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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第一章
30/398

ソープ王に俺はなる!

 その後の但馬の行動は早かった。


 彼はその場に居たアナスタシアに、普段何を使って洗濯をしたり、食器を洗っているのかと尋ね、基本的に水でしか洗わないことを確かめると、礼も言わずに小屋から飛び出し、市街を駆け回った。


 いきつけの屋台のおっさんからは、油や粘土を混ぜたものや、レモン汁のような酸を使うと聞き及び、建築現場の作業員に尋ねてみたら、昔は灰汁洗いをすることもあったが、かなり稀なことであると言われた。


 やはりこの世界、とくにリディアという国は大木を極端に忌避する傾向から、木炭や木灰を用いてなにかすることを嫌うようだった。そうなると当然、炊事洗濯のような日常的な場面で、洗浄剤のようなものが使われてる可能性は低いわけで……


 思えば、この世界に来て初っ端に食べ物に(あた)ってしまったが、それもこれも不衛生さが招いたものだったのかも知れない。この世界では、基本的に水洗い以外の何もしない。風呂も、お肌をツルツルにする温泉が人気であるが、自宅で湯浴みをする人は少ないらしい。


 となると、


「これは、商売になるよな」


 街中をぐるりと回り、様々な店を御用聞きのように見て回ったが、どこもかしこも洗剤のような道具は使っていなかった。庶民はほぼ100%水洗いしかせず、料理店の食器洗いも店によってまちまちで、砂を混ぜたり、粘土を混ぜたり、店ごとのやり方があるらしく、かなり独特で驚かされた。しかし、そのどれも有効的な手段のようには思えず、それ本当に意味あるの? ってな感じのお呪い的な話を聞いている内に、但馬は手応えを感じた。


 製紙工場の夢は潰えたが……木を切り倒さないで済む石鹸工場なら可能だ。しかも、きっとこっちの方が市場に与えるインパクトも強いに違いない。


 石鹸の歴史は古く、なんと今から4800年も昔、紀元前2800年頃のアムール人の記録から、その存在は示唆されている。動物などの肉を焼いた際に滴り落ちた脂が、薪などの木灰にかかり、そこに雨が降って偶然混ざり合い、鹸化(けんか)(高分子エステルの加水分解)が自然発生したものと現在では考えられている。因みに、それを古代ローマ時代にメソポタミアのサポーの丘で、神に捧げた羊から発見されたとして、英語のsoapの語源とされているが、考古学的な根拠はどうやら無いらしい。


 その製法は紀元前2200年頃のシュメール人の粘土板にも書かれており、ローマ時代は普通に使われていたようだが、帝国が東西に分裂すると一旦忘れ去られてしまったらしく、普及の兆しが出てくるのは8世紀、アラビア人からスペイン経由でヨーロッパに再導入されたのが切っ掛けであった。


 初期の石鹸は不純物が多く、獣の肉を使っていたので臭いもひどかったせいで、あまり好んで使われなかった。その後8世紀に生石灰を使う方法が発見されると、家内工業として徐々に広まりを見せたが、本格的な産業として発展したのは12世紀以降、フランスのマルセイユ地方でバリラ(塩生植物の灰)とオリーブオイルを使った植物石鹸が生まれてからだった。因みに、マルセイユ石鹸はその後17世紀にルイ14世によって厳格な製造基準が儲けられ、フランス王家御用達のブランドに成長する。


 その頃の石鹸はかなりの高級品で、夫が妻にプレゼントとして送っても、説明書を見ないと使い方が分からないくらい珍しい物だったそうだ。また用途も個人用よりも先に、工業用として紡績業に大量に求められるようになり、そのせいで供給がおいつかなくなると、石鹸一つがまさに金貨一枚に相当するまで高騰してしまったらしい。


 そんな折、18世紀にスペインの継承戦争が勃発し、スペイン産のバリラに頼っていたマルセイユ石鹸は、材料が一斉に絶たれるという憂き目に遭う。そこで困ったフランスアカデミーが懸賞募集をしたところ、ニコラ・ルブランというフランス人が合成法を見事に発明した。この発明が、後のソーダ工業(無機化学工業の一種)の源流となるわけだが……ところが何の因果か、今度はフランス革命が勃発し、ついにフランスでルブランの合成法は工業として稼働することはかなわなかったのだ。


 しかし、それが産業革命期のイギリスに伝わると、ルブランの石鹸は一気に世界的な広がりを見せることになる。そしてルブランの合成法は、後にソルベー法にとってかわり、時代を経て電気分解法で水酸化ナトリウムの合成方法が確立、現在に至っているというわけである。


 そんなわけで、まさに石鹸工業は産業革命のパイオニア的な存在で、その時代の産業を象徴する一つと言って過言でない。それだけ工業化に向いているというわけだ。


「やるか……どうする? シモンは居ないが……」


 いや、何に遠慮する必要があるのか。それに、シモンは言っていたはずだ。何かするときは自分かアナスタシアを使ってくれと……要するに、どっちかに金が落ちればいい話だろう。


 やろう……彼が何を考えていたかわからないが、もはやその帰りを待っては居られない。但馬は何かに追われてるような気持ちでそう決意した。


「アーニャちゃん、仕事だ」


 と言うわけで、翌朝、水車小屋にやってきた但馬は、開口一番そう言った。


 昨日、何が何だかよくわからないことを聞いて、ふらっと出て行ってたと思ったら、帰ってきていきなりこれだ。アナスタシアは少々面食らうように、


「……仕事って、今度はなに?」

「今度も雑用。暫く街を行ったり来たりして、人と会ったりする手伝いをしてもらう」

「……街に行くのは、ジュリアに止められてるんだけど」


 いつも小屋にいるし、まあ、なんとなくそんな気はしていた。客は街からやってくるのだろうし、向こうで鉢合わせしないようにだろう。但馬は、


「分かった」


 と言うと、何が分かるの? と言いたげなアナスタシアを置き去りに部屋から出た。そして水車小屋の玄関付近にいたジュリアを見つけると、


「ジュリアさん。今日はアーニャちゃんの客は取らないでくれ」


 と言った。ジュリアは怪訝そうに、


「あら~? どうしてかしら~ん。お姉さんにも、分かるように説明してくれな~い?」

「人手が必要なんだ。シモンが行っちまったからな。だから今日は、夜も彼女の時間を買いたいんだよ。あと、街に連れてくのを許可してくれ」


 但馬がそう言うと、ジュリアは一瞬だけ真剣な顔を見せたが、すぐに元の柔和な顔に戻って言った。


「ふ~ん……そう。別にいいわよ~。お姉さんとしてはぁ、お金が入ってくるなら、どっちでも同じだから~。でも、夜は高いわよ~……分かってるの?」


 但馬は無言で頷くと、ポケットに無造作に突っ込んでいた金貨を手に取り、指で弾いた。ジュリアはそれを、やれやれと言った感じに肩をすくめてキャッチした。


 アナスタシアを連れだそうと思って振り返ると、その必要はなく、彼女は彼のすぐ後ろに居た。


「……先生、なんのつもり?」


 彼女の眉間の皺が、より一層深くなった気がする。もしかしたら、夜の時間を買われたということは、そういうことだと思われたのかも知れない。


「誤解しないでくれよ? マジで人手が必要なんだ。多分、君が思ってるよりも、これからの数日間は本当に忙しい」

「…………」

「取り敢えず、まずは市街に行こう。話はそれからだ」

「市街のどこに行くの?」

「シモンの家だ」


 但馬がそう言うと、アナスタシアは、えっ? と戸惑いの表情を見せた。それは彼女にとっては珍しい反応であり……彼はそんな彼女の様子に気づいていたが、気づかない素振りで踵を返すと、振り向かないでまっすぐに市街へ向かった。アナスタシアは渋々と後をついて来た。


 シモンの家にたどり着くと、最近はお馴染みになってきた彼の母親が、丁度店の支度をしているとこだった。但馬は彼女を見つけるなり、父親の所在を尋ねたのであるが、


「あら~! アナスタシアちゃんじゃないかい!?」


 そんな但馬などお構いなしに、彼の後ろについて来ていたアナスタシアの方に関心が行っていた。


 恐らく、数年ぶりとか、それくらいの話なのだろう。シモンの母親はオバさんパワーを炸裂させ、異様なほどにアナスタシアにかまいだし、そしてアナスタシアは借りてきた猫のようになっていた。


 ダメだこりゃ。


 こうなっては仕方ないと、但馬は彼女たちを置き去りにして、無遠慮に店内に入って奥の鍛冶場を覗き込んだ。すると、丁度シモンの父親が鉄を叩いており、彼は但馬に気づくと手を止めて、どうしたんだい? と尋ねてきた。


「……ふむ。すると、あの蒸気機関を使って、電気をもっと作りたいと」

「はい。それで、今のままじゃ効率が悪いんで、色々改造したり、新しい機械も作って欲しくて」


 但馬が石鹸の作り方を説明し、苛性ソーダが大量に必要だと言うと、彼はすぐに理解してくれた。


「シモンに頼めれば一番だったんだけど」

「なるほど。俺は息子の代わりか」

「いやいや、代わりなんてとんでもないです」

「冗談だ」


 そう言うとシモンの父親はにやりと笑い、


「あいつなんか、俺にしてみれば、まだまだ毛の生えた赤ん坊みたいなもんだ。なあに、俺に任せておけば、何だって作ってみせますよ、先生。だから大船に乗ったつもりでいてくれ」


 そう言って、彼は豪快に笑った。


 その後、父親と一緒に発電機の改造案を出しあい、その仕様を詰め始めた。やがて母親に解放されたアナスタシアがやってくると、父親もまた懐かしそうな顔をしだしたから牽制するように咳払いし、彼女も交えて意見の交換を行った。


 設計図を作るために紙が必要だと、作業場に取りに行ってくれと頼んだところで、彼女もようやく本当に自分が雑用として雇われたと納得したらしく、黙って小屋まで走ってくれた。


 その日は夜遅くまで議論を続け、細部をまとめて、試作品制作をシモンの父親に頼み、但馬とアナスタシアは彼の家に泊めてもらった。シモンの父も母も、まるで彼女を娘のように可愛がるものだから、彼女は身を小さくして居心地が悪そうにしていた。しかし、その眉間の皺は、いつもより少し柔らかそうに見えた。


 どうでもいいが、久しぶりにまともな寝床で寝た気がする。


 翌朝、水車小屋に帰ってくると、遊びに来ていたスラムの子供たちに小遣いをばら撒いて、電気分解で苛性ソーダを作っておいてくれるように頼んでおいた。但馬が居ない間も勝手に作って遊んでいたくらいなので、特に嫌がられることもなく、快く引き受けてくれた。


 紙漉きの方もやらないといけないから、動力が足りない。蒸気機関をそのまま使うわけにもいかず、シモンの父親に頼んでおいた機械が出来なければ身動きが取れない感じだった。


 水車小屋から穀倉地帯に出てくると、但馬はいくつかの畑をシラミ潰しに渡り歩いて、今度は農作業をしている人たちの中から、とある人を探した。


「あんれまあ、おめさん、久しぶりだなあ。オラになんか用だべか?」


 この世界に来た翌日、ブリジットと一緒に街へ向かう道すがら、偶然であったおじさんだった。確か、彼はコットンの輸出で一財産を作った豪農だったことを思い出し、


「お久しぶりです。良かった、見つかって。探してたんですよ」

「なんだ、オラんこと探しとったんか? おめさん、たまーにあのへん駆けてくっから、おじさんよーく見とったでよお。ほしたら、そんとき声さかけてくれればええのに」

「あ、そうだったの? 気づかなかった。今日はちょっとお願いがあって探してたんですけど……」


 但馬はそう話を切り出すと、


「油? 油さ欲しいんだべか?」


 石鹸作りで大量に必要になる油を融通してもらえないかと尋ねた。牛脂の他にも、オリーブオイルや、シードオイルを中心に、各種のオイルを揃えて欲しいと言うと、おじさんは物珍しそうな顔をしながらも引き受けてくれた。


 その後も数日間はやることがたくさんあり、但馬は寝る間を惜しんで働いた。


 ある程度苛性ソーダを確保できたら、試作品を複数個作り、それを持って市内の有力そうなレストランやホテル、露店を中心に営業をかけ、なおかつ市内に点在する洗い場や水場でデモンストレーションを行って、石鹸の存在を周知させた。


 評判がある程度ついてきたところで、アナスタシアを仕立屋に放り込み、まるでプリティ・ウーマンのジュリア・ロバーツよろしく変身させてから、インペリアルタワーの銀行へと乗り込んだ。


 ガキ二人で行って舐められては困ると思い、せめて箔をつけるためにアナスタシアだけでも特攻服に着替えさせたつもりだったが……銀行のドアをくぐるなり、すぐに支配人らしき男が飛んできて、但馬を奥の応接室へと招き入れた。


 どうやら、王様から報奨金をもらったことを聞き及んでいたらしく、なおかつ、但馬が製紙工場を建てる可能性があるから、便宜を図るようにと言い含められていたらしい。


「それで、今回はどういったご用向きで?」


 と尋ねられ、報奨金の小切手を現金化することもそうであるが、工場建設と言うか、会社の設立に関して融資が受けられないかと相談に来たというと、彼はさもありなんと言った感じに頷いたが……


「え? 製紙工場ではないんですか……?」


 紙の方もそりゃやるけども、それは小規模で、やりたいのは石鹸の方だと言うと、審査が要るとか、稟議が通らないとか色々とゴネ始めた。


 現物も持ってきてなかったし、前例がないから、どのくらい売れるか想像もつかない。それで渋っているようで、絶対に儲かるからと言って説得をしても、なかなか首を縦に振ってくれない。


 金貨1000枚を使ってもいいのだが、出来ればこれにはまだ手を付けたくないんだよなあ……と思いながら、困っていると、ふらりと例の三大臣の内の一人がやってきて、


「別に抵抗しても良いが、逆らうな」


 と言って、唖然とする銀行の支配人を置いて去っていった。


 何しに来たんだ、あの人は……多分、財務大臣か何かなんだろうが、銀行に但馬が来たと聞き及んで出てきたのだろう。但馬のことを魔王か何かと勘違いしてるんじゃなかろうか……


 ともあれ、大臣のお墨付きが出たので支配人の態度も軟化し、それじゃ担当者をつけるので、今後はそちらを通してくれと言われた。こちらも、いくら借りるとか、どのくらいの規模になるとか、まだ未知数な部分もあるのでプロの意見が聞けるなら大助かりだ。そして銀行を出ると、今度は同じビル内にあるハローワークへとやってきた。一生お世話になりたくない機関だと思っていたが、こうして雇うがわとして利用すると思うと気分が良い。


 取り敢えず、紙漉きの方は職人を育てなければならないので、長期でやってくれそうな人材は居ないかと求人を出すことにした。暫くは水車小屋で作業することになると言うと、応募が少なくなるかもと言われたので、現実のハロワ求人方式に『就業時間9~17時、残業月平均20時間。福利厚生の整った素敵な会社ですよHEHEHE……』と言い換えた。市内に動力が無いのが悪いのだ。この点も今後どうにかしないとなと考えつつ、但馬はタワーから外へ出た。


 その後、シモンの父親に頼んでおいた試作品が仕上がり、試しに蒸気機関を使って動かしてみたが、機械の方は問題なく動いたのだが、電気分解の際に発するガスのほうが洒落にならない感じだった。


 と言うわけで、やり方を変え、少々問題はあるのだが、アスベストを用いた隔膜法に切り替えることにした。この際、発生する塩素と水素も分離することにして、これらを貯蔵するタンクの制作も依頼した。


 そんなこんなで石鹸工場の道筋も徐々に立ってきて……


 試作品が上がるたびに、出来上がったばかりの石鹸を、サンプルとしてあちこちにばら撒いておいたおかげで、知名度もうなぎのぼりになり……


 およそ一ヶ月が経過し、ようやく工業化の目処が立ってきた時には、国内の石鹸需要はまだ売りだす前だと言うのに高まり続け、もはや銀行も稟議を通すまでもなく融資を約束する、とまで言ってくれるようになっていたのだった。


******************


「よう! ソープの兄ちゃん。まあ、飲んでけ飲んでけ」

「だだだ、誰がソープやねん!?」


 それでと言うか、なんと言うか、いつの間にか但馬は詐欺師から、ソープの旦那とかソープの兄ちゃんとか、何のひねりもなくそのままソープとすら呼ばれるようになっていた。


 いつものように夜の中央広場に行くと、馴染みの露店のオジサンが声をかけてきた。


「あれ? ソープって言うんじゃなかったっけ?」

「いや、ソープだよ? 確かにソープだけどさあ……」

「なら良いじゃねえか詐欺師より」

「……個人的には詐欺師もソープも大差ないんだが」


 そんなことを言っても、彼らにしてみればちんぷんかんぷんだろう。但馬はとほほと思いながらも、甘んじてそれを受け入れることにした。いっそホントにソープランド作ってやろうか。ソープ王に俺はなる!


 とまれ、そんなわけで大量生産の目処が立ち始め、いよいよ現実味を帯びてくると、但馬を取り巻く環境も変わってきた。


 ハローワークに出しておいた求人にはひっきりなしに応募が入るようになり、その都度面接なんてやってられないから、工場稼働にあわせて集団面接をすることになった。面接をする前に、アナスタシアがある程度絞り込んでくれるのだが、それでもかなりの人数に会わなければならなかった。


 そして集団面接に面接官が一人では心もとないので、まだ会社も設立していないのだが、シモンの父親と農場のオジサンに頼み込んで出席してもらい、その日はその面接を行うために、シモンの家に集まっていたところであった。


「……はあ~……まさか、こんなことになるとはなあ。軽い気持ちで引き受けるんじゃなかった」

「ダラシねえなあ。先生さ見ろ、堂々としたもんじゃねえべか。おめさんより一回りも二回りもわけえのによう。シャキッとしねか」


 アナスタシアの父親の蒸気機関は、結局市内に持ち込むことにした。水車小屋はスラムにあるので、やはり人を雇うには都合が悪かったからだ。水を大量に確保しなければいけないので、もっと大きな川沿いに工場予定地を借りたのであるが、シモンの家からはかなり遠いので、彼の父親はメンテナンスのためにここ数日はそちらへ泊まりこんでおり、今日の面接のためにわざわざ帰ってきてくれたのだった。


 しかし、元々が街のしがない鍛冶屋であったから、いきなりこんな大事になってかなり面食らっているらしい。


 対して農場のオジサンは普段から従業員を雇ったりしてるからか落ち着いたもので、今回の件で但馬がお願いに行っても、殆ど嫌な顔はせずに引き受けてくれた。


 家の周りには、既に応募者が集まってきており、もうまもなく、アナスタシアに先導されて数人ずつが入ってくるだろう。


 但馬は窓辺に立って、応募者たちがごった返す通りをじっと眺めていた。


 振り返るとこの世界に来て1ヶ月と少し、丁度夏休みが始まって終わるくらいの感覚だろうか。なんだかおかしなことになった物だ。初めは魔法が使える、ファンタジーだ、わーいってなもんだったのが、いつの間にか現実世界をなぞるように電化だの工業化だのを目指している。それに初めは石鹸じゃなくて、紙を作っていたはずだ。それも、ケツを拭くための紙である。あの駐屯地の営巣で、下痢便で気絶してから、思えば遠くへ来たものだ。


 その切っ掛けはシモンだった。売春婦になってしまった幼なじみのアナスタシアを助けたいと、金儲けの話を持ちかけられたのが切っ掛けだ。そのシモンは今は居なくて、なのに彼の家でこんなことをやっている。


 初めは詐欺だったが、製紙製作からはかなり真面目で、和紙を作ったり、電気を作ったり、薬品を作ったりして、あと一歩のところで大量生産の道が閉ざされて……シモンが居なくなって、やることもなくなって、そしたら起死回生の策が目の前に転がってきた。


 これはいけると思って突っ走ってきたが……


「やっぱ、あいつに黙って勝手にやっちゃったのはマズかったかな……」


 けど、彼が帰ってくるまで、数ヶ月も待つのは嫌だったのだ。自分には出来ることがあるのに、ただ黙っているのは……しかしそれは、本当に大きなお世話ってやつで……もしかしたらシモンが帰ってきたら、彼は傷つくかも知れなくて……


 本当に、なんで彼は黙って居なくなってしまったのだろうか。


「一言いってくれればなあ……」


 そんな風に但馬が独りごちていると、


「先生……来客なんだけど、通してもいい?」


 外からアナスタシアが声をかけてきた。多分、最初の面接グループを通しても良いかと聞いてきたのだろう。


 いよいよか……シモンの親父が緊張感を隠し切れないといった表情で用意された机の前に座り、腕組みをした。


 それを農場のオジサンがニヤニヤしながら見ている。


「ああ、うん。通していいよ」


 そう言うと、但馬も彼らと同じように机へと向かい……


 まだほんの少しの躊躇いと罪悪感を持ちながら座席へとつき、そして振り返ると、そこには面接に来た応募者ではなくて、何故かブリジットが立っているのだった。


「あれ? ブリジット? 久しぶりじゃないか。元気してた? ……って、来客ってマジで来客だったのかよ」


 軍隊の出陣式の前日に会ったきりだから、およそ1ヶ月ぶりだろうか。恐らく前線に行っていたのだろうが……でも、それなら帰るのが少し早すぎる。一体何の用事だろうと不審に思ったが、ともあれ、今は面接があるので、


「ごめん、実は今は忙しくってあんま相手してらんないんだけど……」


 面接会場に突然現れた彼女は、いつものようなにこやかな表情はすっかりと形を顰めて、ただ無表情に、ただ冷静に、沈痛な面持ちでじっと身じろぎもせず立っていた。


 服装は今まで見たこともないような格式張ったもので、おそらくは式典用の軍服か何かの礼装みたいだった。


「お忙しいところ、大変失礼致します」


 ふわふわの金髪が揺れる。彼女はシモンの父親に向かって、深々とお辞儀をし……そして顔をあげると、まっすぐに彼に向かって敬礼をした。


 まるで儀式めいたその仕草に、何か言いようの知れぬ緊迫感を感じた。


 さっきまで緊張でガチガチだったシモンの父親は、今はのっぺらぼうに描かれた絵みたいに、白々しい笑みを浮かべていた。現実を受け入れたくない人がたまにやる顔みたいだった。


 気がつけば、但馬の指先が寒くもないのにブルブルと震えていた。


 敬礼するブリジットのもう片方の手には、いつかどこかで見たことがあるような、突撃ラッパ(クラリオン)が握られていて……


 但馬はそれから目を離すことが出来なかった。


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― 新着の感想 ―
[一言]  え、まじかよ。信じたくねえ!
[一言] そう、ソープ(直訳)
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