剣聖と謳われた者
但馬を殺されて気が触れたかのように人が変わってしまったブリジット。その彼女を正気に戻すべく、各地を巡ったリーゼロッテであったが、剣聖と謳われた彼女であってもたった一人でリディアに上陸することはかなわず、そこで手詰まりになっていた。
彼女はエルフと互角の勝負をすることが出来たが、それはあくまで一対一での話であった。今のように複数体で現れるエルフ相手ではどうしようもなく、なおかつ、リディアはフリジアの防衛線とは比べ物にならない数のエルフが棲息していたのだ。これでは八方塞がりだ。
ところがそんな10年前のこと。フリジア戦線でエルフに手を焼いていたアスタクス方伯が、全てに決着をつけるべく、全世界に向けて魔王討伐を訴える檄文を飛ばした。彼のその呼び掛けは残念ながら不発に終わったが、孤軍奮闘していたリーゼロッテにとっては願ってもない話であり、彼女はそれに応えるべくビテュニアへと向かった。
方伯に謁見した彼女は、帝国最後の日、リディアで起きていた出来事を包み隠さず話した。彼はそんなリーゼロッテの報告に疑問を呈した。
魔王の正体が皇帝ブリジットであると言うのなら、あのホログラフのような技術を使って宣戦布告したのは何だったのか。自分は身を隠しておいて、但馬を悪者にするなんて、あの皇帝の性格からは考え難い。何かの間違いではないかと、方伯は首をひねった。
言われてみると確かにおかしい。リーゼロッテもその点は疑問に思っていた。しかし、彼女があの日、目撃したことは、それが全てであったのだ。自分の目さえ信じられないなら、何を真実と言えようか。
何度思い返しても悔しくて胸が張り裂けそうになるのだ。但馬はあの時、確かに死んでいた……討伐軍に参加した元近衛兵の中にも目撃者が多数おり、彼女の主張を裏付けているのだ。
結局、これ以上は行って確かめてみるしかないだろう。魔王の正体が但馬にしろ、ブリジットであるにしろ、どちらにしてもやることは違わないのだ。
そしてビテュニアには、そのための切り札が暮らしていた。アナスタシアと再会したリーゼロッテは彼女に魔王討伐軍への参加を要請する。
娘がまだ幼いからと難色を示す彼女に対し、その娘アンナに母親のことを絶対守るからと約束した彼女は、義理の父である方伯にも説得してもらい、強引にアナスタシアの承諾を得ることに成功する。
ここまで強引に彼女の参加を引き出したのは、リーゼロッテが絶対に失敗したくないと考えていたこともそうであるが、魔王の正体が誰であるにしても、アナスタシアのことを傷つけるとは思っていなかったからだ。
実際、コルフに現れたブリジットはアナスタシアの制止を受け入れ、サリエラ殺害を見送ったそうだし、但馬なら彼女のことを傷つけるはずがない。魔王討伐軍という呼称も、便宜上そう呼んでいるだけで、アナスタシアと自分が行けば、きっと話し合いで解決が可能だろう……
この時の彼女は、そう思っていた。
フリジアに集結した魔王討伐軍は千人にも満たない寂しいものであった。その代わりに、剣聖エリザベス・シャーロットを含めた精鋭ぞろいで、魔法使いの数も多く、量を質で補うそんな性質の軍隊になっていた。
尤も、この軍隊の目的はアナスタシアが参加した時点で、リディアを奪還することから、魔王のもとへ彼女を届けることに変わっていた。当初は上陸地点に橋頭堡を築き、それをじわじわと広げて行くという、長期戦を想定していたのだが、人数が揃わず計画は頓挫し、改めて作戦を練り直すと、これくらいしか方法が無かったのだ。
アナスタシアを送り届けるのはもちろんリーゼロッテの役目であり、彼女はそれに協力してくれる精鋭部隊の人選を、少ない参加者の中から苦労して行っていた。
そんな中、彼女はティレニア軍の残党を率いたトーと再会した。
リディア最後の日、但馬と行動を共にしていた彼は、人づてに聞いた報告から死んだと伝えられていたため、リーゼロッテはとても驚いた。だが、死んでいるよりも生きていたほうが良いに決まっているので、命だけは助かったのだという彼の言葉を、彼女は殆ど疑問に思うこと無く受け入れ再会を喜んだ。
また、トーはティレニアに残った亜人と協力して、エルフだらけのリディアを探っていたと言い、現在のローデポリス市街の状況を写真つきで報告してくれ、彼のもたらした情報は魔王討伐軍を大いに助けた。作戦はその情報を元に立てられ、魔王城へ突入するリーゼロッテの部隊に彼は配属された。
その作戦は非常にシンプルなものであった。リディアへ渡る船の中に、かつての帝国海軍旗艦ハンスゲーリックがあり、この強烈な艦砲射撃によって上陸地点を確保したら、あとは各々がエルフを抑えて突入部隊の活路を開くと言うものである。
上陸地点は魔王の魔法攻撃を受けないように、ローデポリスから若干遠いが、メアリーズヒルの街とした。かの街は河川があるお陰で、水上から上陸しやすいというメリットもあった。
作戦決行日、艦隊を率いた魔王討伐軍はメアリーズヒル沖合5キロ地点から艦砲射撃を敢行、周辺のエルフを一掃し、焼夷弾による森の排除を行いつつ上陸を開始した。
焼け野原になった上陸地点はエルフが居なかったが、安全を確保できたのはせいぜい半径1キロ程度の領域であり、間もなく騒ぎに気づいて森から這い出てきたエルフによる大襲撃が始まった。
魔王討伐軍は上陸用舟艇を利用した即席の防塁を盾にして応戦を開始、派手な魔法とありったけの火器でエルフの注意を引きつけた。エルフが集まってくるそのすきに、海岸沿いに内陸部へ迂回したリーゼロッテ率いる魔王城突入部隊は、旧街道を通ってローデポリス市街へと一直線に向かった。
上陸地点の本隊を囮に、薄くなった敵の後方を進もうと言う作戦だったが、メアリーズヒルからローデポリスまではおよそ30キロの距離があり、流石に全てのエルフを引きつけることは難しく、それなりの抵抗が予想された。ところが、決死の覚悟で進んだ部隊が拍子抜けするほど道中は何もなく、彼らは一戦もすることなくローデポリスを取り囲む城壁の元までたどり着いてしまったのである。
今にして思えば、道案内を買って出たトーが誘導していた可能性は否定できないが、当時のリーゼロッテたちはこの幸運にただ感謝した。しかし街までやってくると流石に無警戒というわけもなく、城門周りに居たエルフと突入部隊は交戦になる。
そんな具合に部隊が交戦している最中に、市内へ侵入したリーゼロッテ、アナスタシア、トーの三人はインペリアルタワーまで走った。5年ぶりに見たローデポリス市内は廃墟と化していたが、元々高木を嫌う土地柄と、コンクリートの建物とアスファルトの地面に覆われていたためか、植物が殆ど育っておらず、エルフが全く居なくて、無人の街は不気味に静まり返っていた。
そして、そんなゴーストタウンを駆け抜けた三人は、目的地のインペリアルタワーに入ったところで行く手を阻まれる。インペリアルタワーの入り口は5階まで吹き抜けのエントランスホールになっているが、そこにポツリと一人の人間が立っていたのである。
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「明らかにエルフとは違うシルエットに、初めはブリジット陛下かと思いました……リディアに人間が居るとしたら、彼女しか居ないとその時は思っていたからです」
リーゼロッテはその当時の状況を思い出し、遠い目をしながら淡々と心境を語った。心なしか、その顔が青白く見える。
「ですが、その身長が高すぎる……全身を黒い甲冑で覆われたその人は、ひと目で男性だと分かるような背格好をしており、だから私はもしかして、社長ではないかと思いました。死人が生き返ったとは到底思えなかったのですが、他に考えようがなかったからです。ですが、今となってはもうおわかりですね、それも間違いだったのです」
行く手を阻む黒騎士を警戒し、間合いを計りながら誰何する彼女に対し、男は何も言わずに剣を抜いた……抜いたかに見えた。
ところが、男が腰に佩いていた剣を引き抜くと、その柄には刀身がなかったのである。ここまで来て、一体何の冗談かと訝しんだ彼女であったが、しかし次の瞬間に目をひん剥いて驚くこととなる。
ブンッ……と、何かが振動するような音がしたかと思うと、突如として男の握っていた剣の柄にマナが集まってきたかと思うと、そこに光の刀身が形成されたのである。リーゼロッテは思わず息を呑んだ。
「それは高密度のマナで作られた光の剣でした。マナは知っての通り、魔法を使うための媒質で、エネルギーそのものです。そんなマナを目で見えるくらいに凝縮したそれは、恐らく触れるだけで何もかもを焼き切る鋭い刃となっていたことでしょう。マナを自在に操り光の剣を作り出す……そんな芸当を苦もなく行える人間を、私は一人しか知りませんでした。と言うか、私はその光の剣を、以前にも見たことがあったのです」
それは但馬が聖遺物を手に入れたばかりのころ、その能力でリーゼロッテをも凌駕する魔法使いとなった彼は、それでも剣を使ったら以前と同じようなへっぴり腰が抜けなかった。
そのことをエリオスに指摘された彼は、恥ずかしいと思ったのかどうか知らないが、ムキになってそれは剣が重いせいだと言いはじめ、マナを器用に操って、光の剣を作り出してみせたのである。
言うまでもなく、それは例の映画に出てくるライトセイバーのパクリであったが、その光の剣をひと目見た彼女は、これは使える……格好いいし……と思い、それからマナを操る練習をしながら、密かにその技を研究していたのである。
リーゼロッテがそんなことを思い出していると、黒騎士がその光の剣を振りかざして襲いかかってきた。彼女は咄嗟に自分の聖遺物に凝集したマナをまとわりつかせると、男の剣を受け止め弾き飛ばした。
「光の剣は高エネルギーで何もかもを焼き切ります。だから普通の剣ではそのまま溶かし切られてしまうので、受け止めることすら出来ません。試したことはありませんが、聖遺物であっても危ういのではないでしょうか。私は辛うじてその技を会得にしていたため、男の剣を受け止められましたが、後の二人は何をすることも出来ませんでした。それを察知したのか、トーがアナスタシアを連れて先に行くと言いだしたので、私は承諾して彼らを先に行かせました。目の前の男が社長だとしても、15階にある謁見の間にはブリジット陛下がいるはずだと……彼女を止めればもしかしたら目の前の男も止まるのではないかと、そう思い、そっちに向かわせたのです」
黒騎士の剣技は凄まじかった。但馬が光の剣を作り出したのは、重さのない剣が欲しかったからだが、すると目の前の黒騎士が操っている剣もまた、重さが殆ど無い武器だったのである。
彼はその軽さを活かして、信じられない速度で剣を繰り出してきた。リーゼロッテも同じ技を使っていたが、媒介としている聖遺物の重さの分だけ攻撃速度に劣り、思わぬ苦戦を強いられることとなる。
だがそこはそれ、剣聖と謳われた彼女はそんなハンデをもはねのけ、やがて黒騎士の攻撃を見切ると、今度は彼女が攻勢に転じる番だった。
ブ~ンッ! ブ~ンッ!
っと、およそ剣がぶつかりあう音とは思えない、高エネルギーの物体が共振し合う音が広間に響き、それは徐々に間隔が短くなっていって、ついには彼女の剣が黒騎士の甲冑に届いた瞬間……
バチンッ!!
っと、何かがちぎれるような音が響いて、甲冑ごと生身まで切られた黒騎士が血しぶきを上げて吹き飛ばされた。
何メートルも後方に吹き飛ばされた黒騎士が、ガシャリ、ガシャリと金属音を響かせて床を転がっていく。壁にぶつかってようやく止まった彼が、追撃を警戒して飛び起きると、リーゼロッテはそれを諦め、
「殺しはしません……抵抗はやめて、大人しく武器を捨ててください」
代わりに降参するように相手に警告した。
すると、その時だった……
「……やはり、こんな重いものを付けていては、あなたには到底及びませんね」
それまで、一切声を発することのなかった黒騎士が声を発した。
リーゼロッテはその声を聞いて、心臓がどくどくと早鐘を打ち出すのを感じた。寒くもないのに体がブルブルと震えだす。
「まさか……そんな……」
「出来ればこのまま、正体を明かすこと無くお引き取り願いたかったのですが……致し方ありません」
黒騎士が兜を取る。その顔が晒された瞬間、彼女の混乱はピークに達した。そこには彼女の予想に反し、但馬ではなくクロノアが立っていたのである。
クロノアは、ガシャリガシャリと甲冑を脱ぎ捨てると、拘束を解かれ自由になった体でぐいっと背伸びをし、ピョンっとつま先だけで信じられない跳躍を見せて、リーゼロッテの前に再度舞い戻ってきた。
戸惑う彼女がたたらを踏んで間合いを測る。そんな彼女のことをいつかみたいに穏やかな笑みを浮かべて、彼は懐かしそうに言うのだった。
「さあ、続きをはじめましょう。エリザベス様。今度は手加減なしですよ」
混乱するリーゼロッテは、何か声を発しようとするのだが、喉が乾いてしまったかのようにカサカサで何の言葉も出てこなかった。クロノアは問答無用と言わんばかりに、そんな彼女に対し、容赦なく攻撃を繰り出してきた。
ブ~ンッ! ブ~ンッ!
っと、また剣がぶつかりあう。しかし、それもつかの間のことだった。間もなく、リーゼロッテはクロノアに押されて何もできなくなっていった。
さっきまでは互角であった剣の速さが、今はもう段違いだった。それは困惑するリーゼロッテの剣が鈍ったせいもあったが、言うまでもなく、クロノアの剣技が彼女のそれを凌駕していたからだった。
受け止める剣が徐々に遅れ始める。ついに受けきれなくて、ブンッと空を切った光の剣先が彼女の髪の毛をはらりと切り落としていった。そしてついに追い詰められた彼女に、光の剣が触れた時……
バチンッ!!
っと電気のような衝撃が走って、彼女は壁まで吹き飛ばされた。殆どノーガードでその攻撃を食らった彼女は、まるで人形みたいに軽々と吹き飛び、壁に背中を強かに打ち付けられ、息が詰まった。壁に激突し、そのまま床に叩きつけられるように崩れ落ちた彼女は、朦朧とする意識の中で、金縛りにあったかのように、全身がしびれていくのを感じていた。
ツカツカと足音を立てて、クロノアがとどめを刺しにやってくる……
リーゼロッテはなんとかして起き上がろうとするが、体がしびれてしまって全く動けず……
そしてそのまま意識を失った。
「次に目覚めた時、私は気を失った時と同じ場所で寝っ転がっていました。違ったのは、周りにもうクロノアは居らず、そして私が使っていた聖遺物ハバキリソードがなくなっていたことです。彼に切られた体を探れば、傷はどこにも見当たりませんでした。彼は私を切る瞬間、咄嗟に剣を引っ込めて、おそらく電撃かなにか、別の攻撃を放ったのでしょう……私は、手加減をされたのです」
見逃されたという屈辱と、彼が生きていてくれて嬉しいと言う気持ちが綯い交ぜとなって、リーゼロッテは悲しくもないのに涙を止めることが出来なかった。真っ赤に腫らした目をゴシゴシと擦りながら、彼女は上体をなんとか起こす。先程のしびれがまだ残っていて、意識が朦朧として起き上がるのも困難だった。
しかし、彼女はそれでも歯を食いしばり、必死に立ち上がって階段を登り始めた。彼女には、アナスタシアを守る義務がある。ハバキリソードは失ったが、まだ彼女には母親から譲り受けたバルムンクがあった。アンナとの約束を違えるわけにはいかない……
リーゼロッテはフラフラになりながら、バルムンクを杖代わりにして階段を登り始めた。掴まっていないと歩けないくらい疲労困憊だったが、それでも彼女は歩み続けた。15階建ての階段はただでさえうんざりするほど長かったが、この時はその一段一段がとてつもなく高くも感じられた。
それでもどうにかこうにか階段を登り続けた彼女は、やがて上階から人の声が聞こえてくることに気がついた。あまりにも疲れ果てて、自分が今何階に居るのかすらわからなかったが、それでもようやく最上階が近づいてきたらしい。彼女は少し元気が湧いてきたような気がして、顔を上げて最後の階段を登り始めた。
そして、彼女がその階段を登りきった時、
「先生が何を考えてるのかわからないよ! こんなことはもうやめて!」
謁見の間の扉の中から、はっきりとアナスタシアの声が聞こえてきた。その声にホッとすると同時に、リーゼロッテは違和感を覚えた。
たしかに今、彼女は『先生』と言った。じゃあ、この先に待っているのは……
リーゼロッテは謁見の間の扉を開いた。
そこにいるはずのある人の姿を想像しながら……
しかし、彼女の想像はある意味半分は当たっていたが、そんなものは霞んでしまうくらいに、目の前に広がっていた光景は想像を絶するものだったのである。
部屋の中央で二人の男女が口論をしている。片方はアナスタシア……そして、もう片方は、但馬波瑠……死んだはずの但馬が生きていたのだ。
クロノアも但馬も生きていた。彼女はその奇跡に喜び声を上げそうになった。しかし、そんなことよりも、もっと気にしないといけないものが部屋の中には存在して……彼女はぐっと漏れ出そうな声を呑みこむと、息を潜めて部屋の中を窺った。
得も言われぬ吐き気をもよおす腐臭を感じる……ネチャネチャと水が弾けるような音と、ジュワジュワと肉でも焼いているかのような音が聞こえてきて、べちょっと彼女の目の前に何かが落ちてきた。恐る恐る顔を上げたら、天井からどす黒い、赤と紫の肉の塊のようなものが次から次へと降ってくる……
なんだこれは? なんだこれは? 全身にゾワゾワと怖気が走って、咄嗟に視線を逸らせたが、しかし彼女がどこに目をやったところで、そこには同じ光景しか存在しなかった。
天井から壁から辺り一面に、何やら得体の知れないおぞましい肉片が、てらてらと光り、びっしりと、部屋いっぱいに広がっている。
それはまるで単細胞生物のように増殖しており、増えるたびにうねうねと蠢いては、その自重に耐えきれずブチブチと、壁から天井からちぎれ落ちてきた。
そしてそんな肉の塊が蠢く部屋の中央に、いつぞやの世界樹の中で見たような、透明なガラスで出来た大きなポッドが置かれていた。そして、それをよくよく見てみれば、ポッドの中に皇帝ブリジットの死体がプカプカと浮いていたのである。
リーゼロッテは絶句した。
ショックを受けると言うよりも、ただ心の底から恐怖が湧き出てくるのを感じた。
この地獄のようなおぞましい場所で、気が触れるような何か良からぬことが起きているのは明白なのだが、それが何なのかさっぱりわからない。
あまりにも想定外過ぎて、何も想像できないのだ。
「ごめんよ、アーニャちゃん。君は俺の邪魔になる……だから死んでくれないか」
さらに、そんな恐怖に震えるリーゼロッテの耳に、とんでもないセリフが飛び込んできた。ハッとなって我に返るも、次の瞬間にはまた彼女はパニックに引き戻された。
目の前で……部屋の中央で、2つの影が交錯する。
アナスタシアと但馬波瑠。
忘れもしない、あの日、あの時、メアリーズヒルの街の中で、無残に殺されていたあの男が、今目の前でアナスタシアの腹に剣を突き立てていたのだ……
「どう……して……?」
腹部を貫かれたアナスタシアは、驚愕に目を見開いたまま、ずるずると床に崩れ落ちていく。
但馬はそんな彼女のことを、冷静な目で観察しながらぼんやりと佇んでいる。
床に倒れ伏したアナスタシアの周囲が血で染まっていくと、その血を啜ろうとしているかのように、天井や壁から触手のような肉片が伸びてきて、彼女の体を覆い始めた。
やがて、彼女のその瞳から光が失われると、但馬は、肉に埋もれて見えなくなりつつあったアナスタシアの体に突き立てた刃を、ゆっくりと引き抜いた。
ガチガチと、噛み合わない歯が音を立てる。息を殺しているのに、歯を食いしばろうとしても力が入らない。そんな恐怖に震える彼女に気づいたのか、
「リーゼロッテさんか……クロノアめ……まあ、あいつにあなたを殺せと言うのも酷だったか」
彼はそう言うと、アナスタシアに突き立てていたハバキリソードを、今度は彼女に向けてきたのである。
リーゼロッテはもう何がなにやら分からないまま、杖代わりにしていた剣を構えた。
「社長……どうしてあなたが生きて……いや、それよりも何故アナスタシアを? この部屋は一体? クロノアは? ……いいえ、そもそも、あなたは一体」
そんな疑問符だらけの問いかけに但馬は答えることなく、彼はただつまらなそうに構えた剣を振るった。
その途端……かまいたちのような疾風が通り抜け、リーゼロッテの手足を切り刻んだ。彼女は激痛に耐えながら、手にしていたバルムンクを盾にして彼の攻撃を防ぐと、このままではジリ貧だとばかりに、バルムンクにマナを凝縮させて、但馬に躍りかかろうとした。
ところが、彼女の反撃を目の当たりにしても、但馬は全く動ずること無く、思わぬ行動に出たのである。彼は面倒くさそうに剣を下ろすと、突然、変な言葉を口にし始め……
「製造ロット○×△□……バルムンク、リクリエイト」
彼がその言葉をつぶやくや否や、たった今、マナを纏って光り輝いていた彼女の聖遺物が突然その輝きを失い、粉々になって砕け散ったのである。
なにが起きたのか、茫然自失のリーゼロッテ。
そんな彼女を冷酷な視線で見つめる但馬の手には、たった今彼女が失ったばかりの聖遺物が握られていた。彼は彼女の聖遺物の切れ味を確かめるように、二回三回と軽々振り回すと、光の礫を纏ったそれを彼女に向けて構え直した。
こんな相手と、どうやって戦えと言うのだろうか……
リーゼロッテはその時、自分が恐怖に震えていることに気がついた。膝がガクガクと笑ってしまって、尻もちをつきそうだった。体はボロボロで、ところどころから血が吹き出ている。意識が朦朧としているのは、血を流しすぎたためだろうか。
アナスタシアの姿は肉塊に飲み込まれてもう見えない。助けようと思っても、彼女には立ち向かうための武器も勇気も残されていなかった。
そして彼女は逃げ出した。
何も出来ずに敵に背を向けるなど、生まれて初めての屈辱的な経験だった。しかし、そんなことを気にしてられないほど、目の前に居る相手に恐怖を感じていた。
リーゼロッテは踵を返すと、来た道を戻り始めた。階段を転げ落ちるように駆け下り、あちこちに体をぶつけながら、必死になって駆け抜けた。
振り返るとあの肉片が、うねうねと呼吸する生き物のように波打ちながら、触手を伸ばして追いかけてくる。彼女の周りの壁から天井から滲み出るように、ブヨブヨとした肉片が溢れ出し、腐臭を発しながらボタボタと落っこちてきた。
まるでこの建物自体が、何か巨大な生き物の体内みたいだ。そのおぞましい光景に、彼女は背筋が凍るような思いを抱くと、もはやこんな場所に一分一秒として居られないとありったけの力を込めてスピードを上げた。
しかし、そんな彼女の行く手を阻むかのように、エントランスホールの入り口には、エルフの大軍が待ち構えていたのである。
その中央にはトーが居て、何故かエルフに襲われない彼はニヤつきながら、リーゼロッテのことを見上げていた。
彼女が率いてきた突入部隊は全滅したのだ……そしてそれは、はじめからトーの策略だったのだと、彼女はその時になってようやく悟った。
前方にはエルフの大軍、後方には肉塊から生えた触手……進退窮まった彼女は半狂乱になって叫ぶと、もはや後先考えることすら出来ずに、近くにあった窓から外へ向かって飛び降りた……
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「その後、どこをどう逃げてきたのかは記憶にありません。5階以上の高さから飛び降りて、無傷だった理由もさっぱりです……多分、インペリアルタワーから逃げ延びた私は、一も二もなく港から海へ飛び込んだんだと思います。体は疲労困憊で、余計な力が入らなかったのが良かったのでしょう。気がつけば私はプカプカと波間に浮かんでおりました。辺りは真っ暗で、すでに夜になっていました。遠くの方に我々が乗ってきた船団が見え、橋頭堡の確保を失敗した彼らもまた、多くの犠牲を払ってリディアから引き上げていくところでした。私は彼らを呼ぼうとしましたが、声がかすれて出てきません。暗闇の海でただ一人、私は虚無感に包まれました……ああ、ここで死ぬんだなと思ったら、不思議と涙も出てきませんでした。でも、そんな時に偶然にも、私の周囲の海が突然光りだしたんです……マナの発光現象で、私の周りだけが明るくなったのが功を奏したのでしょう。警戒にあたっていた船員が私を見つけ、そして私は助かったのです」
船に引き上げられたリーゼロッテはボロボロで、全身あちこちが傷だらけの上に、長時間海水に晒されたせいで変な感染症を患っており、生死の境を彷徨った。
フリジアで一月以上の養生生活を送った彼女は、どうにか回復して元通りに動けるようになったが、ビテュニアへ帰還した彼女の足取りは重かった。
アンナに絶対に守ると約束したアナスタシアは、自分の目の前で殺されたのだ……
そして余裕を失っていた彼女は、アンナに責められるままに、つい彼女の出自を口走ってしまう。それでショックを受けたアンナは心を閉ざし、数年後、アスタクス方伯の元を去っていった。
リーゼロッテはアンナと別れた後、アナスタシアを殺したのは自分だと責めたが、後悔してももう時は戻ってくれはしない。それ以来、彼女は魔王を追うことを諦めてしまい、かつての主人であるリリィのところへ逃げ込んで、隠遁生活を送っていたようである。
ジルと再会したのは、いつまでも皇家に迷惑をかけっぱなしじゃ行けないと、趣味の手芸屋を開いた時に、人づてにそれを聞いた彼女が開店祝いを送ってきたからだった。以来、文通を続けて、彼女からアーサーのことや世界情勢をある程度聞いていた。
だから、リーゼロッテは、アーサーがアンナを連れてアクロポリスへやってくるとの手紙をもらった時、彼が本当は何をしに来るのかが分かっていた。
「アーサー様……あなたは、私とアンナを会わせることで、ご自分の軍に私を引き入れようとしに来たんですね。私は……もしアンナにそうしろと言われたら、断ることが出来ません。私は償わなければならない。あの子の母を殺したのは、私なんですから……でも、あなたがアクロポリスに入城した時、私は居てもたっても居られなくなり、逃げ出してしまいました。頭ではそうすべきだと理解していても、体がついていかなかったのです」
そして顔面蒼白のまま、彼女は絞り出すようなか細い声で言った。
「私は……怖い」
殆ど、聞き取れないほど小さな声だった。店内に設置されたストーブの上で、シュンシュンと音を立ててヤカンが水蒸気を吐き出していた。その音にかき消されて、殆ど聞き取れなかったというのに、なのにその言葉はどうしようもなくアーサーの心を打った。
「またあの場所へ行くことも……またあの人と戦わなければならないのも、怖くて仕方ないのです」
剣聖は無敵の英雄ではなく、ただのか弱い女性だ……この人は、本当に怖がっている。愛する人と戦い敗れ、信頼する主人に裏切られて、どうしようもなく傷ついている、一人のか弱い女性にすぎない。
あれだけ華々しい活躍をしておきながら、歴史の表舞台から忽然と姿を消したのはどうしてなのか……彼女が隠遁生活を続けていたのは、単に怖かったからなのだ。
アーサーはエリックとアトラスに目配せした。彼らはなんと言っていいかわからないといった感じに視線をそらした。多分、彼らもアーサーと同じ気持ちだったのだろう。こんな彼女に対し、それでも戦えと言うのは酷ではないのか……
アーサーは何も言えず口ごもった。もう彼女のことはそっとしておいてやったほうがいいのだろうか……彼女ほどの戦力を遊ばせておくのは、追い詰められている人類にとってはありえないことなのだが、しかし、目の前で怯えている女性に戦えなんて、彼はとても言い出せそうもなかった。
大体、こんな彼女を無理やり連れて行ったところで、戦力になるだろうか。もう諦めて、他の用事を済ませて帰ったほうが良いかもしれない。
ここに来たのは剣聖をスカウトしに来ただけではない。彼女とアンナとの和解のため、それから今聞いたばかりの話を聞くためだった。他にも、アトラスの聖遺物の能力を、彼女に確かめてもらいたいという目的もあったのだ。
そう、アトラスの聖遺物を……
と、考えた時だった。アーサーは、妙な違和感を覚えた。
「剣聖様……あなたはリディアで魔王に聖遺物を奪われたんですよね……?」
「ええ……どうやってるのかは分かりませんが、あの方は元々、自分の聖遺物を消したり出したりすることが出来ました。それと同じような方法で、私の聖遺物を奪い去ってしまったのです」
「つまり、ハバキリソードとバルムンク、2つの聖遺物をリディアに置いてきた」
「……お恥ずかしながら」
そう言ってうつむく彼女をあざ笑いたいとか、そんなわけじゃない。アーサーは落ち込む彼女に顔をあげるように促すと、
「それじゃあ……アンナの持っているあの聖遺物は、一体なんなんですか? どうやって彼女はあれを手に入れたんだ……」
「あ……! そういえば」
アーサーのその疑問の言葉に、エリックとアトラスが反応した。どうして彼らが驚いているのか分からないリーゼロッテが首をひねっていると、
「アンナは……自分が持ってる聖遺物を、あなたから受け取ったと言っていたのだ」
「そんなはずはありません。私はあの子に何も渡してはいません。お母さんの形見すらも持ち帰ることが出来なかったのです……」
「でも、確かにアンナは聖遺物を持っているんだ。そしてそれは、エリックとマイケルが言うには、あなたが所持していたハバキリソードに間違いない」
「……本当なのですか?」
リーゼロッテが眉を顰めて尋ねると、エリックが力強く頷いた。
「間違いありません。ひと目見ただけで、それとわかりました。だから俺達は、あの子が先生の娘なんだって気づけたんですから」
「……アンナを探そう。俺たちに、まだ話せないことがあるのなら、はっきりさせておいたほうがいいかも知れん」
アーサーは三人を順に見回して言った。
「彼女のもつそれが本物なら、どうやって手に入れたのか、詳しく聞いてみよう」
そして、それを隠しているとしたら何故なのか、どうしてリーゼロッテから貰ったと嘘を言ったのか。魔王勢力の何者かから接触があったのだろうか。それとももっと別の方法が? 一度ちゃんと問いただしたほうが良いだろう。
アーサー達はそう確認しあうと、親衛隊に追われて姿を晦ましてしまったアンナを探すために、街へ散っていった。