表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第九章
334/398

これが魔王のやってることなのさ

 アクロポリスの古式ゆかしい町並みを、ライフルをかついだ軍服が騒然と走り回っていた。彼らは街の家々の路地や屋根の上を見上げながら、血眼になって何かを探している。そんな中、1階よりも上の階に行くほど広さが増すという、独特なフォルムをした木造建築の屋根から屋根を、黒い影が駆け抜けていった。それは本当に一瞬に過ぎなかったが、屋根の上ばかりを見上げていた軍服の一人がそれに気づいた。


「いたぞっ! あそこだっ!」


 一人が叫ぶと、周囲からわらわらと同じ格好をした兵隊たちが集まってきた。屋根の上に隠れていたアンナは、彼らの視線を掻い潜るように身を低くしながら、次の屋根へと飛びうつる。それを見て、また別の誰かが叫ぶと、我先にと兵隊たちが押し寄せてきた。まるで砂糖に群がるアリみたいだ。


 本当にしつこい連中だ……アンナは苛立たしげに舌打ちした。


 アクロポリスの城門で子供に暴力を振るった親衛隊を蹴散らした彼女は、それからずっと彼らに追われていた。どう考えても悪いのはあっちの方なのに、どうして自分が追いかけられなければならないのか。今までだったらこんな理不尽な連中はさっさと畳んでしまうか、始めから相手にしないで街から出ていくところだったが、アーサーたちがここに滞在している以上、自分勝手な行動が出来なくなった。


 思えば一人の時のほうが、ずっと気楽だったが、今更後戻りも出来ない。アンナの目的は母の仇である魔王を倒すことであるが、そのためには彼らの協力が必要なのだ。


 もちろん、今までだって、なんとか一人で魔王を倒せないかと考えたことはあった。


 でもそうしなかったのは、彼女が必要以上に自分のことを過大評価していなかった点もあったが、最も大きな理由は、物理的な問題を考慮してのことだった。単純に移動手段や食料の調達、敵地での寝床の確保など、リディアに渡っても一日で決着がつくとは限らないのだ。なら彼女がどんなに強くても、どうしても人の手を借りなければならない場面は出てくるだろう。


 彼女は意外と現実的に物事を考える方なのだ。


 絶対に失敗できない時、人は臆病になるというが、より正確に言えばそれは現実的になるということではなかろうか。その証拠にアーサーだって、魔王討伐軍の結成が進むに連れて、どんどん現実的になっていった。同じように彼女も小さい頃から魔王を倒すことを考え続けた末に、こういう性格になっていったのだ。


 だから、アーサーが剣聖をスカウトしたいと言い出した時、彼女は渋りはしたが最終的には受け入れた。そのほうが現実的だからだ。いくら気に食わない相手だとは言っても、剣聖の能力が抜きん出ていることには変わりない、利用できるなら利用した方が良いのは誰だってわかるだろう。


 ただ、そうするとちょっとした不都合が起きる可能性があった。アーサーたちと剣聖が接触を果たしたら、アンナの吐いた嘘がバレるかも知れないのだ。


 アンナが持つ聖遺物は、実は剣聖から譲り受けた物ではない。本当はもっと別の方法を使って手に入れたのだが……それを口にするのは憚られた。


 古都の町並みの屋根から屋根を駆け抜けて、彼女は徐々に人気のない場所へと移動していった。先程から、いつまでたっても親衛隊を振り切れないと思っていたが、どうやらそれにはカラクリがあるようだった。


 彼女は別に透明人間ではないのだから、全ての視線から逃れることは不可能である。だから彼らから逃げ続けている最中に、何度か市民に見られていることには気づいていた。市民たちは一様に彼女に不信の目を向けてきたが……どうやら彼らが親衛隊に密告していたようなのだ。恐らく、親衛隊から協力するように要請されているのではなかろうか。


 一度や二度なら泥棒かなにかと勘違いされていた可能性は否定できないが、こうも立て続けに親衛隊に追いつかれているところを見ると、間違いないだろう。ただメンツだけの理由で、ここまでする親衛隊も気持ち悪かったが、あんな横柄な連中に唯々諾々と従ってる市民たちも嫌な感じだった。


 彼らは多分、アンナが親衛隊に追われてる理由を知らないのだろう、もし知っていたら協力するわけがないのだから。なのに通報するのは、親衛隊に逆らわないことの方がよっぽど大事だということだろう。こんな理不尽な密告社会、息が詰まらないのだろうか。


 ともあれ、彼女はそんなわけで、親衛隊だけではなく、あらゆる市民たちの目からも逃げねばならなくなった。屋根伝いを逃げていると市民に見つかり、一般人のふりをして道を歩けば親衛隊に見つかる。自然と人が少ない方へ少ない方へと向かっていったら、最終的に彼女は世界樹にたどり着いた。


 この国の象徴であリ、人類にとって重要な遺跡である世界樹は、簡単に人が近づけないようにその周囲を大聖堂で囲まれていた。観光客はその大聖堂までしか入れないようになっているわけだが、今はこの街が閉鎖的になったせいで、その観光客も居なくなり、殆ど人気がなくなっていた。


「……これくらいなら、なんとかなるかな」


 物陰から大聖堂の様子を窺っていたアンナは、時折僧侶が通りかかるのが見えるくらいで人が居ないことを確認すると、おもむろに自分の右のこめかみへ指をやって、じっと集中するように目をつぶり……


「オープンメニュー……レーダー起動」


 そうつぶやくと、薄っすらと彼女の視界にかぶさるように、魚群探知機のようなレーダー画面が映し出された。レーダーには赤い光点がいくつか点滅しており、それがゆっくり動いているところを見れば、その一つ一つが人間の生体反応であるとわかるだろう。


 それ以上くどい説明は不要であろう。彼女は目に見えない場所にいる人間の動向が手に取るように分かるのだ。それは彼女自身は知らないことだったが、父親から受け継いだ才能だった。


 アンナはそんな自分にしか見えないレーダーの反応を頼りに、聖堂の中をこっそりと移動した。僧侶の目をかいくぐり、聖堂を通り抜け、中庭のようになった広場の中心にある世界樹の根っこまで歩いてくる。


 全高百メートルを超える世界樹の幹はとても太くて、大人が何十人も手を繋いでようやく囲めるくらいのものだった。地面から突き出る根っこもアンナの頭の高さくらいまであり、その影に隠れてしまえば、もう周りから発見されることもないだろう。


 彼女がそう思って世界樹の根本に腰を下ろすと……


『アーニャちゃん、遺跡に入りたいならARモードを起動してご覧よ』


 突如、そんな声が聞こえて、彼女は一瞬誰かに見つかったのかと思いドキッとした。しかし、すぐにそれは彼女の脳内に直接響いてくる、誰にも聞こえない声であることに気づき、


「キュリオ! ……もう、びっくりさせないで。急に声をかけるんだもん。あなたはいつもそう。もう少しなんとかならないの」

『早くARモードを起動してご覧よ』

「そして相変わらず人の話を聞かないし……やれやれ」


 アンナは肩をすくめると、今度は左のこめかみに手をやって目をつぶり、眉根に皺を寄せて集中した。すると今度は彼女の視界にかぶさるように、薄っすらと色んな文字列が見えてきた。


 それは、あらゆるものにタグ付けされたメッセージで、彼女が意識して物をみると、それがどんなものなのかを説明してくれるようになっている。具体的には人間ならば、身長体重、特技や年齢、何故かスリーサイズなんかもだ。


 彼女がそうしてキョロキョロ辺りを見回してみると、世界樹の根っこで光る扉のような物が見えた。説明文ではなく、物の形が見えるのは珍しく、近づいてもっとよく見てみれば、その扉の横に手形のようなマークが見えている。


 彼女がなんだろう? と思ってその手形に触れると……


 ブーン……っと機械音が鳴って、目の前の光の扉が左右に開いた。驚いて中を覗き見れば、そこは金属質の床や天井で囲まれた空間が広がっており、その中央に床から突き出すような台座が見えた。


 感嘆のため息を吐きながら、彼女がその中に足を踏み入れると、背後の扉が勝手に閉まり、部屋全体が自然光のような柔らかい光で包まれた。


「驚いた……世界樹の中ってこんなことになってたんだ」


 アンナは感心しながら部屋の中央へ歩いていくと、そこにあった台座に手を置いた。ひんやりとしたその台座は、15年前までは触れる人の魔法の素質を測り、素質があれば聖遺物(デバイス)を与えると言う工場のような施設の一部だったが、今はその機能が失われて何も起こらなかった。


 そうとは知らぬアンナが、これはなんだろう? と思いつつ、台座の上によじ登り、ぐるりと部屋の中を眺めていると、


『アーニャちゃん。部屋の左右にまだ奥に行く扉があるよ』


 頭のなかでまた声が聞こえた。言われた通りに部屋の左右を見てみると、入り口の時と同じように光で縁取りされたような扉が薄っすらと見えた。彼女がそれを確認したタイミングで、脳内の声が続けた。


『右は工場区画で、今は機能してないね。左は居住区画とメイン端末があるよ』

「居住区画……? 誰かが住んでるの?」

『大昔の話さ』


 彼女が左の扉をくぐると、入り口の部屋よりは光も収まり、落ち着いて薄暗い廊下が見えた。驚くのはその廊下の床も壁も天井も、金属で出来ているようなのにその継ぎ目がまったく見当たらないことである。それなのに緩やかな曲線を描く廊下は歪みがなく、これを作った古代人の技術の高さを感じさせた。


 アンナは何度目かの感嘆のため息を漏らしながら目の前にあった部屋の扉を開けると、中は確かに居住区画と言っても良いような、備え付けのベッドとデスクがついた、こじんまりとしたスペースになっていた。ただ、人が居なくなって相当の年月が経っているからか、あまりに無機質で、そうだと言われなければ恐らく気づけなかっただろう。


『最初の入り口から右に行くと行き止まり。メイン区画に行くなら左だよ』


 そんな所有者を失って久しい部屋を後にして、彼女はイルカに言われるがままに廊下を左へ向かって歩き始めた。


 世界樹はとても大きい木だったが、流石にそれでもこの施設がすっぽりと収まるほどじゃなかったから、恐らくここは地面の下に埋もれているのだろう。サリエラが言うには、魔王はこの遺跡を壊して回っているそうだが、


「ねえ、キュリオ。どうして魔王はそんなことをしてるわけ? もし、魔王にとって都合が悪いものがあるのなら、ここを守っていれば、こちらからわざわざ出向いていかなくってもいいんじゃないの」


 アンナが疑問を呈するも、イルカは沈黙を保っていた。


「はぁ~……都合が悪くなると急に喋らなくなるよね。本当に、あんたのことを信じててもいいのかな」


 彼女が唇を尖らせてそんなことを口走ると、イルカは慌てた風に、


『僕はアーニャちゃんの味方さ。あくまでサポートキャラだから、直接手助けは出来ないけど。君が聖遺物を使えるのは僕のお陰だろう?』

「サポートキャラねえ……殆ど見えないけど」


 アンナにはレーダーマップも鑑定魔法も薄ぼんやりとしか見えておらず、同じくこの声の主もそうだった。そこに何か居ると言うのは分かるのだが、はっきり何かはわからない。イルカと言うのも自己申告である。


 実はアンナに聖遺物を授けたのは、剣聖ではなく、このイルカだった。


 ある日突然、彼女の脳内に声が聞こえてきて、それは彼女に聖遺物を与え、魔法の使い方を教えてくれた。もし、これがなければ彼女は方伯の追っ手に掴まってビテュニアに戻されていたか、もしくは前線で野垂れ死んでいただろう。


 思い返すのも嫌になる。魔王はおまえの父親だと言われたあの日から、彼女の日常は狂っていった。


 アンナの父はアスタクス方伯が市井の女に産ませた子供だと言われていた。音楽家としてキャラバンに雇われ、各地で演奏していた彼は、やがてリディアで母と出会い、恋に落ちた。


 アンナはそうして生まれたが、父が若くしてなくなってしまい、母はシングルマザーになる。それを見かねた方伯が母のことを呼び寄せ、アンナはお城でお姫様として育てられた……だが、お城で一緒に暮らしている、沢山いるはずの従兄弟や伯父さん伯母さんは、いつも彼女のことを遠巻きに見て近寄ってこようとはしなかった。


 それもそのはず、魔王討伐軍に参加した母が殺され、信頼していた剣聖に裏切られ、大好きな祖父と血の繋がりもないと知り、彼女の世界は一変してしまった。


 あの遠巻きに彼女のことを見ていた伯父や伯母は、魔王の娘であるアンナのことを迷惑に思っていたのだ。従兄弟たちが近づいてこなかったのは、彼らがアンナにちょっかいを出さないように、母が守ってくれていたからだ。母が死んで以来、幼い彼女は方伯の孫やひ孫たちに疎まれて、イジメを受けていた。


 でもアンナにはイジメられるだけの理由がある。彼女は魔王の娘、その魔王はエルフをけしかけ大勢の無辜の人々を殺しているのだ。どうしてそんなおまえが生きているのだと言われると、アンナには返す言葉がなかった。そんなことも知らずにお城でお姫様みたいな暮らしをしていたなんて許せないと言われると、苦しくて死にたくなった。


 でももう彼女の苦しみをわかってくれる母は居ない。祖父も、ずっと彼女にばかり構ってくれるわけにはいかない。


 気がつけば、彼女はあの大きな城の中で、血のつながる肉親が一人も居らず、孤立無援だったのだ。


 それはつらい日々だった。


 イジメられ続けた彼女はどんどん無口になっていった。誰とも会いたくないと言って、部屋にこもりがちになった彼女に対し、方伯はそれをアンナが実の父親のことを知ったショックだと思っていたが、本当は城の連中のイジメや嫌がらせが原因だったのだ。しかし、彼女は本当の理由を口にすることはなかった。何故ってそんな卑怯な真似なんて、出来ないではないか。


 従兄弟たちは、おまえの父親のせいで大勢の人が死んだのに、どうしておまえは生きているのかと言った。伯父や伯母たちは、汚らわしい彼女に早く出ていって欲しいと罵るが、まったくもってその通りだった。アンナさえ居なければ、みんな平和に暮らしていけるのだ。ここではアンナのほうが異物なのだ。


 しかし、出て行きたくても頼れる親戚縁者も居ない。何より、彼女はまだ若すぎた。生まれてまだ10年もたっていない子供では、外でどうやって一人で生きていけばいいのか、想像すら出来なかった。


 だからアンナは、城から出ることが出来ず、いじめに耐えながら、せめて人目につかない場所にいようと、迷惑がかからないところにいようと、いつからか誰もいない隅っこの方で息を潜めて暮らすようになっていった。


 イルカの声が聞こえるようになったのは、そんな時だった。


 ある日、彼女にだけ聞こえる声が、脳内に響くように聞こえてきた。いつも一人でいる彼女の周りには誰もいない。だから最初は自分のストレスが作る幻聴かとも思った。しかし、その声が次第に大きくなっていくに連れ、彼女はそれを無視できなくなっていった。


 そして彼女は尋ねた。あなたは誰? と。イルカはキュリオと名乗り、彼女にとある契約を持ちかけた。


『僕と契約して魔法少女になってよ』


 もし、その願いを聞いてくれるなら、イルカは彼女に力を授けてくれるという。はっきりいって半信半疑ではあったが、何の力も持たない彼女に失うものは何もない。彼女はイルカのお願いを承諾すると……


「クリエイトアイテム!」


 彼に言われるままにその言葉を口にした。


 すると次の瞬間、彼女の目の前にまばゆい光の粒が現れた。眩しくて咄嗟に手を翳すも、それはどんどん大きくなり、彼女は結局耐えきれなくなって目をつぶった。それからどのくらいそうしていただろうか。さっきまで目を瞑っていても明るかったのが、暫くすると消えた気配がして、恐る恐る目を開けたら、彼女の手に一本の剣が握られていた。


 その明かりもないのに光を集めて純白に輝く刀身を握ると、彼女は大昔からそれを持っていたような感じがして、その瞬間にその聖遺物の能力の全てを知った。


 そしてイルカは彼女にレーダーマップを駆使して人目を避ける術を教え……魔法の効果的な使い方と剣の使い方、戦い方を教えた。城から抜け出す方法を教え、当面の路銀を稼ぐ方法を教えた。そして前線に到着すると、エルフを殺す術を教えた……そして、


『これが魔王のやってることなのさ』


 イルカによって育てられた彼女は、ある日彼からそう言われた。どういうことかと尋ねれば、魔王にも自分と同じようなイルカがついていて、魔法を授けたり、他人には出来ない未来の技術を教えたりしてサポートしていたらしい。


 本当かどうかはわからないが、


『イルカにも良いイルカと悪いイルカが居てね、彼は悪いイルカに操られておかしくなっちゃった。実は、魔王の正体は、悪いイルカだったんだよ!』


 キュリオが言うには、魔王はとっくに死んでいて、悪いイルカは彼の死体を利用して、今のこの状況を生み出しているのだと言う。悪いイルカは自分のことが見えないのを良いことに、魔王が人類に復讐しているというふりをして、人類を滅亡させるべく動き出した。悪いイルカはエルフがこの地上の支配者になることを望んでいるのだ。


『アーニャちゃんのお父さん、魔王が人々を苦しめてるのは、彼の本意じゃないんだ。僕は同じイルカとして許せない。だから、あの悪いイルカを退治するために協力して欲しいんだ』


 そして彼女はそれを受け入れた。不名誉な父の汚名をすすぐため、母を殺した憎きイルカを懲らしめるために、彼女は魔王城を目指していたのである。


 だが、実のことを言えば、このイルカは本当のことを話してはいなかった。例えば先程アンナ自身が疑問に思った、魔王が世界樹を壊して回っていること……世界樹を壊してしまえばマナの供給が途絶えて、エルフを地上の支配者にするという悪いイルカの目的と矛盾する。


 それに魔王が本当にその気であるなら、エルフを率いて人類の生活圏に攻め込んでくればいいだけなのだ。ところが、彼は未だにそうしていない。


 そして、かつて勇者病という病が、この大陸で流行していた事実もまた、イルカは彼女に聞かせていなかった。


『不完全でもアーニャちゃんに僕が見えて良かったよ。イルカを見れる能力を持つ人は、今は中々居ないからね』

「殆どぼんやりとしか見えないけど」

『声が聞えるならいいさ』


 彼女にはイルカの姿は殆ど見えてない。もし、その姿がはっきりと見えていたら、果たして彼女はこのイルカのことを今みたいに信用していただろうか。


 いや、それでも彼女は信用していたことだろう。そのほうが彼女にとって都合が良かったし、何よりイルカは彼女にとって恩人だったから。


 イルカがほくそ笑むと、そのびっしりと隙間なく並んだギザギザの歯が邪悪に光った。だが彼女には、それがただイルカが優しく笑っているようにしか見えなかった。


 世界樹の居住区画の廊下を進んでいくと、やがて突き当たりに観音開きの扉が見えた。とても重そうに見えるそれは、彼女が軽く触れるだけで、スーッと音もなく左右に開いていった。


 扉の中は他の部屋とは比べ物にならないくらい大きな部屋で、右の方にはずらりと何かのカプセルみたいな物が並び、中央に巨大な水槽みたいなポッドが見えた。しかし、その中身は空っぽである。そして部屋の奥には巨大なスクリーンとモノリスみたいな端末が並んでいたのだが、彼女にはそれが何するものかはわからなかった。


 アンナは部屋の中に足を踏み入れると、何も入ってない中央のポッドに背中を預けてズルズルとしゃがみ込み、


「なんだか疲れちゃった。アーサー達の用事が済むまでここにいてもいいかな」

『いいんじゃないかな。聖遺物のことを聞かれたら、ここで手に入れたって言えばいいよ。元々、ここはそういうことをする施設だったからね』

「ふ~ん……やっぱり、本当のことを話しちゃいけないの?」

『魔王にもイルカがついてたのさ。だから、彼らは僕のことを信用してくれないだろう。人は見えないものを信じてはくれない、黙っていたほうが賢明さ』

「そういうものかな」

『君をあの監獄みたいな城から連れ出してあげたのは誰だい。戦い方を教えてあげたのも。君に害を及ぼすつもりなら、そんなことしないはずだろう。だから信じておくれよ』

「もちろん、信じてるけど……」

「そこに誰かおるのかの~……?」


 するとそんな時だった。誰も居ないはずの遺跡の中に人の声がこだました。


 アンナはドキッとして身をすくめる。イルカはだんまりを決め込んだ。


 コッツコッ、コッツコッ……っと複数人にも思えるような、なんだか奇妙な足音が徐々に近づいてくる。それがなんだか不気味に思え、アンナが警戒して剣を抜こうとすると……


「そこにおるのは、誰じゃ? リズか? 余はこの中では感覚がおかしくなるのじゃ……ほれ、誰かおるのなら教えておくれ」

「お母さん……いえ、リリィ様」


 やってきた人の姿が、記憶の中にある母と被って、アンナは思わず息を呑んだ。だがすぐにそれが誰か分かると、落胆すると同時にすごく興味が沸き立ってそわそわしてきた。


 この人はどうしてこんなに母とそっくりなんだろう? アンナは自然と自分の声が上ずるのを感じていた。


「ん? これは驚いた……その声は、アンナであるな?」


 リリィは声に気づくと、眉毛をピンと吊り上げて驚いたような顔を見せた。そして、いつも腰にぶら下げていた剣の鞘を杖代わりにして、声のした方に歩いてきた。先程、複数人に聞こえた音の正体はこれだったようだ。


 リリィはまるで見えているかのように、アンナの目の前でぴたりと止まると、手を伸ばしてアンナを触ろうとした。彼女がその手を誘導して顔に導いてあげると、リリィは城門でやったときのように、さわさわと彼女の顔を触りながら、


「おお、やはりアンナであったか。そなた、誰の力も借りずに、ここまで入ってこれたのか」

「うん……勝手に入っちゃってごめんなさい」

「構わぬよ、そもそも、勝手に入れるような場所ではないでな……ところで、そなた。先程誰と話しておった?」


 リリィは当たり前のようにつぶやいた。アンナの心臓が、どきりと早鐘を打つ。


「余は目が見えぬが、耳はよく聞こえる方じゃ。さっきから、誰かと話してるように聞こえたが……」

「居ないよ、誰も。独り言だよ」


 アンナが早口でそう言うと、リリィは小首を傾げながら、少し残念そうな顔をして、


「そう……か。そうじゃのう。そなたの声以外には何も聞こえなかった。もしかしてと思ったのじゃが……」


 怪訝そうにそういうリリィの様子を、アンナはドキドキしながら見守った。イルカのことがバレたのかと思ったが、その様子を見ているとどうも少し感じが違うようだった。


 リリィはアンナの顔から手を話すと、彼女のすぐ背後にあった水槽のようなポッドに手をついた。


「やはり、誰もおらなんだか」


 彼女はそうつぶやいてから、アンナの肩越しに、まるでそれが見えているかのように真っ直ぐ顔を上げた。


 その彼女の見上げる先、ポッドの中には、誰も入っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
玉葱とクラリオン・第二巻
玉葱とクラリオン第二巻、発売中。よろしければ是非!
― 新着の感想 ―
[一言] 『僕と契約して魔法少女になってよ』 ぶっ込んでくるなあw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ