そして二人の逃避行は終わった
握りしめた手のひらから彼女の体温が伝わってくる。但馬はそれだけで勇気が持てる気がした。
喧騒の街を逆走するように駆け抜ける二人を、人々が迷惑そうに振り返っては、その必死な姿に首をかしげていた。
二人の逃避行は、まだ殆ど誰にも気づかれていない。但馬がアナスタシアを連れて逃げていることが王宮に伝わったら、きっと自分は連れ戻されてしまうに違いない。彼はその恐怖から逃れようと、必死になって走っていた。
もう、リディアには帰ってこないつもりだった。
こうして、アナスタシアを選んだ瞬間から、但馬はこの国を捨てていた。ブリジットが許しても、世間が許さない。それに、その世間だっていつまでも無事でいられるかわからないのだ。彼女を選ぶということは、そういうこと……世界を裏切るということと同じなのだから。
但馬は罪人のような気持ちで駆けた。狭い路地を抜け、人混みの少ない方へ、少ない方へ……城壁内へは決して近寄れない。だから東区の端っこを駆け抜けて、やがて二人は人の居ない荒れ地へと入り、森の外縁部をかすめるようにして市街からどんどん離れていった。
銃士隊や帝国軍に見つかるわけには行かない。レーダーを駆使して、誰もいない草原を駆けた。
やがて但馬はアナスタシアを連れて郊外の街に入ると、目についた家の窓を叩き割って、そのまま内部に侵入した。鎧戸を閉じて、カーテンを閉めて、暗い部屋の中で、二人は息を殺して隠れるようにして蹲った。
街はしんと静まり返っていて、但馬の探知できる範囲では人っ子一人居なかった。時折、遠くの方から乾いた銃声が聞こえてくるだけである。
「夜になったら森を抜けて、メディアを目指そう」
但馬がそう言うと、アナスタシアが手を握り返して、いつもの眉毛だけが困ったような、不安そうな顔をして言った。
「本当に……これで良かったの? 先生は、後悔しないの?」
「後悔なら、もう何年も前からずっとしてる。あの日、君を諦めてから、俺はずっと足踏みをし続けてるようなものなんだ」
「そうじゃなくて、世界が滅びてしまうかも知れないんだよ? 私達だけじゃない。この国の人達も、エリオスさんやリオンも……姫様も。私が行かなければ、みんな死んじゃうかも知れないんだよ?」
但馬は彼女の体をギュッと抱きしめた。
「そうだよ。俺が世界を滅ぼすんだ。君がどんなに平和を願っても、俺が絶対にそれを許さない。だって、君が居なくなるって考えただけで、こんなにも泣けてきたんだ。君がいない世界なんて、何の価値もないんだ。そんな世界、俺が滅ぼしてやる。だからもう、何でもかんでも、一人で背負い込まないでくれ」
「でも私は、先生のためを思って……」
「いいや。何度だって言うよ。この世界がどんなに平和でも、君が生きて無ければ意味が無い。君の居ないこの数日間、俺は死んでるのと同然だった。君が居なくなってしまったら、俺はあっという間にダメになってしまうんだ。だったら俺は君と一緒に破滅の道を選ぶ。世界中の人全てが犠牲になったとしても、君と最期の一瞬まで一緒に居られるならそれでいい」
アナスタシアを犠牲にして得た平和になんて、何の価値もない。キラキラと見上げる瞳を真剣に見つめながら、但馬は続けた。
「だから俺に、君の一生をくれ」
そして二人の影が重なった。
但馬はアナスタシアの唇に何度も何度もキスをした。今までずっと我慢してきた分を取り返そうとするかのように、彼は熱心に彼女の唇を貪った。アナスタシアもアナスタシアで、今まで他の女に渡していたものを奪い返すかのように、何度も彼の唇に吸い付いた。
絡みあう舌がざらついて、混ざり合う唾液の水音が響く。但馬はねっとりと舌を絡ませながらアナスタシアを押し倒すと、彼女の衣服を乱暴に脱がせた。バンザイの姿勢でそれを受け入れた彼女が恥ずかしそうに目を伏せる。信じられないほど真っ白な素肌が露わになって、触れたら折れてしまいそうな腰のあたりから湯気が立ち上っていた。但馬は彼を誘引してやまない胸の突起にたまらず触れると、上気する彼女の真っ赤な唇から、溜め息のような喘ぎ声が漏れた。
実際にその時になったら焦ってしまって何も出来ないんじゃないかと思っていた。でも、そんなことは無かった。但馬はただ夢中になって彼女に溺れた。がむしゃらに彼女の全てを奪いつくすかのように全身にキスを這わせ、彼女の中で何度も何度も果てた。
それはあの出会いの瞬間から、ずっと但馬が夢見てきたことだった。けれどそれは世界と、ブリジットへの裏切りに他ならない。嬉しくて、苦しくて、但馬はそんな背徳感の中で、言い訳をするかのように、何度も彼女を求めた。
アナスタシアはそんな彼の全てを受け入れ、そして二人は獣みたいに飽きること無く、いつまでもいつまでも絡みあっていた。
全てのことが終わった時、外は薄暗くなっていた。
断続的に聞こえていた銃声は、どんどん遠くの方へと遠ざかっていった。それはクロノア達がエルフを遠ざけることに成功したからか、それとも、但馬の意識が朦朧としていたからかは分からない。
暗くなったら森を抜けてメディアを目指そうと言っていた但馬は今、彼女のお腹に顔を埋めながら、グッタリと倒れていた。もう少ししたら、この夢みたいな時間から覚めて、エルフのうろつく森の中を行かなければならない。でもその前に、少し眠りたかった。
何しろ身体がクタクタだ。自分一人ならなんとでもなるが、これからはアナスタシアにかすり傷一つ負わせてはならないという、重要な任務がある。その前にほんの少しでもいいから、体力を回復させたいと、但馬はアナスタシアの匂いに抱かれながら、夢と現を行ったり来たりしていた。
アナスタシアはそんな彼の頭を愛おしそうに撫でながら、
「先生……起きてる?」
中々返ってこない返事を辛抱強く待っていたら、やがて掠れるようなうめき声とともに、但馬が甘える子供みたいに彼女のお腹に額をグリグリとこすりつけてきた。アナスタシアが、それをくすぐったそうに撫でてやると、
「……うん、起きてる」
「一目惚れだったって言ったのは本当?」
すると但馬はチラリと一瞬だけ目を開いてから、
「本当。一目見たその瞬間から、ずっと君が好きだった」
彼の声がお腹の中で重低音のように響いていた。アナスタシアは体の奥底からゾクゾクと湧き上がってくる何かを感じた。但馬が好きだと言うたびに、それは彼女の全身を駆け巡って、とても幸せな気分になった。だから、何度だって聞きたかったのだ。
「君に触れたい、もっと君と話したい。もしもあの時シモンが来なかったら、絶対に手を出していたと思う。そうする他に、君とお近づきになれる方法が無かったからだけど……でも、今はそうならなくって良かったと思うよ」
「そうなの?」
「もし、俺達の出会い方がほんのちょっとだけでも違ったら、ここまで君のことを愛おしく思っていたか分からないよ。俺は、君と暮らした生活の全てをひっくるめて、君の事が好きなんだ。それに、もしも俺が君に手を出していたら、君は俺のことを好きになってくれたかわからないでしょう?」
アナスタシアはこっくりと頷いた。但馬は彼女に一目惚れで、出会った瞬間から、ずっと好きだったと言ってくれた。けれど、彼女の方は、いつ彼を好きになったか分からなかったのだ。
初めの頃は、顔さえ認識していなかったかもしれない。但馬は自分を買おうとする男の一人でしかなくて、自分に近づく男はみんな、身体にしか興味が無いと思っていたからだ。
「一緒に暮らし始めてからも、先生のことはよく分からなかった。男の人はみんなセックスしたいんだって思ってたから、先生が手を出さないのがよく分からなくて……なんとなくこの人は違うんだなと思ってからは、よく観察するようにしてたけど、余計に分からなくなったな。先生は飲兵衛だし、すぐ調子に乗るし……やってることが変だったから」
「とほほ」
「そうじゃないって思ったのは、私のワガママに先生が付き合ってくれたから」
「……そんなこと、あったっけ?」
「うん。写真集のお仕事をやらせてくれたこと。先生に、お金を返したいって言ったら、ちゃんと考えてくれたから。その後もカフェの仕事を介して、この人はちゃんと私のことを一個の人間として扱ってくれてるんだなって分かって、そうしたら、世界がパッと開けてきたんだ。それまでの自分は、ただ生きているだけで、何をやっていいか分からなかった。それが先生と一緒にいるだけで、自分に色んな役割が出来る。未来が出来る。それが嬉しかったんだ。それから、だんだん先生のことが好きになっていったんだと思う。だから、先生みたいに、いつ好きになったかってのはわからないよ」
但馬が寝返りを打つとアナスタシアは顔を背けた。何か悪いことをしたのかな? と思ったが、その顔が真っ赤に染まってるのを見ると、どうやら照れているらしい。但馬は嬉しくて、自分も照れ隠しに、彼女の気を引こうとして脇腹をツンツンと突くと、彼女が怒ってポカポカと彼の頭を叩いた。彼はその攻撃を交わしながら、
「そっかあ……薄氷を踏むような日々だったんだな」
「……薄氷? とても充実した毎日だったけど」
「ううん、アーニャちゃんじゃなくって、俺のほうがさ。本当はね、余裕ぶっていたけど、いつも大変だったんだ。だって、大好きな子が、同じ屋根の下で暮らしてるんだよ? その子が隣りに座ってるだけで、気が狂いそうなくらい幸せになる。その子の寝息が隣の部屋から聞こえてくるだけで、胸が張り裂けそうになる。いつもムラムラしてて、跳びかかりたくって仕方なかった。
でも、それをしたら、この大切な時間が終わってしまうんだって思ってさ……だから、我慢して、我慢して、我慢した。我慢に限界があるんだとするなら、そんなもんとっくに擦り切れていたけど、君と居るその時間が、俺にとっては何よりも大切だったんだ。
俺はこの世に紛れ込んだ異邦人で、本当の意味でこの時代の人間じゃない。だから何やってても、いつもどこか他人事で、初めはこの世界になんの思い入れもなかったんだよ。ある日突然、見知らぬ浜辺で目が覚めて、家に帰れるんだかどうかも分からない。仕事もない、金もない、行くあてもない。ついでに言えば、生きていく理由もない。実際のところ、お金を手に入れた後も、何をしていけばいいのかさっぱり分からなかったんだ。
そもそも、大陸に渡り勇者の足跡を辿って何になる? 自分が勇者と同じ存在だって分かったところで、俺がこの世界で生きていく理由は何もない。思い入れもないこの世界で、一体何を成せただろうか。きっと、何もしないでのんべんだらりと暮らした挙句、どっかで朽ち果ててしまっただろうよ。
君の身請けをしたいって言った時にさ……ジュリアさんに、アーニャちゃんのためじゃなくって、自分のために生きろってお説教されたんだけど……そんなの言われるまでもない、始めっからそうだったんだよ。俺は自分のために君を手に入れたかった。
あの頃の俺は空っぽで、目的も何もなかった。お金があっても、これからどうしていけば良いか、わからなかったんだ。でも、あの瞬間から、君を守ることが俺の全てになった。それが生きる目的になったんだ」
アナスタシアは相変わらず照れくさそうにしていたけれど、但馬の方はなんだかスッキリして、晴れがましい気分だった。
「だから、ありがとう」
「……え?」
「一緒に居てくれて。俺の……生きる理由になってくれて」
ずっと、アナスタシアが但馬のことを支えてきてくれたのだ。彼女が居るから頑張れた。彼女が居るから、今の自分があるのだ。その子とこうして結ばれたことが何よりも嬉しかった。本当なら、小躍りして、みんなに自慢したいくらいだ。
だが、そんなことをしたら全てが台無しになる。彼らは今、逃亡犯と同じようなものなのだ。本当なら、こんな幸せを噛み締めている場合じゃない。すぐにでも動き出さなければならないのだが……
「ごめんね、今は疲れてすぐには動けそうもない。だから、ほんの少しだけ寝かせてくれ。起きたら森を抜けてメディアを目指そう……メディアから大陸に渡る船に乗って、誰もいない場所に家を建てて、またあの頃みたいに、2人で暮らしていこうよ。
……そうだ。いつか約束したみたいにさ、もっとずっと遠くを目指そうか。レムリアを越えて更に西へ行けば、やがて島嶼部にぶつかってさ。ニューギニア、インドネシア、ポリネシア、フィリピンを越えて台湾沖縄を過ぎれば、やがて列島が見えてくる。そこが俺の故郷なんだ。
今はもう、きっと何にも無いだろうけど、俺の暮らしたあの国を、君も気に入ってくれたら嬉しいな。春になったら桜が咲いて、秋になったらすすきの穂が生い茂る、どこからでも目立つ大きくて不思議な形をした山があるんだ。俺の住んでた場所からも、天気が良ければよく見えた。懐かしいなあ……あれ、まだちゃんとあの形のままそびえ立っているんだろうか。
晴れた日にはピクニックに行こう。君と俺と、二人で。終末の時まで」
終末……但馬は何気なくそう言ったが、アナスタシアはハッとなった。思い出すたびに胸が苦しくなる。アナスタシアが逃げるということは、つまり、そういうことなのだ……
うとうとする但馬の瞼が重くなる。もう目を開けているのも大変だった。
「ごめんね。本当は、ヒーローみたいに、世界を救えたら格好良かったんだろうけど。君の最期を俺にくれ。君を幸せにしてあげるって言えないのは悔しいけど、これが今の俺の精一杯なんだ」
但馬は最後にそう言うと、パッタリと糸の切れた人形みたいに眠りに落ちた。もう5日間も殆ど眠ってなかったのだ。その原因が取り除かれた今、彼に眠りに抗う術はなかった。
アナスタシアはそんな彼の髪を何度も何度も優しく撫でた。しかし、その慈しむような顔が、徐々に真顔へと戻ってくる。ポタポタと涙の雫が滴り落ちて、彼のほっぺたで何度も何度も弾けた。だけどもう、但馬は目を覚ますことはなかった。彼女は溜息を吐いた。
謝るのはこっちだ。
お礼を言うのだって、こっちの方なのだ。
但馬はアナスタシアが生きる目的を与えてくれたと言ったけれど、それは彼女のセリフだった。但馬が現れるまで、彼女にとって世界は閉ざされた箱の中だった。それをこじ開けてくれたのが彼なのだ。彼と出会えたから、アナスタシアは生きてこられた。彼のお陰で、こうして人並みに恋もできた。彼が居るから、だから世界はこんなにも愛おしいのだ。
だから……やらなければならない……この世界を救えるのはもう、自分しかいないのだから。
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目が醒めるとアナスタシアが居なかった。但馬は、自分のお腹にかけられた洋服を羽織った。
トイレだろうか。それとも、自分があまりにも寝坊助だったから、飽きてどこか散歩にでも行ってしまったのだろうか。外はまだ暗い。移動するなら今しかない。元をただせば自分が寝てしまったせいだが、猶予は殆ど無いかも知れないのだ。一刻も早く彼女を連れて、共にここを離れなければ……但馬は彼女の姿を探して立ち上がった。
続きの部屋から灯りが漏れているからそっちにいるのかと思ったが、部屋には彼女の姿はどこにも見当たらなかった。二人が勝手に使った食器類や、入ってくるときに壊してしまった窓ガラスが綺麗に片付けられている。
風を感じてそちらの方を見れば、掃き出し窓の一枚が開いていて、月明かりが差し込み、カーテンがパタパタと揺れていた。
ふと見れば、机の上に真白いメモが置かれていて、風に飛ばされないようコップで重しをされていた。かつて水車小屋で、失敗した反古紙の裏に聖書を書き写していた彼女の姿が思い出される。但馬はそこに、あの時の几帳面で美しい筆跡を見つけた。
但馬様へ……
そう書かれたメモ用紙の裏側には、規則正しい間隔でびっしりと彼女の文字が並んでいた。すぐにそれが但馬に向けた置き手紙だということは分かったが、内容が上手く頭に入ってこない。
なんとなく悪い予感がして、読もうとするといちいち目が滑ってしまうのだ。拾う単語が片っ端から、目からこぼれ落ちてしまうかのようだった。
胸が苦しかった。動悸と目眩と息切れがする……もちろん風邪なんかじゃない。ただそこには、いっそ不治の病でも患っていた方がマシだったと思えるくらいの事が、淡々と書かれていた。
但馬は震える手を必死に押さえつけるようにして、彼女の残した置き手紙を読んだ。
『挨拶もせずに、居なくなる事をお許し下さい。きっと先生は、言ったら止めたでしょうから、あなたが寝ている間に出ていきます。本当は、もっとあなたの寝顔を見ていたい。本当は、もっとおしゃべりをしていたかった。けれど、これ以上はもう未練になるから、港に船が未だあるうちに、私はこの国を去ろうと思います。
先生と喧嘩みたいになって別れてから、港で再会するまでの5日間。私はずっと後悔していました。本心とはいえ勢いであんなことを言ってしまったけれど、先生との最後があんな思い出になってしまうのが、私は悲しかったのです。
ティレニアに向かう日が刻一刻と近づいてくると、私はだんだん怖気づいて来ました。だから、勇気を振り絞るためにも、後悔を少しでも軽減するためにも、最後に先生に謝りたい……謝ろうとした事実が欲しいと、絶対に繋がるわけがない電話を掛けたんです。
そしたら、先生が本当に出るんだもん。先生は、いつも私に奇跡を見せてくれるって、本当に思い知りました。しかも、奇跡はまだ終わらなかった。あなたが、こんな私のところへ駆けつけてくれて、こんな私を求めてくれた。
世界を滅ぼしてでも、私を選ぶと言ってくれたのは、本当でしょうか。世界がどんなに平和でも、私が生きていなければ意味が無いと言ってくれたのも、本当でしょうか。
私も同じ気持ちです。あなたが居ない世界なんて、想像もつかない。あなたが生きている世界だから、こんなにも美しい。
私には何もなかった。生きる意味も目的も。それを与えてくれたあなたがいるから、私はこんなにも世界が愛おしいのです。
だから私は、世界を守ろうと思います。今の私があるのは、ずっとあなたが守ってくれたお陰だから、今度は私があなたを守りたい、そう思えるのです。
あなたが居れば、この世界はまだ続いていける。そのために私の命が必要ならば、喜んで差し上げましょう。きっと、優しいあなたは悲しむでしょうが、どうか前を向いてください。あなたの作る世界の礎となれるのなら、私はこんなにも嬉しいことはありません。誇らしいことはありません。これは本心なのです。
だからどうか、罪の意識を持たずに、前を向いて歩いてください。人々を導いてあげてください。それは、あなたにしか出来ない仕事です。そして、私のことは忘れてください。今、あなたの隣にいる人を、大切にしてあげてください。それが私の最後の願いです。
それでは、私は行きます。あなたの作る世界に、幸多からんことを…………
…………追伸。おかしなことに、あなたの寝顔を見ながらこれを書いていると、あなたと出会った時のことを思い出します。さっきまで何も覚えていなかったのに、あの時の男の子の声や仕草や、ちょっと緊張しながら私に話しかける姿が、鮮明に思い出されます。もしかしたら、私も一目惚れだったのかも知れませんね。そうだったら良いな』
涙が滲んで最後の方はよく読めなかった。ポタポタと涙がこぼれ落ちて、インクが滲んでいく。だけど最初からそん風に、あちこちが真っ黒になってたのは何故だろう。彼女は、どんな顔してこれを書いていたのだろう。
「なんだよこれ……これじゃまるで、俺が後押ししたみたいじゃんかよ……うっ……うっうっうっうっうっうぅぅうううぅぅ~~~~~~~~……」
腹の底から嗚咽が漏れて、しゃっくりが止まらない。息ができなくて苦しいのに、脳みそにバンバン血が流れく。涙がボロボロ流れてく。まるで見えない何かにギュウギュウと絞り出されてるみたいだ。
そして但馬はおいおいと泣いた。
子供みたいに泣きじゃくった。
誰憚ることなく泣きじゃくるその情けない声は、きっとどこまでも届いていたことだろう。人の溢れる波止場で、この国の宰相が、事もあろうに浮気をしている現場を、何人もの人々が目撃もしていた。王宮は、但馬が姿を消したことに、とっくに気づいているだろう。本当は……但馬がアナスタシアのことを好きだなんて、誰だって知ってるんだ。
見つかるのは時間の問題だった。
だけどもう、但馬は動けそうもない。
やがて夜が来て、朝が来て、また夜がやってこようとしていた。
窓からは赤い夕陽が差し込んでいた。
気がつけば、その夕日をバックに、ブリジットが立っていた。誰のものかは知らない、不法侵入した見窄らしい民家の中に、きらびやかなドレスを纏った彼女が立っている。
「先生……帰りましょう……」
その顔は逆光でよく見えなかった。だが、きっと酷いことになってることは容易に想像がついた。ハンス皇帝の顔が過る。孫娘を守ると誓ったあの約束は、守れなかった。
但馬は言わなければと思った。もう、虫の良い言葉なんて、何もいらない。
「ブリジット……別れてくれ」
「い……嫌です」
彼女の声が震えている。但馬は畳み掛けるようにいった。
「本当は、そんなに好きじゃなかったんだ。ただ、あの時は、手に入りやすかったから、それでいいかなって思っただけなんだ」
「や……やめてください」
但馬はやめなかった。そうすることが必要だった。
「俺の事好きだって言うし、すぐにやれそうだったから……でも、やれないんだったらもういいし、別れてくれ」
「もうやめて……」
酷いことを言ってることは分かっている。だがもう、他にどんな言葉も思いつかなかったのだ。
「他に、好きな女が居るんだよ。さっきまで、セックスしてたんだ」
「この野郎! いい加減にしろ!!」
泣いているブリジットの背後から、キレた近衛隊長のローレルが飛び出してきた。彼は但馬の前に躍り出ると、容赦なく彼の顔を殴りつけ、ボコボコにした。眼窩を殴打されて火花が散った。口の中では鉄の味がジャリジャリしている。腹を蹴り飛ばされて息がつまり、胃が痙攣して胸に何か熱いものがこみ上げてくる。
しかし、もう何日も何も食べていなかった但馬は吐き出すものが無かった。ボタボタと、床に血の混じった胃液が垂れて、絨毯を真っ黒に染めていく。
近衛隊長はゲロに塗れる但馬の髪の毛を掴むと、
「この馬鹿を連行しろ。留置所だ!」
近衛兵が何人も飛んできて、但馬の体を乱暴に引きずった。両足が擦りむけて真っ赤な血が流れている。
但馬は立ち上がることも出来ず、痛みさえ感じず。まるで材木でも引きずるかのように、為されるがままに連れて行かれた。
ストック切れたんで、また休みます。続きは10日頃……かな? 予定は割烹にて。では