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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第一章
33/398

新しい生活が、今、始まったのだ

 あれから一月の時が流れた。


 但馬はリディア政庁インペリアルタワーの前に建てられた慰霊碑の前で手を合わせていた。


「報告が遅れたがシモン、元気か? って元気なわけないか……俺の方は、まあ概ね元気だったかな。クソ忙しかったけどな。そうそう、あの忌々しい森なんだけど、こないだ行って燃やしてきたんだよ。今はその跡地に竹を植えて、森の侵食を防いでいるんだって。ざまあ見ろだな。今度暇なときでも天国から見に行けよ、きっとすっきりするぜ」


 献花台の上には、まだ色とりどりの花束が置かれており、時折、但馬の他にも祈りを捧げる人がやってきたが、その周辺以外、街はすっかり元通りといった印象だった。


 10年もの長きに渡り膠着状態を続けたヴィクトリア峰での戦いは、突如起こった謎の発光現象と、それに伴う山火事によって急転した。


 森林が消失したことにより側面ががら空きとなったメディア軍は、戦線の後退を余儀なくされ、彼らの本拠地のあるメディア平原へと続く最終防衛ラインまで下がることとなった。


 逆に、前回の作戦の失敗から士気が著しく低下していたリディア軍は、突如起きた幸運に気を取り直すと、このチャンスを逃すまいとして威勢よく進軍、燃え残った木々をなぎ倒し、そこに前線基地を構築したのであった。


 数の上で勝り、平地での戦いには強いリディア軍が、こうして西方への進出を盤石のものとすると、青天の霹靂であった敵国メディアは、50年も続いた戦争の終わりを模索するようになる。


 その話はまた別の機会にゆずるが、ともあれ、多大な犠牲を払った奇襲失敗の知らせから一転してのリディア軍の勝利は、丸太をのんびり馬に引かせていた但馬たちを通り越して、あっという間に首都に伝わり、彼らが3日間かけてようやく街に戻ってきた時には、街中がいきなり祝賀ムードに変わっていて面食らうはめになった。


 何しろ、彼らが出て行った時はお通夜のようだったのだ。


 どうしてこんなことになってるの? と尋ねて、理由を知った但馬は、自分のやったことにダラダラと冷や汗を垂れ流し、絶対内緒にしてねと同行の二人に口を酸っぱくして言い含めてから、逃げるようにシモンの家へアナスタシアを迎えに行くのだった。


「アーニャちゃんは今でも水車小屋に居るよ。って言っても、もう売春婦じゃなくて、通いの医者としてなんだけどな。やっぱりああいう場所だから、性病とかの面倒を見れる人が必要なんだって、ジュリアさんに頼まれたら断れないからな」


 尤も、それはアナスタシアにとっても必要なことだった。いきなり不幸から解放された彼女は、突然与えられた自由に何をしていいのか分からず、西方から但馬が帰ってきたその日、迎えにいった時にはもう、少し精神に支障を来していた。


 皮肉にも、優しくされることに慣れていない彼女にとって、シモンの家は却って安心できない場所になってしまっていたようだった。


「ごめん。そのせいで、また少しおまえのご両親を悲しませることになっちまったんだけど……ご両親にはいつもお世話になってるよ。仕事では親父さんに、生活面ではお母さんに色々と良くしてもらって、もうホント頭が上がらないわ。すまんな、迷惑かけちまって」


 工場建設を再開すると、シモンの父親は何も言わずに黙って仕事に復帰してくれた。きっと心の中には様々な葛藤を抱えていただろうが、弱音など一切吐かずになんでもやってくれた。今では但馬の会社のチーフエンジニアみたいなポジションにいる。


 そして結局、但馬は2つの工場を建てる会社を設立した。どうせ両方とも動力を使うので、工場は隣接して建てられ、在庫や材料を貯蔵する倉庫も必要であったことから、かなりの敷地面積を誇る巨大な施設になった。


 しかし工場と言っても、オートメーションとかラインとか、そういう概念のない世界だから、稼働させるまで苦労した。但馬自身も工場のことは殆ど分からず、雇った従業員たちと手探りで頑張るしかなかった。まあ、それはそれで楽しかったのであるが……


「社長!」


 呼ばれて振り返ると、エリオスが立っていた。どうやらそろそろ時間らしい。


「……そうそう、エリオスさんが軍隊を辞めてうちの会社に入ってきたんだよ。生きてたら、おまえと立場が逆転してたな。ちょっと見てみたかったけど」


 街に帰り、シモンの父親たちと会社設立に向けて動き始めてすぐ、ある日エリオスがやってきて、自分を雇ってくれと言いだした。軍隊はどうするんだと問うたら、元々、彼は北のセレスティア出身の人で、軍には傭兵として参加していただけで、いつでも辞められたのだそうだ。


 そして、実はその正体は、勇者の親衛隊の中でも、特に身辺警護を担当する校尉と言う役職だったらしい。


 その経験を活かして、ブリジットの護衛として雇われていたそうなのだが……但馬が森を焼き払ったのを見て、主人の鞍替えを決心してしまったらしく、是非自分を使ってくれと頭を下げられた。


 そんなこと言われても、今の自分はせいぜい町工場の社長でしかないので困ってしまうのだが……エリオスは命の恩人だし頼まれては断るわけにもいかず、まあ、マフィアとかがちょっかいかけてくることもあるかも知れないから、荒事担当として雇い入れた。


「……おまえと作るはずだった会社だけど、いよいよ起ち上げることになったんだ。だから今日はその報告に来たんだ。ここからでも見えるだろう……あの中央広場に面した通り沿いに、小さなビルを借りてさ、そこを事務所にした。近いからよ、これからはちょくちょく顔を見せるから、そしたらいつかみたいにまた酒でも飲もうぜ……いや、そこそこ強くなったんだぜ? 今ならスコッチ3杯くらいまでならまだ記憶がある。本当さ」


 但馬は膝についた砂を、パンパンと払って、


「じゃあなシモン。また来るからよ」


 そう言って慰霊碑の側を離れた。


 中央広場にはいつものように休日でも無いのに人々が集まっていて賑やかだった。そんな中を但馬が通り過ぎると、今ではすっかり常連になった彼に、あちこちの露店や屋台から声がかかった。


 にこやかに笑みを浮かべながら手を振り、公園を突っ切って通りまで歩く。すると、小さなビルの前に数十人の人影が立ち並び、一斉にこちらを振り返るのだった。


 シモンの父親が居て、農場のオジサンが居て、銀行の支配人や担当者、それから但馬が雇った30人の従業員たち。彼ら一人ひとりが馬鹿丁寧に挨拶してくる中、


「それじゃ、そろそろ行きますか」


 但馬はそう宣言して、待機していた左官屋に合図した。


 左官屋が鉄のプレートで出来た看板を、カーンカーンと叩いていく。


(シモン)(ハル)兄弟商会』


 そして、玉葱とクラリオンの意匠が施された、作りたてのまだ金ピカの看板が掲げられると、集まった人々からパチパチと自然に拍手が起こった。


 それが広場の露店に届くと、彼らも一緒になってパチパチと手をたたき、


 パチパチパチパチパチパチパチパチ……


 釣られて通りすがりの人までもが、みんな一斉に手をたたきはじめるものだから、中央公園は拍手と歓声の洪水に見舞われて、まるでコンサート会場みたいだった。


 こうして、但馬は異世界の地に、その足跡を残した。


 それは異邦人だった彼がこの国に受け入れられた、最初の記念日となった。


 見たことも聞いたこともない異世界なんかに、いきなりなんの前触れも無く飛ばされて、右も左も分からない中、どうやって生きていけば良いのかも分からずに、足掻いて藻掻いて、ようやくたどり着いた場所だった。


 そう思うと自然と笑みがこぼれてきて、但馬はウキウキとした気分になってきた。


 周りのみんなもそうなのか、同じようにウキウキした顔をしながら、口々に喜びの歓声を上げるのだった。


 みんな心が一つになって、互いに肩を組み合って笑い転げた。


 但馬はここで生きていく。


 新しい生活が、今、始まったのだ。

 

*********************


 事務所開きは初日から大忙しで、引っ越しの片づけや、明日から始まる工場の稼働に関しての打ち合わせやらで、気がつけばあっという間に時が過ぎて、空はすっかり暗くなっていた。


 社長はもういいからと、従業員たちに促されて事務所を出ると、但馬は急ぎ足で街の外へ出て水車小屋へ向かった。もちろん、女を買いに行くわけでなく、アナスタシアを迎えにいくのだ。


 穀倉地帯を通り過ぎると、オジサンが農作業をしていて、但馬に手を振った。


 但馬も手を振り返して、お疲れ様ですと大声で言うと、トウモロコシの影に隠れて見えないけれども、色んな所からお疲れ様ですと返ってきた。


 すっかり顔なじみになった物乞いに舌打ちされながらスラム街に入り、アヘン窟の住人に怪しげなクスリを勧められるのを躱わしながら、水車小屋にやってくると笑顔のジュリアと子供たちに出迎えられた。


「あら~……社長さん、いらっしゃ~い。いつもお世話になってるわ~ん」

「あ、しゃちょー。まんこ買ってってよ」「しゃちょー買ってー! まんこ買ってー!」


 買わん買わんと言いながら、飛びついてくる子供たちを引き剥がして、軽く頭を下げてジュリアに挨拶する。


「ジュリアさんこんばんわ。これ、新しい商品。サンプルだけど」

「あら綺麗~、石鹸に色をつけたのね~。うふふ、いつも悪いわ~。あの子なら、奥に居るわよ~」


 勝手知ったる他人の我が家。手を振ってその場を後にすると、但馬は水車小屋の中へと入っていった。


 石鹸製造が始まってある程度余裕が出来てきた時、そういや元の世界だと泡風呂プレイとかあったよな……などと思い立って、ジュリアに石鹸を渡すようになった。リビドーの赴くままにやりかたを熱く語ってみたら、売春婦の何人かにウケて試しにやってみたら評判になったらしい。と言うわけで、今や水車小屋は業態が変化して、ガチでソープランドになりつつあるようだった。


 前々から思っていたのだが、アナスタシアの魔法のお陰で抑制されてはいるが、それでもしょっちゅう性病をもらってくる患者があとを絶たないのは、この水車小屋がとんでもなく不衛生であるからではなかろうか? そう思って、改善案を示したわけだが、結果としてそれはビンゴで、泡風呂をやりはじめてから患者の数がめっきり減ったようだった。


 街がウンコだらけなのだから、公衆衛生を説いてもチンプンカンプンのようで、こういった餌でもない限りは誰も気にしてはくれないのだ。せめて自分の周りくらいは綺麗にしておきたいものである。


 曲がりくねった廊下を進み、動力室に入ると、かろうじて西日が届いているだけの暗い室内で、アルコールランプを頼りにして、アナスタシアが熱心に紙に向かって聖書の言葉を書き綴っていた。


 彼女は但馬が入ってくるのに気づくと、上目遣いに見上げてから筆を置き、音もなくすっと立ち上がった。


「アーニャちゃん、帰ろう」

「……うん」


 そして、今や膨大な枚数になった紙の束を紐で綴じると、トトトっと駆け寄ってきて、但馬の腕につかまり、


「アンナじゃなくて、アナスタシア……」


 もはや口癖のようになったセリフを言うのだった。


 身請けをしてから一ヶ月少々、初めて会った頃のような無感動な少女は形を潜め、少し依存体質になっていた。彼女は但馬とジュリアの言うことだけを熱心に聞き、他人を、特に大人を怖がった。相変わらず眉間に深い皺が刻まれているのだが、それは困ったときのようなものではなく、不安そうなものへと変わった。


 シモンの家を出て二人で暮らし始めた当初は、但馬のことさえ怖がっていた。手持ち無沙汰な時間が出来ると、色々と考えこんでしまうらしく、そうならないように仕事を与えて、暇を作らせないように心がけた。そのうち徐々に慣れてきてくれたが、逆に但馬の顔色ばかり窺うようになり、この子は自分が居なくなったら、一体どうなってしまうのだろうかと不安になることもあった。尤も、どうせ元の世界に戻れるあてはなく……どうしようもないまま、時間だけが過ぎていく。


 だから、彼女の傷が癒えるまでは、もう暫くこのままで良いかなと、最近では思うようになっていた。彼女と、仲間と、従業員や王様なんかと一緒に、のんびり楽しく暮らしていくのも悪くないんじゃないかと……


 アナスタシアに夕飯の支度を全部任せて、一緒にそれを食べて、代わりばんこに風呂に入って、風呂あがりの無防備な彼女を意識しないようにぐっと堪えながら、一階の工房で持ち帰った仕事を始めた。


 西から帰ってきてすぐ、シモンの家の近くに一軒家を借りた。元々、何かの店舗だったらしく、一階は工房に、二階を居住スペースにして暮らしている。初めはここをS&H(かいしゃ)の事務所兼住居にしようと思ったのだが、人が出入りし過ぎたらアナスタシアが可哀想だと思って、プライベートな工房に留めておいた。


 家が近いため、シモンの母親が色々と世話を焼きに来てくれるのだが、そのたびにアナスタシアが何とも言えない罪悪感のようなものを抱えるようだから、正直複雑な心境になった。彼女には一日も早く元気になって欲しいものである。


 その工房には、隅っこにトイレが設置してある。初めはどうにか水洗便所を再現できないかと頑張ったのだがついに諦めた。下水道がない限り、水を含んでしまうと返って処分に困ると判明したからだ。


 と言うわけで残念ながら未だにOMRを使っているのだが、代わりと言ってはなんであるが、例の丸太を使って便所紙を大量に作った。5年分は優にあるので、拭きたい放題だ。


 ところで、その丸太にくっついてた枝を適当に接ぎ木したら定着したので、今では観葉植物代わりに工房に置いてある。また大きく育ったら庭にでも植え変えて、いつか便所紙にしてやろうかと思っていた。


 そんなことを考えながら、但馬はプチッと葉っぱを一枚取ると、工房の作業机に向かった。


 最近では、石鹸生産が軌道に乗り始めて、差別化を図るために新商品の開発を行っていた。初めは飛ぶように売れて、在庫を抱える間もなかったのだが、さすがに商品が行き渡ってしまうと消耗品とは言え需要が落ちてきて、在庫がだぶつきつつあった。保存が効くので在庫を抱えたところで問題ないのであるが、大量雇用をしたばかりなので、出来れば生産量を落としたくない。


 と言ったわけで輸出も視野に入れて、贈答用の商品を開発しようと、最近は石鹸を固める鋳型を凝ってみたり、香料を混ぜてみたり、着色してみたりしていた。


 その際、酸化鉄や緑青(りょくしょう)を用いて着色してみたのだが、赤や黄色や青なんかは綺麗に色が出るのだが、緑色が上手く作れない。銅の配合を色々と工夫してみたのだが、石鹸の脂肪酸が原因なのか、アルカリ性であるのが原因なのか、どうしても青っぽくなってしまうのだ。


 金属粉じゃこれ以上駄目だろうと結論づけて、開発陣に食紅などを持ち寄ってもらうことを提案して今日は別れたのであるが……さきほど風呂に入りながら、ふと思い出したことがあった。


 クロマトグラフィー。ロシアの植物学者ミハイル・ツヴェットが開発した物質を成分ごとに分離する方法。物質ごとに水に溶かしたり油に溶かしたり、アルコールに溶かしたり、遠心分離したり電気分解したりするのだが、元々はツヴェットが、植物学者らしく葉緑素を分離する方法を考えたことから始まった。


 葉緑素(クロロフィル)は御存知の通り、植物が光合成で光を吸収するのに必要な化学物質である。因みに、これは赤や紫の光を吸収して緑色の光を発するのだが、人体に影響のある赤外線や紫外線を吸収するから、それがいわゆる沐浴効果を生み出し、人をリラックスさせる効果があるのだそうだ。


 また天然由来であるから、当然体によく、クロロフィルを混ぜた石鹸は、元の世界で薬用として売られていたはずだった。食品の添加物や着色料としても使えるし、また分子配列の違いによって色が違い、意外にも種類が豊富なので、これを利用しない手はない。


 さて、そんなクロロフィルの抽出方法であるが、至って簡単である。比較的親水性が高く、アルコールに良く溶けるので、乳鉢ですりつぶしたものをエタノールに溶かし、不純物を布などでろ過すれば良い。


 エタノールは残念ながら工業的に作り出せないが、95%くらいの純度までなら、酒を蒸留することで濃縮できるので、スコッチを生産している酒造に頼んで作ってもらった。因みにこれを酒精(しゅせい)と呼び、スーフリやクライスが女の子に飲ませてへべれけにしたスピリッツと言うのは、要はこれのことである。


 ちょっと試してみたくもあったが、但馬なんかじゃそんなのを一滴でも呑んだら記憶がぶっ飛ぶこと請け合いであるから、今は我慢して乳鉢をゴリゴリやっていた。


 そしてコップに酒精を注ぎ、小さじですりつぶした葉っぱをすくってその中に投入し、クルクルとかき混ぜていると、徐々に緑色の粒子がアルコールに溶け出して、コップ一面に広がっていく。


 それはやがて綺麗な緑色に発光したかと思うと、すると突然、ポワッとしたホタルのような光の粒子がふわふわとコップから飛び出してきて、空中をブラウン運動のように不規則に飛び回ってから、やがて霧散して消えるのだった。


 そう、まるでその様子が酒の妖精みたいだから、これを酒精と呼ぶのである。


「……って、そんなわけねえだろが」


 もちろん嘘である。思わず一人ツッコミしてしまうくらい、唐突な出来事だった。


 但馬は今、目の前で起こった現象に呆然となった。


 なんだこれ? なんでいきなり光りだした? 葉緑素だけじゃないぞ……何の成分が溶けてたんだ??


 但馬は観葉植物代わりにしていた木から、改めて葉っぱを引っこ抜くと、再度乳鉢でそれをすりつぶし、また別のコップに酒精と一緒に注いで、色素を抽出しようとかき混ぜた。


 すると、やっぱり、ふわりふわりとした蛍光色の物体が飛び出してきて、空中を自由に飛び回って消えるのだった。


 コンコン……


 部屋のドアがノックされて、思わずビクリと肩を震わせた。ドキドキしながら返事をすると、アナスタシアが入ってきて、


「……先生。ここで寝てもいい?」


 と言ってきた。


 彼女は最近、但馬が工房で夜更かししていると、たまにやってきて備え付けのソファで眠ることがあった。そうしないと落ち着かないらしく、もちろん、彼女に閉ざす扉は無いので、どうぞと許可していたのだが……


 その時、コップの中に残っていたらしき蛍光色の何かが、ボコっと音を立ててコップから飛び出し、ふわふわふわふわと空中を自由に飛び回った。


「綺麗……」


 そんな様子を見て珍しく、アナスタシアが感嘆の声を呟いた。それは彼女の前まで飛んでいって、その瞳にキラキラと反射し、彼女の瞳を緑色に光らせた。


 但馬はゴクリとつばを飲み込んだ。


「アーニャちゃん。ダメだ。今すぐここから出よう」

「え?」

「今の見たろう? さっきから、何か得体の知れないものが部屋の中を飛び回ってんだ。もう光ってないけど……くそっ! 一体、あれは何なんだ!? もしかしたら放射性物質かも知れない。危ないからすぐに出るんだ」


 但馬は自分の考えに慄きながら、アナスタシアを部屋から出そうとグイグイとその背中を押した。彼女は戸惑いながらも、


「何って……先生。あれは魔素(マナ)だよ?」


 と言って、但馬の手から逃れるように、くるりと体を回転させた。


「マ……ナ……?」


 それって何だったっけ……そうだ、確か王様と話していた時、大木にしか宿らない魔法に必要なものだと……それについ最近見たことがあるような……


 エルフと戦った時、それが纏っていたオーラ。


 ブリジットが剣を抜いた時、彼女が何かをブツブツ唱えた時に立ち上ったオーラ。


 自分が森を焼き払った時、森じゅうが真っ白く光り輝いたあの現象……


「あれが……マナ?」


 だが、但馬はそれとは全く別のことを思い出していた。


 それは但馬がこの世界に来る直前……あの臨床試験の実験体(アルバイト)の選抜試験の待合室で、担当者が絶対に他言無用と言いつつも、得意気に語って見せたとある物質……


「……先生にも、知らないことってあるんだね」


 下から覗き込むように、アナスタシアがポツリと呟いた。


 別の意味でドキドキしながら、但馬が彼女を見つめ返すと、彼女のそのシミひとつ無い美しい顔に赤いニキビのような点が見えた。


 それがまるで、英語の『NEW!』という文字のように見えて……


 ふらふらと伸びた指先が、彼女の頬に触れた。


『ACHIEVEMENT UNLOCKED!! DISCOVERY OF MANA

 実績解除!! マナの発見

 ボーナスレベル、付与します。AccessLV....1....2....4....8....16になりました。引き続き、ゲームをお楽しみください。但馬 波留 さん 新世界へようこそ!』


 見上げれば夜空には、2つの月が昇っていた。


 剣と魔法が支配するファンタジーな世界。


 まるでゲームみたいだなと思っていた。


 いつかその片鱗を垣間見て、ゲームだゲームだと大爆笑していたはずだ。


 でも、今はちっとも笑えない。


 但馬はアナスタシアの頬を撫で上げ、彼女がそこにいるという感触を確かめると、その手でポンポンと頭を叩いてから、どさっとソファに倒れこんだ。そこで寝ようとしていた彼女から抗議の声が上がったが、その内容は覚えちゃいないし、返事も返せやしなかった。


 あの日、あの海岸に放り出された時でさえ感じなかった、猛烈な不安がどっと押し寄せてくる……自分は一体、これからどうなってしまうのだろうか。


 但馬は頭を抱えてうずくまった。


 新しい生活が、今、始まったのだ。


(玉葱とクラリオン 一章・了)

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