西へ
但馬を追いかけると言うブリジットと、リーゼロッテは結託して行動を共にすることにした。どうせ、彼女が元気になったら自分もエリオス達同様、但馬の元に馳せ参じるつもりであったのだから、そのブリジットがついて行くと言うのであれば、もはや止める必要はないだろう。
二人はこそこそと寝室の窓から王宮の外に出ると、近衛兵の巡回の隙を見計らって、外壁をよじ登って街へ出た。聖遺物のないブリジットは普段よりも動きが鈍かったが、それでも普通の人と比べれば段違いの運動神経をしていて、リーゼロッテが手助けしてやれば、殆どいつもと変わらぬ動きが出来た。
そんな具合に細心の注意を払って抜けだしたつもりの二人であったが、ブリジットの方はともかく、いつものメイド服を着ていたリーゼロッテのほうが案外目立ってしまって、暫くしたら服を着替えるために、洋服屋めぐりをする羽目になった。ブリジットは言わずもがな、今となってはリーゼロッテの方もかなりの有名人なのである。
トレードマークのメイド服を脱ぐことを渋るリーゼロッテを説得し、なんやかんやで目立たぬ服に着替えさせたところで、今度はブリジットが腰が寂しいからと言って、長モノを調達しに鍛冶屋に行くことになった。
さっさと但馬のところへ合流しろよと突っ込みたくなるような女の買い物であるが、実のところ、拘置所から出てくる但馬とすぐ合流しようとしたら近衛兵に連れ戻されるだけである。二人は最初から街の中では合流するつもりが無かったので、こうやって時間を潰して頃合いを見計らってから、追いかけるつもりだったのである。
そんなこんなで旅支度を終えた二人は、太陽が中天に差し掛かった頃になって、ようやく移動を開始した。拘置所は街の西側にあるので、メインストリートに沿って裏道をコソコソと移動しつつ、いざ西区へと入ってきたのであるが……
「何だか……様子がおかしくないですか?」
顔を見られないようにフードを目深に被った二人が、人通りの少ない路地裏から出てくると、西区の中央広場へと続く通りでなにやら人々が揉めていた。初めはただの人混みが発する喧騒だと思っていたが、よくよく観察してみれば、それに怒号が混じっていることに気付かされた。
それは拘置所前の広場にまでくると、暴動と言っていいほどの押し合いへし合いにまで発展していることが分かり、二人はびっくりして目を瞠った。
幸いと言っていいかどうか分からないが、但馬はもう街から出ていたようであるが、一体どうしてこんな騒ぎになってしまったのかと、近くに居た野次馬に尋ねてみれば、
「それが……宰相さんが島流しにされるってんで、それを見送りに来た人たちと、それとは逆に、彼に文句を言いに来た人たちとで小競り合いが始まっちゃって……」
今から小一時間ほど前、但馬の護送が始まると、拘置所の前で憲兵隊の花道が作られて、その間を但馬は歩かされたらしい。そして新聞記者たちがずらりと並び、無遠慮に写真を撮る姿を見た群衆の一人が、いくらなんでもこれじゃ可哀想だと叫んだところ、逆にこれくらいじゃ済まされないと言って石を投げつけた男が現れて、現場はあっという間に一触即発の事態に陥ったらしい。
その男はすぐに取り押さえられ、そのまま拘置所の中に連れて行かれたのだが、すると突然、仲間を連れて行かれたと言って特定の群衆が怒りの声を上げはじめ、但馬に同情的な人たちと、逆の者達の間で小競り合いが始まったそうである。
「……あの宰相さんを、こんな見世物にするような真似して……そんなに憎かったんでしょうかね。こんなことしないで、目張りした馬車にでも乗せて、港から船を使えば良かったんですよ。それをわざわざ徒歩でハリチまで向かわせるなんて……どうせ、行き先は離島なんでしょう?」
事情を説明してくれた男は但馬に同情的だったのか、嘆かわしいと言った感じに天を仰いだ。リーゼロッテはこう言う人も居てくれたのかとホッと胸をなでおろしたが……実のところ、その場に集まっていた人の殆どは、但馬が島流しにされることを残念がって見送りに来た善良な市民だったのだ。
考えてもみれば当たり前のことだが、少しでも彼に同情してなければ、わざわざ平日の昼間っからこんな場所まで見送りくるなんて人物はいないだろう。見方を変えれば、刑務所から出てきた元犯罪者を出迎えるようなものなのだ。寧ろ、そんなところまで来て、抗議の声を上げる連中の方がどうかしてる。
だが、人間の耳は耳障りな悪口の方がよく聞こえるように出来ている。少数のいわゆるヘイターによる罵詈雑言に、その場に居た人々は徐々に苛々をつのらせていき、ついにはあちこちで小競り合いが始まってしまったようである。
広場には怒号が響き、あちこちで人々のつかみ合い殴り合いが始まっている。とは言え、拘置所の前である。すぐに憲兵が飛び出してきてそれを止めようとするのだが、人混みの多さのせいで身動きが取れずに、段々手がつけられなくなって来た。
「師匠、行きましょう」
リーゼロッテがそんな群衆の暴走に眉をひそめていると、隣で怒りを押し込めるかのような震えた声で、ブリジットが静かに言った。
ここで小競り合いを見ていても何も始まらないだろう。自分たちが出て行ったところで、憲兵隊と同じ程度のことしか出来ない。だったらさっさと但馬を追いかけたほうが良い。
リーゼロッテは納得のいかないものを感じつつも、仕方あるまいと踵を返しかけたが、
「そうではありません。あの者たちを止めましょう」
「良いのですか? 今出て行ったら、すぐに近衛がやってきて、王宮に連れ戻されますよ?」
「……そしたらまた抜け出せばいいんです。それよりも、国民がこうして苦しんでいるというのに、何もせずにこの場を離れたら、それこそ先生に申し開きが出来ません。先生ならば、きっとこの騒ぎを放っておくことが出来なかったはず」
「そう……ですか」
いや、あの男ならきっと自分では何もせず、応援を呼びに行くと思うのだが……そんなこと言うのも野暮であろう。困っている民衆を放っておけないというのは、寧ろブリジットらしい決断だと思いながら、リーゼロッテは彼女に従って、暴れまわる群衆たちを黙らせに広場へ入っていった。
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なんだかおかしな感じである……
タチアナ・ロレダンは大使館の窓からS&H社の本社ビルの方を覗いていた。
但馬が離島に島流しにされると言う話が出てからのここ1週間、かのビルの周りはいつにも増してS&H社を敵視するかのようなデモ隊が集まっていた。今までは憲兵隊がすぐに追い散らしていたのだが、但馬があんなことになってしまったせいか、取り締まりが緩くなっていたのだ。
連日連夜、いわれのない誹謗中傷を浴びせられている社員は、見るに忍びなかった。あの会社が何も悪いことをしていないことなんて、誰の目にも明らかなのだが、世の中には弱みを見せれば更に叩きたくて仕方がなくなる人間なんてのが、ザラに居るのだろう。それが今日、但馬が実際に護送されるにあたって、ピークに達したらしい。
朝早くから出社してくる社員を威圧するかのように、太鼓を叩いたり絶叫したり、好き勝手に罵詈雑言を叫び続ける集団は醜悪で気持ちが悪かった。しかし、そうは思っても自分が出て行って彼らを止めることなんて出来ないし、憲兵隊が対応しないのであれば、出来ることは何も無かった。
タチアナは自分の不甲斐なさを歯がゆく思いながら、朝からずっとこの調子で続けられる抗議デモに苛々させられていた。
それにしても、どこからこれだけの人数が湧いて出てくるのだろう。普通に考えて、あの会社を憎む人間など数えるくらいしか居ないはずだ。それなのに、こんな大規模な抗議活動に発展するなんて、何者かが金を使って動員しているとしか考えられない。そうまでして憎む必要が、あの会社や但馬にあったのだろうか。自分などは寧ろ感謝しか感じないのに……本当に、気持ちの悪い国になったものである。
タチアナは今回の事件が起きてから、正直言ってもうこの国を出てコルフに帰りたいと思っていた。そりゃあ、但馬がやったことは悪いことだし、最初に事の顛末を聞いた時には、ブリジットが可哀想過ぎて但馬のことを許せなかったのであるが……その後の彼を貶める人々の醜悪な姿を見ているうちに、いつの間にかその考えは逆転してしまった。
自分は今までこんな国に愛着を持っていたのかと幻滅したタチアナは、それで実際に、国に帰りたいと父親である総統に手紙を送ったりもした。しかし、こういう時だからこそ、外交の窓口が必要なのだから踏みとどまれと父に説得され、かつて但馬にも同じようなことを言われたことを思い出し、彼女は渋々この場に残っていた。
しかし、本当に自分にやれることなんてあるのだろうか。あの事件から1ヶ月と少々、帝国議会は連日大忙しのようだったが、自分に何かしてくれと言ってきたことは一度もない。コルフ大使館は完全に蚊帳の外である。
だったらもう、あんな醜悪なものを見せられるくらいなら、暫く休暇と称して、首都から離れていたらどうだろうか。電話線さえ繋がっていれば、すぐに戻ってこれるのだし、指示くらいなら飛ばせる。ハリチはあんなことになってしまったが、ザナドゥ離宮のある高原の方は健在だというから、今晩にでも旅支度を済ませてしまおうかと、タチアナがそんなことを考えている時だった……
パンッ! パンパンッ!!
っと、乾いた音が遠くの方で鳴り響いた。
タチアナはギョッとした。あれはもしや、銃声ではなかろうか? 軍人でもない自分でははっきりとしたことは分からないが……タチアナがそんな風にドキドキしながら窓の外を眺めていると、
「タチアナ様! タチアナ様! ああ、良かった。ここに居られましたか。至急、玄関までお越し願えませんか?」
大使館員が慌てふためきながら、彼女の居る部屋へと駆け込んできた。
「何があったのですか?」
「それが……とにかく、来ていただければすぐに分かります」
そう言う大使館員に促され、タチアナは不安を胸に抱えたまま階下へと降りていった。いつもなら開けっ放しの玄関の重厚な扉が閉じられており、一階は夜のように薄暗かった。電気がついてなければ、何も見えないくらいである。
門を閉じたりなんかして、一体何があったのだろうか。こわごわと玄関を覗き見れば……その扉にもたれ掛かって、何者かが玄関に座り込んでおり、その周りを取り囲むように、大使館員達が不安そうな顔をして見守っていた。
男は額に傷を負ったらしく、大量の血を滴らせながら、真っ青な顔をして地面にへたり込んでいる。
「……ロス卿!? 一体、その怪我はどうされたのですか」
それはよく見知った相手だった。S&H社の大番頭で、この間、ついに社長に就任したフレッド君である。彼は二階から降りてきたタチアナを見ると、心底申し訳無さそうな顔をしながら何とか立ち上がろうとし、すぐにフラフラとなって両脇を職員に支えられていた。
「すみません、タチアナさん……ご迷惑をお掛けしたくはなかったんですが、他に行くあてがなくて……」
「無理をしないでください。それよりも一体、何があったのですか……?」
二人がこんなやり取りをしている最中、また、遠くの方でパンパンと銃声の音が聞こえていた。さっきは本物かどうか分からなかったが、こうなるともう間違いないだろう。
フレッド君は銃声が聞こえるたびに、ビクビクと体を震わせながら、
「実は、本社が暴徒に襲撃されたんです。あの銃声は、ガードマンが応戦しているからだと思いますが……」
「暴徒? 襲撃!?」
「……あの、いつもうちの会社の前で嫌がらせをしていた連中です。やっぱりあいつら、まともじゃなかったんですよ。だから散々、憲兵隊に排除してくれと頼んでいたというのに……」
フレッド君の話はこうだった。
1週間前、議会で吊し上げを食らった但馬は、最終的に私財没収の上に島流しにされることになった。そこまでは良いのだが、いざ、彼の私財を没収しようとした時だった。
「実は……社長は財産を何も持ってなかったんですよ」
「……ええ!?」
あまりのことに、数秒反応が遅れた。フレッド君は、さもありなんといった感じに、
「世界一の大金持ちだって目されてた方ですから、そりゃびっくりでしたよ。でも本当なんです。2年前に株式会社化した時に、社長は持ち分を減らしてて、その時にはもう、実質あの会社は僕のものになってたんです。それどころか……社長は配当も、自分の生活に必要な分だけ使ったら、残りは全部、孤児院に寄付していたんです。そして1年前には手元に残った株券の殆どを市場に売り払ってしまって、宰相としては一切の給与をもらおうとはしないで、最終的には、社長は社長の肩書以外からの収入が一切なくなっていたんですよ!」
「な……なんでまた、そんな極端なことを?」
「わかりません……ただ、社長はいつも、使わないお金は、いくら溜め込んでいても仕方ないからと言ってました。その考えを実践していたんじゃないでしょうか」
タチアナはあいた口がふさがらなかった。
コルフは商人の国である。お金儲けのためになら、どんなことでもする人間ならいくらでも見てきたが、ここまで金に執着しない人間は初めて見た。それもただ無頓着なわけではない。必要な分以外は、誰かのためと言って、孤児院に全額寄付してしまうような聖人ぶりである。なんと高潔な男であろうか。
「暴徒はそんなの信じられない、社長に隠し財産があると言って、無理矢理会社に乗り込んできたんです。もちろん、そんなものありませんから、帰れ帰らないで押し問答をしていたんですが、興奮する暴徒が社長室に土足で上がり込んできて、あちこちの資料をひっくり返し始めたから、ついにガードマンと交戦が始まってしまって……そうしたら、外に居た連中も、僕のことを悪の親玉だって言って乗り込んできて……」
フレッド君はその時のことを思い出したのか、恐怖でブルブルと震えていた。タチアナは強い憤りを覚えた。こんな善良そうな何もしていない青年を、自分勝手な決め付けで悪者呼ばわり……正義ぶってるくせに、結局、自分に都合のいい答え以外は何も受け付けないのでは、議論にすらならないではないか。そんなのただの偽善だ。
ふつふつと怒りの炎が湧き上がってくる。そんなとき、
ドンドンドン!!
っと、玄関の門が乱暴に叩かれて、
「おいっ! ここにフレデリック・ロスが居るだろう! 開けろ! 犯罪者を匿うのは、違法だぞ! 国際問題だぞ!!」
大使館の外で暴徒が騒ぎ始めた。こんなことになってるというのに、この国の憲兵隊は何をしてるのだろうか……いや、それよりも、このバカどもをどうしてやろうか……タチアナは、ふつふつと湧き上がってくる怒りに顔を真っ赤にした。
しかし、それとは対照的に、フレッド君の方は真っ青になっていた。多分、突き出されると思っているのだろう。こんな状況で彼らに捕まったら、命の危険すらある。タチアナは怯える彼を安心させるかのように、優しくその頭を抱きしめると、
「大丈夫です。落ち着いてください。彼らはここに入ってくることなんて出来ませんよ。そう言う作りになってますから。それより、ひどい怪我ですね。誰か! ロス卿を治療して、二階に連れて行って差し上げなさい」
タチアナがそう命じると、大使館員の一人がピューッと飛んできて、血を流し真っ青になって怯えているフレッド君を連れて建物の奥へと入っていった。
「タチアナ様、いかがなさいますか?」
残された大使館員たちは、タチアナを囲んで指示を待った。
つい今しがた彼女が言った通り、大使館は軍隊であっても簡単には落とせないような作りになっている。しかしそれは大使館の裏手や硬い天井からはという意味であり、出入り口はやはり脆く、いつまでも無事と言うわけにはいかない。
タチアナはムスッとしながら、玄関に入ってすぐの場所に置かれている壁掛けのラックから、ライフル銃を取り上げた。大使館が出来た時に、信頼の証として但馬から送られた物で、銃士隊の持つ装備同様、この時代においては射撃精度が非常に高い一品である。
ドンドンドン! ……門を取り囲んでいる暴徒たちはエスカレートしていった。最初に比べて明らかに門をたたく音は大きく、そして叫んでいる内容は暴力的になりつつあった。
「皆さん、聞いてください。ここでこうしていても、入り口は長くは持たないでしょう。そしてもし、暴力でこの門が破られたら、外にいる暴徒達も引っ込みがつかなくなり、そのまま雪崩れ込んでくるかと思われます。そうなったらかえって危険かも知れません。だから、私はこちらから出て行って、彼らの説得を試みようかと思います。彼らの目的はロス卿の身柄ですが、しかし私は彼を暴徒に渡すつもりはありません。何故なら、彼はコルフにとって大事な友人だからです。国家の友人を、あんな何をするか分からないような暴徒に渡すなど、人として断じて許されないでしょう」
大使館の主が態度を示したことで、みんなも腹をくくったのか、大使館員たちも各々武器を手に取り、玄関ロビーのソファーやテーブルを倒してバリケードを作り上げた。
タチアナはそれを見届けてから、
「彼らとの交渉は決してまとまらないでしょう。すると、彼らは業を煮やして大使館の中を調べさせろと迫ってくるかも知れません。そうしたら……構わないからやっちゃってください。私の権限の下に、武器の使用を許可します」
その場に居た職員たちが真剣な表情で頷いた。彼らは正直言って、この女上司がここまで肝の座ってる人間だとは思っておらず、いかにして二人を逃がそうかと、そのことばかり考えていた。ところが、土壇場になって見せた毅然とした態度に、彼らは自分たちの上司を改めて評価しなおした。
実際のところ、タチアナはこんな勇敢なタイプではない。本当は、膝が震えていて、すぐにでも逃げ出したいくらいだった。だが、今まで彼女の身に降りかかった様々な経験が、彼女に勇気を与えていた。
メディアで死にかけ、カンディアではペストに襲われ、今度はリディアで暴徒に襲撃される。思えば、タチアナはずっと貧乏くじばかり引かされている。それもこれも、但馬なんかと関わってしまったからだ……あのとき、コルフの防波堤で但馬に遭わなければよかった。タチアナはフッと表情を緩めると、懐かしそうに笑った。
大使館員やガードマン達が配置につくのを見届けると、タチアナは背筋をピンと伸ばし堂々とした格好で、玄関の扉を開け放った。
まさかこんな簡単に扉を開けてくれるとは全く想像していなかったのだろう。大使館の門に押し寄せていた暴徒達は、肩透かしを食らってその場でドミノ倒しのようにバタバタと倒れた。
一番大きな声で罵詈雑言を叫んでいた男……つまり、先頭に立って門を叩いていた男は、一番下敷きになって、キュウと情けない悲鳴を上げた。男は伸し掛かる暴徒たちを押しのけ、地面に這いつくばりながら、その引き金を引いたタチアナのことを恨めしそうに見上げた。
「てめえ、何をしやがる!」
「あら……開けろと言われたから開けたのですが、何かまずいことでもございましたか?」
しかし、そこには涼しい顔で笑みを浮かべる、柔和な女性が立っているだけで、男はまた肩透かしを食ったかのようにトーンダウンした。
「まあいい、さっきから何度も言ってるだろう! 国賊を出せ!」
「国賊とおっしゃる方に知り合いは居りませんが」
「フレデリック・ロスだ! 居るんだろう!!」
「さあ……今日はお見かけしておりませんが?」
「嘘をつけ! ここに入っていったところを何人もが目撃してるんだぞ!」
「何かの間違いじゃございませんか? 今日一日、大使館に居ましたが、そんなことは全くありませんでしたよ」
「ふざけるなっ!! そっちがその気なら、勝手に調べさせてもらう」
すると男は激高したかのように、タチアナを押しのけて大使館内に入ろうとしてきた。タチアナは男の進路を塞ぐように回りこむと、
「勝手なことをされては困ります。お引き取りください!」
「黙れ! 犯罪者を匿うのは国際問題だぞ!」
「そちらこそ、大使館に侵入することがどういう事かお分かりになっておいでですか。ここはリディアにあってリディアにあらず、恐れ多くも皇帝陛下がお認めになられたコルフの領土です。その領土を犯そうと言うのならば、我々も容赦いたしませんよ」
ライフルを構えながらタチアナがそう啖呵を切るや否や、入り口を取り囲むように作られたバリケードの影から、銃を構えた大使館員が姿を現した。銃口を向けられた男は一瞬怯んだが、
「何だこのやろう!」「小国が粋がりやがって!」「構わねえ、やっちまえ!!」
外にいる仲間たちが他人事のような野次を飛ばす。男はそんな無責任な野次に、自分たちの数的有利を思い出すと、
「おい、コルフの。おまえたち、これだけの人数を相手に、覚悟があるんだろうな……?」
「そちらこそ、コルフと戦争をする覚悟があるのでしたらかかってらっしゃい。仮に我々がここで倒れても、コルフはあなた方を決して許しませんよ」
「はんっ。たかが小国が、我がアナトリア帝国を相手にして、勝てるとでも思ってるのか? おまえら大使館員どころか、国中皆殺しにしてもお釣りが来るぞ。分かったら、そこをどけ」
「おや、これはおかしい。どうしてそんな台詞が出てくるんですか。まるでこの国が、あなたの所有物みたいですね。あなた、一体何様ですか? そんなに偉いんですか? たかが一般市民のくせに、国際問題を大仰に語り、自分を大きく見せようとしたところで、怖くはありません、滑稽なだけですよ、恥ずかしい」
「なんだとぉ~……!! 黙って聞いてりゃこのアマ! この仕事が終わったら俺はなあ!! 俺は……ああ~……あうあう……」
売り言葉に買い言葉なのか、男が何かを言いかけた。タチアナは何かおかしいと思ってそれを問いただそうとしたが……すぐに周囲から野次が飛んできて、彼女の言葉はかき消された。
興奮する暴徒たちは、もう良いからやっちまえのシュプレヒコールである。本気で国際問題など屁とも思ってないような連中を相手に、タチアナはいよいよ覚悟を決めるしか無いと腹をくくった。
しかし、そんな時だった。
「これは一体何の騒ぎですかっ!!」
大使館を取り囲む暴徒たちの背後から、よく聞き慣れた凛とした声が響いたかと思ったら……
フワッと緑色のオーラが辺りを包み込み、次の瞬間、そのオーラを中心にして暴風が吹き荒れた。
暴徒たちがその風に煽られて尻もちをつくと、まるでモーセみたいに人混みが割れる。
タチアナが見たその先には、純白に輝く刀身をきらめかせ、暴徒たちを睥睨するリーゼロッテと、その彼女に守られるようにしてふんぞり返る、ブリジットの姿があった。
「まあ! ブリジット様!」
タチアナがホッとして声を上げると、ブリジットは地面に寝そべる暴徒たちを睨みつけながら、その間を悠々と歩いて大使館の方へとやってきた。その小柄な姿に威圧されるかのように、暴徒たちがたじろぐ。
何故か知らないが、見慣れない服装をしていたので最初は分からなかったが、その大きな瞳と靭やかな筋肉とふわふわの金髪は間違いなくブリジットである。
「な、何故皇帝が!?」
対して、タチアナに詰め寄っていた男は、まさかこんなところにブリジットが現れるとは想定していなかったのか、明らかに泡を食ったといった感じで、地面に尻もちをついたまま情けない声をあげた。そして、あわあわと声を震わせつつ、彼女のことを指差して言った。
「皇帝がこんな場所にいるはずがない! いや……そもそも、その女はもう皇帝じゃないんだ! 構わないからみんなやっちまえっ!!」
男はよほど精彩を欠いていたのだろうか、とんでもないことを口走った。これには他の暴徒たちも流石に驚き、耳を疑うようにして男の顔を凝視した。リディアに住む人であるならば、絶対にそんな台詞が出てくるはずがないのだ。それでも取り乱した男は、その雰囲気を察することが出来ず、
「何をやってるんだ! 俺達はもう後には引けないぞ! ここでフレデリックを片付けなければ、S&H社の解体は不可能だ! さあ、分かったらさっさとその女を始末しろ! 大丈夫だ、その女はもう皇帝じゃない。聖遺物も持ってなければ、何の力もありゃしないっ!」
「そんなわけねーだろ!」
そんな突っ込みと共に、ガツンッ! と、まるで漫画みたいな音が鳴り響いた。男はピクピクと痙攣しながら地面に突っ伏した。
見ればいつの間に現れたのか、大使館を取り囲む暴徒たちを更に取り囲むようにして、近衛隊が睨みを利かせていた。
近衛隊長ローレルは、この暴徒のリーダーらしき不敬な男に強烈な鉄拳を浴びせると、目を回して動かなくなった男の首根っこを引っ張りあげ……
「このやろう……リディア人じゃないな。おいっ! ここにいる暴徒どもをひっ捕らえろ! 逆らうなら殺しても構わんっ!!」
隊長に命令され近衛兵達がその場に居た者たちを捕縛しにかかる。殺しても良いという命令に恐れを成して殆どの者は大人しく捕まっていたが、そんな中でも必死になって逃げようとした数人はかえって目立ってしまい、近衛兵にすぐに取り押さえられると、大暴れしてまるでこの世の終わりのように泣き叫んでいた。
下手したら本当に近衛兵に殺されても文句を言えない……なのに、こんなに大暴れしたり必死に逃げ出そうとしたり、彼らは一体何を考えているのだろうか? タチアナはその奇妙な光景に首をひねりつつも、とりあえず助けてくれたブリジットに、
「ブリジット様! 助かりました。あなたが駆けつけてくださいませんでしたら、今頃どうなっていたことか……」
「一体、何があったんです? 実は市内のあちこちも似たような感じで……暴動を鎮圧して回っていたら、いつの間にかここに辿り着いたというのが本当なのですよ」
礼を言うと、ブリジットがそう言って逆に質問をしてきた。タチアナは正直言って何もわからなかったが、とりあえず、ここに至る顛末を語って聞かせると、
「え!? フレッド君が?」
「はい。最初、あの暴徒たちはS&H社を襲っていたようなのです。そして怪我をしたロス卿が大使館に駆け込んできて……」
「その話を詳しく聞かせてくれないか。さっき、リーダー格の男もそんな感じのことをほざいていたな。それから……陛下! あんたはまったくもう……どうしてこんなところに居るんだっ! あの男ほどじゃないが、俺も驚いたぞ」
二人が話し込んでいると、暴徒鎮圧を終えた近衛隊長がやってきてタチアナに尋ねてきた。彼のすぐ隣には、バツが悪そうな顔をしたリーゼロッテが従っていて、ローレルがじろりと睨みを利かせると、ブリジットと二人してキュッと首をすぼめた。
「まったく……どうせ、こっそりと但馬の見送りにでも来たんだろうが、そうならそうと俺達に言えばいいだろう。目立たないように護衛くらいしてやるさ」
「……すみません」
まさか本当はその但馬にくっついてハリチまで行くつもりだったとは言えるわけもなく、ブリジットは反省している素振りで白を切った。そうとは知らぬローレルは肩を竦めると、
「まあ、説教は後回しだ。それよりも大使殿。暴徒の狙いがロス卿だというのは本当なのですか」
「はい。はっきりそう要求してきたので、間違いないと思います。実は今朝からずっと彼らはS&H社を取り囲んでいたんですが、なのに憲兵隊がいつまでたっても来ないから、昼ごろには暴動に発展し、ビルになだれ込んできたそうなのです」
「憲兵隊が……ここもか」
「何かあったんですか?」
ローレルのつぶやきに反応して、リーゼロッテが尋ねると、彼は眉をひそめながら、
「陛下もリズも暴徒を相手にしてたなら分かるだろうが……実は少々度を越してるんだ。但馬の護送が始まったのを前後して、市内のあちこちで暴動が発生したようなのだが、それがあまりにも多方面に多すぎて、憲兵隊の手が足りないからと、駐屯地にいる帝国軍や、俺達にまで応援要請が来ていたんだ。それで俺は市街に出ていたんだが……おかしいんだよ」
「何がです?」
「市街に出ると確かに暴動が発生していて、俺達も取り締まりに加わったんだが、そうこうしているうちになんだか少し違和感を感じてな……暴動の数が多いと言うより、元々の憲兵の数が少ないような……そんな印象を受けたんだ。そして暴動ってのも、あちこちで起こってるわりには、いざ仲裁に入ってみれば殆どがつまらないイザコザで、こんなのが一度に何個も自然発生しているのは、どうもおかしいんじゃないかと……」
「大変です! 大変です! 大変です!!」
ローレルがそんな風に、市街で起きている暴動の違和感を語っている時だった。
その市街地の方から早馬に乗った近衛兵が顔を真っ青にしながら駆けて来て、ローレルを見つけるや大声で叫んだ。
「隊長、ここにおいででしたか! 至急、王宮にお戻りください!!」
「何があった!?」
「実は、つい先程、我がリディア王宮が帝国軍歩兵大隊に取り囲まれて……って、あれ!? 陛下っ!!??」
伝令の近衛兵はその場にブリジットが居るのを見て仰天していた。報告は完全では無かったが、何が起こっているかは大体わかった。
「王宮が……取り囲まれた? 帝国軍に? それって、つまり、クーデターってことですか?」
そのクーデターの目標であろうブリジットがそうつぶやくと、その場に居たリーゼロッテ、ローレル、タチアナの三人は目を見開いた。
たった今、ローレルは違和感を感じていたが、それは間違いではなかった。どうやら近衛隊は、王宮から遠ざけられていたようだ。元々、外敵の居ない市内の王宮は警戒が薄く、近衛隊がいなくなればロクな警備兵がいない。
「え、でも……どうして? どうして我が国でクーデターなんて……」
考えられることは、但馬が失脚したことに対する抗議として。
もしくは、逆にこれを好機と捕らえて。
政治家や議員を抑えるのではなく、いきなり王宮を取り囲んだことから、後者の方が可能性は高いだろう。但馬さえ居なければ、この国を私物化するのは容易いと考えている者が居たらしい。どうやら、今朝からずっと起きていた市内の混乱は、その布石だったようだ。
幸い、ブリジットはこうして敵の目論見から逃れて街の外に居るし、近衛兵もこうして一緒に居るので、対応を間違えなければなんとかなりそうであるが……
但馬も居ない。兄も居ない。そんな状況下で、ブリジットは一人で何が出来るのだろうかと頭を悩ませた。正直いって、何をどうしていいか分からない。
しかも、そんな何も分からない彼女に追い打ちを駆けるかのような出来事が、立て続けに起きたのである。
「……ブリジット様! 社長の剣が……」
どうすれば良いのだろうか……弱り切ったブリジットが頭を抱えていると、リーゼロッテが緊迫した声を上げた。
見れば彼女の持つ勇者の剣……神剣ハバキリが、まるで砂のように音もなくサラサラと崩れ落ちているところだった。
アクロポリスの世界樹であったことは知っている。
但馬は、自分の聖遺物をいつでも呼び出すことが出来る。だが、それが呼び出されるということは……
彼が今、ピンチに陥っているということだ。
ブリジットはそれを見るや否や、無言で駆け出した。さっきまで、何をどうすればいいのかと悩んでいたのが嘘みたいに、彼女には今、自分がやるべきことが明確にわかっていた。
「あ、おいっ! 陛下、どこへ行くんだ!」
突然、王宮とは逆方向へ走りだしたブリジットに、ローレルが叫んだ。だがもう、誰がなんと言おうと、彼女が止まることはないだろう。彼女の目的地はただ一つ。但馬が居るはずの、西である。