攻撃を受け止めながら、
「こらっ! やめんか。貴様、下手したら今、本当に死んでいたかも知れんのだぞ。男同士の真剣勝負に口を出すんじゃない」
「うるさいっ! 悪いヤツ! やれるもんならやってみろっ! 王子はあの時、死んじゃうかも知れないのに、私を助けてくれたもん。だから私も王子のために死んだっていいんだもん」
「ありがとうよ……」
ポカポカと、男を叩くリリィの体を、アーサーはそっと引っ張った。リリィは一瞬だけイヤイヤをしてみせたが、すぐに諦めたように大人しくなると、半べそをかきながらアーサーの方を向いて口をとがらせた。
「その気持ちはありがたく受け取ろう。だが、今は彼も言うとおり、男同士の真剣勝負の最中なんだ」
「でも……」
「大丈夫だ。もう遅れをとったりしないさ」
アーサーはそう言って、アンナに目配せをすると、彼女はいつもの表情をしながらやってきて、リリィの手を引っ張った。リリィはシュンとしながらも、大人しく彼女に従って、アーサーたちから離れて行った。
去り際、アンナが振り向きざまに、
「格好つけて……ちゃんと勝ち目はあるんでしょうね?」
するとアーサーはふんぞり返りながら否定した。
「無い。さっぱり勝てそうもない……が」
アンナの眉毛が微妙な感じに歪んでいく。
「でも、元気が出たぞ」
「そう……」
アンナはその返事にもなってない返事を聞くと、ため息混じりに苦笑しながら去っていった。
「話は終わったか……?」
リリィの乱入にすっかり興を削がれたといった感じの男が、憮然とした表情で言った。アーサーはそんな男に向かって真っ直ぐ頭を下げると、
「すみません。ですが、これが俺の力なのです」
「……?」
アーサーは言った。
「俺はあなたのような強い力を持ってない。だからみんなで寄り集まって、一緒に考え、助け合ってここまでやってきました。人はそうやって助け、助けられて生きていく。あなたは私に力を示せとおっしゃいましたが、ならば俺は胸を張って答えましょう。ここにいる彼らこそが、俺にとって力のすべてです」
「……抜かせ」
男はそう言うと、少し嬉しそうな顔をして剣を構えた。アーサーはそんな彼の瞳をまっすぐ見据えながら、さっきは彼の正体が気になってしまって精彩を欠いてしまったが、もう迷いはしないと心に誓って、自分の剣を構えた。
ギンッ!!
っと、また剣が交わる音だけが辺りに響く。
アーサーはその鋭い剣撃を受け止め、必死に男の動きに食らいつきながら、どうにかして相手に迫れないかと、その隙きを窺った。
そうして冷静になって男と対峙してみると、その力は剣聖の弟子アトラスやフランシスには一歩及ばない。先ほどは相手を過大評価しすぎて、また、自分の持っている父親のイメージとの乖離で、動きがちぐはぐになっていたのだ。
だがもう、そんなことで遅れはとるまい。今、目の前にいる敵は、誰か知らない男で、アーサーがそいつに勝たなければ、エリックとマイケル……大事な二人の仲間が帰ってこれなくなるという、ただそれだけの話なのだ。
思い出せ……魔法使いとの戦いを。
彼らは周囲のマナを集めて自分を強化する。最初は自分の体内のマナを利用し、足りなければ周囲から集めて、それがあの仄かに光る緑色のオーラになる。その流れを断ち切ることができれば、彼らの力を大きく阻害することが出来るはずだ。
考えろ……アンナはなんて言っていた?
自分を取り巻く箱の中に、どれだけのマナが存在するのか……その箱をドンドン縮めていけばやがて一粒に行き当たる。それがマナだ。マナはどこにでも存在し、決して目に見えないが、我々人類は常に眠れる器官でそれを感じているはずなのだ。
研ぎ澄ませ、その感覚を。勝利の鍵はそこにある。
ガギンッ! っと、二人の剣が交差した。鍔迫り合いの最中、男は余裕の笑みを浮かべて言った。
「いい動きだ……先ほどとは人が変わったようじゃないか」
「そんな余裕をかましていると、足元を掬われますよっ」
「ふん、言うじゃないか……なら、これはどうかな?」
鍔迫り合いの剣がグンと重くなる。男は嵩にかかってアーサーを押し任そうとしてきたのだろう。そんな力がどこから出てくるのかと思うくらい、尋常じゃない力がアーサーをグイグイ押し始めた。それを必死に押しとどめようとする彼の足が、地面をえぐってずりずりと後退る。男が作ったマナの義足はビカビカと眩いばかりに光っている。
男の片足、あそこに集中するマナの流れを止めることが出来れば……視界の片隅に捉えた強烈なマナの光を感じながら、アーサーは何かヒントになるものでもないかと周囲を探った。すると、ズルっと地面が抉れて、バランスを崩した一瞬、アーサーの額に男の剣が触れようとした、まさにその時……
ブンッ……っと、アーサーの視界がぶれて、何か見えてはいけないものが見えたような気がした。
彼はハッとして、力任せにサーベルを振るった。鍔迫り合いしていた男が飛び退いて間合いを取る。額がぱっくりと割れてヒリヒリと痛む。アーサーの目の中に血が垂れ落ちてきて視界を遮った。彼はそれを拭うと、サーベルを両手で握りしめる。
今、何か掴めそうな気がした……それを忘れる前に、今の感覚を取り戻さなければ……
前傾姿勢で飛び込んでくるアーサーを男が剣で弾いた。さっきまでどこか慎重で消極的だった彼の動きが、突然大胆なものになる。
二合三合と打ち合う度に、アーサーの視界がぶれていった。二人の剣がぶつかりあう度に、まさに世界が切られたかのように、視界がズルっとずれるような気がするのだ。この直線的な空間のずれは何だ……? 戸惑いながらその正体を探っていた時、アーサーは気がついた。
これは、男の持つ聖遺物が見せている幻覚だ……何故なら剣がぶつかり合う時だけ世界がぶれるから。しかし、このブレを男は感じていないようだった。さっきから、ブレが生じる度に、男の動きが一瞬止まる……いや、世界が止まって見えるのだ。
どうしてこんなのが自分にだけ見えるのかは分からないが……もしこれが予想通り聖遺物が見せているものなら、さっきみたいに鍔迫り合いに持ち込めば……もしかして何かが掴めるはず。
アーサーは危険を顧みず、相手の懐に飛び込んだ。
その瞬間……
ブーン……っと、まるで振動音のような音がして、アーサーの視界が反転した。気が付けば彼の周囲から音が無くなり、目の前の男と二人だけの殺風景な空間に彼は立っていた。
周囲にはふわふわと、大量のホタルのような光が漂っている。それは彗星のように尾を引きながら流れていっては、どこかの地点で唐突に現れては消え、消えては現れるということを繰り返した。それはまるで寄せては返す波のように正確であり、周期性を持つ光の波の軌跡を辿ってみたら、それは男を中心に弧を描いているように見えた。
もしかして、これがマナ……?
そう意識した時、アーサーの視界にかぶさるように、前後左右上下に向けて半透明の白い線が浮かんで見えた。それは座標軸のように等間隔の線で、世界を細かく分断している。マナはその軸の交点をなぞるように通過して、通過する度にその交点がキラキラと光っているのだった。
いや違う。これはマナが移動しているんじゃない。この交点で静止したまま点滅する光が、波のように動いて見えているだけなのだ。マナとはこの座標軸の上で点滅するエネルギーの波……いや、この世界を細かく分割する座標軸、エネルギーを伝える媒体のほうがマナだったのだ。
見える……見えるぞ……
静止した世界の中で、アーサーはマナの流れを正確に捉えた。マナは見えないのではなく、文字通りそこにあったりなかったりするような、そんな類のものなのだ。我思う故に我あり。魔法使いがマナを観測して初めてそれがエネルギーを発する……それがこの世界の仕組みだった。
アーサーは思った。男の周りで弧を描くこのマナの流れを阻害すれば、一体どうなるんだろうか……彼は鍔迫り合いからサーベルを振りほどくと、今彼の目の前でふわふわと漂っていた光の線を断ち切った。
「貴様、どこを狙って……おわっ!?」
男は鍔迫り合いを挑んできたはずのアーサーが、突然意味もなく飛び退くと、続けざまに明後日の方向に剣を振るったのを見て、何をしているのかと戸惑った。ともあれ、隙きだらけの彼をそのままにしておくのは馬鹿のすることだと、追撃をしようと体を向けた瞬間……グラリと体が揺れて、たたらを踏んだ。
男の失われた足で、義足のように光り輝いていたマナが、今、ゆらゆらと風に吹かれる蝋燭の炎のように揺らいでいる。踏ん張ることが出来なくなった彼は、ケンケンをするような格好で慌ててアーサーから距離を取ると、冷や汗をかきながら剣を構え直した。
今、何をやられたのだろうか……? 男にはさっぱりわからなかったが、何か得体のしれないものを感じると、直感で彼から距離を取っていた。そのアーサーは先ほどとは打って変わって、妙にギラギラした視線で男のことを捉えていた。
男はその視線に尋常でないプレッシャーを感じていた。まるで自分が追い詰められているような、さっきとはあべこべな感覚に戸惑いながら、このままでは殺られるという妙なプレッシャーから逃れるために、彼は最後の賭けに出た。
「クラウソラス」
ブンッと細かな振動音がして、剣が光を発しだす。それは剣聖の作るマナの剣のように、鮮やかな蛍光色を発しており……彼はそれを正眼に構えると、最後の一撃をアーサーにくれてやるために駆け出した。
「闇よりも深き暗黒より道を指し示すものよ。我は四番目の神の盟約に従い汝に問う。真理を照らす神の炎に導かれ、王道を成せ。白き鏡像、対なる世界、トゥアハー・デ・ダナンッッ!!」
詠唱ととともに、周囲のマナが集まってきて、彼もろとも剣を覆い尽くした。クラウソラスはマナを纏うと、まるでかつての太陽のようにまばゆく光り輝き、どろどろに溶けたマグマのような熱を発してアーサーに襲い掛かってきた。
そんなものを喰らえば死んでしまう……それまで平静を保つふりをしながら、内心ではハラハラしながらそれを見ていた、ジルが悲鳴をあげた。
アーサーはそんな母の声すらもはや聞こえておらず、邪魔だと言わんばかりに手にしていたサーベルを投げ捨てると、ただ目の前にあるそれに手を伸ばした。
「よこせ……それは俺のものだ」
光輝剣が灼熱の炎をまとってアーサーに迫る。彼はそんな熱などものともせず、目もくらむようなそれを凝視したまま、まっすぐ迎え撃った……
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……ドサッ
ゴツンっと、頭のなかで火花が散って、アーサーは目を白黒させながら飛び起きた。
ほっぺたがひりひりと痛み、頭がくらくらする。いつの間にか、固くて冷たい地面に転がっていた彼が上体を起こすと、そこはカンディア宮殿の自分の寝室の中だった。
周囲は深夜らしく寝静まっており何も聞こえない。月明かりが窓から差し込み、シーツの乱れたベッドを照らしていた。どうやら寝返りを打った拍子にここから落っこちてしまったようだ。彼はぽきぽきと首を鳴らして、あくびを噛ますと、また寝床に戻りかけて……ガバリと飛び起きた。
「じゃないっ! 戦いはどうなった!?」
さっきまで自分が謎の男と戦っていたことを思い出し、慌てて周囲をキョロキョロ見回した。しかし、そこはさっきも確かめた通り、どこからどう見ても自分の寝室であり、それ以上でもそれ以下でもない。
もしかして記憶が吹き飛んでいるのだろうか? なんで血も凍りつくような斬り合いをしていたのに、いきなりこんな場所に飛んでいるのだ? あの宮殿の中庭から、ここに来るまで何があったんだ。
最後に覚えていることは、たしか男がアーサーめがけて剣を振り下ろし、物凄い熱量のこもった斬撃が彼に届こうとしている場面だった。彼はその斬撃を素手で掴み取ろうとして……そこからここに至るまで、一切の記憶がない。
「……もしかして、ここは天国か?」
いや、普通に考えてそれはないだろう。力を示せと斬り合いはしても、殺し合いまでは至っていない。多分、あの攻撃で自分は吹き飛ばされたかなんかして、そのまま気絶してしまったのだろう。つまり、負けたのだ。
アーサーは、はぁ~……っと深い溜め息を吐いた。
バタンキューと倒れたアーサーを運んできてくれたのはアトラスだろうか。いや、あそこには子供たちも居たから、彼らかも知れない。エリックとマイケルを連れ戻すと約束したのに、みっともないところを見せてしまった……アーサーはそれが悔しくてならなかったが、それよりももっと気になることが頭の中をよぎって離れなかった。
「まいったな……あと少しで何かが掴めそうだったのに」
男との斬り合いの最中に、何度も見えた静止した世界。そこではマナだけが寄せては返す波のように動いており、アーサーはこの世界の裏側をエネルギーが走る仕組みを知った……ような気がした。それを掴むよりも前に、気がついたらこうなっていたのだ。
彼はがっかりしながら、明日起きたらみんなに何て言って謝ればいいのだろうかと、ため息混じりにベッドに戻りかけようとした。すると、ゴソゴソと、そのベッドのシーツが蠢いて、そこからリリィが顔を覗かせた。どうやら、またいつもみたいにアーサーの寝床に潜り込んでいたらしい。
さっきの今でバツが悪いなと思っていると、リリィは寝ぼけ眼にアーサーの顔を見上げて、ぼんやりした目つきで彼に言った。
「……おしっこ」
「え? おしっこ?」
多分、トイレに行くから付いてこいと言ってるのだろう。何か言われるかなとドキドキしていたが、リリィは半分眠っているようだ。アーサーはホッとしつつ唇を尖らせながら、
「いつも寝る前にトイレに行けと言っているだろうが。夜中に起こされる身にもなってみろ……まったく、まあ今日は起きてたからいいけど」
まだ夢見心地でふらふらしているリリィをベッドから下ろすと、アーサーは手近な電気スタンドにかけられていたショールを取って、その小さな肩にかけてやった。
リリィはそれをバスタオルみたいにぐるぐると巻くと、ふぁ~っと大きくあくびをしてから、トトトっと部屋のドアまで駆けていった。
「こらこら、そんなに急ぐなよ。と言うか貴様、一人で行けるんなら最初から人を起こすんじゃない」
さっさとドアの外に出ていったリリィに向かって、彼は抗議の言葉を発した。それすら待たずにトイレに向かって駆けていった背中を見つめながら、彼は諦めたようにやれやれと肩をすくめると、彼女の出ていったドアから自分も歩み出ようとした。
と……ドアノブを握りしめ、廊下へ出ようとした時、彼は何か言いようの知れぬ違和感を感じて、踏み出す一歩をピタリと止めた。なんだか、このまま踏み出すと、大変なことになるような気がする……
何がそんなに気になるんだろう? と思って周囲をよくよく見てみれば、部屋の外が真っ暗闇で足元すらおぼつかない。太陽活動の関係で夜は暗くなりすぎるから、宮殿は常夜灯が点っている。流石にここまで暗くなるわけないから、もしかして停電でも起こっているのかと、おっかなびっくり奈落のような廊下に足を踏み出そうと下を向いた時……
自分の真下に見えては行けないものが見えていた。
それは真っ暗闇の中に浮かぶドアから、金髪の男が足を伸ばしている姿で……それがアーサーの足元で延々と、ずらずら何十も何百も、全く同じ光景が連なっていたのだ。
彼がギョッとして真上を見上げると、今度は自分の上方で、同じように真上を見上げる自分の姿が何十も何百も、見渡す限り無限に続いているのだ。そのあり得ない光景を目の当たりにして、なんじゃこりゃと驚愕の表情を浮かべた彼に、更に追い打ちをかけるかのように、ガクッと体の重さが消えたと思ったら、たった今まで自分が立っていたドアが無くなって、彼は宙に投げ出された。
「うぎゃあああああーーーーーっっ!!!」
情けない悲鳴を上げながら、彼は自由落下を続けていた。上下左右どこまでいっても何も見えない真っ暗闇で、手足をばたつかせ、宙を泳ぐように必死になって体をくねらせていた彼は、10秒、20秒と無重力状態が続くにつれて段々とこれは自由落下してるんじゃなくて、宙に浮いてるんじゃないかと思うようになってきた。その瞬間、
「うげばっ!」
べちゃっと顔面から地面に叩きつけられていた。地面があることに喜ぶよりも、よく生きていたなと、そんな信じられない気持ちを抱きつつ、うひぃーっ!! っと変な叫び声を上げながら飛び起きた彼は、目を白黒させながら周囲を見渡した。
すると、さっきまでの真っ暗闇はどこへやら。いつの間にやら辺りは真っ白な雲海が、地平線のように丸みを帯びてどこまでもどこまでも続いている。それが夕日だか朝日だがを浴びて真っ赤な絨毯のように見えており、その美しい光景に目を奪われていたら、視界の隅に無数の人影が見えた。
ここが一体どこなのか、何が起きたのかさえさっぱりだったが、とにかく人が居るなら話が早い、
「おーい! そこの人! ここは一体どこなのだ」
と手を振りながら人影のいる方へ歩いていったら……見ればその人影は口からモクモクと何かを吐き出している。それは煙草の煙のように吐き出されながらも、妙にくっきりとした綿雲のようで、それがプカプカと人影を包むように広がると、彼らはその自分の吐き出した雲に乗っかって、プカプカプカプカと浮かんでいった。
何十人も、何百人も、雲に乗ってプカプカ浮かんだ人影が、風に吹かれてはるか上空まで飛び上がる。何百、何千と綿雲が、後から後から続いていって、上空にまた素晴らしい雲海を形作っていた。
ジェット気流に吹かれて飛ぶように流れていくその綿雲を、一体どのくらい眺めていたのだろうか。アーサーがハッと気が付けば、太陽がいつの間にか空高く昇っていて、空はすっかり真っ青になっていた。それは彼にとっては馴染み深い、紫がかった空とオレンジの太陽ではなく、目もくらむような太陽光線に照らされた真っ白い雲が流れていく、夢のようなブルースカイだった。
こんな景色見たこと無いと呆然と見上げていたら、いつの間にか足元の雲海は晴れて、驚いたことにアーサーは、今度は水の上に立っていた。足踏みしても水の波紋が広がっていくだけで、彼の体は沈まない。その水が空を反射して、アーサーはまるで空の上に立っているような気分にさせられた。
現実と虚構の間のような場所に立って、彼は自分が水の上に立っているのか、空に落っこちているのか、その区別も曖昧になってきた。水に沈まないのは、彼に重さがないからだろうか。軽やかなステップを刻んで、彼が自分の作る波紋を追いかけていったら、やがてどこからともなく子供たちの笑い声が聞こえてきて、その中にリリィの声があることに気がついた。
「王子~? どこ~?」
と彼を探すリリィの声に、
「お~い、こっちだ!」
とアーサーが返すと、するとリリィが前方の何も無いところから、ガチャリとドアを開いて顔を覗かせた。
一体、彼女はどこから現れたんだ? 唖然とその姿を見守っていたら、彼女は周囲をキョロキョロと見回してから、
「王子~?」
と、アーサーのことを呼んでは、また何もない空中に別のドアを開くと、彼を探してそのドアへと入っていった。
彼はその様子を呆然と眺めていたが、ハッと我に返ると、
「おーい、こっちだってばっ!」
と言いながら、リリィが消えた方へと走っていった。すると、彼の更にずっと前方にまたドアが開いてリリィが顔を出し、またキョロキョロしてから別の扉へと入っていく。周囲では子供たちの笑い声が相変わらず聞こえていて、二人はまるでその中で追いかけっこをしているようだった。
アーサーは必死になって現れては消え、消えては現れるリリィの姿を探して水の上を駆けていき、リリィはそんな彼を翻弄するように、ドアからドアへと渡り歩いていく。
彼はそんな追いかけっこを何分も続けてから、ようやく、ああ、これは夢だなと思い至ると、すると今度はいつの間にか周囲は真っ白い霧に閉ざされて、気が付けば彼は湖の畔に立っていた。
こんなどこまでも水だらけの場所で、どうしてそこが湖なのかと気づいたかと言えば、それはそこだけ水の透明度が変わっていたからで、アーサーがその透き通った湖の中へ足を踏み入れると、今度はザブンと音を立てて足首まで水に浸かった。
信じられないほど透明な湖の底は、白いサラサラの砂が敷き詰められていて、ところどころから生える藻が揺れて、その周りをカラフルな魚が泳いでいる。そんな魚の群れを追いかけていると、やがて湖の奥の方から、ぱちぱちと火が爆ぜる音が聞こえて、オヤっとしてそちらの方をためつすがめつ覗いてみたら、島のような場所でキャンプファイヤーを囲んで車座になっている集団が見えた。
アーサーがその集団に、ここはどこだと訪ねようとしてどんどん歩いていくと、湖は深度を増していき、やがて膝の上まで水に浸かった彼が、これ以上進むかどうかと思案していると、どこからともなく小舟が流れてきた。
小舟には櫂もついてなかったが、彼が乗り込むと勝手に動き出し、ゆるゆるとしたスピードで島の方へと進んでいった。やがて島に到着したアーサーは船から下りると、まるで導かれるようにキャンプファイヤーを囲む集団へと近づいていった。
アーサーが近づいてくると、彼らは一斉に顔を上げて、来訪者を仰ぎ見た。男たちはみんな鋭い眼光をもち、引き締まった体をした白髪の老人で、しわくちゃの顔をしている割にはやけに胸板が厚かった。みんな上半身裸で粗末な腰巻きをして、頭には色とりどりの鳥の羽を巻きつけた羽冠をつけていて、よく見れば全身に奇妙な模様の入れ墨が彫られている。
人数は丁度1ダース、12人ほどの老人が輪になってキャンプファイヤーを囲んでいる。どうせ夢だからと何の警戒もせずに近づいてきたが、その奇妙な集団に一斉に凝視されたアーサーが気圧され、まごついていると……
「たてがみを仕舞いし者よ……其は何故、力を求める……?」
その集団の中で最も年を取ってそうな男が、長い眉毛に埋もれた瞳をギラリと覗かせながら、アーサーにそう尋ねてきた。