まるで血の通わない人形みたいだ
リディア軍、征メディア軍団はクリスマス休戦明けに首都ローデポリスを進発し、およそ200キロの距離にある前線まで10日間の行程で進軍、無事ヴィクトリア峰基地に到着、河川を見下ろす斜面を覆うように布陣した。数はおよそ6000、現代で言うと旅団規模のリディア軍は数の上ではメディア軍の倍近くあったが、敵陣の地形と兵の精強さの違いで突破は難しく、苦戦を余儀なくされていた。
亜人兵は、その一人ひとりが人間の比ではなく精強であり、およそ3対1で互角とされた。しかし、元々一匹狼の気質の亜人は味方との連携が取れず、密集陣形に弱かった。
そのため、平地では数に物を言わせた人間の、面の攻撃の方が優位であったのだが、一度それが隘路などでの遭遇戦になると、亜人による点の攻撃になすすべがない。
ヴィクトリア峰を巡る争いでは、初めこそ人間が海岸付近の平地で迂回攻撃を行い、優位にことを進めていたのであるが、それがヴィクトリア峰南部の河川に到達すると、渡河に手間取り、そこをメディア軍に突かれて消耗を強いられた。
川幅は約30~50メートルと広くもなく狭くもなく、至って普通の河川であるのだが、視界が開けているため渡河の準備をすると、向こう岸の高台に防塁を築いたメディア軍に狙い撃ちにされる。
兵を分け、少数で対岸への迂回攻撃を行おうにも、東は森に阻まれ、西は外洋で船を出せない。また、兵の強さは相手が圧倒的に上であるから決死行に成りかねず、結果的に双方とも手詰まりとなり、川を挟んで弓を撃ちあうくらいしかやることがなかった。
戦線は膠着状態のまま、それがもう10年近く続いていた。
そんなわけで、厭戦感情が熟成しきった去年の暮れ、遂にクリスマス休戦の協定が合意に達すると、リディア軍の士気は未だかつて無いほどにまで落ちこみ、休戦明けの今になっても規律はだいぶ緩んでいた。それはメディア側も同じようで、再開戦初日こそ双方が儀式のように弓を撃ちあったが、翌日には睨み合うだけでどちらも動こうとはせず、偵察も明らかに減っている印象だった。
リディア軍大将マーセルはこの局面に際し奇策を講じた。規律の引き締めを図るよりも逆に緩めて、敵軍の油断を誘うことにしたのだ。亜人は体こそ頑丈であるが、頭の方は人間と比べてかなり残念としか言えない。こちらが油断していると思わせて、相手の隙を窺おう踏んだのだ。
実際、リディア軍が3日に渡って斥候も出さず、弓も射掛けずのんびりと構えていると、メディア側は隙に乗じて攻めてきたり、威力偵察さえもせずに、漫然と防塁に引きこもっていた。10年近くも同じことをやっていたため、攻めるという考えがないのだ。
敵軍は完全に油断しきっている。そう判断したマーセルは参謀本部にて作戦会議を実施し、川を迂回することによって、敵の側面に奇襲部隊を展開させることを決意した。そして再開戦から10日後の新月の晩、山の裏側に秘密裏に集結させた奇襲部隊に、側面の森を遮蔽物として進軍、渡河し、敵陣の背後に回りこむように指示した。
シモンは、それに参加していたそうである。
彼が何を考えてそうしたのかは、今は考えないでおこう。ともあれ、結果として、この作戦は失敗に終わった。将軍の目論見通り、完全に油断しきっていたメディア軍は気づかなかったのだが、エルフに気づかれたのだ。
もちろん部隊は慎重を期して森には入らなかった。だが、森を遮蔽物としていた手前、森のすぐ脇を通っていた。普通なら、少し近づくくらいではエルフに遭遇したりはしないのだが、その異常事態がこの大事な局面に限って起こってしまった。
どうやらリディア・メディア両軍とは違い、戦が再開すると、エルフの方は人間たちの接近に対して相当過敏になっていたようなのだ。
そして大勢の人間が自分たちのテリトリーに近づいたのを見るや否や、エルフは狂ったように攻撃してきた。
エルフの登場により魔法戦が始まると、部隊長は即座に任務失敗と判断し撤退、エルフから逃れるために山の斜面を登り、山頂経由でリディア陣地を目指した。しかし、魔法戦に気づいたメディア軍からの応援にあっという間に追いつかれ、部隊は背後から激しい攻撃を受けて潰走を余儀なくされた。
奇襲部隊のため戦力が少なかったこと、退却路が登山道であったため進軍速度に劣っていたこと、メディア軍に近づきすぎていたこと、山向こうの出来事で参謀本部が気づいた時には手遅れだったこと。様々な悪条件が重なって、増援が駆けつけたころには、部隊は大打撃を受けて、百人以上の犠牲者を出して、なおも遁走中であったと言う。
ブリジットの口からその報告を受けたシモンの両親は肩を落としてくずおれた。母親が声を上げて号泣し、父親は死人のような顔で身じろぎ一つしなかった。
もはや面接などやってられるわけもなく、但馬は集まった人々に事情を説明して帰ってもらった。彼らは突然のことに戸惑いを見せたが、不満を口にすること無く、お悔やみを述べると去っていった。まさか前線でそんなことが起きてるとは知らず、みな一様に驚いているようだった。
前線の悲劇が市内に伝わり一週間、市内は喪に服し、活気を失っていた。ローデポリス中央広場では国葬が執り行われることになり、このところの厭戦感情もあって、参列する人々からは口々に停戦を求める声が上がっていた。
いつも但馬が寝っ転がっていた植え込みは、いま献花台が置かれて、色とりどりの花で埋め尽くされていた。犠牲になった一人ひとりの名が刻まれたプレートが掲げられており、そこにシモンの名前を見つけると、名状しがたい物悲しさに見舞われた。
こうしてヴィクトリア峰をめぐる争いは、リディア軍の撤退という方向へと流れが変わり、長く続いた戦争が、一応の終結を見ようと動き出して行く。それは多くの人の心に傷を残し、何も生み出さないものだった。
思えば、アナスタシアの父親が首を括ったのも、この戦争が切っ掛けだった。その結果、彼女は売春婦に落とされ、シモンは戦死し、彼の両親は今涙に暮れて、なんといって声をかけていいのか分からない。順風満帆だった工場建設も滞り、但馬はもう何から手を付けて良いのか分からなくて、ただ日がな一日飲んでは寝てを繰り返していた。
ほんのちょっぴりいい気になっていた。だからバチが当たったのかも知れない。みんな口をそろえて、但馬のことを褒めそやしたが、やはり自分は誰かの力を借りないと何も出来ない。ただの異邦人に過ぎない。守ってくれる家族もない。帰る家などどこにもないのだ。
それでも、どうにかこうにか気を取り直すと、彼は再度水車小屋に戻ってきた。今回のことで事情を察して待ってもらっては居るが、官庁への紙の供給も、新しく始めた石鹸の受注も捌かなければならない。
シモンの父親の助けは正直もう得られそうもなく、今後の展開は全く先が読めない。それでも、やれることは一つずつ片付けていくしかなく……
しかし、一体どこまでやればいいのだろうか。
一体、何をやっているのだろうか。
元々、紙も石鹸も、シモンがアナスタシアを助けたいといったから始めたのであって、但馬が生活のために行っているわけじゃない。その彼が死んでしまったら、積極的にこんな面倒くさいことをやる理由はないのだ。
但馬はすでに金持ちで、働かないでも生きていけるし、何のしがらみも持ってないから、その気になればどこにだっていけるのだ。もう、こんなことは忘れて、酒でも飲んで、面白おかしく暮らしてけばいいじゃないか。面倒くさいことは全部放棄して、元の世界に帰る方法だけを探してればいいじゃないか。
水車小屋の曲がりくねった廊下を通り、いつもの光りあふれる動力室への扉をくぐると、これまたいつも通りのアナスタシアが、以前と変わらないまま紙に熱心に聖書の言葉を書き綴っていた。
まるで血の通わない人形みたいだ。
彼女は但馬が入ってきたのに気づくと、ちらりと視線だけを上げて、手を止めて何かを言いかけたが、やはり何も言えずに口をつぐんでいた。
但馬も何かを言いたいのだが、何を言って良いのか分からず、思い浮かぶのは挨拶位のもので、
「おはよう……」
とだけ言うと、それ以上何も言わずに水車の前に座って、モクモクと作業を始めた。
彼女はこの数日、何をしていたんだろう……
やっぱり体を売っていたんだろうか……
但馬は嫌なことばかり考えてしまいそうで、耳をふさぐように両手で頬を叩くと、作業に没頭した。川の流れる音と、彼女の鉛筆と、水車の回るコトコトとした音が、まるで眠りを誘うかのように規則正しくリズムを刻んでいた。けれど頭の芯が冷えていて、全く眠気は感じなかった。
と、そんな時、トントンと部屋の扉をノックする音が聞こえて、珍しい来客がひょっこりと顔を覗かせた。
「こんにちわ、先生。お時間よろしいですか?」
見るとブリジットが大きな荷物を背負って立っていた。
彼女は育ちが良いせいか、水車小屋を嫌ってここまで踏み込んでくることは稀だった。一体何の用事だろうかと、但馬は彼女を部屋の中へいざない、自分もアナスタシアの居る作業台の椅子に座った。
「この数日、姿はお見かけしてたんですが、中々声がかけづらくて」
そう言うと彼女は背中に背負っていたつづらのような籠を、どすっと地面に置いた。中を覗き込んでみると、
「……タケノコ? それも、こんなにいっぱい……」
但馬は籠の中から一つを手に取ると、何の変哲もないそれをためつすがめつ、クルクルと見回した。タケノコご飯でも作りたいのか。それとも鍋でもやりたいのか。
「それ、シモンさんの遺留品です」
その言葉があまりに意外すぎて、思わず持っていたタケノコを地面に落としてしまった。但馬は慌ててそれを拾いなおし、
「え? どういうこと?」
「前線のヴィクトリア峰に竹が生えてるんです。山の斜面に群生しているんですが、大きい木なのに何故かエルフがやってこないんで、前線では積極的に遮蔽物として取り入れているんです」
それは竹が木ではなく、草という扱いだからだろうか?
ともあれ、シモンはそのことを、紙の大量生産の道が途絶えた時に思い出したらしい。但馬は植物からなら、何からでも紙が作り出せると言っていたから、もしかしたらこれも使えるかも知れないと思ったのだ。
「前線についたら彼は休日を利用してタケノコを掘りに行って、籠に詰めて荷物を作ってました。先生に送るんだって。それで、手紙を書きたいけど文字が分からないからって、私に書き方を尋ねて来まして……」
そう言って彼女が差し出した紙切れには、汚い文字で、
『先生、おれもやくにたつっしょ』
と、書かれていた。
『しもん』
シモンはこれを取りに行っていたのか……
彼は紙の大量生産をまだ諦めて居なかったのだ。
黙って行ったのは、きっと照れ隠しか何かで……帰ってきたら、自分のアイディアで採用される予定の竹を使って、但馬と工場を建てるつもりだった。だからアナスタシアに帰ってきたら結婚しようと言えたのだ。工場さえ建てば、きっと但馬がなんとかしてくれるに違いないと思って。
「ヴィクトリア峰の抑えを盤石にするため奇襲隊に参加すると言われた時は、はっきり言って驚きました。もちろん止めはしたんですが……それでも自分も何かがしたいんだって言われまして……立場上、それ以上は強く止めることが出来ず……すみません」
そう言ってブリジットは頭を下げた。
但馬は長い長い溜息を吐いた……ブリジットのせいじゃないのは分かり切っている。シモンは竹林を守りたかったんだ。もちろん、自分の夢を叶えるためにだ……
何を考えているのか分からなかった。でも、分かってしまえば、やっぱりシモンはシモンだった。
「ナースチャ!」
いつの間にか外が暗くなっていた。もう間もなく、水車小屋は売春宿に切り替わる。
ジュリアの声が聞こえて、話を聞くとはなしにぼんやりと聞いていたアナスタシアが、すたすたと部屋から出ていこうとした。彼女の感情はフラットで、やはりどんな時でもそう変わりはしない。
親が死んでも、幼なじみが死んでも、婚約者が死のうとも、彼女は理由がない限り、きっと体を売るのだろう。きっと、これからも売り続けるつもりだろう。他に生き方を知らないのだ。心がすり減ってしまって、もうこれ以上疲弊のしようがないのだ。
14歳の小娘が、どうしてこんな不幸ばかりを背負い込まなけりゃいけないんだ。
但馬はその手を掴んで、ぐいっと後ろに引っぱった。
「先生……?」
戸惑う彼女に黙って首を振るうと、但馬はブリジットに彼女を預けて、一人で部屋を出て行った。
水車小屋の外にはジュリアが居て、そろそろやってくるだろうお客を迎える準備に忙しそうだった。但馬がそれに近づくと、彼女は振り返ったが、やってきたのが自分の呼んだアナスタシアではなくて、但馬であると気づくと、
「あら~? ナースチャはぁ? 部屋に居なかったのかしら~ん。そろそろお客が来るのよ~、用事ならあとにしてくれな~い?」
と、怪訝そうな素振りで但馬に言った。彼は、
「ジュリアさん。もう、彼女に客は取らせないでくれ」
出来る限り誠実に、彼女の目を見ながらそう言った。
ジュリアは初め、但馬が何を言ってるのか分からなかったようだが、すぐにその表情が真剣であることに気づくと、
「……決めちゃったのね?」
いつもとは少し違う、真面目なトーンで言うのだった。
「ペットを飼うのとはわけが違うのよ?」
「そんなことはわかってるよ」
「あなたがこれから何をするにも、あの子はあなたの足かせになるでしょう。あの子の人生を、あなたは背負い込めるの?」
「それはやってみなきゃわからないけど……」
「あの子は他の生き方を知らないのよ。あなたが手放せば、仮にお金の心配が無くっても、きっとここへ戻ってきちゃう。どうせそうなってしまうなら、いっそ私が手元で面倒をみようかなって思ってたんだけど……」
そうなのかも知れない。でも、だったら、
「ずっとそばにいてあげて、面倒見てあげられる?」
「努力するよ」
「あなたがそこまでする義理もないでしょうに」
「無くったって別にいいだろう」
「軽い気持ちで引き受けても、きっと後が続かないわ。あなたが同情する気持ちは分かるわ、いいえ、誰だって同情するでしょう。でもお金を施しただけではもう、あの子は救われないのよ。知ってる? そう言うの、偽善って言うのよ?」
「偽善の何が悪い!」
但馬は叫ぶように言った。
「同情して何が悪い! 目の前に助けられる生命があるのに、手を差し伸べて何が悪いんだ! 人間なんだ、間違えたって、別にいいだろう? 俺はもう、我慢できない。見て見ぬふりは、もうたくさんだ。別にシモンに義理立てしようとか、アーニャちゃんに気があるとか、そんなんじゃないんだ。単に気に喰わないんだよ。落ち着かないんだよ。苦しくて仕方ないんだよ。本当はもっと早くに、こうしておけば良かったんだ。そうすれば、シモンは死なずに済んだのに……偽善の一体何が悪いってんだよ!!」
気がつくと肩で息をしていた。但馬は本当はこんな大声で叫ぶようなキャラじゃない。だけど、一度口を開いたら止まらなかった。ずっと腹の中で燻っていたものが、一気に燃焼したみたいだった。
ジュリアはそんな但馬を見て、やがて諦めたように微笑んで言った。
「そう……なら、そうしなさい。でも、一つだけ約束してくれる?」
「なんだよ?」
「もしもこれからあなたが道に迷うことがあっても、あなたはあなたのために生きなさい。あの子のためには生きないで。それはあの子を一番裏切る行為よ」
さっきと言ってることが逆じゃないのか……そんな風に彼女は良く分からないことを言うと、ぽかんと口を開いている但馬の頭を、そのゴリラみたいにでかい手で、くしゃくしゃと撫で回した。
それはいい年した男がやられるのは小っ恥ずかしいことだったが、不思議と逆らう気にはなれず、但馬はじっとしてそれを受け入れた。歯を食いしばっていないと泣きそうだった。
本当に何でなんだろう。
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翌朝、但馬はアナスタシアをシモンの家に預けると、まだ暗いうちに街を出た。
彼女を連れてやってきた但馬を、何も言わずにシモンの両親は迎え入れてくれた。まだ息子が死んで間もなく、迷惑をかけて申し訳なかったが、彼女をいつまでも水車小屋に置いておく気にはなれず、他に頼るあてもなく、その好意に甘える事にした。
彼らはアナスタシアを本当の娘のように可愛がってくれた。
もしもシモンが生きていたら、実際にそうなっていたはずなのだが、彼らはそれを知っていたのだろうか。そんなことを考えながら、団欒を尻目に、但馬は黙って店の方へとやってくると、そこにあった商品を一つ一つ見て回っていた。
「何をしてるんだ?」
やがて、一つの得物を手にとって、その使い勝手を確かめていたら、いつのまにやら背後に立っていたシモンの父親が言った。
但馬はそれには答えずに、手にしたそれを差し出すと、
「これ、売ってもらえませんか」
そして翌朝、但馬は一振りの斧を買い取ると、アナスタシアを彼らに預け、斧を引きずるようにしながら、まだ暗いうちから街の外へと足を運んだ。
「先生、どちらへ行かれるんですか?」
ローデポリスの城門をくぐると、そこにはブリジットとエリオスが立っており、
「追手がつくって言いましたよね?」
彼女は少し困った素振りでそう言った。
「……別に、この国から出ようってんじゃないんだ」
「それで、どちらまで?」
但馬はポリポリと頭をかくと、そろそろ白み始めた空を背負って、まだ真っ暗な方を指差して言った。
「西へ……」
目的地はヴィクトリア峰、シモン最期の地である。