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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第八章
298/398

まるでガキみたいだ……

 人気のない深夜に王宮を出た。誰に見られたところで何になるわけでもないのに、但馬は誰かに見咎められるのを恐れて、レーダーマップを使い、こっそりと城壁をよじ登って外へ出た。


 どんなに布団の中に潜り込んでても、眠気はやってこなかった。何を考えても悪い方に悪い方にと思考が流れていってしまって、まるで溶けた脳みそをお玉でぐるぐるかき混ぜられてるような苦痛が、寄せては返す波のように際限なくやって来るのである。


 目をつぶればアナスタシアがなじる顔が浮かんでくる。


 耳を塞げばブリジットが拒絶する声が聞こえてくる。


 別にセックスがしたかったわけじゃなかったのだ。アナスタシアを犠牲にしてでも、生きていく理由が……これから彼女と共に生きていくんだという、証が欲しかっただけなのだ。だから、どんな形でも良い、自分を受け入れてくれさえすれば、それで良かった。でも、そうやって彼女を束縛する方法が、但馬にはセックス以外に見つからなかった。それを拒否された段階で、もうこの場には居られなかった。


 明日になったら、ブリジットとどんな顔をして話せばいいのだろう。いや、いつもどんな風に彼女と接していたのか、それすら今はもう思い出せない。


 どこか一人で行ってしまいたい。ただその衝動だけで突き動かされていた。


 自分が少しおかしくなっているのは、もちろん但馬にも分かっていた。だけど、耐え難い苦痛が胸を締め付け、もう居ても立ってもいられなかったのだ。


 ボロボロになったローブを纏い、夜の街をさまよい歩いた。この街はいつでも明るくって、どこへ行っても人がいるのが救いだった。誰も自分のことには気づかない。こんなに人が沢山いると言うのに、但馬はどこまでも孤独だった。


 だがそんな風に一晩中、あてども無く街を歩き続けていたというのに、いつの間にか知ってる場所に帰ってくるから、人間と言うのは不思議な生き物である。呆然と立ち尽くした彼が顔を上げれば、目の前に懐かしの我が家が建っていた。


 ずっと地面だけを見つめていて、その瞬間までどこを歩いているのかすらわからなかったはずなのに、通い慣れていた道を身体が覚えていたのだろうか、目の前に自分の家が飛び込んできた時、なんだか無性に泣けてきた。但馬はそんな涙を誰にも見られたくないと、急いで家の敷地内へと入っていった。


 主が居なくなって久しく、少し錆びついてキイキイ鳴る門扉を開けて中に入ると、エリオスの離れが見えてくる。その脇を通り抜けて小道を行けば、いつもリオンが蹲って蟻の巣を観察していた庭に出る。吹き飛ばしてしまった屋根の改築はとっくの昔に終わっていて、変わりないその佇まいを見ていると、お袋さんの声が聞こえてくるような気がして、もしかして誰か居るんじゃないかと、淡い期待を抱いてみるが、だが庭は雑草に覆われていて、足の踏み場もなかった。


 玄関を開けて中に入ると、埃がふわりと舞い上がって鼻が詰まった。廊下を抜けてリビングへ行くと、続きになってるダイニングキッチンに飾った造花がそのまま残っていた。埃を被った食器棚の中に、整然と食器類が並んでいる。だけど薄汚れたキッチンは、人が来なくなって久しくなった家をそのまま表していた。家の中はかび臭く、もう一年以上も風を通さずに放置されたことが嫌でも分かった。


 このキッチンにお袋さんが立っていて、毎日いそいそと掃除をしてくれた。但馬やアナスタシアがダラダラとソファに寝そべってると、ガミガミと小言を言って尻を引っ叩かれた。親父さんはそわそわしながらリオンのご機嫌を取ろうとして、いつも期待はずれの結果に終わってガックリしていた。もうあの人達と会うことは一生ない。そう考えると、自分がどんなに取り返しの付かない失敗を犯したのかが分かり、情けなくなった。


 但馬は逃げ出すように踵を返すと、廊下を戻って自分の部屋へと飛び込んだ。駆け込んだ部屋の埃が粉塵となって、本当に視界が霞むくらいだった。遮光カーテンの隙間から漏れる光が、幾筋も重なって複雑な幾何学模様を描いていた。手探りで壁のスイッチを探して押すと、電気はまだ通っているようで、パッと電灯が灯ったと思ったら、埃が焦げるような臭いが立ち込めた。


 どこか配線がむき出しになってるのかも知れない。ショートして、火事になる危険性もあったかも知れない。だが、部屋を暗くしたままで居ると気が狂いそうだったから、但馬はもう深く考えることはせず、書斎の椅子に座ると、膝を抱えて丸くなった。


 視界がぼやけて涙が溢れる。誰かが居れば、まだ気を張っていられるのだが、一人になるともうダメだった。でももう良いだろう、部屋がこんなに埃っぽくて、呼吸をするのも大変なのだ、涙くらい流したっていいじゃないか。スンスンと鼻が鳴って、但馬は嗚咽した。女に振られたくらいでこんなになってしまうなんて、自分がこんな情けない男だったとは思いもよらなかった。


 但馬は椅子の上で赤ん坊のように丸まって、声を押し殺して泣いた。


 誰もいない家の中は物音一つしなくって、自分の泣き声しか聞こえないのに、彼はそれでも歯を食いしばって、声を押し殺して泣いていた。


 外は白み始めている。もう少しして、また明日と呼べる時間帯になったら、平原へ出てエルフと戦おう。そうすれば、また現実逃避していられるから。


 その内エルフはいなくなるはずだ。但馬が狩り尽くすのが早いか、それとも、ティレニアの儀式の方が早いだろうか……分からないが、きっとまたリディアには平和が戻って来て、ヒーラーの力も元通りになるだろう。


 その時にはもう、アナスタシアはこの世に居ないのだ。


「嫌だなあ……」


 呟く声がどうしようもなく震えていた。


 アナスタシアが居なくなる。アナスタシアが死んでしまう。


 そしたら自分は、どこへ帰れば良いのだろうか……


 但馬はみっともないくらい泣いていた。我慢して我慢して、忘れようと努力したけれど駄目だった。もう彼女のことしか考えられない。そして彼女のことを考えれば考える程……涙が溢れて止まらないのだ。


***********************************


 エルフ騒動が起きてから、ずっとごった返していた港の混雑も、ようやく捌けてきたようだった。アナスタシアは波止場のボラードに腰掛けながら、港に入ってくる大型汽船の姿を見て、ホッと一息ついた。あの日、ティレニアに行くと宣言して以来、ずっと港で足止めを食っていたのだ。これでようやくリディアを発つことが出来る。


 だが、リディアを発つということは、自分が死に近づくことと同義である。アナスタシアは締め付けられるような胸の痛みから逃れるように、頭を空っぽにして、東の空に昇る太陽を目を細めながら眺めた。あの太陽を目指して船は進み、コルフへと到達する。コルフに着いたら、エリオスに見つからないようにしなければならない。もしも見つかったら、彼にも止められるかも知れないからだ。


 だが、その心配は杞憂だろう。


「おい、アナスタシア、船内で食うもんでも買ってこい」


 ぼんやりと海を見つめていたら、トーが話しかけてきた。彼が居れば、そんなヘマは犯すはずがないだろうから。


 あの日、但馬と別れてから、アナスタシアは街に向かわず街道から少し離れたところを泣きながら歩いていた。遠くの方で但馬が戦ってる姿が見え、彼の上げる爆炎に煽られ、地面に転がり砂を噛んでいると、さっと差し伸べられた手があった。


 トーはあの後、立ち去ったふりをしながら、こっそりとアナスタシアの動向を窺っていたらしい。彼がリディアにやってきたのは、サリエラの暴走を止めるためもあったが、同時にもしもアナスタシアが翻意する意志があったなら、連れて来て欲しいというガブリールとの約束があったそうだ。


 但馬との喧嘩を見ていたトーは天を仰ぎ、アナスタシアを引き起こしたあとに、考えなおした方が良いのではないかと説得した。その時の彼女は色んな事が重なったせいで冷静だとは思えなかったからだ。しかし、それで答えを一日延ばしたところで、アナスタシアの決意は変わらなかった。


 但馬と別れた後、森のエルフが暴れだし、首都を囲む平原に出てきて人々を襲い始めたのだ。それを但馬が一人で片付けているらしいという噂は、彼女の決意を寧ろ固くした。トーは一日でも早く但馬を楽にしてあげたいという彼女の言葉に嘘がないと判断し、それを受け入れた。


 翌日、二人はリンドスの港へとやってきた。


 ジュリアと会ったら決意が鈍るかも知れないと、孤児院には結局寄る事もせず、ハリチのお袋さんのことは気になったが、それはリオンがなんとかしてくれるだろうと、自分は今回の騒ぎが一日でも早く終結するようにと……誰にも何も言わずに、彼女はリディアを発とうとしていた。


 国内は混乱しきっており、汽車に乗ることが出来なかった彼らは、仕方なく徒歩で市内へと入った。


 ところがそこまでして港まで来たは良いものの、彼らは船に乗ることが出来なかったのである。


 エルフの大襲撃を見て、この世の終わりを想起した人々が、我先にリディアから逃げ出そうとして、港に集まっていたからだ。しかし、金持ちが自分たちだけ逃げ出すことを優先した結果、あれだけたくさんあった船が港には殆ど無くなっており、それに怒った避難民が暴動を起こしたりして、港は大混乱に陥っていた。


 人々は絶望してやけになっていた。それを憲兵隊と帝国軍が必死になって止めていたが、一度火のついた人々の怒りは中々収まらず、市内では空き巣が発生したり、商店を襲撃する暴徒が現れたりと、酷いことになった。


 しかしそれも2日、3日と日が経つに連れ収束していった。恐れていたエルフの市街地への襲撃は完全に阻止され、未だにエルフが平原に足を踏み入れることすら許していないという事実が、人々の落ち着きを取り戻したのである。


 その立役者というのが、まさか一番頼りにしていた銃士隊や帝国軍ではなく、但馬波瑠個人だという冗談みたいな噂が流れると、人々は最初失笑していたが、やがて目撃者が次々と現れ、否定する要素が少なくなっていくに連れ、彼は英雄となっていった。


 歓喜する人々の中で、アナスタシアは彼の活躍を誇りに思っていた。あの時、エルフを全て片付けてみせると宣言した通り、彼は人々を守りぬいたのである。


 だからアナスタシアも応えねばと思った。ティレニアで儀式を受け、太陽さえ元通りになったなら、後は但馬がこの国を……いや、世界を救ってくれるはずだから。


 だけど、本当はちょっと怖かった。


 サリエラが言っていた、儀式を受けアナスタシアが別人になってしまうと言う事実は、死ぬことと同義である。世界を救うためなら、自分が犠牲になるのも仕方ないと思う。だが、そうわかっていたところで、怖いものは怖いのだ。


 それに但馬との最後が、あんな喧嘩別れみたいになってしまったことも、気がかりだった。自分は、彼には感謝してもし足りないほどの恩を受けているのだ。なのに、その最後が自分の嫉妬から生まれた、あんな最低のワガママだったなんて……やり直せるなら、やり直したい。そう考えていた。


 いよいよ、船が港に入ってくると、死が現実となって近寄ってきた彼女は、否応もなくそわそわしだした。やっぱり後何日か出発を遅らせて、但馬に謝った方がいいんじゃないか。でも、但馬に会ったら、絶対に彼は自分を引き止めるだろうし……こんなところで尻込みしていては、船に乗ってコルフへ向かう最中や、あの高い山を登ってる途中で、逃げ出してしまうかも知れない。だから彼女は不安を押し殺そうとして、胸に手をぎゅっと押し当てて、必死に耐えていた。


 そんな時、彼女の不安な気持ちを察したのか、トーが弁当でも買って来いと話しかけてきたのである。こういう時、じっとして考え事だけをしてると、際限なく不安になるものだから、少しでも体を動かしていた方が気が紛れるというのだ。


 確かにそうかも知れない。アナスタシアは素直に頷くと、トーから離れていそいそと港の外まで歩いていった。


 東区の港の周りは一時期スラム化しただけあって、治安が悪かった。入り組んだ細道に折り重なるように、家々が密集していて、昼間だと言うのにここだけ夜のように暗かった。開いている店を探しながらその道を歩いていると、なんだか足が震えてきた。このまま走って逃げ出したい。そんな衝動が絶えず襲ってきて、気がつけば早足になっていた。


 逃げたい……逃げ出したい。きっとそうしたところで、トーは追ってもこないし、責めもしないだろう。このまま平原まで出て行って、やっぱり自分が間違っていたと、但馬に許しを乞おう。彼はきっと許してくれるだろうし、きっといつもみたいに、もっと良い解決策を考えてくれるに違いない。だから逃げよう……逃げてしまえ……


 結局、彼女は道路をグルグル回るだけで、何も買わずに港に帰ってきた。駄目だな、自分は……と思いはすれど、これから死ににいくと考えれば、この重圧から逃れるのは普通に考えれば難しいだろう。世界を救いたいと言う、確固たる意志が無ければ、駄目なのだ……でも、世界を救うなんて大それたことを、どうして自分と重ねて考えることが出来るだろうか。


 港に帰ってきた彼女は、手持ち無沙汰のまま、フラフラとうろついていた。手ぶらのまま帰ったら、トーに何か言われるんじゃないかと思って、せめて港に弁当売りでも居ないかと探してみたのだ。すると、そんな彼女の目に何かの行列が飛び込んできた。何だろう? と近寄って見ると、それは港の電話に群がる人の列だった。


 但馬が電話を作って以来、市内には電話網が張り巡らされている。それはホテルや港などの公共施設に率先して置かれ、今ではすっかり必要不可欠なものとして活用されていた。ここに並ぶ彼らはきっと、港の状況をホテルやその宿泊客に知らせるための、従業員か何かなのだろう。


 アナスタシアは電話で話す人達を見て、ふと思い立った。せめて、リオンくらいには自分がティレニアに向かうことを伝えておこうと考えたのだ。ジュリアと話すと引き止められそうで決心が鈍るが、リオンはそういうことは言わない子だった。お袋さんのことを任せたっきりで黙って出てきてしまったが、何も告げずにこのまま去ってしまうのは、やっぱり少々気が引けた。


 彼女はそう思って電話を待つ人の列に並んだ。そして待ってる間は、何か聞かれたらどう答えようかと頭のなかでシミュレーションをしていた。しかし、いざ自分の番になっても、何も思い浮かばなくて、本当にリオンに電話をかけていいのか……家局、最後まで、彼女は躊躇していた。


『どちらにお繋ぎしますか?』


 受話器から交換手の声が聞こえてくる……このまま、ザナドゥ離宮につなげてと言えば、リオンと話すことが出来るのだが……


「……ゴホンゴホン!」


 アナスタシアが躊躇してると、彼女の後でつかえていた人たちがわざとらしく咳払いをした。用事があるならさっさとしろ、無いならそこをどけ……そう言われてる気がして、


「それじゃ、家に……」


 どこかにつながなきゃならない。アナスタシアは、焦って市内にある自分の家に繋いでくれるように頼んでいた。

 

**********************************

 

 ドサ……!


 っと、鈍い衝撃が走って、但馬はうめき声を上げながら目を覚ました。


 頭がガンガンと痛んでいる。それなのに、どこかすっきりする物を感じていた。


 但馬はふらつく体を起こすと、自分がどこにいるのかを思い出すまで、たっぷり時間をかけねばならなかった。埃舞う部屋の中でゲホゲホと咳を飛ばしながら、脳がじわじわと再生してくるうちに、ようやく自分がどこにいるのかが分かった。


 但馬はあの後、書斎の椅子に座ったまま少し眠っていたらしい。


 ずっと一人っきりになるのを恐れていたが、一人になって、やっと泣くことが出来たことで、少しは気が晴れたのかも知れない。但馬はみっともなくベソをかきながら、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。


 まるでガキみたいだ……


 頭をボリボリと掻き毟りながら、但馬は溜息を吐いた。自分がこんなに惨めなやつだとは思わなかった。だけどどうしようもなく泣けてくるのだ。だからもう、自分を誤魔化すのはやめようと思った。


 但馬はアナスタシアが好きだ。好きな女の子が死にそうなのに、悲しくないわけがないだろう。


 どうしてあの時、追いかけなかったのだろう。どうしてもっと強く、引き止めなかったのだろう。こんなにみっともないほど泣くくらいなら、あの時、もっと情けなく、彼女に縋り付くことだって出来たじゃないか。


 後悔が押し寄せる。胸がギューっと苦しくなった。頭は偏頭痛でガンガンと痛んで、リーンリーンと耳鳴りがするくらいだった。中途半端な覚醒で、身体がまだ眠っているのだろう。疲労も行き過ぎると疲れを感じなくなるというのは本当だ。その回復の過程を経験することで、自分がとんでもなく疲れていたんだなと、妙に実感が湧いた。


 流石に5日も徹夜して、身体がおかしくなっているのだろう。但馬は、水分を取ろうと思い、洗面所へ行こうと這いつくばりながら部屋を移動し始めた。


 リーンリーン……


 それにしても、耳障りだ。まるで頭の中で電話でも鳴っているかのような耳鳴りだった。ふらふらする体をどうにか起こし、ガンガン痛む頭を叩いて、どうにかしてそれを抑えようとしていると……ふと、それは自分の頭の中じゃなくて、書斎の机の上から聞こえてきてるんじゃないかと気がついた。


「……どうして、電話が……?」


 人が居なくなって1年も経っている空き家である。電気も電話は通ったままだが、元々人が住んでないところに電話をかけてくる奇特な人物など居ない。


 もしかして、王宮から姿を消したことで、ブリジットや侍女たちが但馬を探しているのだろうか……?


 正直、今はまだ話したくなかったが……


 ガチャリ……但馬が受話器を持ち上げると、


『リンドス東港公衆電話から、電話がかかっていますが、お繋ぎしますか?』


 王宮からだったら交換手に拒否してもらおうと思い電話にでると、相手は全く身に覚えのないところからだった。なんで港湾施設から電話がかかってくるのだろう? 但馬は首を傾げると、


「……繋いでくれ」


 そう言って、相手が出てくるのを待った。2回、3回と呼び出し音が鳴ったあと、ガチャリと電話がつながり、受話器の向こうから港の喧騒が聞こえてきた。


 ざわざわと活気ある人々のざわめきと、寄せては返す波の音、そして海鳥の鳴き声が聞こえてくる……


「もしもし……?」


 だが、肝心の電話の主の声が聞こえない。受話器の向こうから、何かハッと息を呑むような声が聞こえて来たがそれだけで、それ以上は何も聞こえてこなかった。


 周囲の喧騒から、電話が遠いというわけではなさそうだ。たまに、受話口と送話口を間違えて喋る人が居るが、そんな感じでもない。


 但馬は有名人だけあって、彼の家を知らない者はこのリンドスに居ない。だから、もしかしていたずら電話かと思ったが……港という場所が気になった。


「アーニャちゃん?」


 但馬は殆ど直感だけでその言葉を口にした。そんなわけないと思ってるのに、ついさっきまで彼女のことばかりを考えていたら、どうしてもそこに行き着いた。果たして、電話の主はその声に呼応したかのように……


 ガチャリ!


 と受話器を置く音が聞こえてきて、そして通話が途切れた。


 受話器からはもう、何の音も聞こえない。


 但馬はそれを耳から離すと、ゆっくりと腕を降ろし……やがて腕が伸びきったところで、ポロッと受話器が落っこちた。


 さっき、交換手はどこからの電話と言っていた?


 但馬は埃まみれのローブを羽織ると、家から飛び出した。


 髪はボサボサで、顔はグチャグチャだった。体はボロボロで、足取りはフラフラだった。もう、立ってるのさえやっとなのだ。


 それでも彼は走った。走らざるを得なかった。


 受話器の向こうからは何の声も聞こえてこなかった。だから、ただの自分の妄想かも知れない。それでも、1パーセントの可能性でもあるのなら、彼女に会いたい……彼女を抱きしめたい……今度こそ自分は彼女を捕まえなければならないと……


 但馬は今、この国で手に入れた全てを投げ捨てて、走っていた。


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