玉葱とクラリオン②
再びホログラフとなって現れた魔王の宣戦布告。
十数年前にも同じようなことがあったそうだが、その不思議な現象と、ショッキングな魔王の言葉に人々が恐怖に打ち震えている最中、エトルリア大陸南東部、フリジア防衛線の全域に渡って、夥しい数のエルフの出現が確認された。
魔王は宣言通り、人類を滅ぼさんと決戦を仕掛けてきたのである。
本当に現れたエルフに対し、前線の兵士たちはショックを受けてはいたものの、いつもどおりに応戦を開始し、間もなくフリジア防衛線のあちこちで魔法戦が始まった。弾幕を張りつつ、次々と現れるエルフを食い止めていた兵士たちは、やがてその数に押され始めて、周辺の部隊へ応援を要請し始めた。
当初、前線を守る部隊の殆どは、戦闘は自分たちの守っている場所に限ったもので、他の陣地はまだ平和であると考えていたようだが、応援要請をしたことで、それは狭い範囲にとどまらないことに気付かされたらしい。
助けを求めた相手に逆に助けを求められた各地の指揮官は、この大攻勢はいつもの規模とは違うと判断、周辺からの応援が期待出来ないと悟ると、今度は後方の司令部へと支援を求めた。ところが、その司令部もまた電話線がパンクするほどあちこちから応援要請を受けていたのである。
ティーバの砦でその知らせを受けたアーサーは、その規模の大きさに言葉を無くし、すっかり放心してしまったが、すぐに呆けている場合ではないと気を引き締め、自分は諸将の集まる会議室へと向かい、従者に剣聖とアンナを呼びに行かせた。
アーサーがようやく作り上げた大陸軍の初陣は、こうして敵からの先制攻撃による、なし崩し的な防衛線になってしまったのである。
「リーゼロッテさん! リーゼロッテさんは居ますか?」
命令されたエリックが彼女が居ると思われるリリィの部屋へ赴くと、リーゼロッテは先の魔王の宣言に中てられたのか、顔面蒼白になりながら彼を出迎えた。彼女は砦中に響き渡っている電話のベルの音を頻りに気にしながら、
「……何百キロにも及ぶ最前線の全てで戦闘? とても信じられませんね」
「俺だって信じたくありませんがマジなんですよ。先生は今度こそ本気で人類を潰しにきたのかも知れません」
「とは言っても、なんの用意もなく、いきなりこれだけ見事な連携を取れるとは思えません……社長は以前からずっと、いつでも人類を滅亡に追いやることが出来たってことですか」
それまでのエルフの襲撃は、気まぐれに森から出てきたエルフが、散発的に前線を脅かすだけで、一度撃退してしまえば暫くは出てこなかった……故に、前線の部隊はどこもかしこもそれを想定して、最低限の人員しか配備されていない。
幸いと言っていいかどうかわからないが、大陸軍の新兵が訓練を兼ねて、各地に散らばっている分、多少人員的に補強はされているのだが……逆に足手まといが増えたと言えるかも知れないので、楽観は出来なかった。
「だから坊っちゃんは剣聖の力を必要としています」
「わかりました。これを食い止めねば、魔王討伐もなにもありませんからね」
そして立ち上がったリーゼロッテに呼応するように、
「余も行こう」
二人の会話を横で聞いていたリリィもが立ち上がったのである。
便宜上、軍の責任者とは言え、非戦闘員であるリリィに無理はさせられないと、慌てて二人が止めようとするが、
「ここで座していても、敵の突破を許したら殺されるだけじゃろうて。だったら、始めからアクロポリスから出てこなければ良かったのじゃ。ここを抜かれたら、どうせ首都までがら空きなのじゃぞ」
リリィの言葉は正鵠を射ていた。この薄い防衛ラインを突破されると、そこから先は人々の生活圏が広がっているだけであり、エルフを食い止める術は何もない。森から出てきたエルフがいかに弱体化しているとは言っても、武装もしていないただの一般市民が勝てるわけもなく、待っているのはただの蹂躙だけだろう。
アンナの教育係として参加をしたリーゼロッテであったが、いきなり最前線に投入されるとは思いもよらなかったが、これも勇者の娘として生まれた性であろうか。もう一人、魔王の娘として生まれたアンナのことを気にしつつ、彼女はリリィを伴って軍議に出席すべく部屋を出た。
とは言え、軍議は殆ど何も話し合われること無く方針は決まった。話し合いなどする余地もなく、前線は最初からジリ貧だったのだ。
前線から司令部に上がってくる応援要請の中身はどれも等しく酷い有様であり、とにかくなんでもいいから補充要員をよこせというものばかりだった。
せめて防衛線が二重、三重にあるならともかく、撤退がありえない状況では、言うとおりにする以外に有効な手立てはないだろう。
そのため、司令部は要請が来る度に大陸軍の中から補充人員を求められるままに送った。そのうち、ビテュニアからアスタクス軍の応援がやってきて、これも同じように薄くなったところから補充要員として前線へ向かわせた。
これは言うまでもなく戦力の逐次投入に過ぎず、普通に考えて悪手でしかなかった。このまま続けていたところで、ジリ貧のこの状況が打開出来るとは思えない。当然、ティーバの司令部もそれが分かっていた。だが他に何か上手い方法があるわけでも、これを続けるしかなかったのである。
皮肉なものである。今まで連携をとることが殆ど無かったエルフが軍隊として行動し始めたら、軍隊として行動していたはずの人間の方が連携を取ることが出来なくなっていたのである。
これは魔王の意図していたところなのだろうか……?
いや、エルフはこうであると決めつけてかかった、人類の甘さであろう。
そして崩壊はフリジアやティーバの司令部から最も遠い、防衛線の最東端で起こった。大陸軍は戦力を逐次投入していたにも関わらず、あとで見返してみたらその補給は近場が優先されていて、遠くに行くほど遅れがちになっていたのである。
最東端の部隊は比較的エルフの数も少なく、人的被害も出さず、優勢に戦いを続けていた。だから目立たなかったのもあるのかもしれない。防衛線の中央で死者が続々と出ている中、最東端の部隊は弾薬の補給を要請していたのだが、それはずっと後回しにされていた。補給部隊としては、弾が切れるよりも人が死ぬほうが大変なのだから、ちょっと待てよといった感覚だったのかも知れない。
だが、もちろんそんなわけはない。弾切れを起こしそうになっていた部隊は、いくら待ってもやってこない補給に苛立ちながら、再三司令部に要請していた。それでもやって来ない補給に、ついに堪えきれず瓦解した。魔王の言い草ではないが、人類はまた人類の足を引っ張っていたのである。
こうして最東端を突破したエルフは防衛線の後方に出たのであるが、この動きに最初、大陸軍は気づいていなかった。これまた司令部から遠いというのが仇となり、報告が遅れたのである。
それにようやく気づいたときには、すでに大量のエルフが防衛線を突破して、一路アクロポリスへ向けて進軍を開始していたのである。
この事態に際し、ティーバの司令部は泡を食いながらも、決断をくださねばならなくなった。
前線は相変わらずジリ貧だ。だが、大都市を脅かされている今、突破したエルフを押し返し、開けられた防衛線の隙間を埋めなければ、人的被害は今の比ではなくなる。アクロポリスやビテュニアは、エルフの猛攻に耐えられるように出来ていないのだ。
そのため、大陸軍は即席の軍勢で決死隊を作ると、ティーバの砦を進発し、エルフが向かおうとしているアクロポリスへ進路を向けた。前線を突破したエルフは数百から千にも上ると言われていたが、数万の軍勢が決死の覚悟でこれを食い止めれば、塹壕陣地を構築する時間くらいは稼げるだろう。
アーサー達大陸軍は、初陣にも関わらず、悲壮な決意で砦を後にしたのである。
ところが、エルフ軍は大陸軍が動いたのを見るや回頭し、あろうことか、今大陸軍が出ていってがら空きになったばかりの、ティーバへと向けて進軍を開始したのである。
アーサーはその知らせをアクロポリスへ向かう進路上で聞いたが、この動きに気づいたところで、数万の軍勢は急には方向転換出来ない。対して、小勢であるエルフは悠々とティーバに到達すると、砦を一撃し、回り込んだ防衛線の背後から塹壕陣地を急襲したのである。
人類はまた一つ間違いを犯したのである。彼らが対峙している相手は『エルフ』ではあったが、単にそれだけではなく、『魔王に指揮されたエルフ』だったのだ。大陸軍の中には、20年前の大戦でアナトリア軍と戦った諸侯もいたのだから、本当なら思い出さねばならなかったのだ。小勢で後方を脅かすふりをしてからの中央突破……これが誰の用兵であるかは明らかだ。
この動きによって、中央の支えを失ったフリジア防衛線北部は壊滅、塹壕陣地を放棄せざるを得なくなった。がら空きになった北部で拠点を失った大陸軍は、それでもエルフのこれ以上の侵入を食い止めるために、塹壕陣地を取り返そうと幾度となくエルフに戦いを挑んだが、その都度、百人単位で犠牲を払う羽目になった。
部隊からは脱走者が相次ぎ、士気は最悪となり、もはや継戦は不可能と判断した司令部は、ビテュニアを囲む落合に面して新たな塹壕陣地を構築しはじめる。その間、エルフは時折偵察でもするかのように、散発的に攻撃を仕掛けてくる以外、不気味なほど静かであったが……なんてことはない、エルフは森から出ると力の大半を失う。彼らは手に入れたフリジア防衛線の上に種を植え付け、それが育つのを待っていたのだ。
こうして、15年の長きに渡って人類を守り続けていたフリジア防衛線は完全にその機能を失った。エトルリア大陸東側の一帯は、徐々に侵食してくる森を食い止める術がなくなったのである。これがアクロポリスに届いた時、何が起きるだろうか。
だが、追い詰められたこの状況の中で、ようやく人類の結束を生み出したようである。
防衛線が突破されたと知った人々の多くは、エルフを恐れて北へ北へと逃げていったが、中には自発的にビテュニアへ来て、エルフと戦おうとする人たちも大勢居たのだ。
塹壕掘りならば女子供でも出来ると、率先して働き始めた人々は、ビテュニアを取り巻く二重三重の塹壕陣地を構築、エルフとの決戦のための要塞を着々と作り始めた。
そしてフリジア防衛線が突破されてから数週間。森が人類圏を侵食してくる前に、大ガラデア川を最終防衛線に、新たな塹壕陣地を構築した人類は、それをアクロポリスまで伸ばそうと、信じがたい忍耐力と結束力で動き始めた。
エルフの撒く種は成長が早いが、流石にそれが育つのにも数週間はかかる。だから、実際に森がビテュニアやアクロポリスに到達するまでには、まだ数ヶ月の猶予はあるはずだ。その前に強力な陣地を構築しようと、人類は大都市圏を中心に躍起になって穴を掘っていた……
しかし、そんな彼らの行為をあざ笑うかのごとく、魔王の次の一手は全く予想外のところへ打たれたのである。いや、本当なら気づかなければならなかったのだ。だが、当てにしていた防衛線が突破され、ビテュニアとアクロポリスという大都市が危険に晒されたことで、みんなそっちの方に集中しすぎていたのだろう。
魔王は人々の予想に反して、大ガラデア川中流コリントスの地にエルフを集中させ、薄い防衛陣地を一点突破して、ガラデア平原への進出を試みたのである。コリントス周辺はすぐ近くに軍事施設のティーバ砦があったり、都市から離れていることもあって人家が少なく、従ってそこを守る守備隊の数も他所より少なかった。
攻撃側が守備側の薄い場所を攻撃するのは当たり前の話だ。魔王はそこを突いてきたのである。
完全に裏をかかれた人類は、即座に援軍を派遣したが、塹壕に拠らぬ野戦では、いくら森から出て弱体化したエルフと言えども歯が立たず、撤退に次ぐ撤退を重ね、被害を広げるばかりであった。
その頃、ティーバ砦を奪われ、拠点をフリジアに移していたアーサー達大陸軍も、エルフを押し返そうと出陣したが、善戦はすれども敢え無く撤退の憂き目に遭う。大陸軍の装備ではエルフに攻撃が届かず、通用するのがアンナとリーゼロッテの二人だけでは、味方が居るだけかえって足手まといという事実を突きつけられただけで終わってしまった。
コリントスで二度目の敗北を喫した人類は散り散りになって逃げたが、エルフ軍はまるで敵の総大将はアーサーであると言わんばかりに、大陸軍だけを追撃した。撤退戦になったアーサーは、殿軍をリーゼロッテに任せてどうにか被害を最小限に食い止めたが、それでも多数の死者を出すことになり、軍の士気はどうしようもなく低下した。
こうして、エルフを押し返すどころか、逆にフリジアまで追い詰められた大陸軍は、フリジアを囲む巨大な城壁を盾に籠城戦を開始。だが、もはや時代遅れになってしまった城壁では、エルフの魔法に抗しきれるわけもなく、瓦礫の山を挟んで大砲と魔法を撃ち合うと言う消耗戦を強いられることになる。
もはや絶体絶命の中で、アーサーは決断をくださねばならなかった。フリジアを捨て、軍をカンディアまで下げる必要があると。だがそれを、ずっと最前線で踏ん張っていたフリジア子爵に言うのは、酷というものであろう。
それでもアーサーは指揮官として、それを言わざるを得なかった。彼は砲弾の飛び交う戦場の片隅で、まるで自殺でもしようとしてるかのように無防備な状態で戦況を見つめていたフリジア子爵を見つけると、自分も危険に身を晒しつつ言った。
「……街を、捨てる……ですか」
すると子爵はすでにそれを覚悟していた様子で、
「……公爵様はそうなさってください。私はここに残ります」
「何をおっしゃる。フリジアの軍だけでは持ちこたえることは不可能ですよ?」
アーサーがそう説得するも、彼は血の気のない真っ白な顔で、
「兵士たちも連れて行ってください。私は……単に、ここで死にたいだけです。私は、この街で生まれ育ちました。今更、他所の土地に行って、帰れるかどうか分からない故郷を思って死ぬのはゴメンですよ」
「そんなわけにはっ……!」
「後生ですから。もう放っておいてくれませんか……思えばこの数十年、ずっと戦争ばかりしていました。最初はあなたの故郷リディアと、次いでかつての主家アスタクスと、そして最後はエルフだなんて……いつもいつも強敵ばかり。どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならなかったんでしょうか。フリジアは……我が故郷は土地柄に恵まれ、南部で最も栄えた大都市でした。商人は羽振りがよくてよくお金を落としてくれて、住む人はみんな優しくて、父の代はずっと平和なところでした。それが私があとを継いだら、あれよあれよとこんな悲劇に見舞われて……私が悪かったんでしょうかね……どうすれば、良かったんでしょうか……わからない……わからないなあ……」
耳をつんざく大砲の音にすら負けずに、フリジア子爵のため息が風に乗ってアーサーの耳に届いた。その何もかもを諦めきった悲しい響きに、アーサーは腹の底から何かがこみ上げてくるのを感じたが、それが口から出てくることは無かった。
子爵のために……いや、人類のためにも、もう少しここで踏ん張れないか? フリジアをどうにかして守ることは出来ないのか……?
しかし、今のアーサーには取れる手段は何も無かった。
アンナとリーゼロッテが居れば、エルフと戦うことはまだ出来るだろう。だが、それを押し返すまでは行かないのだ。結局のところ、彼女らは2人しか居ないのだし、機械じゃないのだから眠らなければ疲労は回復しないのだ。
アーサーは奥歯を噛みしめると、叫び出したいのをグッと堪えて、どうにか目の前にいる初老の男性を元気づけられないかと言葉を探した。
ところが……そんな時だった。
ドオオオォォォーーーンッッッ!!
っと、地響きと共に猛烈な爆発音が辺りに轟いて、アーサーはフラフラとその場に倒れ込んだ。爆音をもろに聞いてしまって、三半規管がおかしくなってしまったらしい。目を白黒させながら、何とか起き上がろうと顔を上げると、目と鼻の先でフリジアの城壁がガラガラと音を立てて崩れていくのが見えた。
もうもうと砂煙が舞う。
エルフの攻撃によって、また壁に穴を空けられたのだろう。瓦礫が地面に落下すると、あっという間に辺りは真っ白い砂煙に閉ざされて何も見えなくなった。
「坊っちゃん!!!」
遠くの方でそれを見ていた従者の声が聞こえてくる。返事をしたくとも口を開ければ砂を吸い込んでしまって、息をするのも絶え絶えである。アーサーはゴホゴホと咳き込みながら、直ぐ側に倒れているであろう子爵を探して、四つん這いのまま手探りで進んだ。
壁に穴が空いたのなら、ここにエルフがやってくる可能性が高い。それまでにさっさと逃げなければ命がないのだが、視界不良で子爵の居場所がさっぱり分からない。
従者の声は相変わらず聞こえている。その声を頼りに方角を定めて先へ進んでいくと、やがて探っていた手に人間の感触が伝わってきた。
フリジア子爵はさっきの爆音で気絶してしまったようである。ぐったりと倒れこんでいる彼の姿を見つけたアーサーは、ホッとしてすぐにその体を担ごうとしたが、弛緩している人体は重すぎてびくともせず、仕方ないからズルズルと引きずるようにして子爵の体を引っ張り始めた。
「坊っちゃんっ! 坊っちゃーーんっ!!」
従者の声が背中に聞こえてくる。瓦礫の向こうからはザワザワと何かが蠢く音がする。焦りながらグイグイと子爵の体を引っ張っていると、更に上空からもブウゥゥゥーーン……っと、何かの振動音が響いてきた。それはなんだか車のエンジンのような気もしたが、空飛ぶ車なんてものは存在しない。それじゃこの音は一体なんだろうと思いながらも、アーサーは必死になって子爵の体を引きずっていった。
そして、ようやく砂煙が晴れたと思ったら、打ち壊されてがら空きになった城壁の隙間から、多数のエルフの姿が見えた。エルフはアーサーの居る方へまっすぐと向かってくる。子爵の重い体を引きずっているアーサーでは、このままだとあっという間に追いつかれる……いや、追いつかれる前にエルフの魔法で殺されてしまうだろう。
このままだとまずい……アーサーはダラダラと汗が吹き出すのを感じながらも、子爵を見捨てることが出来ず、逃げ出したい気持ちを必死にこらえて彼の体を引っ張り続けた。
「坊っちゃんっ!!」
背後からまた従者の声が聞こえてくる。砂埃が晴れたお陰で、ようやくアーサーの位置が確認出来たのだろう。彼らはアーサーを見つけると、ホッとしたような声で主人の名前を呼んだ。
しかし、それがあだとなった。
アーサーのことを呼ぶ従者の声に反応したエルフの一体が、砂煙の中に人間が居ることに気がついた。
そいつはアーサーと目が合うと、周囲のエルフに何かを伝えているかのように、奇妙な叫び声をあげる。
すると、周囲のエルフがそれに呼応したかのように、一斉にアーサーの方へ向き直り……彼を指差し、何やら詠唱を始めたのである。
「やばい……」
やばいのは分かるのだが、体が硬直して動けない。
アーサーは額から流れ落ちる汗が目に入るのを感じていた。
今更、子爵を置いて逃げたところで背中を撃たれるのが落ちだろう。伏せたところであれだけの数のエルフが相手では、生きていられる時間が数秒伸びる程度であろう。それじゃあ、他に何が出来る。完全に手詰まりだ。
「俺は、死ぬのか……」
現実味のないその言葉が脳裏を過ぎる。背後からは相変わらず従者たちが必死になって叫ぶ声が聞こえていた。上空には謎の振動音、周辺は大砲の音が轟いていて、アンナとリーゼロッテの姿を探してもどこにも見えない。
エルフの詠唱に反応して周辺のマナがキラキラと光る。緑色のオーラが立ち上る。一体だけでもただではすまないというのに、そのエルフが数十体も同時に襲い掛かってくるのだ。
もはや絶体絶命……
まさにその時であった……
先程から上空で鳴り続けていたブウウウウーーーンッッ……っという音に混じって、タタタタタタタタンッ! っと小気味よい銃撃音が聞こえてきた。
「……え!?」
フリジアは港町で、周りに高い山など無い。
なのに上空から銃撃音……?
っと彼が疑問に思う間もなく、次の瞬間、突然、目の前の地面に何かがぶつかり、バシュッ! バシュッ! っと音を立ててむき出しの地面が抉れていく。それは次々と地面に突き刺さり土を跳ね上げて、やがてエルフにまで届いたかと思ったら……
パンッ!
っと、まるで風船でも割れるかのように、エルフの体が弾け飛んだ。
パンッ! パンッ!
っと、絵の具でもぶちまけたような真っ青な血しぶきが辺り一面に飛び散った。
アーサーは驚くと同時に、咄嗟にその場に伏せると、目の前で次々とはじけ飛ぶエルフの姿を呆然と眺めていた。
一体何が起きたのか?
いよいよ、上空ではブウウーーンという機械音が無視できないほど大きくなっている。大砲の音をかき消すほどの音を立てて、上空に何かが近づいてくる。地面に伏せているアーサーは、エルフの方が気になってそれを確かめることが出来ない。
恐怖で気が遠くなりそうな数瞬が過ぎ……
すると、次の瞬間、彼の視界にさっと影が差したかと思ったら、巨大なトンビみたいな翼を広げた何かが、上空を悠々と飛び越えていったのである。
「な……なんだあれは!?」
それはフリジアの上空を通過すると、エルフの集団を飛び越えた辺りでぐるりと旋回し、また舞い戻ってきては、タタタタタタタンッ! っと先程のように銃撃を発した。その巨大な翼を持つ胴体の部分がキラリと光ったと思うと、よく見ればそこに人が乗っているのが見えた。
すると、あれは人間が乗って操縦している機械なのか?
唖然とするアーサーがその機械に目を奪われていると、更に海上の方からブウウゥーンっと複数のエンジン音が聞こえてきた。
それはエトルリア人たちが初めて見る飛行機だった。
巨大な主翼に小型の胴体と二足のフロートを持ち、プロペラ推進で上空1000メートルほどを編隊飛行する複数の水上機は、先行した最初の機体と空中ですれ違うと、同じようにエルフの軍勢に向けて一斉掃射した。
飛行機が持つ速度に上空からの重力を加えて、機関銃から一斉に撃ち出された弾丸は、エルフの防御魔法をも貫通して、その醜い体を一撃粉砕した。
先程までの追い詰められていた状況が一変して、突然現れた飛行機による一方的な攻撃が始まると、アーサー達大陸軍はただただ圧倒されて呆然と立ち尽くすより他なかった。しかもこんなのはまだ序の口あり、本命は海の上に居たのである。
ボオオオオォォォォーーーーーッ……
口をあんぐりと開けながら、上空を自由に飛び回る飛行機を眺めていたアーサーの耳に、今度は海の方から汽笛が鳴り響いてくる。
ハッとして我に返った彼が海の方へ視線を向けると、先程まで何もいなかったはずの沖合に、巨大な砲塔を持った数十隻からなる艦隊が見えた。
小型大型と多数の船がひしめきあう中で、全ての船の砲塔がぐるりと回転し陸上のエルフを捉える。そして一斉砲撃が始まると、ドンッ! ドンッ! っと大きな音を立てて着弾する度に、地震のように地面を揺らしては、エルフを確実に殺害していった。
「な……なんじゃこりゃあ……」
堪らず後退を開始するエルフの軍勢。
それを更に追い立てるように、上空の飛行機が機銃掃射を続けている。
艦隊からも容赦なく艦砲射撃が浴びせられて、そしてエルフの軍勢はまるで蜘蛛の子を散らすかのように散り散りに逃げ出した。
その時、乱暴に肩を叩かれてアーサーは我に返った。見れば彼の従者が血相を変えて艦隊を指差しながら何かを言っている。
なんだろう? と耳をふさいでいた指を引き抜くと、エリックが双眼鏡を差し出しながら、
「坊っちゃん! あの中央の艦を見てください!」
「中央……どの艦だ?」
「あの一際大きなやつですよ、指揮官旗がついてる!!」
アーサーは双眼鏡を引ったくると、言われたとおりに中央を見てみた。
中央の艦はその艦隊の旗艦らしく、物見櫓みたいに高い艦橋の上に、風を受けてひるがえる指揮官旗と共によく見慣れた……いや、今となってはあまりお目にかかれない、アーサーにとっては特別な意味を持つ旗が棚引いていた。
アーサーはゴクリとつばを飲み込んだ。
エリックとマイケルが信じられないといった感じで叫んだ。
「玉葱とクラリオン! アナトリア帝国艦隊ですっ!!」
その言葉が大陸軍の兵士たちの耳に届くと、みんな飛び上がって口々にその名を叫んだ。かつてこの海で最強を誇った、世界唯一の外洋航海能力を有した艦隊。それは帝国が崩壊すると共に無くなってしまったはずだったが……
その艦隊が、何故か今、イオニア海に浮かんでいるのである。
大陸軍の兵士たちが湧き上がる中で、アーサーはその言葉の意味を噛み締めながら、呆然と立ち尽くしていた。アナトリア帝国艦隊……エルフを追い払ってくれたことからして、それは味方であるのは間違いない。だが、その正体は実際のところ、まだ謎に包まれていたのである。