そして魔王、あらわる
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果たして私が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも私は胡蝶の見る夢なのか。
どちらが本当なのか私にはわからない。
私と胡蝶は形の上では区別がつくが、主観的には変わりないのだ。
万物の変化とはこれこういうことである。
荘子
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見上げればオレンジの太陽が昇っていた。
その昔、あの太陽は目が眩むほどにまばゆい白い光を放っていたらしい。
藍色の空は今よりずっと明るくて、赤黒い雲もまた純白に輝いていたそうである。
この荒廃した大地には、草木がどこまでも青々と生い茂り、マナの恩恵が無くても、放っておいても植物が勝手に育ったようだ。痩せこけた家畜は毎日ミルクを提供してくれたし、一度海に出た漁師がオケラで帰ってくることなんかもなかった。
イオニア海やアドリア海には沢山の商船が行き交っていて、ガッリア大陸と南北エトルリア大陸の物資を沢山積んでは運んでいた。カンディアはその重要拠点の一つで、入れ替わり立ち代り訪れる交易船との中間貿易で大いに栄え、アナトリア帝国の副都として、世にその名を轟かせていたそうである。
だが、今の州都ヘラクリオンにその面影はなく、盛んであったと言われるブドウ農園は、肝心のブドウが育たなくなり完全にその役目を終えて、人が住めなくなった宮殿の周りには、どこまでも荒野が続いている有りさまであった。
かつて世界最大の規模を誇った軍港も寂しいもので、たった今領主が乗ってきた以外に船はなく、以前は大型帆船が何十隻も停泊していた桟橋は、どうしようもないほどガランとしていた。
アーサー・ゲーリックは舌打ちした。今、自分の目の前に広がる、雑草すら生えない荒野を目の当たりにして、そしてこれがこれから自分の領地になるのだと知って、彼は絶望的な気分になった。
「忌々しいベネディクトめっ!」
彼は政敵の名を吐き捨てるように呟くと、足元に転がっていた石ころを思いっきり蹴飛ばそうとして……蹴った瞬間、それが地面から突き出していた岩の先端であることが分かり、涙を流して地面を転げまわる羽目になった。
ウルフ・ゲーリックとジリアン・ゲーリックの長男アーサーは、次期ミラー伯爵家の当主の座を従兄弟たちと争い敗北した。後継者争いの勝者ベネディクト・ミラーは、その地位を盤石のものとするため、自分と争った従兄弟たちを次々と左遷、特に伯爵家の中でも古参に人気が高いアーサーを警戒して、僻地カンディアへと飛ばしたのだった。
カンディアは言わずもがな、イオニア海に浮かぶ島国のことで、アーサーの父であるカンディア公爵ウルフが治めたアナトリア帝国の大都市である。ベネディクトはこの事実を元に、アーサーには父親の跡を継がせるべきだと言って、体よくミラー家から追い出したのである。
ミラー伯爵家は元々リディア王家の外戚関係にあり、対外的には対等な立場である。しかし実際のところ、現在のカンディアには見ての通り荒れ果てた土地があるだけで、名前だけを与えて実力を封じ込めたのが本当のところだった。
「坊っちゃん、大丈夫ですか……? 怪我してもすぐには治らないんだから、気をつけてくださいよ。俺、この歳で再就職なんて嫌ですよ」
アーサーが地面に転がりながらジタバタしていると、呆れた素振りの彼の従者エリックが手を差し伸べてきた。
「お母様にも言われてたでしょう。もっと注意深く物事に当たらねば、成功するものもしなくなる。そのままじゃ大成することは難しいですよ」
一体、どれだけの荷物を詰め込んだらそんなに膨れ上がるのだろうか、巨大なリュックを背負った料理長マイケルが小言を言う。
「ええい! 爺やみたいに小うるさい連中め! だからお前らなんかを連れてくるのは嫌だったんだ」
「そんなこと言ったって……俺達以外に坊っちゃんについてくる物好きなんて居なかったじゃないですか」
「ふんっ!」
つま先の激痛に耐えながらアーサーは立ち上がると、もう何年も放置されてボロボロになったアスファルトの道路を歩き始めた。彼の行く手にはカンディア宮殿があって、この薄暗い世の中では嫌でも目立つくらい光り輝いており、そのライトアップされた荘厳な姿がこの荒野の中でかえって不気味だった。カンディア島はシドニアの一部を除いて、今は殆ど人が住んでいないのだ。
さて、どうしてこんなことになってしまったのか……
結論から言えばもうこの世にアナトリア帝国は存在しない。あの日、あの時、エルフを引き連れた魔王軍がリンドスへ攻め入って以来、ガッリア大陸は人が住めない土地になってしまったからだ。
今を遡ること15年前。
女性問題で失脚した時の宰相・但馬波瑠は、自分を陥れた議員たちに復讐するためメアリーズヒルへ戦力を結集、島流しにされる寸前にクーデターを起こした。
その不穏な動きをいち早く察知した皇帝ブリジットは、彼の野望を阻止するために近衛兵を率いて出陣するも、善戦及ばず帰らぬ人となる。
皇帝を亡き者にした但馬波瑠は、自らを魔王と呼称し、森のエルフをけしかけて首都リンドスを急襲した。彼はエルフ討伐に多大な貢献をしたという実績があったが、なんてことはない、彼がエルフを操っていたのだ。
なんと、但馬波瑠はエルフの王様だったのだ!
エルフの襲撃を受けたリンドスの街は、皇帝の不在もあって混乱の極みに達した。そしてこれも魔王の奸計か、その時、何故か指揮官クラスの殆どが居なくなっていた帝国軍は、襲い掛かってくるエルフに為す術もなく、あっという間に城壁内にエルフの侵入を許した。
指揮官を欠いた帝国軍人は、それでも果敢に応戦を続けたが、そんなものはもはや焼け石に水であり、ほぼ全ての兵士が犠牲となった。そして当時50万都市にまで膨れ上がっていたリンドス市民は、一夜にしてその半数が失われたと言われている。
海流に流されて対岸のイオニアに流れ着いたおびただしい数の死体の山は、エトルリアの人々を凍りつかせた。引き上げても引き上げても、後から後から死体が流れ着いてくるのである。運良く生き残った人々は、ハリチ経由で新大陸に逃げ延びた人たちだけだったそうだ。
かつて世界最強を誇り、華美を極めたアナトリア帝国は、こうしてたった一夜にして消え去ってしまったのである。
魔王の侵攻はまだ終わらなかった。リンドスを地獄の炎で焼き払った魔王は、そのままティレニア帝国に侵攻を開始した。そして、山を登らないと信じられていたエルフが中央山脈を越えてタイタニア山を強襲し、あっけなく首都サウスポールは陥落した。
他国との接触を避けていたティレニア帝国はエトルリア皇国との連携を欠き、その後も敗戦を重ね、ほぼ無抵抗のままティレニア半島から人類は駆逐された。
被害はそれだけに留まらない。ティレニア半島に勢力を拡大したエルフが海峡を渡り、ついにエトルリア大陸に上陸を開始したのである。エトルリア大陸南東部は山がちで森林が多く、海を渡ったエルフに定着される恐れがあった。水際で食い止めようとしたエトルリア皇国軍であったが、元々そこは海運に頼っていた土地柄で陸上の防衛には向かず、後退を余儀なくされる。
その後、総大将アスタクス方伯はエルフを封じ込めるため、大ガラデア川に新たな防衛線を築き、フリジア子爵と連携して、エルフのそれ以上の侵入を阻止し続けていた。それによってエルフの侵攻はようやく止まったが、それ以来、人類はずっと、いつエルフに襲われるかも知れないという恐怖に、緊張を強いられている状況にあった。
そんな時、また事件が起こる。エルフの王という本性をむき出しにした魔王は、一体どんな技術を使ったのかは分からないが、突如、光り輝く半透明のホログラフィックとして人々の前に姿を現し、人類に宣戦布告したのである。
曰く、エルフの秘儀である魔法を使う人間は悉くを誅殺すると。
曰く、人類に破壊と混沌をもたらすと。
何しろ、誰も経験したことのない奇妙な出来事の上に、にわかに信じがたい言葉であったが、魔王の言葉を信じないよりは、信じて彼を憎んだほうがマシだった。
実際のところ魔王の登場を前後して、空の太陽は瘴気に覆い尽くされ、光が徐々に失われ続けている。その日照不足により作物が育たなくなり、世界規模の大飢饉が人類を襲い、この15年で犠牲者は数千万に上るとも言われていた。
魔王の暴挙を阻止しない限り、人類は滅亡する運命にあるのだ。
エトルリア皇国はこの事態に際して、全世界の人々に対し反攻作戦を呼びかけた。アスタクス方伯を旗頭に集結し、人類の敵と戦うのだ。
だが、そんな状況にあるにも関わらず、人類は未だに結束することが出来ずに居た。エルフの恐怖に怯えながらも、相変わらず、人間は人間同士で争いを続けていたのである。
……ところで、ガッリア大陸から消滅した国家はアナトリアとティレニアだけではない。コルフ共和国もまたエルフの蔓延る半島からの脱出を余儀なくされた。そのコルフ人たちはカンディア島へと落ち延び、シドニアに臨時政府を作った。
カンディア公爵が不在の中、初めは暫定的な措置であったが、ところが時が経つに連れて、公爵もまた帰らぬ人となったと判断せざるを得なくなった時、困ったことが起きた。いずれは国に帰りたいと思っていたコルフ人であったが、ティレニア半島に戻るのはもはや絶望的であり、そうなると彼らの臨時政府をいつまでシドニアに置いていられるかが問題になったのだ。
その頃、リディア王家を失ったアナトリア帝国貴族達は、誰がバラバラになった国を再度まとめて行くのか、主導権争いに明け暮れていた。リディアを失った帝国はもはや国の体を成していなかったが、それでも未だにカンディア・レムリア・ブリタニアを領する帝国が完全に消えたわけではない。生き残ったリディア貴族のリーダーとなれば、この広大な植民地を実質支配できる立場になれると、彼らは躍起になっていたのだ。
その馬鹿馬鹿しい権力争いの中で最大の争点となったのがジリアン・ゲーリックの存在だった。皇帝の兄、カンディア公爵ウルフの妃にして、その彼の子供を身籠っていた彼女の下には、権力を狙う様々な人からの接触が有り、それは友好的な物にとどまらず、命の危険に晒されるようなものもあった。
何しろ、彼女がこれから産む子供は、リディア王家の正当な後継者なのだ。これを上手く利用できた者が次の帝国の支配者になれると言うのは道理である。逆に、それが無理であるならば、彼女には死んでもらった方が都合がいい。彼女の産んだ子供が、自分たちの政敵に人質にされると、手も足も出なくなるからだ。
これにはジルの父親であるミラー男爵が猛反発をした。娘を政争の具にされた挙句に、命まで狙われたのではたまらない。
こうしてミラー男爵は、皇帝の義父である立場を利用し彼女の警護と言う形でカンディア入りを果たしたのであるが……それは娘可愛さ故の行動に過ぎなかったが、リディア貴族の目からすれば国を乗っ取るような動きにしか見えなかった。結果、カンディアの領有をめぐって、元帝国貴族とミラー男爵を中心としたイオニア連合貴族とが対立が激しくなり、それはやがてコルフ臨時政府を巻き込んだ争いになっていった。
最終的にはコルフ臨時政府を味方に付けたイオニア連合が、資本や物流面で勝り、在リディア大使であったタチアナの『魔王誕生はリディア貴族が宰相を追い詰めたことが原因だ』という証言によって決着がついた。リディア最後の日の証言は貴重で、信ぴょう性があるものが乏しく、あの混乱するリディアから生還した彼女の発言は非常に重かった。また、その背後には、魔王のせいでエルフと戦う羽目になったアスタクス方伯の睨みが利いていたと言う面もあった。
なにはともあれ、これによってカンディアは未亡人ジリアン・ゲーリックの正式な領土となり、彼女の父親であるミラー男爵がその防衛を担うところとなった。そして、コルフ臨時政府はそのままシドニアに留まり、大陸と新大陸を結ぶ物流拠点として今も機能している。
これら一連の動きの結果、旧帝国貴族は完全に力を失い、アナトリア帝国はその短い歴史に幕を下ろすこととなる。対して帝国貴族に勝利したミラー男爵の影響力は強まり、やがて彼を中心としたイオニア連合による国家樹立の機運が高まっていった。
アナトリア帝国崩壊の翌年、アスタクス方伯の推薦を得て、ミラー男爵は伯爵へと叙された。伯爵は皇国から新たにヴェリアの地を与えられ、そこにある鉄道駅を中心とした街を作り、元々イオニア連合諸侯であった周辺の貴族を次々と傘下に入れ、イオニア連邦国家を樹立した。
イオニア国はアスタクス地方から独立した格好だが、先述の通りアスタクス方伯とは寧ろ円満な仲であった。イオニアは大陸の僻地にあり、新大陸との連絡を取りやすく、ロンバルディアから流れる河川はダム湖発電や工場を作りやすく、そして大陸鉄道の終点であるから方伯の居城ビテュニアとの行き来もしやすかった。
こうして新興国イオニア連邦はエルフ襲来という世界の危機の中にありながら、世界随一の工業地帯として栄え、以来15年間で首都ミラー領ヴェリアは大陸屈指の大都市へと変貌を遂げた。
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そして話は15年後の現在に戻る。
カンディア公爵の遺児アーサー・ゲーリックは、カンディアで生まれヴェリアで育ち、ゆくゆくはミラー家の跡継ぎとなるべく帝王学を学んでいた。
ところが権力があるところに争いが起こるのも世の常であろうか、メキメキと頭角を現す彼を面白く思わない勢力もまた育っていたのだ。
特に、アーサーはリディア王家に連なる血脈で、リディア王家からすればミラー家は寧ろ外戚である。ミラー領には旧帝国貴族も多数が在住しており、今となっては切っても切り離せない国の中核を担う者も居る。
これらがアーサーが当主になった後に黙ってミラー家に従うとも思えず、アーサーを担ぎあげてリディア再興を目指す危険性はないか。もしそうなった時、本当にミラー家は生き残れるのだろうか。
こうした陰謀論はミラー伯爵家の中でまことしやかに囁かれ、やがて伯爵も無視できなくなっていった。
結果として、伯爵は一度後継者問題を白紙に戻し、改めて次期当主に誰を指名するかを考えなおすことにした。尤も、伯爵は自分がここまで出世できたのは、長女ジルがリディア王家に嫁いだからだと考えていた節があり、その息子アーサーに家を継がせることは彼の希望でもあった。だから、アーサーも当然自分が選ばれると思ったのだが……
蓋を開けてみれば伯爵はころりと方針を変えて、贔屓は一切せずに孫を対等に競わせ、結局、その中で最も年長であったベネディクトを後継者として指名したのであった。
これにはアーサーも納得が行かず、すかさず伯爵に抗議をしたのだが聞き入れてはもらえず、寧ろその反抗的な態度がこれから先、ベネディクトがミラー家を背負って立つ上で障害にならないかと危険視される始末であった。
この手のひら返しの裏には一体何があったのか憶測は尽きないが、ともあれ、そして彼は後継者争いのライバルであったベネディクト直々にカンディア行きを命じられ、今やぺんぺん草も生えない不毛の土地へと飛ばされたのである。
都会の生活をやめたくないからと母はヴェリアに残り、付いて来たのは役に立ちそうもない二人の家来のみ。
アーサーはベネディクトを恨んだ。
年長の従兄は幼いころはアーサーを可愛がって良く遊んでくれたものだが、実際のところ、それはいずれ幼い彼に自分が仕えるのを見越しての行動だったのかも知れない。内心は、いつ彼を裏切ってやろうかと用意周到に計画を練っていたに違いないのだ。でなければ、こんなにもあっさり自分が失脚するとは思えない。
ともあれ、実際に飛ばされてしまったからには仕方ない。アーサーはまだ14歳、大人になったばかりなのだ。長い人生、こんな不毛の土地で恨み節をつぶやいているわけにもいくまい。
だったらやってやろうではないか。リディア王家がそんなに怖いのなら、カンディア公爵である自分がリディアを奪還し、帝国を再興してイオニアを乗っ取ってやるのだ。
元々、カンディアも新大陸もリディア王家、アナトリア帝国の領土。自分にはこれを領する正当な権利があるはずだ。父親の人脈を駆使すれば、彼に味方してくれる者は必ず居るはずだ。イオニアには今も旧帝国貴族が……そして伯母と共に和平条約を締結した皇王やアスタクス方伯が、エルフ撃退のための反攻作戦を唱えている。これらの戦力を利用して、リディアを奪還するのだ。
こうして若干14歳の少年アーサーによるリディア王家再興への道が始まった。
空を見上げればオレンジの太陽が浮かんでいる。アーサーはその太陽みたいに燻ぶるものを胸のうちに隠しながら、ギラギラとした瞳でじっとこれから自分の居城となるカンディア宮殿を睨みつけていた。