俺は『 』だったのか
グルグルグルグルと回っている。上下どころか前後左右も曖昧だ。いや、実際に自分は回ってるのだろうか。もしかしたら前後に揺れ動いてるだけかも知れないし、からだが左右に引きちぎれるほど伸び縮みしてるだけかも知れない。
ふわふわふわふわ浮いている。そよ風に吹かれてるような気もするが、荒波に揉まれているような気もする。時間感覚も曖昧で、それは長かったのか短かったのか、良く分からないうちに唐突に終わった。
ふと気がつけば、但馬は真っ暗闇の中に浮いていた。いや、これまた本当に浮いてるかどうかも分からない。何しろ、自分の姿を見ようとしても、何も見えないほど辺りは真っ暗闇なのだ。
その代わり、自分の周囲に3Dゲームでよくあるような半透明のグリッドが、どこまでもどこまでも続いている。そのお陰で自分の『位置』を定義できるし『距離』と『時間』も測れるようだ。その座標の一つ一つには、浸透するように何かの情報が刻まれていた。当てずっぽうにそれらのうち1つに意識を集中すると、何かが自分の中に流れ込んでくるような気がした。
はて、これは一体なんだろう。空間はどこまでも広がっていて果ては見えず、自分もまた膨張する宇宙のように広がっていく。どこまで広がっていくのだろうかと試してみたら、あっという間に意識が拡散してしまい、そのまま戻ってこれなくなりそうだった。
何かやっていないと自分が無くなりそうだ。但馬は何とか気を紛らわせようと、手当たり次第にグリッドの中身を参照した。様々な情報の奔流が己の中に流れ込んでくる。肉体の枷から外れた但馬の中からあらゆるデータが溢れだす。自分という領域を飛び出して、見たことも聞いたこともない人類の叡智が垣間見える。
その一つ一つを消化していくと、それはまるでモグラたたきみたいに消えていき、やがて何もかもがまっ平らになったかと思うと、但馬はハッと目覚めるようにして自分を取り戻す。肉体感覚はとうに無くなり、頭がおかしくなりそうな状況だというのに、どこまでも他人事で、気を抜けばすぐにまた自分がどこかに行ってしまいそうだった。
途方も無い時間が流れたような気もする。だが一瞬だったような感じもする。そんな風に意識と無意識を繰り返しつつ、データを参照しているうちに、但馬はやがてその暗闇に漂う情報の一つ一つが、人間そのものであることに気がついた。
ここには、あらゆる人々の過去から未来、全ての情報が詰まっているのだ。今まで、この地球上に生まれては死んでいった人間の記憶が、ここに刻まれている。もしかして、今生きている人の情報もあるんじゃないかと思って、案の定それを見つけると、但馬は今度は自分の物を探してみようと思った。
その瞬間……パッと場面が切り替わるかのように、辺りが唐突に明るくなって……
気がつけば但馬は、メアリーズヒルの上空で、自分の死体を俯瞰していた。
(ああ、そうか。俺は死んだのか)
ここに来てようやくそれに気づいた但馬は、それでもまだ取り乱したりはせず、冷静なまま自分の死体をマジマジと凝視していた。それにしても、こうして自分の死体を拝む日が来るとは思わなかった。異常な魔法を使えたり、妙に知識が豊富だったり、勘が鋭かったりと、いろいろと無茶苦茶だと思っていたが、死んでまでこんな奇妙な体験をさせられるとは……
本当に自分は何なんだろうか。
但馬がそんな他人事のように自分の死体を眺めていると、シロッコが死体に向けてパンと銃弾を撃ち込んだ。続いてネイサンがやって来て、但馬の死体をめった刺しにした。酷いことしやがると思ったが、一向に怒りは湧いてこない。屠殺場で淡々と処理される食肉を見ているような気分だった。
感情は肉体に宿るということだろうか。それとも実際、なんとも思っちゃいないからだろうか。そういえば、ティレニアの連中は、但馬が発狂して死ぬとかなんとか言っていたが、あれはどうなったんだろうか。
今さっき、あれだけ理不尽な目に遭わされたが、但馬は怒りこそすれ発狂なんかしなかった。まあ、今ではもう、その怒りも悲しみすらも感じないのだから、どうでもいい話と言えばどうでもいい話なのであるが……
ところで、自分が死んだのだとして、この状態はいつまで続くのだろうか。待ってればそのうち、神様がやって来るんだろうか。それとも、自分から天国を探しに行かねばならないのだろうか。死体がここにあるのだから、この近辺を根城にして動きたいところだが、もしも天国が地球の裏側にあったら、そんなわけにもいかないだろう。そういうのを確かめる方法はないんだろうか。
死んじゃったのは今更仕方ないことだけど、なんだかすごい面倒くさいことになったなあ……と思った時、但馬はふと、あることに気がついた。
いや、待てよ?
但馬は今、周りから見えてないようで、こちらから一方的に彼らのことを俯瞰しているところだが……本当に、誰も但馬のことが見えていないのだろうか?
勇者病の連中は、みんななんて言っていた?
勇者病の患者を家族に持つ者たちは……例えばウララなんかはなんて言っていた?
確か、兄は見えない何かに怯えていたと言っていたはずだ……
勇者病の患者にしか見えず、一般人には見えない何か……それに導かれて、彼らはリディアへやって来たはずだ。
そして、それは勇者の死から始まり、但馬の登場でパッタリと止んだ。
唐突に、但馬の頭の中で自分の一生の記憶が走馬灯のように流れだす……エーリス村に生まれ、両親と共に村の経営に携わった。妹を可愛がっていて、冬になればスキーをして、村の特産品を売るために、遠いアクロポリスまで徒歩で通った。やがて魔法の才能に目覚め、村の人々と諍いが絶えなくなり、そして家出をしてリディアへ向かった。そこで但馬波瑠と名乗り、会社を興し、王様に気に入られ、立身出世し、宰相にまで上り詰め、失脚し、そしてさっきそこで殺された……
(ああ、そうか……)
これは自分の記憶じゃない。彼はずっと夢を見ていたのだ。但馬は直感的に悟った。
(……俺は『 』だったのか)
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パンッ!
と、短く乾いた銃声が辺りに響き渡った。
シロッコは、地面に転がる但馬の死体に銃口を突きつけ、執拗に銃撃を放った。但馬が死んでいるのは明白だった。体中が穴だらけで、吹き飛ばされた手首の傷口からは、もう血液は流れていなかった。
それでも、ひょっとしたらまだ動くんじゃなかろうか……突然起き上がってまた暴れだすのではないかという不安が勝って、彼は外道な行為と知りつつも、但馬の死体を撃つことがやめられなかった。
但馬の眉間に穴が空いて、血がじんわりと滲む。ピューと飛び出したり、溢れでてこないのは、それは彼の体に血がもう通っていない証拠だった。
ここまでやれば流石に死んだだろう……
それでもまだ不安なシロッコは、但馬の脈を計るためにしゃがもうとすると、そのままひっくり返るように腰を抜かした。手のひらに激痛が走り、ジャリッと音が鳴った。ころんだ拍子に但馬の落とした神剣ハバキリに切られてしまったようだ。彼はその剣を拾おうとして、すぐに自分の手がブルブルと震えていることに気がついた。
広場に転がっている死体は但馬のものだけではない。街の至る場所に兵士たちの死体が転がっており、それは森の方まで続いている。その損傷具合は激しく、誰が誰だか見分けもつかない。首と胴体が分断されてるものはまだ良いほうで、巨大な落石にでも潰されたかのように全身がひしゃげ、頭が破裂してるものや、溶鉱炉に落ちたってこうはならないであろう、地獄の業火にでも焼かれたみたいに、骨まで炭化しているものばかりだった。
兵士たちには但馬の正体はエルフだったと嘘を吐いていた。期せずしてそれは真実のようになったが、だがエルフに殺られたって、ここまではならないだろう。メアリーズヒルへ連れてきた兵数は1000人。大隊の戦力があって、これなのだ。
広場には生き残った兵士100名余りが、まるで敗残兵のように地面にへたり込み、うなだれていた。実際、これだけの死者を出したら、普通なら全滅と言っていい損害だった。誰ひとりとして勝ったなんて思っちゃいないだろう。今日のことはもう忘れたいはずだ。それでも、一生トラウマとして残るはずだ。
「悪魔は滅んだか……?」
シロッコがその事実に身震いしていると、震える声でネイサンがそんな台詞を口走った。言い得て妙である。彼の周りには、人質にした孤児院の子供たちが居たが、感情豊かな子供たちですら、もう誰も泣いていない。ショックで引きつけを起こしたかのように固まっている。
「はい……死んでます」
彼がそう断言すると、ネイサンが近寄ってきて但馬の死体を覗き込んだ。それでようやく少しは安心したのか、彼は悪態をつくと、シロッコが手にしていた神剣ハバキリを乱暴に奪い、ザクザクと但馬の死体を執拗に斬りつけた。
その見るに耐えない醜悪な姿は、よっぽど但馬のことを恨んでいたようにも見えるが、おそらくは恐怖でそうするしかないのだろう。シロッコは自分の中にもそんな気持ちが潜んでいることに気付かされて、自分に失望すると同時に改めて但馬の強大さを感じた。
ネイサンが振り回す剣を見ての通り、彼が勇者の生まれ変わりだということは知っていた。と言うか、それを知っているからこそ、彼はネイサン相手に自信満々に但馬の弱点を披露出来たと言える。
シルミウムに調査に行った際、突然、勇者の剣が消えて慌てふためくリーゼロッテに教えてもらったのだ。彼女はその時、父親である勇者が死んだ時の状況も教えてくれた。百戦錬磨の彼が暗殺されたという噂には謎が多かった。あんな化物を殺せる人間が居るわけがない。だから本当は暗殺ではなく病死だったのではないかと言う説すらあったくらいだ。
だが、リーゼロッテに本当の話を聞いて、シロッコは納得した。勇者と言う存在は、身内に甘いのだ。但馬を見ていればそれがよく分かる。それどころか彼はもっと色んな者に対しても甘かった。そんな弱者を切り捨てることが出来ないと言う彼の性質は、シロッコには弱点にしか思えなかった。
それでも、貧富を問わず全ての人々を救おうとする彼の姿勢には心惹かれるものがあった。シロッコはスラム出身で、養わねばならない弟妹が居るというのは本当だ。そんな彼だからこそ、どんな手を使ってでものし上がろうとする気持ちは強かったのだが、但馬という人物の人柄に触れてからは、少し考えが変わった。
彼に王になって欲しかったのは、本当だったのだ。彼ならば、この生まれながらにして不平等な世界を、自由平等なものに変えられるかも知れない。その手助けが出来るのであれば、それはそれで悪くないと思った。なのに彼にその気は無いと拒絶されて、シロッコは酷く失望した。そして事件が起きた後、但馬派で居る限りはもう出世は見込めないと思い知り、マーセルの世界征服の野望に乗ったのだ。
「ネイサン様。マーセル大将の行方は、やはりまだ分からないのですか?」
「知らん……これだけ待っても出てこないなら、死んだんじゃないか」
その、マーセルは但馬の止めを刺しに行ったっきり帰ってこなかった。
一緒に行ったネイサンは帰ってきたので、彼もそのうちひょっこり帰ってくると思ったのだが、どうやらそれは希望的観測に過ぎなかったようだ。
だが、マーセルが帰ってこないといろいろと不都合があった。
彼は今、帝国軍のトップであり、クーデターを引き起こした主犯でもあった。ところが、このクーデターはまだ終わっていないのだ。クーデターが成立するまでの最大の障害はこの但馬を殺害することだったが、目的は言うまでもなくブリジットを捕縛し、ネイサンに王権を禅譲させることにある。
マーセルはクーデターを絶対に成功させるため、より困難なこちらの指揮にやって来て居たが、本隊はあくまで首都で王宮を包囲している軍の方だった。そのため、彼の子飼いの部下と共に数倍の兵力を首都に残してきたのだが、マーセルが死んだと知ったらこの別働隊が素直に言うことを聞くかどうかが分からなかった。
何しろ、このクーデター軍を掌握することは、今後ネイサンと共に世界の覇権を握るチャンスなのだ。シロッコの下には今、士気がボロボロになった100名ちょっとの生き残りが居るだけだが、これを連れて首都に帰ったところで、マーセルの部下達がシロッコの言うことを聞くはずがない。寧ろ、マーセルが死んだ責任を取らされるか、ぽっと出の彼など相手にもされないだろう。
新帝国の権力争いはもう既に始まっているのだ。
そのためにやるべきことはなんだろうか……運の良いことに、これからこの国の王になるネイサンが目の前にいる。この男に今後とも徴用してもらえるように取り入るのだ。但馬を殺すことが出来たのは自分のお陰であることを改めて強調し、自分が有能であることを印象付けよう。
そうだ。クラウソラスは結局まだ海底から引き上げられていない。王権の象徴たる聖遺物がない状況は、ネイサンの王位戴冠の足かせになるだろう。だが、幸い、今手元に勇者の剣があるのだ。リディアは元、勇者の国。これを使って状況を覆すよう進言してみたらどうだろうか……勇者の剣を最初に手にしたのは自分だった。無視することは出来まい。
だが、シロッコのそんな野望は、始めっから滑稽でしかない取らぬ狸の皮算用であった。
何故なら、彼らが但馬との交戦を開始した時には、すでに状況は変わってしまっていたのだ。彼らは、指揮官であるマーセルを早々に失い、更には但馬波瑠と言う尋常でない強敵と戦っていたせいで、全く余裕が無くなり、首都との連絡を断っていた。
だから知らなかったのだ。
別働隊が王宮を取り囲んだ時……そこにブリジットが居なかったことに。
ドドドドドドドド……
っと、街道の方から地響きが聞こえてきた。音から察するに、どこかの騎兵隊がこちらに向かってきているように思えた。
シロッコとネイサンの二人は顔を見合わせた。もしかして、連絡がつかなかったから、首都から応援が来たのかも知れない。初めはそんな風にも思ったが、しかし、やがてその音が近づくに連れて騎兵隊の姿が見えてくると、そこに近衛兵の特徴的な甲冑が見えることに気づいて、彼らは驚愕した。
どうして近衛隊がここに居るのか?
近衛隊はクーデターが起こった時、事前に引き起こしておいた街の暴動鎮圧のために、王宮の外に居たはずだ。普通ならば、自分たちの守るべき王を救うべく、王宮を取り囲むクーデター軍を攻めるのが筋だろう。王宮とは真逆の、こんな郊外の街に向かってくる理由はない。
もし、それがあるとするならば、クーデターの首謀者がこちらにいることに気づいた場合か……もしくは、皇帝が無事だった場合だ。
土煙を上げて馬群は一直線にこちらに向かってきた。その先頭をよく見れば、近衛兵の甲冑とはまるで別物のラフな格好をした、金髪の小柄な女性の姿があった。
「……馬鹿なっ!? どうして奴がここにいるっ!」
ネイサンが叫ぶ。まったくもってその通りだった。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。シロッコは彼の首根っこをひっ捕まえると、ずるずると引っ張っていく。
「全員、武器を持てっ! 問答無用で近衛兵どもを蹴散らすんだっ!」
そんな光景をぽかんと見つめていた兵士たちに彼は叫ぶように言った。
「皇帝が健在な今、俺達は反乱軍だ!」
ドドドドドド……っと、数十の騎馬が広場に突入してくる。馬は怖くない。そう教えられていても、その迫力は兵士たちの士気をくじいた。
そんな中、先頭を走るブリジットが、広場の中心付近にいる、ある一体の死体に気がついた。
「嫌だ……嫌だああああぁぁぁ~~~っっ!!!」
耳をつんざくような絶叫が周囲にこだまする。彼女はその瞬間にはもう周りは見えず、馬を止めることも忘れてそのまま馬から飛び降りるようにして落馬した。ゴロゴロと地面を転がっていく彼女を避けて馬が通り過ぎていく。
「陛下! くそっ……突撃! 突撃!」
近衛隊長ローレルはそんな彼女のことを気にかけつつも、リーゼロッテが彼女につづいて器用に馬から飛び降りたのを確認すると、構わず馬をそのまま走らせた。
広場にクラリオンの音色がこだまする。突撃を意味するメロディを聞いて、交戦を躊躇っていた兵士たちが動き始める。しかし、それはもう遅すぎた。
間もなく、近衛兵の突撃が反乱軍の中央を食いちぎると、分断され狼狽する敵兵との間で乱戦が始まった。銃剣とサーベルが斬り合う金属音が響き渡る。
そんな中、ブリジットはボロボロになった但馬の死体に縋り付くと、必死になって彼のことを介抱しようとした。今となっては無駄にすぎない、ヒーリングの詠唱を唱え、傷口を塞ごうと手当たり次第に包帯や布を貼り付けようとした。しかしその傷の数が多すぎて、あっという間に塞ぐものがなくなると、彼女は今度は自分の手を使った。
そんなことをしたところで流れ出る血など既に無く、彼女の行為は明らかに無駄な行為でしかなかった。だが、もうそうするしか、彼女が心を平静に保っていられる術がないのだ。
「どうして……どうして、こんなこと……」
リーゼロッテは錯乱しているようにも思えるブリジットの背後から、かつての自分の主人を見た。血を流しすぎて小さくなってしまった体は、もはや老人と言っていいくらい見窄らしくなっていた。戦場を渡り歩いた彼女は、人の死なら見慣れたほうである。だが、その死体は手首がちぎれ飛び、体中に何かで抉ったようなグロテスクな穴が開いていて、どうしたら人間がここまで酷いことが出来るのかと、絶句し、胸が張り裂けそうなものだった。
表情を失った瞳は、まだ何もない空を見つめていた。リーゼロッテはブリジットの肩越しから手をのばすと、そっとその瞳を閉じてやった。
乱戦の続く広場の中で、敵の親玉らしき者が、但馬の剣を振り回しているのが見えた。あの真っ白な刀身から発する光は、今は光を失ってどす黒く見える。へっぴり腰で腕だけで振るう剣はどこにも届かず、彼を守ろうとする兵士が居なければすぐにでも死んでしまいそうだった。
いや、多分、間もなくそうなるはずだ。そんなに時間も掛からないだろう。そうなる前に、自分で狩らねば……
彼女は背中に背負っていた大剣を抜き放つと、但馬の死体を抱いて放心するように虚空を見つめているブリジットに言った。
「少々行って、あれを摘み取ってまいります。すぐ戻りますから、ブリジット様はここでお待ち下さい」
そして彼女は返事も聞かず、飛ぶようにその場を後にした。
だが、出来ればほんの少しばかり、あと少しでいいから彼女の姿を見守っているべきだった。そうすれば、彼女の異変に気づけたはずだったのに……
ブリジットは虚空を見つめていた。但馬の亡骸を抱え、まるでその魂が空に上がっていくのを眺めているように、ぼんやりと空を見つめていた。上空には雲一つなく、ただ青い空がどこまでも続いてるはずだった。だから、何も知らない人からすれば、彼女が放心しているようにしか見えなかったかも知れない。
しかし、彼女には見えていたのだ……本当に、眺めていたのだ。
但馬のを抱える彼女の真上、およそ5メートル程度上空に、ふわふわと丸い物体が浮かんでいる。それは体の丸さを殊更強調したらボールみたいになってしまった、バナナの柄みたいな鼻と、小さな尾びれを持った、イルカのマスコットのように見えた。
ブリジットはその見えないはずの何かを見つめ、呆然と呟いた。
「そうか……あの時、エトルリアの世界樹で……」
途端に、猛烈な頭痛に見舞われる。
ズキズキと脳を圧迫するような痛みは思考を根こそぎ奪っていくような激しさだった。だがそれでも脳みそをかき回されるような痛みに耐えながら、必死に彼女は思い出していた。
エトルリアの世界樹の中で、勇者病の秘密を探りたいと但馬が言い出した後、ウルフも先に出て行ってしまい、彼女は一人遺跡に残っていた。その時、突如として遺跡のモニターに、今目の前に浮かんでいるのと同じイルカのようなマスコットキャラが見えて、そして彼女の脳に直接話しかけてきたのだ。
『もし、君がこれを聞いている時に“但馬波瑠”が死んでいたら……』
パリンとガラスが割れるような感じで、今まで彼女の脳裏にかかっていたベールが剥がれ落ちていく。その瞬間、彼女の頭痛もまるで何事も無かったかのように消え去っていた。思考がはっきりとすると、目の前に浮かぶそれもはっきりと見えた。そして彼女は、完全に思い出した。
『……死んでいたなら、降霊の儀式を行い、彼を現世に食い止めよ……もう時間はない。これが最後のチャンスなのだ。それをすれば君は死んでしまうかも知れないが……だが聞いて欲しい、こうしなければ全てが滅びる。君や彼だけでなく、世界中の人々も。だからお願いだ、ブリジット。俺の最後の願いを聞いてくれ!』
彼女には空に浮かぶイルカが、表情も無いくせに必死に叫んでいるような気がした。ズルズルと彼女の膝の上から但馬の頭が地面に落っこちていく。だが彼女はもう、そんなことを気にする余裕もなく、ただ恍惚とした表情を浮かべ、虚空に浮かぶ、他の誰にも見えない物に向かって一心に祈った。
「ああ、先生……そこにいらっしゃるのですね。私はあなたのために生まれてきました。この身はあなたのために作られて、この魂はあなたの物。もし私の命を捧げることで、あなたがこの世に戻って来てくれるのなら、喜んでこの身を捧げましょう」
そして彼女は脳に刻まれた言葉を詠唱した。
「天ノ川より回帰せし万物の長たる神人よ。諸人の祈りを受けて今ここに蘇らん。天下万民、安寧せしために我、讃え願い奉るは現世の泰平。ここに天降り、同胞の道を指し示したまえ。七日目の太陽が沈む前に、顕現せよ、再臨せよ、死霊降霊、英霊召喚!」
濃密な霧のようなマナの奔流が彼女の姿を覆い尽くしていく……
その異変に周囲の者たちが気づいた時には、もう彼女の姿は見えなかった。
まるで竜巻のように渦巻くその中心で、彼女はくずおれるように地面に突っ伏した。
傍らには彼女が愛した者の死体が横たわっている。その顔はもうボロボロで見る影もない。だがそれは紛れも無く彼女の愛した人のそれで……それを掻き抱くように、彼女は手をのばしたところでプッツリと意識が途切れたのだった。
それが彼女の最後の記憶となった。
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「死霊降霊、英霊召喚!」
ティレニア帝国はタイタニア山、その山頂にある聖域で、今、18度目の儀式が執り行われていた。世界樹の庭園に特別に作られた儀式のための祭壇の中央には、巫女であるアナスタシアが座っており、その周りを四摂家が神官として取り囲んでいる。
祭壇の傍らには儀式で使うための装置が据えられており、そこから伸ばしたコードが巫女の体のあちこちにくっつけられており、彼女の心電図や呼吸数心拍数発汗量などがモニター出来るようになっていた。
儀式を始めると、四摂家の唱える詠唱と共に、世界樹が輝きだし大量のマナを放出しはじめた。それはまばゆい光の柱となって、どこまでも高く、天まで登って行った。それが一段落すると、今度は巫女が淡い緑色に輝きだし、心電図が不規則に乱れだして、いよいよ何かが始まる気配が感じられた。
だがそこまでだ……それから暫くすると、巫女を取り巻くマナのオーラは、まるでロウソクの炎のようにユラユラ揺れたあとにぱっと消えて、心電図も元通りに戻ってしまった。静寂と沈黙が場を支配する。
「……御所様……リリィ様。そこにいらっしゃいますか?」
顔を曇らせる四摂家、そのリーダーであるガブリールが、恐る恐るアナスタシアに尋ねると、額にびっしりと玉のような汗をかいていたアナスタシアが、まるでフルマラソンでも完走してきたかのように消耗しきった表情のままで、首を横に振るのだった。
「またか!」「そんな馬鹿な……」「これで18回目だぞ? ありえないだろ!」
四摂家のうち、男三人が喧々諤々の議論を始める。これも18回目のことだった。アナスタシアはそんな男どもを尻目に、自分につけられたコードをブチブチと引きちぎると、覚束ない足取りで世界樹の中へと戻っていった。
フラフラの彼女が壁に手をついて歩いて行くと、そんな彼女を抱え上げるように、小さな少女が彼女の脇を支えた。少女は大きくてクリクリした瞳でアナスタシアのことを見上げ、
「大丈夫?」
と心配げに首を傾げた。
「大丈夫だよ、サリー。いつもみたいに、ちょっと疲れただけ」
アナスタシアは胃のむかつきを抑えながら、少女に向かって薄く微笑んだ。少女は彼女が無理していることが分かるのだろうか、大丈夫と強がるアナスタシアの背中を、心配げにさすってくれた。
少女の名は正確にはサリエラと言った。リディアにいたアナスタシアを殺しにきた、あのサリエラの生まれ変わりである。尤も、生まれ変わりと言っても、まだほんの子供で、あのヒステリックで気の強そうな性格は微塵も感じさせない。子供の彼女は好奇心が旺盛で、世界樹の中を楽しげに走り回り、お人形遊びが大好きな年頃の女の子そのものだった。
サリエラはティレニアの摂家として、自分が変な使命を帯びて生まれてきたことを不満に思い、周りに男しかいない環境に退屈していたところ、リディアからアナスタシアがやって来てくれたことに大いに喜んだ。自分と同じ女の友達が出来たことが、とても嬉しかったのだ。
アナスタシアは前の彼女との経緯があったせいで、この無邪気な子供のことを最初は凄く警戒していた。しかし、暫く付き合っているうちに、それは杞憂であると悟り、それからはサリーとサリエラは別物だと割りきって付き合うようになっていた。
子供は生まれ育った環境でその性質が変わるのだ。但馬と勇者が別人だったように、サリーとサリエラも似て非なるものなのだろう。サリーはとても気立てがよく聡明な子供で、もしもアナスタシアの母が巫女としてここに居たのなら、きっと彼女とも仲良くなれたに違いなかった。
ただ、そうするともしかして、サリエラがあんな性格になってしまったのは、アナスタシアの母が逃げ出して、周りに同性の友達が居なくなってしまったからかもしれないと思えてきて、なんだかやりきれなかった。
サリーはアナスタシアが巫女として儀式を行い、すぐに居なくなってしまうことをとても残念がっていた。せっかく出来た友達がいなくなることが悲しくて、他の摂家に考え直すようにお願いもしていた。アナスタシアはそんな彼女のために、最後の時まで優しくしてあげようと思っていた。
そんなサリーはアナスタシアを支えながら、無邪気に言った。
「今回も駄目だったね。このままずっと、儀式が失敗し続ければいいのに」
「でもそうしたら世界が滅んじゃうんだよ?」
「それは困るけど……ナースチャと遊べなくなる方がもっと困るよ。誰が恋人のケントの役をやってくれるのかしら」
寂しいとか悲しいとかの感情論ではなくて、お人形遊びの配役に支障を来すとあっけらかんと言い放つ彼女にアナスタシアが苦笑していると、サリーはその横顔をマジマジと見つめながら、
「それにしても酷い顔色……本当に大丈夫?」
「うん……実は、さっきから凄く気分が悪くて。ちょっと洗面所まで連れてってくれる? ……吐きそう」
「それは大変!」
部屋に戻ろうとしていた二人は、そのまま遺跡内の洗面所へ向かった。
真っ青になったアナスタシアは、サリーに外で待つように言ってから、一人でトイレの中に入った。どんな音も漏らさない密閉された空間に入った瞬間、アナスタシアはこみ上げてくる吐き気に耐え切れず、げえげえと便器に腹の中身を吐き出した。
最近はいつもこうだった……
ティレニアにやって来た時から、アナスタシアは自分が巫女として儀式に臨む……つまり死ぬ覚悟は出来ていた。
ところが、蓋を開ければ儀式は失敗続きで、アナスタシアはその都度肩透かしを食らい、改めて死ぬ覚悟をしなければならなくなったのだ。
最初のうちはそれでもまだなんとかなった。だが失敗を重ねるうちに、自分がいつ死んでしまうのか、それともまだこの苦行が続くのかと迷いが生じてきて、段々と死の恐怖が勝ってきた。そしていつからか彼女はプレッシャーに負けて、儀式のたびにトイレに駆け込むようになっていた。
トイレに向かってげえげえと吐きながら、彼女は思った。本当に、いつまでこの理不尽な苦行は続くのだろう。世界のために命を差し出す。その気持ちに迷いはない。だが、それで死の恐怖が薄れるかと言うと、それはまた別物なのだ。
儀式の度に彼女は死の恐怖に直面する。そして失敗する度に、今回もまた生き残ったと安堵する……本当はしてはいけないのに。その感情の揺り戻しに、彼女は徐々に耐え切れなくなっていた。
それにしても、どうしてこんなに何度も失敗するのだろうか……アナスタシアには難しいことが分からないから、全て四摂家に任せきりだったのだが、いい加減に彼らの能力に疑問も湧いてきた。かと言って自分にやれることは何もないし、どうしたらいいかは分からない。
最初の儀式を失敗した後、ガブリール達はおよそ100年ぶりの儀式であるから自分たちにも経験がなく、何か不手際があったのだろうと詫びた。二度目の失敗の時も、まあ、似たようなものだったが、その頃からエリート特有の焦りのような物を感じさせ、それが続いてくるとドンドン雰囲気が悪くなっていった。
彼らは文献に書かれていたものを必死に読み解き、様々な試みを始めた。庭園に祭壇を作ったのを皮切りに、アナスタシアの心拍をモニターしたり、大昔の映像を見て自分たちの配置にも拘った。
だが、これまで18回もの儀式を行っておきながら、未だに成功しないのである。
こんなに失敗続きなら、もういっそ誰かに変わって欲しいくらいだが、これまでも再三言ってきた通り、それが出来れば苦労がない。アナスタシアから巫女の反応が無くなったわけではないらしい。それは遺跡奥にある端末で正確なことが分かり、儀式の直前に毎回確認もしていた。
どうせ死ぬならいっそのこと、殺してからその死体を好きにして欲しいとも思った。だが、それも駄目なのだ。巫女は聖女の入れ物として生きたまま儀式に挑まねばならない。生き餌みたいなものなのだ。
吐き気がする……
アナスタシアはまたトイレの中に吐瀉物をぶちまけた。それにしても体調がすぐれない……アナスタシアがティレニアに来てから1ヶ月半、儀式が失敗する度にプレッシャーが増していって、最近では毎回この通りだった。儀式が無い時だって、時折吐き気が襲ってくる。もう限界だった。
摂家の人たちはもう諦めて、アナスタシアの代わりを探してみたらどうだろうか。自分の代わりは居ないと言っていたが、アナスタシアだって最初から巫女じゃなかったはずだ。元々はアナスタシアの母親がそうであり、彼女が死んだせいで、その性質がアナスタシアに移った。だったらまた同じように、アナスタシアが死ねば世界のどこかに新たな巫女が……
と、考えたその時、彼女は閃くものを感じた。
いや、本当にそうなのか? 自分は、いつから巫女になったのだろうか。四摂家や但馬との会話の中で、なんとなく当たり前のように、母が死んだ時に自分は巫女を継承したんだと考えてきたが……
母は死んだ時、本当に巫女だったのだろうか……誰かが調べたわけでもない。もしかして……アナスタシアは生まれながらにして、巫女として生まれてきたのでは……
猛烈な吐き気が催してくる。
彼女は堪えきれず、3度めの吐瀉物をトイレに吐いた……もう腹の中には何も入っていないのに、どうしてこんなに吐き気がするんだろう……
彼女の吐いた吐瀉物が、渦を巻いて流されていく。彼女はそれを呆然と見つめながら、自分の下腹部の辺りを慎重にさすっていた。
(最終章に続く)