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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第九章
345/398

私には分からない……

 アンナはリーゼロッテの追及から逃れると、公園を出て大通りまで来てからホテルとは逆の方向へと歩いていった。ズカズカと地面を踏み鳴らすように足音を立てて歩く彼女に、通行人達が怖がって道を開けていく。


 アスファルトの地面と天を覆い隠さんばかりの摩天楼は、故郷ビテュニアとはまったく異質なものであり、南国特有の気候と、この薄暗い世界の中でも生い茂る街路樹の中を歩いているだけでも、アンナは何だか世界の果てまでやって来たような気分にさせられた。


 実際、彼女は今、海の遥か彼方にある異国に居て、どう足掻いても一人では戻れないのだ。逃げ出したところで、結局は彼らのもとへ戻るしか無く、ずるずると時間を潰したところで帰った時にバツが悪いだけであり、行き場なんてどこにもなかった。


 だからさっさと頭をクールダウンして、元の公園に帰らねばならないのだが、彼女はこみ上げてくる言いようの知れない不安に苛まれて、すぐには戻れそうもなかった。


「キュリオッ!」


 彼女は怒りのままに周囲の視線など顧みずに叫んだ。


「キュリオッ! キュリオッてばっ!! いるんでしょう!?」


 道行く人々が、突然叫びだした彼女のことを奇異な目で眺め通り過ぎていく。彼女はその視線を感じながらも、なおも叫ぶことをやめられなかった。


「キュリオッ!!」


 すると彼女が叫ぶのをやめないと考えたのだろうか、ここ最近まったく姿を見せなかったイルカが不意に現れると、


『そんなに大声出さなくても聞こえてるよ。アーニャちゃん』

「キュリオッ! やっぱり居た……あなた、どうして隠れてたのよ」

『僕はアーニャちゃんといつも一緒にいるよ。それより、周りを見てご覧。みんなが気味悪がってるよ』


 アンナが周囲をぐるりと見渡すと、彼女のことを気の毒そうな目で見ていた通行人たちの顔がぐるりと回転して、みんな明後日の方向を向きながら足早に離れていった。おかしな目で見られていたことに気づいたアンナは、顔が熱くなるのを感じながら、唇をへの字に曲げて、その場からこそこそと遠ざかった。


 彼女はそんな人々の哀れみの視線を掻い潜るように、前がかりになりながら雑踏を駆けた。やがて2ブロックほど離れると、少し開けたラウンドアバウト式の交差点の中央に、何台かの屋台が並んでいるのが見えた。真ん中は芝生の広場になっていて、円を描くようにベンチが並んでいる。ドーナッツの屋台に制服を着たアンナと同じ年頃の少女たちが並んでいて、商品の写真を指差しながらペチャクチャとおしゃべりをしていた。


 アーサーが言っていたが、この国には義務教育というものがあるらしい。アンナはそんな奇妙な集団を横目に見ながら、広場の端っこの人気のないベンチに腰掛けた。その彼女の周辺を、ふわふわと丸い物体が浮かんでいる。


 アンナは、そのボヤケて表情の判別がつかない物体を睨みつけながら言った。


「キュリオ……ここ最近、急に居なくなって……あんた今まで何してたの」

『僕はずっとアーニャちゃんと一緒にいるよ』

「嘘! 聞きたいことがあったのに、ずっと姿をくらましてたじゃない」

『そんなことはない。現に今こうして君の求めに応じて出てきてるじゃないさ』

「それは私が必死になって叫んだから……」

『ここ数日、君は僕を呼ぼうと、声に出して呼び掛けていたかな』


 そう言われて言葉が詰まった……出てきてほしいとは思っていたが、確かに出てこいとは一言も口にしていない。だが、それはいつも呼んでもないのに自分勝手に出て来るイルカに対して、呼びかけるという習慣がなかったからだ。


 それに今まで一度もなかったなんてことは無い。家出した最初の頃は、話し相手が欲しくてよくこっそり呼び掛けていた。アンナは不服だとばかりに抗議したが、


『そうだったかい? 僕はアーニャちゃんといつも一緒に居るけど、眠ってるときもあるから、すぐに出てくるとは限らないさ』


 などと言われてはぐらかされた。なんだかその言い草が当てこすりみたいで不快に思い、いよいよ不信感を強めていたら、イルカはそんな空気を察したのだろうか、


『それにアーニャちゃんは、あんなに嫌っていた剣聖にいつの間にか絆されて、逆に僕のことを疑ってるみたいじゃない』


 ずばり指摘されたアンナは戸惑いながらも、


「それは……あいつのことを全面的に信じたわけじゃない。ただ、今は言うことを聞かないと、魔王に勝てないから」

『どうして? 剣聖は魔王に勝てなかったんだよ? なのに、嫌いな奴の言うことなんて聞く必要ないんじゃない』

「その剣聖に勝てない私が、どうやったら魔王に勝てるっていうの……寧ろ、キュリオはどうして今まで私なら魔王に勝てるなんて強気でいたの? もし、今のままの私が魔王の前に行ったら、きっと何も出来ずに殺されていたはず……だって魔法が通じないんじゃ、私に出来ることは何もないよ」

『アーニャちゃんは剣もやれるじゃないか。それに、魔法が通じないなんてことはないさ。剣聖がそう言ってるだけだろう?』

「何を言ってるの! 私の魔法は、その剣聖に通用しなかったじゃない!」


 アンナの声が大きかったのか、ドーナツ屋台に並んでいた女の子たちがギョッとして振り返る。彼女たちは同い年くらいのアンナがおかしなことをしてるのを見て、意地悪そうな顔をしてクスクスと笑っていた。


 アンナがその不快な視線からそっぽを向くと、イルカはくるくるとその場で回転しながら、


『実はね、僕が協力したら通じるんだよ。彼らが魔法を妨害しても、僕がそれをまた妨害仕返せば無意味だろう? でもそれをしたら、アーニャちゃんが剣聖を殺してしまっただろうから、具合が悪かったんだ』

「嘘っ……ならどうして、今まで魔法の仕組みを教えてくれなかったの。本当にキュリオにそんなことが出来るなら、あなたはマジックキャンセルの方法を知ってるってことになる」

『難しい話だから言わなかっただけだよ。だって、知らなくっても魔法は使えるじゃないか』

「それも嘘。難しくなんてなかった。私は剣聖に本当のことを聞いたら、すぐにそれを会得できたもの……もしキュリオがほんの少し切っ掛けでもくれたら、とっくに同じことが出来ていたはずだ」

『そんな仮定の話をされてもねえ……』


 イルカはまるでため息をつくかのようにその場でぐるぐると回り始めた。


『まいったね。どうやら君はもう僕が何を言っても信じてくれないようだ。それじゃ僕は黙るしかない。これから、君のやることに口出しはしないよ。君は君のやりたいようにやればいい。これで僕と君の関係は解消だ』


 アンナの不信感を感じ取ったのだろうか、イルカは残念そうな素振りを見せつつも、ある意味イルカらしく、あっさりと身を引くと宣言した。アンナはまさかそこまで言ってくるとは思いもしなかったので、慌ててイルカのことを止めた。


「待って! 別にキュリオのことを全面的に疑ってるわけじゃないよ……ただ、納得がいかなくて……」

『僕は君の納得がいく答えだけを持ってるわけじゃないよ。でも君が望む限り、何にでも答えてきたつもりさ。僕は君の味方だからね』

「でも……剣聖は、魔王もあなたのことが見えたって言ってて……」

『勇者病のことだね? 心外だなあ。それならずっと以前にも話したじゃないか。魔王にも僕と同じようなイルカがついている。だけどそいつは悪いイルカだから、僕達で退治しなくちゃってね』

「そ、そっか……」

『勇者病は大勢居ただろう? 僕はそのうちのひとりさ。これで分かったろう? 剣聖は肝心なことは何一つ分かってないくせに、色んなこと言って君を惑わしているだけさ』

「そう……なのかなあ」

『やれやれ……アーサーについていけと言ったのは僕だけど、もしかしたらもう彼らとは別れたほうが良いかもね』

「えっ!? どうして……」

『彼らは君を惑わせるよ。もう魔法の使い方もわかったことだし、放っておいても彼らはリディア奪還に動くさ。だったら最後だけ利用させてもらって、僕らが嫌な思いをしてまで彼らにくっついていく必要はないんじゃないかな』


 アンナはお腹の中に空気よりも軽い気体でも入ってしまったかのように、妙に浮足立っていた。脳みそが酸欠状態みたいに弛緩して、そわそわそわそわして落ち着かない。今更彼らと別れて独りに戻ると考えたら、居てもたっても居られなくなったのだ。


「今……別れるのは嫌だな」

『どうしてだい?』

「……キュリオの言うことは聞くけど、この修業にも意味があると思うから」

『修行するのはいいさ。でも剣聖は魔王に同情的すぎるよ。彼女と一緒にいると、アーニャちゃんは戦えなくなっちゃうかも知れないよ』

「そうかな……」

『魔王のことを知りすぎてはいけないよ。どんな相手にも事情はあるんだからさ。この国の人たちみたいに、それを知ってくよくよ悩んじゃったら始まらないよ』

「それを考慮するのはいけないことなの?」


 イルカは普段通りの口調でそう言いながらも、何かいつもとは感じが違う、苛立った様子で辺りをビュンビュンと高速で跳ね回りながら言った。


『もちろんそうさ。相手がこちらを慮ってくれるとは限らないからね。思い出しなよ。アナスタシアさんは魔王を信じて殺された。彼女は魔王を退治しに行ったわけじゃないんだ。ただ、エルフを操って人類を追い詰めようとする彼を説得しようとしてリディアに行った。それなのに魔王は彼女の言うことも聞かずに、問答無用で彼女を殺した……』


 その言葉はアンナの心に重くのしかかってきた。10年前のあの日……剣聖が逃げ帰ってきた日から、アンナの世界は闇に閉ざされてしまったのだ。それはこの世界の空よりも薄暗く、もう光は見えない……ただあるのは、魔王への復讐心だけだった。


 魔王にも事情はある……今更そう言われても、あの時の気持ちも、母が死んだ事実も、覆すことは出来ないのだ。


「……そうだね。そうだった。忘れちゃいないよ」

『なら良かった。だいぶ迷ってたようだけど、これでもう大丈夫だね』

「でも、剣聖の修行は続けるよ。リディアを目指すには、これが一番はやいと思う。でも、彼女の言うことをすべて受け入れるわけじゃないよ」

『そうかい、なら好きにすればいいさ』


 と、アンナとイルカが二人だけでギスギスした会話を続けていた時だった。


「ほわ~……何が好きなの? イルカさん」


 突然、子供特有の舌っ足らずな声が聞こえてきた。会話に夢中になっていて、辺りに注意を払っていなかったアンナがギョッとして振り返ると、そこにはフリジア防衛線のあの集落に居たときから、ずっと一緒に居る少女リリィが、ポカーンと口を開けながら空中を凝視していた。


 その視線の先では、イルカがくるくるといつものように回っており……イルカは戸惑うようにリリィの視線から逃れようとして動き回っていたのだが、彼女の視線はその動きにピッタリとくっついていき、やがて何か面白いものでも見つけたと言った感じに、


「イルカ! イルカ!」


 と言いながら、空飛ぶイルカのことを捕まえようと、手を伸ばしてぴょんぴょんと飛び跳ねた。


『わっ! わっ! ちょっ! あぶねっ!』


 イルカはそんな彼女の手から逃れようと、必死になってあちこち飛び回っている。リリィはそんなイルカを追いかけて、飛び跳ねながら広場の中央の方へと駆けていった。


 アンナは唖然と見守るしかなかった……イルカは、他人には見えないのではなかったか? 今まで、彼女以外にイルカの存在に気づいたものは居なかった。もしかして、今のイルカは他人にも見えているのだろうか。


 しかしそんなこと確かめようもない彼女が呆然としていると、


「やあ、アンナではないか。こんなところで何をしてるのだ?」


 リリィに続いてアーサーまでもが広場にやってきて、そこにアンナを見つけて話しかけてきた。リリィが居るなら、アーサーが居ても不思議ではない。彼女は戸惑いながら、そのやってきたばかりのアーサーに、リリィの方を指差しながら、


「イ……イルカが……」

「ん?」

「リリィが……イルカが、どうしたって……」

「ん? ああ。なんだかそんなこと言ってるな。あのくらいの年の子供は、俺達とは別の生き物みたいだな。もしかしたら本当に何かが見えてるのかも知れない」


 アーサーはそう言いつつも、そんなことはありえないと言った感じに苦笑しながら肩を竦めた。その様子からして、やはり彼にはイルカが見えていないらしい。ならば、自分から言うことは無いだろうと、アンナはゴクリとつばを飲み込むと、未だにリリィに追い掛け回されてるイルカのことを目で追っていた。


 アーサーはそんな彼女の様子に気づきもせず、


「そこの交差点で広場に貴様が居るのを見かけたのだ。声をかけようと思って近づいたら、リリィが嬉しそうに駆け出してな。貴様はここで何をしてるのだ。他のみんなはどうしたんだ?」

「え……っと、それは……」

「ふむ」


 口ごもるアンナの表情を見て、アーサーはリーゼロッテと喧嘩でもしたのかなと思い、それ以上追求するのはやめておいた。代わりに、広場の端っこにある屋台を指差して、


「食うか? 俺は甘いものには目がないのだ。おい、ちびっ子! 貴様も遊んでないで戻ってこい。ドーナツだぞ、ドーナツ」


 アーサーに言われたリリィは指を咥えながらイルカのことを見上げていたが、結局は甘いものが勝ったらしく、またぴょんこぴょんこ飛び跳ねながら戻ってきた。イルカは解放されてホッとしたように、そのままスーッと姿を消した。話の途中だったが、また呼び出せば出てくるのだろうか……なんだか混乱して頭がうまく回転しない。アンナは黙ってそれを見送った。


 アーサーとリリィが屋台に歩いて行くと、そこに居た制服の少女たちが彼のことに気づいて、キャーキャー黄色い悲鳴をあげた。レムリアに来てから何度も写真を撮られていた彼は、この国で今最も話題の有名人であり、道を歩くだけでこうなった。


 普通なら辟易しそうなものであるが、忘れてはいけないがアーサーは本物の王子様であり、ヴェリアでも案外こんなもんだったらしく、別段気にした素振りも見せずに手慣れた様子で応答していた。アーサーのくせに生意気なといった感じである。


 それを見ていたリリィはそれが面白くなかったらしく、女の子たちがちょっかいをかけてくるのを妨害しようと間に入ったら、今度はそれが可愛いとかなんとか言われて、彼女までもが標的になった。王子様が連れている子供なのだから、きっと彼女らには特別に思えたのだろう。


 前線で泥にまみれてエルフを狩っていた自分とあの女の子たちは、同じ年頃だと言うのにどうしてこうも違ってしまったのだろう。


 そんなこんなで、女の子たちに揉みくちゃにされへとへとになったリリィを抱えて、アーサーはドーナツを持って帰ってきた。騒ぎになったことで、屋台のおじさんがアーサーの事に気づいて相当おまけしてくれたらしく、縦長の箱の中にはドーナツがぎっしりと詰まっていた。


 どれでもよりどりみどりと言った感じの箱を差し出され、アンナはその中のドーナツを適当に一つつまみだすと、どれにしようか未だに迷ってるリリィに箱を預けたアーサーが、ドーナツをパクツキながら、


「ここの屋台が美味いと聞いたんでな、見学ついでに剣聖様に差し入れるつもりで買いに来たら貴様が居たのだ。修行の方はいいのか?」


 もちろん良いわけがないが、アンナは飛び出してきたことを言いたくなくて、代わりに……


「そっちこそ交渉事はどうしたの。今日も大統領を説得するって言ってたじゃない」

「うむ。そうだったんだが……昼飯を食べにホテルに帰ったらリリィが居なくてな。一人で寂しかったから、大統領府の中をうろついてたらしい。みんな忙しくて、誰も相手してくれなかったからなあ……」

「そうだったんだ」

「それで午後の予定をキャンセルして、今日は遊んでやることにしたのだ。それにまあ、毎日同じことを繰り返していても、向こうが考えを変えるとも思えんしなあ。かと言って、アプローチの仕方を変えようにも手がない……」


 アーサーはムシャムシャとドーナツを頬張った。そして未だにどれを食べるか迷ってるリリィの手の箱の中から、適当にもう一個引っこ抜くと、「あっ、それダメっ!」と言う抗議の声を無視して、二個目をパクツキながら、


「……どうしたら良いんだろうな。この国の人たちは、はっきり口にこそ出さないが、みんな魔王のことを尊敬している。それは大陸が違うから、自分たちの脅威にならないとか、そんな理由ではなく、純粋に、彼らは魔王が居なければ、今の自分たちの生活は成り立たなかったって考えているのだ」


 アーサーは食べかけのドーナツを手にしたまま、ボーッとラウンドアバウトを行き交う自動車の列を見つめた。魔王と戦っているエトルリア大陸と、魔王を尊敬するレムリア大陸の、雲泥の差と言っていいほどの開きを見ていると、自信がなくなってくる。


「今日、リオン博士と言うこの国の頭脳と偶然知り合ってな。さっきまで色々とお話を聞かせて貰っていたのだよ。すると、彼が言うには、この国の技術は根本的に、全て魔王が残した理論に基いているらしい。俺達がはるばる海を渡ってきて、魔王を倒すためにどうしても必要だから売ってくださいと言っているあの兵器も、実は魔王が考案したものを博士が再現したものなのだそうだ……そんな兵器を使って魔王と戦うなんて、おかしいじゃないかと言われて、俺は返事に窮した。


 なんて答えれば良かったんだろうな。ロス大統領夫妻やリオン博士と話していると、魔王との戦いに自信がなくなってくる。本当にあれと戦っていいのだろうか。


 船に乗る前、剣聖様にも言われたんだが、リディア人が最後に魔王にした行いは、確かに酷すぎるのだ。彼は知っての通りの魔王だが、その力を誇示したことは無かったそうだ。人間がやれることは、みんなが協力してやればいいと思っていた。しかしエルフの大襲撃という人間では限界なことが起こった時、彼が手を出したらリディア人たちは彼を責めたそうだ。どうして今まで手を抜いていたんだと。今までエルフの被害で死んだ人は、お前が本気を出さなかったせいだと。


 俺達が今、レムリアの人たちにしてることは、それと同じことなのだ。自分たちのことは棚に上げて、おまえたちが戦えばエルフの被害で死ぬ人は少なくなる。だから協力しろと……魔王の末路を見てきた彼らにとって、それは抵抗があるだろう。


 そう考えたら、なんだか分からなくなってきたよ。もしかして、俺は間違っているんじゃないのか……考えても見れば、あれはアンナのお父さんなのだ。レムリアの人たちの言うとおり、そんなに悪い奴じゃないのかも知れない。せめて話し合いが出来れば……」


 そんな具合に愚痴をこぼしていていると、彼は手にしていたドーナツのことをすっかり忘れてしまっていたようで、それがポロッと手から滑り落ちそうになった。


 彼は慌てて前かがみになって地面に落ちる前にキャッチし、冷や汗をかきながら、みっともないところを見せたと苦笑しつつ、アンナの方を振り返ると……


 彼女独特の眉毛だけが困った表情が飛び込んできて、彼はハッとなった。こんな弱音を彼女に聞かせて良いわけがない。アーサーも言った通り、魔王はアンナの父親なのだ……彼は慌てて弁解するように続けたが、


「いや、もちろん、今更揺らいだりしないさ。魔王討伐、ひいてはリディア奪還はもはや俺の悲願、決してぶれるつもりはない。ただ、純粋な悪なんてものは中々居ないのだ。アンナのお祖父さんであるビテュニア侯も、今は正義と思われてる勇者やアナトリアと戦ったのは己の信念があったからだ。誰が悪いというわけでもないのに、人には争わねばならないときがあったのだ。だから、少しくらい考えてしまうことはあるだろう? 戦場に出てしまったらもう引き返せないんだから……」


 アーサーはそこまで早口に喋ってはみたが、結局、焼け石に水だったかな……と、ため息混じりに苦笑しながら謝罪した。


「すまない。こんなこと聞くべきじゃないというのはわかってるんだが……ちょっと弱気になってしまったな」

「分からない……」


 すると、隣でアーサーの愚痴を黙って聞いてたアンナが、ポツリとそんな言葉を漏らした。


「えっ……?」


 愚痴はこれでおしまいだとばかりに、話をまとめようとしていたアーサーは、思わず聞き返した。


 数秒の沈黙が流れる。広場には屋台の客の声、交差点を行き交う車の音、クラクションの音、上空を通過する飛行船のエンジン音と、どこかの店先から聞こえてくるラジオの音……様々な音が溢れていて、自分たちの声以外を全てかき消してしまった。


 だからアンナのつぶやくその声は、囁きみたいに小さかったのに、アーサーの耳に直接飛び込んでくるかのように鮮明に聞こえた。


「魔王が本当に音楽を愛する人ならば、私は彼を憎み切ることが出来ない。本当は、そんなに嫌いじゃないんだ……


 私は、死んだお父さんはずっと旅の音楽家だったって聞かされてたから、いつかお父さんみたいな旅人になりたくて、本当に小さいころからギターを弾いていた……だから、私にとってお父さんの思い出は、みんなギターに詰まってて、お母さんが死んで、いきなり本当の父親は魔王だって聞かされてからも、私にとってはその嘘の音楽家のお父さんの方が、本物のお父さんだった。


 家出して前線で暮らすようになってからも、私にとってお父さんはお母さんが話してくれた音楽家のお父さんだけで、魔王はただ憎むべき敵だった。だから、吟遊詩人って呼ばれるようになった時は、自分がお父さんに近づけたように思えて嬉しかった。


 でもアーサーと出会って、エリックとマイケルが音楽仲間になって……二人が魔王も音楽が好きだったんだよって教えてくれた時、私は……


 どうしようもなく嬉しくなってしまったんだ」


 彼女が目標にしていた父親像と魔王が、その時重なったのだろう。その瞬間、彼女にとって魔王は母の仇からただの記号に変わり、母親が吐いた嘘の父親が現実に現れた。


「私は10年前のあの日死んだんだ。お母さんが死んで魔王が自分の父親だと言われた時、それまでずっと信じていた世界がガラガラと崩れて、何もなくなっちゃった。何を信じて生きて良いのかわからないのに、でもその時自分の周りには縋れるものは何もなかった。だから、お母さんの吐いた嘘のお父さんが、私には唯一の救いだった……


 ある日、自分に魔法の才能があるってわかった時、みんなの見方が変わった。私がエルフを狩ればみんなが喜ぶ。エルフを狩り続けている限りみんなに必要とされる。私は魔王の娘だけれど、魔王を憎んでいると口にしてさえ居れば、みんなが安心してくれるんだ……


 それでいいと思ってた。私は他の生き方を知らなかったから。でも、魔王もリディアで同じような目に遭ってたって知った時、初めて悲しくなったの。本当は、私は生き物を殺すことは好きじゃないんだ。音楽で人に笑っていてもらいたかったんだ。


 私は、エルフを狩る機械じゃない。だけどエルフを狩らなければ、私は私じゃ居られなくなる。私の居場所がなくなってしまう。それはいつ終わるんだろうか。魔王を倒したら終わるんだろうか。私には分からない……


 今は、彼が何を考えているのかが知りたい」


 アンナの両目から、ポロポロと透き通る涙の雫が流れて落ちた。


 アーサーは驚いて、ハンカチを取り出そうとして慌ててポケットの中を探った。しかしその必要は無かった。彼らのやり取りを下の方で聞いていたリリィは、アンナが泣き出すとベンチの上にぴょんと飛び乗って、泣いている彼女の頭にその小さな手を乗せた。


 よしよしと撫でる小さな手のひらで、アンナの前髪がくしゃくしゃになる。


 彼女はリリィの体を抱き寄せると、その体に顔を埋めて声を殺して泣いていた。リリィはそんな彼女の頭をギュッと抱きしめた。


 女が泣いている時の男ほど役に立たないものはない。アーサーはポケットから取り出したばかりのハンカチをそっと元に戻すと、そんなアンナの頭を抱きかかえるリリィの頭をポンポンと叩いた。


***********************************


 広場に居た人たちは、そんな三人の姿を修羅場かな? と勘ぐりながら、横目でチラチラと気にしていた。屋台のおじさんは気の毒そうな顔をして、あとでサービスを持っていってやろうと心に誓った。


 交差点の車列はそんな広場の騒ぎなど知りもしないで、いつも通りスムースに流れていた。ラウンドアバウトの合流点には警官が立っていて、ピッピッと笛を鳴らして車を誘導している。


 そんな交差点の片隅に、一人大きな耳をそばだてて、広場の様子を窺っている影があった。その耳は人間の丸いそれとは違い、猫みたいに尖っては、風を受けてぴょこぴょこと動いていた。


 通行人達がその珍しい耳を見て、目を丸くしながら通り過ぎる。


 リオンはそんな視線から隠すように大きめの帽子を被ると、踵を返して広場から逆の方へと歩いていった。


 本当は、久々にリーゼロッテに会いに行こうと思って、アーサー達を追いかけていたのだ。だが今はもうその必要はないだろうと、彼は来た道を戻ると、大統領の執務室へと向かった。


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