亜人の王
アーサーとアンナは甲板で会話を交わしたが、結論は出なかった。そうこうしている内に飛行船は順調にメディアを目指し、やがて二日目の早朝に陸地が見えてきた。
広大なガッリアの森が広がる深緑の大地が見えてくると、それまで手がかりがなさすぎてその速度が分からなかったが、ぐんぐん近づいてくる岸を見て、飛行船のその速さが実感できた。
タスマニア号は本当に、たった2日で3500キロもの距離を踏破してしまったのだ。
飛行船はかつてメディアと呼ばれた国の上空までやってくると、昔鉱山で働く作業員が住んでいたと言われる租界の島に着岸した。
船員が忙しそうに作業する中、ゴンドラにつけられた昇降機で地上に降りたアーサー達一行は、廃墟となった租界の片隅にある港から船に乗り換えて、メディア首都ヴィクトリアへと向かった。亜人達は飛行船がやって来ると、その着陸を手伝ったあとさっさと帰ってしまった。歓迎しろとは言わないが、その素っ気なさが気になった。辺りは不気味なほど静かで誰もいない。
だから、その時点で気づけばよかったのだ。アーサー達は明らかに招かれざる客だった。
大昔に一度来たことがあるというタチアナを先頭に、一時期はメディアの女王として縁のあったリーゼロッテが続く。そんな二人が何かを話し合いながら先を進んでいくと、やがて海岸から少し行った丘の辺りに、人間の集落らしきものが見えてきた。
それは古臭い木造の茅葺屋根で、未来都市みたいなレムリアからやって来たアーサーは、まるでタイムスリップでもしたかのような気分にさせられた。
そんな古い建物が建ち並ぶ村を目指して歩いていくと、やがて集落の入り口らしき冠木門の辺りに、いくつかの人影が見えた。ようやく人の姿が見えてホッとしたアーサーが、彼らに向かって手を振ろうとすると、その人影は冷たい視線を浴びせかけた後、ぷいっとそっぽを向いて村の中へと入っていってしまった。
ここまで来るといくら楽観的なアーサーでも、流石に自分たちが歓迎されていないことに気づいた。彼は久しぶりに地上に降りた解放感を押し込めて、周囲を警戒するように努めた。
村に入るとその非歓迎っぷりは顕著で、アーサー達は露骨に敵意を向けられて戸惑う羽目になった。一歩間違えば殺されてしまいそうな空気に萎縮していると、それでもタチアナは政治家らしくニコヤカな態度を崩すことなく、やってきた役人らしき男と会話を交わしていた。
それにしても……ここまで敵意を向けられるのは、辺境伯が話していたようなことがあって、亜人達が人間に心底嫌気が差しているからだろうか。大統領は彼らに許しを請えと言っていたが、これはとんでもなく骨が折れる仕事だぞと、アーサーは絶望感に苛まれた。
しかし……そんなことを考えつつ、案内人に先導されて、村の中心に向かって歩いている時だった。彼は村の光景に妙な違和感を感じた。
なんだろう? と思ってよく見てみると、それは村の構成員の傾向にあった。先ほどから周囲を見渡していると、迷惑そうにアーサー達を遠巻きに眺めている人たちの頭には、リオン博士のような大きな猫耳がついているものも居れば、それが無い者もいたのである。
亜人は全て博士のような獣耳を持ったものとは限らないそうだが、それにしてもその人数が多すぎる。彼らはどうみても人間のようにしか見えないのだ。しかも、よくよく村人を見ていると、その中には子供も含まれていて、赤ん坊を抱えている女性も居たのだ。
アーサーは詳しくなかったが、確か亜人は亜人同士で子供を作れないはずである。ここには亜人の他に、人間も暮らしているということだろうか? しかし、ここは人類の生存権から遠く離れたガッリア大陸、エルフの支配する土地なのだ。人間なんかがいたら真っ先に狙われる。何かの間違いではなかろうか……
そんな疑問を抱えつつ、やがてアーサー達は村の中心にある宮殿へとたどり着いた。宮殿とは言っても、それはエトルリア大陸のような石造りの城ではなく、レムリアのようなコンクリの建物でもない。木で出来た舞台の上に、簡素な屋根がついただけの、歩けばギシギシと床が鳴るような、古いだけの建物だった。
そんな建物の中心には、また一段ほど高くなったステージがあって、そこに一人の巨漢が座っていた。
いや、よく見るとそれは巨人のような女性であり、アーサーの太ももくらいありそうな上腕二頭筋をした筋骨隆々の体を見せつけるように袖の無い服を着て、彼らを威嚇するように怖い顔で睨みつけていたのである。
何者かは分からないが、恐らくこの村のリーダーだろう。しかしその威嚇するような目つきに、何と言って声をかければよいものか……戸惑うアーサーの代わりにタチアナが挨拶をしようと彼女の前に進み出ると、
「退け。タチアナ」
その巨人はアーサーたちを睨みつける視線を外すこと無く立ち上がると、一歩前に進み出て、彼に向かって言い放った。
「お前がカンディア公爵アーサーか?」
明らかに敵意のこもった視線に、アーサーは怯むこと無く返事する。
「いかにも」
「では、そちらがアンナだな?」
アンナがコクリと頷くと、巨人はいよいよ興奮収まらないといった感じに、
「我は亜人の王ジュリア。誇り高き森の賢人の血を受け継ぐもの。お前たちが何をしに来たかは知ったこっちゃない。所詮、この世は弱肉強食。強いものが弱いものを従わせるのがルール。問答は無用だ。さあ……かかってらっしゃい!」
その瞬間……ジュリアと名乗る亜人の王は、床を踏み鳴らしてアーサー達の方へとその巨体を揺らし飛びかかってきた。
完全に不意を突かれたアーサーが吹き飛ぶ。
ドーンッ! っと盛大な音を立てて、アーサーは宮殿の舞台の上で大の字に転がった。背中を強かに打ち付けて息が詰まる。その雰囲気にタダじゃ済まないだろうとは思っていたが、こんな不意打ち……話し合いなど無理と言うことだろうか。目を白黒させながらアーサーが立ち上がると、聖遺物を抜いたアンナが、斧を構えたジュリアと打ち合っているのが見えた。
キンッ! キンッ! っと金属がぶつかりあう音と、ドタバタと木造の床を踏み鳴らす音だけが響いていた。一合、二合と打ち合う度に、建物がガタガタと地震のように揺れている。
リーゼロッテはそんな二人のすぐ側に立っていたのに、加勢すること無く腕組みをしながらそれを見ていた。アンナがピンチだと言うのに、何故? と、戸惑うアーサーを尻目に、アンナは周囲のマナを集めてオーラを纏うと、両手持ちの斧を軽々と振り回すジュリア相手に優勢を保ったまま、トドメを刺すべく詠唱を開始した。
「高天原、豊葦原、底根の国……えっ!?」
しかし、彼女は詠唱を開始してすぐに何か違和感を感じたらしく、目を丸くして戸惑いの表情を見せた。
ジュリアはその隙きを見逃さず、アンナの体にその巨大な腕を振り下ろすと、
「きゃあああああ~~~!!!!」
まるで木の葉でも払いのけるかのように、ふわりとアンナの体が飛んでいった。
ドスンドスンとボールのように跳ねながら、床を転がってく彼女の額から血が滴り落ちる。タチアナがオロオロしながらジュリアとアンナを交互に見ていた。剣聖はまだ動かない。その足元で、小さなリリィが怯えている。
その瞬間、アーサーの脳がパリパリと音を立てて回転し始めた。
人間が危機に陥った時に訪れるスローな世界で、アーサーは腰にぶら下げていた愛銃を抜くと、流れるような動作で弾を込めた。
アーサーは果断である。これはいつもの弾幕を張る戦いじゃない。照準を絞り、相手に確実に当てる戦いだ……彼はそう冷静に考えつつ、本当は亜人達を説得しに来たはずなのに、何故こんなことになったのだろうと思いながら、ほぼ迷いなく引き金を弾いた。
パンッ!!
っと乾いた音を立てて、アーサーの銃が火を噴く。その銃口から飛び出した弾は一直線にジュリアの腕へと吸い込まれていった。途端に真っ赤な血しぶきが上がって、彼女は手にしていた斧を振り落とした。
そして、
「いっ……痛いっ! 痛いぃぃ~~っっ!!」
と叫ぶと、床に転がってのたうち回り始めた。
「ひぃぃ~……痛いよぉ~! 痛いぃぃ~~~!!」
さっきの勢いはどこへやら……アーサーはその無様な姿を見て戸惑いつつも、第二射を装填した。
すると周囲でそれを見守っていた集落の人達が一斉に舞台に飛び上がって、アーサーとジュリアの間に立ちはだかり、戸惑う彼を羽交い締めにして銃を奪おうとした。
このままでは殺される……!? アーサーが必死にそれを振りほどこうとしてると、するとそんな彼の前にリーゼロッテがやってきて、落胆したように彼のほっぺたをピシャリと平手打ちした。
「落ち着きなさい、アーサー様」
やられてるのはこっちの方なのに、どうして自分が殴られるんだろう……? アーサーはジンジンと痛むほっぺたをさすりながら、目を丸くしてリーゼロッテの顔を凝視した。
彼女はそんな彼に不機嫌そうな視線を浴びせかけてから、続いて不甲斐ない弟子の方を睨みつけ、
「未熟者、相手の力量くらいすぐに推し量れるようになりなさい……そうしたら、誰も傷つくことなんてなかったのに……」
そんなリーゼロッテの背後で、タチアナが大慌てでアーサーに撃たれたジュリアの腕を縛って止血していた。弾を摘出するために医者が飛んでくる。そんなジュリアの顔はぐしゃぐしゃで、最初のイメージからはかけ離れて弱々しいものだった。
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「……見ての通り、私は弱いわ。こんなに恵まれた体をしてても、ちょっと戦闘に慣れてる人にかかるとすぐにやられちゃうの」
突然襲い掛かってきた亜人の王ジュリアがアーサーの銃弾の前に倒れると、さっきまでの騒ぎが何事もなかったように片付けられた。リーゼロッテに叱責を受けているアーサーに、ジュリアは負けを認めると、自分が先に手を出したんだからもう怒らないでと彼女に懇願した。アーサーはその姿を見て、自分が間違っていたことを知った。
アーサーがそれを謝罪すると、ジュリアは銃弾を摘出したばかりの体で真っ青になりながらも、自分が悪かったのだから気にしないでと言った。アーサーは自分が情けなくて穴があったら入りたい気分になった。
ジュリアがいきなり飛びかかってきたのは何故なのか……それは彼女が受けた、過去の壮絶な体験が原因だった。
「私は亜人として生まれて、記憶もないままこの森を彷徨っていたの。他の亜人もだいたい似たようなものだけど、亜人は親がいなくて頼れるものがないから、人里に出ると差別されてろくな目に遭わないわ。私は幸いにして、見た目が人間に近かったから、だから小さい時から人間のふりをして生きてたの。魔王様にはそれがバレバレだったみたいだけど……」
そう言って、彼女は懐かしそうに目を細めた。かつて彼女は魔王に指摘されて、それを必死になって隠そうとした過去があったのだ。あの頃は、そうしなければ、彼女みたいに弱くてあまり美しくもない亜人は、生きていけなかったのだ。
「私は人間のふりをしながらも、亜人が差別されていることを悲しく思ってたわ。だから、仲間たちが安心して集まれる場所が作りたくって、売春婦をやりながらお金を貯めていたの。でもそんなことをしてたら気づいたの、この世の中で踏みにじられているのは亜人だけじゃなくって、人間もそうだって。仲間の売春婦や、親に捨てられた子供たちは、いつだって社会から爪弾きにされて、最後はどんな死に方をするかわからないわ。
だから私はお金をかけて孤児院を作ったの。人間の社会に上手く入っていけない私達でも、協力し合えば生きていけるかも知れないじゃない。そしたら、アンナのお母さんが手伝いを買って出てくれてね? それが縁で莫大なお金をかけて魔王様が私の事業を支援してくれるようになった。
嬉しかったわ……ちゃんと、私達みたいな底辺の存在を見てくれる人がいたなんて。それがリディアで最も偉い人なんだから、これでみんな助かるって思った。でもそんな考えは甘かったのよ。
私とアナスタシアが学校を作った頃、リディア内部がどんどんおかしくなっていった。魔王様は自由平等を目指したせいで金持ちたちに恨まれて、色々足を引っ張られた挙句に、たった一度の過ちを責められて糾弾された。そして失脚した魔王様は島流しにされたんだけど……最後の日、私たちはせめて意気消沈する彼を元気づけてあげたくて、作ったばかりの学校でお見送りのセレモニーを行ったのよ。魔王様に助けられた子供たちは大勢いる。みんな彼に感謝してるって知ってほしかったの。
魔王様もそのことを喜んでくれたんだけど……クーデター勢力はそれを利用したのね。魔王様とお別れの際、子供たちが渡そうとした花束の中に、いつの間にか爆弾が仕掛けられていて……子供たちはそれで吹き飛ばされた」
その時の光景を思い出して、ジュリアはただでさえ貧血の顔を更に青くした。それはもはや死人のようで、それを見ているアーサーの方までショックで顔が青ざめていくのを感じるくらいだった。
「惨い……なんてことしやがるんだ」
それがレムリア大統領も嫌っていたリディア貴族のやり方なのだ。アーサーはそのことを胸の奥にしっかりと刻み込んでおくことにした。
「魔王様は大変お怒りになられて、クーデター軍を八つ裂きにした。今となっては常識でも、当時の愚かな人間達は彼の強さを知らなかったから、為す術もなくクーデター軍は崩壊したんだけど……でも悪い奴らってのはいつも私達の考えも及ばないことをするの。追い詰められたクーデター軍は、魔王様にはとても敵わないと考えると、学校の中で怯える私達を人質にして迫ったの。魔王様が抵抗するなら私達を殺すって……
クーデター軍は本気であることを見せつけるために、泣き叫ぶ子供たちを殺していった。私は気が狂ったように助けてって懇願したけど、彼らは聞き入れることはなかった。そして魔王様は、そんな私達のことなんて放っておけばいいのに、抵抗をやめてしまった。魔王様は、私達のせいで、私達の目の前で殺されたのよ……
魔王様を殺した後、クーデター勢力はただ煩いからってだけの理由で更に子供たちを殺そうとしたけど、そこにいるエリザベス様が陛下と一緒に助けに来てくれて、私たちは助かった……
でも、本当に助かったのか……私は実感が湧かなかった。私の元には壊れた学校と、何もしていないのに殺された子供たちと、ショックでおかしくなった子供たちが居て、森からはエルフが襲ってくる。首都から逃げてくる人々の波に揉まれて、みんなバラバラになっちゃって、気が付けば私はだいぶ少なくなっちゃった子供たちと、ハリチの浜辺に立ち尽くしていた。
どうして私達がこんな目に遭わなければならなかったのか。もし、私が強ければ、こんなことにはならなかったのか。そう思うと悔しくて、私はこんなに恵まれた体をしてるのに、どうして今まで何もしてこなかったんだろうかと、悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかったわ。
その後、私たちはレムリアに向かう船には乗らず、陸路でメディアを目指した。船は軍隊が乗っていたから、子供たちが怯えてしまって……私ももう、人間にはほとほと愛想が尽きていたから、せめてこの子達だけでも一生面倒を見てあげようと、亜人の国メディアを目指したの。
それから数年後……私達がここで暮らしていると、海から森から続々と亜人達が集まってきた。彼らはエトルリア大陸で迫害された人たちで、中にはセレスティアから来た人間も含まれていた。私たちはみんな、人間に差別され、迫害されてここにたどり着いたのよ……」
ジュリアは腕の痛みに耐えながら、アーサーの方を真っ直ぐ向いて、その瞳を真剣に覗き込みながら言った。
「アーサー様。タチアナ様に聞きました。あなたはリディア奪還を目指して、あっちの大陸で挙兵したそうですね? もし、あなたが領土的な野心でそんなことを考えているのなら、私たちはあなたと戦う道を選びましょう。ここを追われたら、私達にはもうほかに行く場所がないのです」
アーサーはそれを聞いて即座に返答した。少しも考える必要は無かった。そんなの、当たり前のことではないか。
「それは絶対に無いから安心しろ。寧ろ……今までよく耐えてきた。俺がこの国を取り戻したら、貴様らのような者がもう出ないように世の中を変えると約束しよう。トリエル辺境伯とも、それをお約束した。ここに居るタチアナが証人だ」
タチアナが黙って頷く。ジュリアはそれを見送ると、今まで背負ってきた重い荷物をおろしたかのような表情で言った。
「初代様はリディアを人間と亜人が仲良く暮らせる国にしようとしてお作りなられたそうです。そして最後の日、ブリジット様は、魔王様と私達のために戦ってくれました……だから、私はリディア王家を信じましょう」
アーサーはその言葉を聞いてほっと胸をなでおろすと、
「ありがとう、ジュリア女王よ。ところで実はずっと気になっていたのだが、ここにいる人間たちは、どうしてエルフに襲われないんだ? 俺はここに来る前に、メディアに亜人の集落があるとだけ聞かされていたので、びっくりしたんだが」
「それなら、さっき私と戦った時に、アンナさんが気づいたんじゃないかしら」
ジュリアが話を向けると、アンナはすぐに頷いて返し、
「……ここは魔法が使えない。正確には使えないんじゃなくって、天空のお城との交信が阻害されてるみたい。だからエルフは敬遠して近づかないんでしょう」
アンナはまだ聖遺物なしでは魔法を使えない。だからさっき、一瞬だけすきを見せてしまったのだ。リーゼロッテはそんな彼女のことを未熟者といったのだろう。
アーサーは感心すると、でもそれは一体どうやってるのだろうと首を傾げた。村にはそれらしい施設はどこにも見当たらない。ただ古い家が建ち並んでいるだけだ。するとジュリアが、その疑問はわかってると言わんばかりに、
「実は私達がここへ流れ着いてからしばらくして、魔王様がやってきたの」
と言い出した。アーサー達はぎょっとした。詳しく聞けばその魔王は、例のホログラフでもなんでもなく、いつもの但馬波瑠そのものだったそうで……
「私は殺されたと思っていた魔王様が生きていてくれて、本当に嬉しかったわ。それで大歓迎したけど、彼は私たちにここは危険だから出て行けと言うの。でも、私たちは出て行きたくても行き場所がないからここに居るんだし、そんなの無理って途方に暮れてしまったわ。そうしたら魔王様は仕方ないからって言って、この辺だけエルフが出てこれないようにするから、人間はあまりうろつかないようにって」
彼はそう言って村に何らかの処置を施すと、最後に世界樹の遺跡を破壊して帰っていった。以来、この周辺にはエルフが現れることがなくなり、人間が畑を耕して、亜人が森に入って、そうやって暮らしているそうである。
「私たちはそうやって今まで生きてこれたのよ」
そしてジュリアは、また真剣な目つきでアーサーを説得するように言った。
「アーサー様。魔王様は人間を滅ぼしてエルフの世界を作るって言ってるけど、そんなのは嘘よ。あの人は、昔から、人間も亜人も関係なく仲良く暮らせる世界を作ろうとしていた。いつだって弱いものの味方だったのよ。だからもし、あなたが魔王様と戦うと言うのなら……あの優しい魔王様が、ただ単純にエルフを操って人間を滅ぼそうなんて、本気で考えてるとは思わないで。そして、間違ったことをやってる彼のことをどうか許してあげて。もうこんなことはやめてほしいの」
ジュリアの願いを聞き入れるように、アーサーは力強く頷いて答えた。
「了解した。相手の出方次第ではあるが、俺はもう、あれがただの悪い人間だとは思っていない。可能な限り善処しよう。それでも……エルフと人間は相容れないのだ。殺し合いになってしまった時は、もうどうしようもないと心得ていてくれ」
それでもまだ不安なのか、ジュリアは不服な感じで続けた。
「そうならないように、話し合いで解決出来ないのかしら……」
「それをやろうとしたアンナの母親は殺されたのだ」
するとジュリアは納得が行かないといった感じに、
「ええ、その話は聞いたわ。でも、それは本当なのかしら……? あの魔王様が、ナースチャに手をかけるなんて、私には想像もつかないんだけど。彼はあの娘のことを溺愛してたのよ?」
すると今度はリーゼロッテが代わりに言った。
「そう思いますが、残念ながら彼女は私の目の前で殺されたのです……深々と突き刺さる剣に真っ赤な血が滴り落ちていた……そして彼女は……不気味な肉の塊に覆いかぶさられて……」
その時の光景がトラウマになった彼女は、思い出している内にみるみる顔面蒼白になっていった。魔王の所業は、見るものに原初的な恐怖を植え付ける類のものらしい。彼女がもうこの話はやめようと首を振ると、それでもジュリアは納得いかないと言った感じに、
「でも、エリオスさんや他にも、死んだと思ったのに生きてた人は居たのよね?」
アーサー達が顔を見合わす、
「……ええ、まあ」
「だったら、ナースチャも生きてるかも知れないわ。ううん、私はきっと生きてると思ってる」
そして彼女はアンナのことを、慈愛に満ちた本当に優しい表情で見つめると、
「だから、アンナちゃん。いいえ、アーニャ。あなたはあなたのお父さんを信じてあげて……あなたの名前はね? お父さんがお母さんのことを呼ぶ時に、いつも間違えてそう呼んでたのよ。お母さんはそれを嫌がってるふりしてたけど……本心ではそうは思ってなかったのね。きっと、あなたの名前は、あなたがお父さんにいっぱい愛してもらえるようにって、あの子なりに考えて付けたのよ」
「お父さんが……」
「これは私が言うことじゃないかも知れないけど……もしもあなたがお父さんのことを恨んでいるなら、そんなこと、あのお母さんは望んじゃいないんだってことを、あなたにも知って欲しいわ」
アンナはその言葉を反芻するかのように深く噛み締めながらも、結局はいつもの眉毛だけが困ったような表情で、
「そんなの……わからないよ」
と呟いた。
こうして、アーサー達はメディアの亜人達に許しを得ると、いよいよ魔王との決戦に挑むべく、レムリアへと取って返した。人類には残された時間は少ないが、アーサーの手元にようやく駒が揃ったのである。
大陸軍以下数万の兵、そしてレムリアの兵器、他にもブレイズ子爵を筆頭とした、先の大戦の将軍たち。これらの全てが、今カンディアに集結し、最後の決戦に向けて着々と準備を整えていた。
時代は言うまでもなく暗黒時代。世界大戦を彷彿とさせる動きの中で、アーサーはその最高指揮官として名を轟かし、イオニア海に君臨した。
そして……そんな世界中から人々が集結する中で、とある一つの集団もまた動き出そうとしていた。
それは大陸軍にも、ましてや魔王軍にも属さない第三の勢力。欠けていた最後のピースが、今、アーサーの元へと駆けつけようとしていたのである。