リディアを奪還するということ。魔王と戦うということ
宮廷魔術師サリエラとの対話で、アーサーはこの世界に蔓延している嘘を知った。魔王は彼が生まれたときから紛れもなく悪だった。だが、彼女やランたちの話によると、一概に悪とは呼べないようなのだ。
思い返せば魔王の逸話にはいつもどことなく違和感があった。例えば、元々アナトリア帝国の宰相であったと言われる魔王は、初代皇帝ハンスの時代から様々な貢献を積み重ね、あの地位まで上り詰めたのだが、その動機はいずれ帝国を乗っ取り、エルフによる人類の粛清を目論んでいたからだと言われている。
だがそれはおかしいだろう。今となっては常識であるが、魔王の魔法能力はあのエルフを凌駕すると知られている。おまけにそのエルフを自在に操ることが出来るような男が、どうしてそんなまだるっこしいことをしなければならないのだろうか。初めから人類を滅亡させたかったのであれば、帝国を乗っ取らずとも、普通にエルフを連れて攻め込んでくればいいだけの話である。
つまり但馬波瑠は魔王になってしまったあの日まで、間違いなくアナトリア帝国の宰相であったのだ。そして魔王となった後の悪行を差し引いて考えれば、そこには華々しい功績の数々しか残されていない。
彼が魔王となってしまったその理由を、アーサーは、当時のことを知っているランや従者たち、そしてサリエラから聞かされ、正直なところ彼に同情した。
皇帝と恋仲であった魔王はその権力が集中するにつれて、周囲の貴族たちから疎まれていった。自分の出世が絶たれたと感じる時、世の中には自分の能力も省みず、ただ他人の足を引っ張ることでその地位を得ようとする者がいる。彼はその手の人間に散々足を引っ張られた挙句に失脚する。
それはアンナの母親との不倫という、自分で巻いた種ではあったが、この一度きりの過ちで、それまでの貢献を無かったものにされたのは、あんまりではないのか。更に追い打ちをかけるかのごとく、彼を亡き者にしようとするものたちに追っ手を差し向けられた。それも千人規模というから桁違いだ。
そして、彼はこの時、最も信頼している部下を殺害され、更には全く関係のない無辜の子供たちが犠牲になったのである。彼自身も傷つき、クーデター軍が宮殿を取り囲んでて、皇帝ブリジットは行方不明となっていた。これに怒らずして何が人間と呼べるだろうか。しかし皮肉なことに、彼はその能力の高さのせいで、人間の皮を被ったエルフ呼ばわりされているのだ。
今、魔王がリディアを占拠し、エルフを操って人類を苦しめているのは、そんな彼の怒りが頂点に達し、復讐しているのだと考えれば何も言い返せないくらいである。
しかし、そんなことはきっとないのだろう。かつて魔王の友達として彼を慕い、現状を憂えて苦しんでいる、エリックとマイケルの姿を見ているとそう思えてくる。魔王は決して悪いやつじゃないのだ。だから、彼がこのような凶行を起こしているのは、何か理由があるはずだ。
だったらもう、放っておいてやればいいんじゃないかとも思えてくるが……だが、それもまた不可能だった。
齢90を越えたアスタクス方伯は、いつその寿命が尽きるかわからない。もしも彼が亡くなったらアスタクスは分裂し、人類にエルフと対抗する力は失われるだろう。
そして人類が生きていくためには絶対に必要であるマナの枯渇も迫っている。そうなる前に、その拡大を食い止め、可能であるなら儀式のようなことをして、太陽を元通りにしなければならない。そのためにはガッリア大陸に蔓延るエルフと魔王の存在は邪魔なのだ。
時間はほとんど残されていない。それまでにアーサーは志有る兵士を集め、魔王に対抗しうる軍隊を組織しなければならない。
そんなことが果たして出来るのだろうかと弱気になるのもさることながら、アーサーは魔王討伐そのものに対しても迷いを感じつつあった。
本当に魔王を討伐しても良いのだろうか。
リディアに正当な領有権を持ち、戦力的にもアンナを有するアーサーのことを、最後の希望だと方伯もサリエラも期待している。
アンナは魔王のことを敵と言っていた。現に彼女の母親は、魔王によって殺されたと言われている。その時何があったか詳しい事は分からないが……だが、従者たちの言っている魔王の印象が確かなら、この父娘を戦わせてもいいのだろうか。
アーサーは方伯との会談の後、様々な疑問にがんじがらめになってしまい、その返事に慎重になっていた。
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会談を終えたアーサーは、リディア奪還へ向けて兵を挙げるのであれば、アスタクス方伯が全面的に支援するとの約束を取り付けつつも、具体的な返事をせずに謁見の間を辞した。
そこにはもう、初めてカンディアに渡ったあの日、実家を見返すためだけにリディアを奪還すると息巻いていた、無謀な少年の姿は無かった。
謁見の間を出たアーサー達はそれぞれ別々の方向へと歩いていった。ランはサリエラと昔馴染みに会うために。アトラスはエリオスが落としていった聖遺物を調査するため練兵場へ。従者の二人は怪我を負ったフランシスの見舞いに行くといって、兵舎にある医務室へと向かっていった。
「本来なら坊っちゃんが行くべきですよ」
と言う従者たちの言葉を無視して、気が乗らないアーサーは一人で宮殿内をぶらついていた。
「なんで俺がモブ男の見舞いなどせにゃならんのだ」
とプリプリしながらも、胸のうちには何か得体の知れないもやもやとしたものを抱えながら、アーサーはあてどもなく歩いていた。
長い歴史の中で方伯の居城と要塞を兼ねるようになった宮殿は巨大で、行けども行けどもどこまでも続く回廊を歩いていると、暗い洞窟の中で彷徨っているような気分になった。尤もそんな薄暗い場所でも、どこまで行っても人の気配は絶えることなく、すれ違う侍女たちも整然と礼を返してくるのだから、この宮殿の中に途方もない数の人間が働いているであろうことを感じさせた。
この巨大な国と戦い、あまつさえ勝利したと言うアナトリア帝国は、どれだけ強大な軍事力を誇った国だったのだろうか。今のアーサーには想像もつかなかったが、その帝国もエルフの前には太刀打ちできず、たった一夜にして滅亡してしまったと言うのだから、人の営みとはどれだけ儚いものなのだろう。
そんな風に考え事をしながら、漫然と回廊をうろついていたアーサーは、気がつけばいつの間にか練兵場にたどり着いていた。
タァァァーーーンッッ! タァァァーーーンッッ!
っと乾いた銃声が轟いてきて、見れば宮殿に併設された広場で兵士たちが射撃の訓練をしている。射線の中に入るわけにはいかないから、そのだだっ広い広場の大半には人がおらず、そのせいでやけに閑散として見えた。
そういえば、アトラスが聖遺物を持って練兵場へと向かうと言っていたはずである。彼の姿を探してキョロキョロしながら広場へと足を踏み入れると、下士官らしき兵隊が迷惑そうな顔をしながら駆けてきた。
邪魔をするつもりはないと断りを入れて、アトラスが来ていないかと尋ねてみれば、どうやらこのビテュニア宮殿には東西南北4つの大演習場の他に、その間を埋めるようにこれまた4つの練兵場、計8つもの練兵場があるそうで、そのどこに居るかは分からないと言われてしまった。
アーサーは下士官に礼を言いつつ、少し歩き疲れていたので、暫く見学していっていいかと尋ねてから、近くにあった椅子に腰掛けた。
かつてはこの広場いっぱいに広がるように、兵士たちが数十列もの縦隊を組んで、槍を担いでの行進訓練を行っていたらしい。槍を構えた兵士何百人もが一塊になって、同じように一群になった敵部隊に真っ直ぐ突撃していく。昔は大軍と大軍がぶつかり合う戦があちこちで行われたそうだ。
それがマスケット銃の登場で隊列は薄くて長い横隊へと変化し、今はライフルのお陰で、地面の下を掘り進んだり、一人ひとりがわざとバラついて行軍するようになっていた。
軍隊が形成する陣形は面から線に、線から点に変わっていったわけだが、それは兵器がどんどん火力と射程を伸ばしていき、一人の兵士がカバー出来る範囲が広がっていったからであろう。そのお陰で大軍同士がぶつかり合う決戦は殆ど無くなったが、逆に前線は広がり、死人は増えていった。
兵士たちは練兵場で腹ばいになって、2~300メートルほど先の的に向かって淡々と射撃を行っていた。ボルトアクションのライフルを構え、しっかりと狙って撃った弾は次々と遠くの的に命中していたが、アーサーはそれを見ながら漠然と、これでは駄目だなと思っていた。
昔を知らないアーサーからすると、今の軍隊がいかに驚異的な進歩を遂げたのかはわからない。だが少なくとも前線を知っている彼からすれば、これでもまだエルフを相手するには足りない、と言うことだけは分かっていた。
いくら正確に狙えても、届かなければ意味が無いのだ。油断をしていないエルフは弾をはじく。狙いがどんなに正確でも、結局エルフには当たらないのだ。
遊底を引いて、排莢し、弾を込め、元に戻して、引き金を引く。これだけのアクションを繰り返していては連射が出来ない。だから前線では弾込めしやすい中折式のライフルが主流で、命中率は二の次だった。
今、目の前で練習しているそれではエルフ退治には役に立たない。彼らは、人間を殺すための訓練をしているに過ぎないのだ。無論、軍隊の性質上、それは必要なことだが、しかし人類の敵が間近に迫っている今、そんなことをやっている意味はあるのだろうか。
「よう、やけに熱心じゃないか。ライフルに興味があるのか?」
アーサーがそんな兵士たちの訓練風景を見ながら、ボルトアクションの弾込めの真似をしていると、休憩中らしき兵士が声をかけてきた。彼はそう言ってから、アーサーの腰にぶら下がっているカービンライフルをちらりと見て、
「なんだおまえ、前線帰りかよ。やけに見栄えの良いマントなんか付けてるから、俺と同じ貴族かと思えば、どこの田舎から出てきたんだよ」
アーサーのマントはカンディアの物で、今となってはアナトリア帝国のマントは珍しかった。田舎者扱いされるのは癪だが、確かに今のカンディアはど田舎である。兵士が馴れ馴れしいのも仕方ないだろうと思い、アーサーは渋々、
「俺はこの国の貴族ではないのだ。前線帰りというのは確かだが」
「見りゃあわかるよ。それより、どうだい? 俺と一つ勝負しないか?」
「勝負……?」
「俺のこいつと、おまえのそいつとで的を撃ちあうんだよ。より的の中心に当てられたほうが勝ちだ」
「そんなの、命中精度が違うんだから、そっちが勝つに決まってるだろう」
「やってみなければわからないだろう? もし、おまえが勝てたら、俺のこいつをおまえにくれてやってもいいぜ。その代わり、おまえが負けたら金貨一枚だ」
アーサーは兵士のライフルをちらりと見た。アスタクス軍の正式銃で、量産型の一品である。量産型と言ってもそれなりに高価で金貨換算では3枚くらいはするだろうから、賭けとしては悪くないだろう。
尤も、別にそんなもの欲しくもないし、ヴェリアで普通に扱ったことがあったからどうでも良かった。ただ、勝負と言われて尻込みをしていては騎士の名折れである。
「どうした? 金が惜しくて怖気づいたか?」
おまけに挑発されては逃げるわけにもいくまい。ベネディクトにもらったあぶく銭もあることだし、アーサーは仕方ないと言った感じに、
「いいだろう。では、ルールはどうする? 一発勝負か?」
すると兵士はアーサーがやけにあっさり受けたことに目を丸くしながら、
「あ、ああ、いや……それじゃあ、10発勝負でどうだ」
そんなに慎重にならないでも良いだろうに、万が一を避けたいという匂いがプンプンしていたが……アーサーは別段気に留めること無くそれに応じた。
そうして二人が射撃場に入っていくと、周囲の兵士たちからヤジが飛んできた。どうやら、この手の勝負はよくあるらしくて、みんな慣れたものである。そういえば、なんとなく気軽に勝負を受けてしまったが、彼の賭けているライフルは軍の装備品ではなかろうか……勝手に賭けの対象にしても良いのだろうかと、少々疑問にも思ったが、おそらく初めから負けるつもりがないのだろう。出来れば、吠え面かかせてやりたいものである。
そんなことを考えつつ、アーサーがぼけっと突っ立っていると、兵士は腹ばいの格好で彼のことを見上げながら、
「どうした? お前も構えないのか」
「俺は立ったままのほうが慣れている」
アーサーがそう言うと、周りの兵士たちがゲラゲラ笑いだし、戦場で棒立ちだと蜂の巣にされるぞというヤジが飛んできた。塹壕の中から撃つのだから立って射撃するのが当たり前なのに、彼らは実戦経験がないのだろうか……アーサーは何が戦場だと思いつつ、なんだかバカバカしくなってきて、
「もう撃っていいか? わざわざ交互に撃つ必要も無かろう」
と言うと、300メートル先の的に向かって、ライフルを構えた。そして……
タンッ! タンッ! タンッ! タンッ! タンッ! タンッ!
っと、リズミカルに射撃を開始すると、あっという間に全弾を撃ち尽くして見せた。
そのあまりの連射速度に唖然としている下士官から、アーサーは双眼鏡をひったくって的を眺めてみた。弾は全弾とも的に命中していたが、かなりバラつきがあって、殆どが左側に寄っていた。おそらく、高速装填の際に徐々に体が開いてきてしまうのだろう。
自分の癖が分かったことは瓢箪から駒だったが、やはり、これでは勝負にならないだろう。アーサーはボリボリと頭を掻きむしると、まあ仕方ないな……と早々に勝負を諦めて、今自分のやった射撃を何かに活かせないかなと余所事を考えはじめた。
対エルフ戦線の最前線では、とにかく弾幕を張るという観点から、狙いよりも装填速度に重きを置いている。だからみんな装填のし易い中折式と、銃身を切り詰めて振り回しやすいカービンライフルを使っているのだが、その中でも格段に連射速度が早いアーサーは、実は射撃方法にも特徴があった。
彼は引き金を引くとほぼ同時に排莢作業を開始しており、まだ若干の反動が残った状態で遊底を開くことによって、空薬莢が飛び出し、銃を傾けるだけで落ちてくるのを利用していたのだ。そのお陰で、本来ならば指で引き抜かねばならない排莢作業の手間が省け、ワンアクションを減らせる分だけ次の射撃が早くなるという寸法である。
タコ壺に取り残された子供たちがエルフに殺されそうになった時、一人で弾幕を張り続けようとして咄嗟に思いついた方法だったが、これを新たな銃を制作するのに役立てないだろうか……
そんなことを考えていると、ふと気がつけば、その場に居た兵士たちがいつの間にかヤジるのもやめて、アーサーのことをじっと見つめていた。彼は何か文句でもあるのかと、兵士たちを睨み返してから、そういえば勝負の最中だったと思い出し、
「おい、貴様いつまで待たせるつもりだ。さっさと撃て」
と、彼のことを見上げたまま固まっている兵士に、憮然とした表情で言い放った。すると、
「その辺にしておけ。君たち、そこにいる少年を誰だと思っている」
おかしな空気が漂っていた射撃場に、穏やかで落ち着いた声が響いた。見れば射撃場の入り口で腕組みをしながら、じっとこちらの方を睨みつけている栗色のロングヘアーが見えた。
アーサーの政敵、ベネディクト・ミラーである。
まさかこんな場所で再会すると思わなかったアーサーが、露骨にげえ~っとした顔を見せると、勝負の審判をしていた下士官が慌ててベネディクトのもとへと駆け寄り、
「サー・ベネディクト! これはこれは! イオニアのプリンス様ではありませんか! このようなむさ苦しいところまで足を運んでくださるとは、誠に光栄です。ささ、よろしければこちらの見やすい席へ腰掛けください」
彼は迷惑そうな顔をしながら、
「何度も言わせるな。私は、君たちに、その辺にしておけと言っているのだ」
「は? と、申しますと?」
「君らが金貨を巻き上げようとしている相手は私の従弟。カンディア公爵アーサーであるぞ」
ベネディクトが言うやいなや、それまでニヤついた顔で野次っていた兵士たちがどよめいた。アーサーに勝負を挑んだ兵士に至っては、顎が外れそうなくらい驚愕の表情を浮かべている。
基本的に親の七光りを最大限活かすために、アーサーは初めてあった相手に自己紹介を欠かすことはない。しかし、さっきは考え事をしていて、どうやら忘れてしまっていたようだ。
我ながら珍しいことがあったなと思いつつ、アーサーは肩をすくめて、
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はカンディア公爵アーサー・ゲーリック。先程貴様らの主人である候爵と会ってきたところだ。ビテュニアはいい街だな」
といって、握手をしようと手を差し出すと、兵士は仰天したと言わんばかりにゴロゴロっと地面を転がりながら後じさり、
「た、大変失礼いたしましたぁ~!!」
と言って、まるで土下座でもするかのように頭を地面に擦り付けてから、泡を食って逃げ出していった。その彼の動きに呼応して、他の兵士たちもバタバタと練兵場から飛び出していく。
「……急になんだ、あいつらは。勝負はどうするんだ?」
「まだそんなこと言ってるのか」
射撃場の中に取り残されたアーサーがポカーンと事の成り行きを見守っていると、実に忌々しそうに辛辣な口調でベネディクトが言った。
「君は彼らにからかわれていたのだぞ。彼らは時折ああやって、前線帰りの兵士を挑発しては金を巻き上げていたんだ」
「なに? なんでそんなことをするんだ」
「この国の下士官は基本的に貴族で、前線の任務には身分が低い者がつくからだ。彼らは君のその銃を見て、身分の卑しいものだと馬鹿にしていたのだよ」
アーサーは目を丸くすると、すぐに脱力してため息を吐いた。
「妙に突っかかってくると思ったら、そんな馬鹿げた理由だったのか。前線のことを何も知らずに、身分の貴賎だけで優越感に浸ろうなど、情けない話だな」
恥ずかしいと感じるよりは、むしろ哀れだと同情を覚えてくる。
身分の貴賎が戦場を分けるなら、恐らく彼らはこれから一生戦場に出る機会もないのだろう。それじゃあ何のためにあんな訓練を続けているのだろうか。彼らは一体何と戦っているのか。身近に迫った脅威に見向きもせず、ただ漠然と軍隊の真似事だけをさせられてるのだとすれば、哀れなものだ……
そんな風にアーサーが涼しい顔をしていると、
「ふむ……暫く見ないうちに君は感じが変わったな」
ベネディクトがそんなことを言い出した。
「……そうか?」
「ああ。以前の君であれば、バカにされたと言って、今頃癇癪を起こしていたはずだ」
まあ、そうかも知れないとアーサーは思った。それは以前のアーサーが、彼らと同じく戦場を知らなかったからだろう。それまでの彼はエルフの脅威をこれっぽっちも考えること無く、安全な場所で根拠もなく自分は偉いと思っていた。
でもそれは実際には、自分は何者でもないという自信の無さの表れで、他人をコケにすることで自分は優れていると思い込みたかっただけなのだ。だから些細な事ですぐに攻撃的になった。
本当に何かを成す人は、自分の力の無さを知っている。
アーサーは、カンディア公爵だリディア王だと口走ってはいたが、その重みに関しては、実はついさっきまで本当の意味に気づいていなかった。
リディアを奪還するということ。
魔王と戦うということ。
それがどんなに難しいことなのか、想像すらせず口にしていたのだ。おまけに今、その正当性に迷いを感じてさえいるのだ。それに比べて、たかが一兵士に馬鹿にされたところで、大して腹も立たなかった。
「いや、別に腹が立たないわけじゃないんだ。ただ、そんなこと気にならないくらい、他のことが気になってどうしようもないんだよ」
「ほう……何か悩んでいるのか? だったら、さっさと吐き出して楽になるといい」
アーサーはヴェリアでもよくこんなやり取りをしたっけな……と思いながら、口を開きかけた。だが、すぐに相手が幼馴染の従兄ではなく、政敵であったことを思い出して、ムッと眉間に皺を寄せて不機嫌になった。
「何故そんなことを貴様に言わねばならんのだ。俺と貴様は敵だろう」
「敵? 何を言っているんだ。イオニアとカンディアは友好国で、ミラー家とゲーリック家は親戚関係ではないか。どこに敵対する理由などがある」
あっけらかんとそう言うベネディクトに対し、流石にアーサーもこれにはカチンと来た。よくイジメは、いじめた方は覚えてないと言うが、そんな感じだろうか。頭にきた彼は何か言い返してやろうと、口を開きかけたが、それよりも先にベネディクトが、その貴公子然とした顔を崩しながら、
「それより、さっきのライフル捌きは実に見事だった。君には射撃の才能もあったのだな。私には君の手元が殆ど見えなかったよ。君の器用さと集中力はずば抜けたものがある。思えば君はお母様に習った裁縫の腕も見事だったし、きっと指先の器用さと集中力がそれによって鍛えられたに違いない。昔の君はそれを恥ずかしがっていたが、この素晴らしい特技を伸ばしたことは間違いじゃなかったんだ。これを誇り、お母様に感謝しなくてはいけないよ」
そんな風にべた褒めするベネディクトの顔が本当に嬉しそうだったから、アーサーは振り上げた拳のやり場が無くなったと言った感じに脱力した。
そう言えば、こういう奴だった。長所はどんなものでも偏見を持たずに褒め、逆に悪いところがあれば必ず批判する。良くも悪くもはっきりした性格である。アーサーはこの性格に助けられもしたし、逆に煩わしく思うこともあった。
なんだか懐かしいなと思うと同時に、怒るのもバカバカしくなってきて、彼はわざと長い長いため息を吐いてから、
「母上にはいつも感謝している。言われるまでもない。だが貴様が俺を左遷したせいで、ヴェリアに近づけなくなったのではないか」
「それならば手紙を出せばいいだろう。伯母様とこの間お会いしたとき、おまえからの便りがないと嘆いておられたぞ」
「原因を作ったやつが偉そうにほざくな。腹立たしい」
「自分の筆不精を他人のせいにする奴があるか。君は間違っている」
「だから、ヴェリアに居ればそもそも手紙なんか書く必要なかったんだろうが……」
アーサーはうんざりとしながら、かつてヴェリアから追い出される前に散々やり取りしたことを聞いてみた。
「……なあ、ベネディクト。後継者に決まった貴様が家中のことを決めるのは当然だが、どうして俺を左遷したのだ。そこまでする必要があったのか」
するとベネディクトは何の衒いもなく言い切った。
「言うまでもない。それはアーサー、君が私の権力掌握の邪魔だったからだ」
良くも悪くも、本当にはっきりした奴である。
ヴェリアから出る前、アーサーはこの邪魔と言われることが悔しくて、よく喧嘩したものである。今思えば何故そこまで拘っていたのかと思いもするが……あの頃と比べて、少し冷静になった彼は言った。
「どうしてそこまで嫌がるのだ。俺は別にヴェリアに居ても、貴様の邪魔などしなかったはずだ」
「そんなことわからないだろう。現に今、こうして文句を言ってるではないか」
「それは……まあ、そうだが。順序が逆だろう。貴様に追い出されたから、こうして文句を言ってるわけで……」
「では何故、こうなる前に全力を尽くさなかったのだ」
「俺は本気だったぞ。本気でやって、そして負けた……ええいっ! それが勝ったものの言うセリフか」
「いや、君は本気を出していない。君にその気があったなら、お祖父様に言えばあんな茶番はすぐに取りやめになっただろう」
「はあ!? そんな卑怯なこと……」
アーサーの反論を遮って、ベネディクトが怒鳴りつけるように言った。
「君が当主になってさえ居れば、こうはなっていなかったはずではないか!」
ベネディクトの正論に、アーサーは何も言い返せなかった。
確かにあの時、アーサーは全力を尽くさなかった。そうしたところで、どうせベネディクトには勝てないと思って、初めから諦めていたのだ。彼のほうが年長者だし、人望があったし、そう言い訳していたほうが、自分が傷つかなくて済むからだった。
「それが自分にとって本当に大事な場所であるのなら、卑怯になれないでどうするんだ。実力が足りないのであれば、汚い手を使ってでも私を排除すれば良かっただろう。君は君が思うよりも、ずっと家中に影響力があったのだよ。リディア王家に仕えていた人たちは、君を王子と慕っていたし、その中にはお祖父様も含まれていた。君が望めば、何もかも手に入れられたはずなのに、君はそうしなかった。何故だ」
それは多分、アーサーはミラー家を継げなくても、実はそれほど悔しくなかったからだろう。その証拠に、実はあの時ベネディクトが後継者に選ばれたことに、ホッとしている自分が居た。
「私はそんな君よりも、自分のほうがミラー家の当主に相応しいと思っている。だからそのチャンスが巡ってきた時、自然とこういう方法を選んだに過ぎない」
「……そうか」
「なあ、君。もしも、私と争ったのがミラー家の家督ではなく、リディア王家だったなら、一体どうしただろうか」
そう言われて、アーサーは全身にゾクゾクっとするような震えが走ったような気がした。
ずっと探していた答えが、今まさに目の前にあった。
アーサーはリディアを知らないが、そこに住んでいた人たちの思いは知っている。亡き父ウルフ。ヴェリアで帰りを待つ母ジル。従者のエリックとマイケル。ランやその他大勢の人たち。かつては彼らがアーサーに抱いている勝手な期待が、重くのしかかり押しつぶされそうになっていた。でも今は違う。彼ら一人一人の思いが、今、自分を動かす原動力となっていた。
ベネディクトの言う通りだ。勝利は掴むものじゃない。どんな卑怯な手を使ってでも、奪い取るものなのだ。
「そんなものは決まっているだろう。貴様なんぞコテンパンのケチョンケチョンにして、簀巻にして海に捨ててやる」
ベネディクトは穏やかに微笑んでいた。
アーサーはその何もかも知っていると言わんばかりのしたり顔が悔しくて、フンッとそっぽを向いて唇を尖らせた。
ベネディクトも魔王も良いやつだ。だが良いやつだからと言って遠慮していたら、何も手に入らない。
返す返すも無念なことだがアーサーはリディアを知らない。だが、今その故郷がエルフに蹂躙されている。アーサーの大事な人たちの思い出が、踏みにじられているのだ。
ならば迷うことなどあるだろうか。魔王にどんな理由があるか知らないが、行って文句の一つもつけてやらねば気が済まないだろう。たとえそれがどんなに自分勝手だとしても、アーサーがリディアを奪う理由としては十分だった。
こうしてアーサーは本当の意味で、リディア奪還を決意した。何しろ彼はカンディア公爵アーサー・ゲーリック、リディア王になる男なのだ。