じゃあ死ね
国の雰囲気がだんだんと、重苦しい方へ重苦しい方へ向かっていってるような気がする。まるであの曇天の空のように、暗雲が立ち込めていた。アナスタシアは空を見上げた。
あの日、ティレニアで自分の運命を知らされてから1年、自分の生活は何も変わっていなかったけれども、その間に何度も聞かされる噂があった。太陽がなんとなく暗くなった気がすると言うのだ。
以前とどう違うかなんてことは比べようも無いし、ただの気のせいだとは思うのだが、アナスタシアはその噂を切って捨てることが出来なかった。もしも本当だとしたら、それは自分のせいかも知れないからだ。
但馬が平気だと言うのだから、絶対にそんなことはないと思うのだが……でも、もしも、このまま太陽が本当に燃え尽きていってしまって、もしも、一日が夜だけになってしまったら、世界はどうなってしまうのだろうか。とんでもないことが起こるのは確かだろうし、但馬に話を聞いてみたいのだけれど、あれ以来、彼はいつも忙しそうにしていて、会う機会が殆どなかった。
そもそも、自分たちはもう一緒に暮らしていないのだ。水車小屋から引き取られて以来、ずっと同じ家で暮らしていた二人は、今では別々の場所で暮らしている。但馬は王宮で暮らし、アナスタシアは首都を離れてメアリーズヒルの孤児院で暮らしている。余りにも世界が違いすぎて、お互いの生活が交差することはもうないだろう。
自分から訪ねていけば彼は会ってくれるだろう。しかし、今の自分達の立場の違いを考えると、なんとなく会いに行くのは憚られた。但馬は偉くなりすぎたのだ。だから、向こうからなにか言ってくるのをずっと待っていたのだが、この一年間はずっと音沙汰無しだった。
本当は色々と話をしたいのだが……
そうして、モヤモヤとしたものを抱えたまま、アナスタシアは一人不安な日々を過ごしていた。
ハリチの事故は、そんな時に起きた。
孤児院で仕事をしていたアナスタシアは、駆け込んできた憲兵に知らせを受けると、レスキューとして現場へ急行した。彼女は今となっては国内最高のヒーラーの一人であるから、こういった緊急事態に呼び出されることがあったのだ。
しかも、今回は事故が起きたのが但馬の工場で、親父さんが怪我をしているというから、何が何でも助けなければと、気合の入った彼女は夜通し長い道のりを駆け抜けて、最速でハリチに到着したくらいだった。
だけど、なんにもならなかった。着いた時にはもう手遅れだったとか、そう言うわけではなく、何故か自分の魔法が効かなくなっていたのだ。
どうしてヒール魔法が効かなくなっていたのだろうか……悔やんでも悔やみきれない。あの時、自分の魔法がいつもどおりに効きさえすれば、親父さんは絶対に助かったはずなのだ。
もしかして自分の信仰心が薄いせいかとも思ったが、あれ以来、自分以外のヒーラーたちにも異変が起きているらしく、どうやらそれは違うらしい。でもそれじゃあ、なんでなのかと考えても、アナスタシアには見当がつかなかった。
親父さんが死んでから、お袋さんはすっかり元気が無くなってしまった。
幼なじみのお母さんとして、小さい頃からよく見知っている彼女は、しょげている姿なんて見たこともないくらいに、とても快活な人だった。だけどその姿はもうどこにもない。息子に先立たれ、連れ合いまでも亡くした彼女は、今では見る影もないほど薄ぼんやりとして見えた。
お袋さんは明らかにおかしくなっていて、放っておくとご飯も食べず、暗い部屋の中で一日中じっとしているから、自分が面倒を見てあげないといけないと思ったアナスタシアは、それから暫くの間、彼女と一緒に暮らしていた。
今までさんざん世話になって来たのだから、こんな時くらい役に立たねばと思うのだが、でもあの時、もしも自分のヒールさえ効けば、親父さんは助かっていたのにと思うと、罪悪感を感じてしまって、どう接していいかわからなくなった。
お袋さんは、それはアナスタシアのせいじゃないからと慰めてくれたが、これではまるでアベコベではないかと、アナスタシアは情けなく思った。お袋さんを元気づけてあげたいのに、アナスタシアはなんの言葉も持っていないのだ。
二人はただ一緒にいて、お互いに、お互いが何か変なことをしないよう見張っているかのような、そんなやるせない数日間を過ごした。
それから暫くして、ギクシャクしながらも、なんとか世間話程度ならば交わせるくらいに落ち着いてきた頃、アナスタシアは一旦、自分の職場である孤児院へと戻ることにした。
親父さんの遺体がハリチの霊廟の近くに埋葬されたことから、二人はハリチの高原に滞在していたのだが、お袋さんのことはリオンが見ててくれるというから、自分は着替えやら何やらを取りに戻ろうと思ったのだ。
高原から降りて街を眺めてみると、焼け落ちて廃墟同然になってしまったハリチは人が少なくて本当に静かだった。あの美しかった並木道はもうどこにもなくて、焼けたアスファルトと瓦礫の山がヒッソリと風に吹かれていた。
いつもならば沢山の乗り合い馬車が詰めていたホテル前の広場には、人っ子一人見当たらず、仕方なくアナスタシアは徒歩でメアリーズヒルまでの帰路をたどり始めた。どこか途中で馬車が見つかるだろうと思ったのだが、結局、山の反対側の馬車駅に辿り着くまで見つからなかった。
そんな具合に初っ端から躓いてしまったせいで、その日は殆ど移動が出来なかった。馬車が出発してからすぐに夜が訪れて、今まで泊まったこともない駅で降ろされ、仕方なく安宿で一晩を過ごす羽目になってしまった。
尤も、安宿ではあったが、泊り客がまったく居なかったからか、宿の主人がとても親切にしてくれた。アナスタシアは久しぶりの客であるそうで、どうしたんだろう? と思って尋ねてみれば、ハリチが炎上してしまったせいで、街道を通る旅行客が突然パッタリと居なくなってしまったからだと言っていた。
以前のリディアには都市は首都の一つしか無く、ハリチに但馬が街を作ったことで、街道が整備されたという経緯があった。その街道の周りに街や村が出来てきては居たが、ハリチほど大きな街はまだ無くて、結局、街道を通る人はみんな、ハリチを目的地にしていたわけだ。
言われてみれば、今日、ここへ来る間も、対向車はまったくと言っていいほど見ておらず、乗り合いの馬車に乗ってる客も、アナスタシア以外にいなかった。
何だか寂しいことになちゃったな……と思いつつ、安宿で一夜を過ごした彼女は、翌日は別の馬車に乗ってメアリーズヒルを目指した。
宿屋の主人と話していたので、馬車が動き出してからは意識して街道の通行量を眺めていたが、小一時間もするとそれは無駄な行為だと思い知らされた。本当に、誰ひとりとして街道を通らないのだ。
少し離れたところに集落が見えたり、時折畑で働いている人は見かけるのだが、街道を通る人影は一切ない。但馬がハリチという街を作ったのは、それだけ凄いことだったのだろう。それを誇りに思う反面、それが失われてしまったリディアは、これからどうなってしまうのだろうかと不安になった。
そんな具合に、人通りの途絶えた寂しい街道を、馬車がマイペースに走っている時だった。
ガタガタガタ……
っと、突然視界が揺れて、ヒヒーンと馬が嘶くと、馬車が突然何もない街道のど真ん中で止まってしまった。
「ああ……こいつぁ、いけねえやあ……」
何かトラブルだろうか? 窓から外に顔を覗かせてみれば、御者が頭を掻き毟りながら馬車の下を覗き込んでいた。
「御者さん、どうしたの?」
と尋ねてみれば、
「すみません、お客さん。車軸に何かが絡まってたみたいで……いつ巻き込んじまったんだろう。出発前にちゃんと点検したんだけどな」
御者はそう言って車軸に絡まってる異物を取り除こうと、押したり引いたりやりだした。アナスタシアもそれを手伝った方がいいかと思って、馬車から街道に降りようとしたら……
ミシッ……メキメキメキッ! っと、木が割れるような音が聞こえて、続いてカランカランと車輪が外れてしまった。
「わああ!」
外れた車輪がコロコロ転がっていく。御者が大慌てでそれを追いかけていく。
アナスタシアは呆然としながらそれを見送った後、馬車の下を覗き込んでみた。見れば御者が言っていたように、車軸に何かが絡まっていて、それを中心にして長い亀裂が走っていた。
馬車のことは詳しくないが、流石に車輪が無くては進めそうも無い。幸い、目的地のメアリーズヒルはもう近かったので、御者は助けを呼んでこようと思ったらしく、
「お客さん、すみませんが、ここで馬車を見張ってて貰えませんか? 俺はひとっ走り行って、仲間を呼んできますんで」
「うん」
アナスタシアが首肯すると、御者はペコペコしながら馬を1頭馬車から外し、鞍を乗せて一目散に駆けていった。残ったもう1頭の馬が、のんきに道草を食っている。なんとも長閑な風景であった。
そんなに何度も通るような道では無いので、詳しくは分からなかったが、多分、目的地までは、もう10~15キロといったところだろうか。最悪の場合は、歩いていっても良いくらいの距離だったが、任されてしまったからには仕方ない。小一時間もすれば帰ってくるだろうと思い、アナスタシアは近くの岩に腰掛けた。
街に近いとは言え周辺はただの草原で、遠くの方に農場の納屋くらしか見えない、全くと言っていいほど人気のない通りだった。この辺だけ、崖が突き出すようにして海に迫っているせいか、開発が遅れ気味なのだろう。
潮風が鼻をくすぐった。波の音とカモメの声が聞こえるくらいで、まるで世界に一人だけ取り残されたような静けさだった。残念ながら天気の方は曇り空で、一雨来たら逃げ場がない。そうなったら嫌だなあ……と思いつつ、退屈している時だった。
ふと見れば、目的地の方角から人影が近づいてくる。
御者が帰ってくるには早過ぎる。それじゃ誰だろうと眺めていると、徐々にその全貌が見えてきた。
人数は10人前後、全員がローブ姿で目深なフードをかぶっている。背中には大きなリュックを背負っており、一人だけ馬に乗ってる以外は全員が徒歩の、一見、ただの旅人の集団に見えた。
だが、アナスタシアはなんとなく嫌な予感がして、腰にぶら下げていた細剣に手をやった。護身用に持っているだけで、滅多に使うことはなかったが、いざという時に但馬の盾になるようにと言われ、もう何年も前にエリオスとブリジットに仕込まれたものだった。
それにしてもどうして嫌な予感がするのだろうか……何か引っかかるものがあって、口からそれが出かかっているのだが……しかし、その違和感の正体に気づくよりも前に、旅人たちはアナスタシアの姿を見つけると、気さくな感じで話しかけてくるのだった。
「おや、こんなところで、どうかされたんですか? そう言えば、さっき男の人が馬で駆けていったけど」
「馬車の車輪が壊れちゃって……」
旅人たちは、初めオヤっとした顔をしてから、次に害意がないと言った感じの柔和な笑みを浮かべながら近づいてきた。彼女が車輪の外れた馬車を指差すと、納得したといった感じに何度も頷きながら、
「ああ、これはいけない。車軸が曲がってるみたいですね。良かったら俺が見てみましょうか。直せるかも知れない」
「ううん。人呼んでくるって言ってたから、別にいいよ」
「まあそう言わずに」
男はそう言うと、アナスタシアの返事を待たずに馬車の方へと歩いて行った。御者に馬車を任された手前、強引なやつにあまり勝手なことをされては困ると思って、その背中を追いかけようとした時だった。
アナスタシアは視界の片隅で何かがキラリと光ったような気がして……
キンッ!
彼女は咄嗟に細剣を抜いた。
「チィィィーッ!!」
その瞬間……鮮血が辺りに飛び散った。
初撃を外された男は、アナスタシアの細剣に腕を切られたらしく、それを抑えながらバックステップして彼女から距離を取った。目深に被ったフードを外し、ローブを脱ぎ捨てると、その下には薄手のチェインメイルが仕込まれていた。
やっぱり、第一感は正しかったようだ。アナスタシアは歯噛みした。
違和感の正体はこれだ……みんな旅人のふりをしていたが、ここから先は、つい先日炎上して瓦礫の山と化したハリチしかない。だから今、旅行客のような団体が、この道を通るわけはないのだ。
アナスタシアに反撃されるとは思わなかったのだろう。男たちは一瞬驚いたようだったが、すぐに気を取り直して彼女を取り囲むように機敏に動いた。全員が最初の男と同じように、ローブの下に思い思いの防具を着込んでおり、それぞれの武器を構えている。
何者かは知らないが、この武装……どう見ても、ただの旅人ではない。おまけに多勢に無勢とあっては、まともにやりあっても勝ち目はないだろう。アナスタシアは、ブリジットやエリオスみたいに強くはないのだ。
それにしても、どうして自分が狙われたのかが分からなかった。だが、考えるのは後だ。とにかく今はどうにかしてこの窮地を脱しなければならない。
彼女は背後を取られないように馬車を背にジリジリと後退した。男たちがそんな彼女を追い詰めるように、包囲を狭めてくる。
もう後が無い……焦る彼女が冷や汗を垂らしていると……
一人の男が、勢い良く飛びかかってきた。
キンッ!
っと、剣が交錯した。男は細剣を構えるアナスタシアの背中側から忍び寄るように近づいてくると、問答無用で短剣を振り下ろしてきた。彼女は飛びかかってくる男の攻撃を掻い潜り、剣先を鞭のようにしならせると、それを男の内ももに突き立てた。
「ぐあっ!」
装備の薄い場所を的確に狙われた男がもんどり打って倒れる。内ももを軽く抉られただけではあったが、切られた場所が悪すぎた。倒れる男の足から血がダラダラと流れ出す。すると、アナスタシアを危険な対象と判断したのだろう、残りの男たちはもう油断を見せること無く、複数人で同時にかかってきた。
流石にこれはもう、どうにもならない。
アナスタシアは覚悟を決めると、迫る相手の攻撃から逃れるように身を伏せた。そしてそのまま地面を転がるようにして、馬車の下へと潜り込んだ。大柄な男たちでは無理だが、小柄な彼女ならば、馬車の下を掻い潜って逆側から逃げることが出来るはずだ。
そう思ってゴロゴロと馬車の向こう側まで転がってきたアナスタシアであったが……
「きゃっ!」
その馬車の反対側に出たところで、待ち構えていた別の男に蹴り飛ばされた。
ドスッと腰のあたりに激痛が走る。瞬間、肺の中の空気が全部流れ出てしまったのか、力が入らなくなって、起き上がるタイミングが遅れた。
アナスタシアはどうにか体を起こして逃げようとしたが、その一瞬の遅れが命取りだった。
腕をついて起き上がろうとする彼女に、男が覆いかぶさってくる。押し退けようとしても、男が相手ではびくともしない。
そうこうしているうちに、馬車を回りこんだ他の男達が彼女のことを取り囲み、マウントを取られた状態で地面に這いつくばる彼女に残忍な視線を浴びせかけた。
絶体絶命のピンチにアナスタシアは、スーッと大きく息を吸い込むと……
「きゃああああああああああああ~~~~~~~~~~ッッッ!!!」
大きな声で悲鳴を上げた。
あまり期待は出来ないが、この悲鳴を聞きつけて誰かが助けに来てくれるかも知れない。もしくは御者が誰かを連れて帰ってくるかも知れない。それまでどうにか耐え切れればいいのだが……
しかし、アナスタシアのそんな考えを読まれていたのか、
「無駄よ」
一人だけ馬に乗った人影が挑発するように言った。
「この周辺に民家は無いわ。そういう場所を選んだのだから……」
その声から察するに、相手は女性のようである。しかも、この声……どこかで聞いたことがあるような……
「あの御者は私の手駒よ。今頃、報酬を手に高飛びしようと、港に向かってるところでしょうね。待っていても誰も戻って来やしないわよ」
そう言いながら、女性がフードを外す。アナスタシアは、アッと小さく声を上げた。
「だからムダな抵抗はお止しなさい、アナスタシア。そして私と一緒に来るのよ。大人しくしていたら命までは取らない。もしそれでも抵抗するというなら……」
確かサリエラと言っただろうか。ティレニアの世界樹で出会った女がそこに居た。
「可哀想だけど、あなたにはここで死んでもらうことになる」
サリエラが冷徹にそう言い放つと、アナスタシアを押さえ込んでいる男がニヤニヤとした笑みを浮かべながら、弄ぶかのように、手にした短剣を彼女の額に突き刺すような真似をした。
アナスタシアがビクッと震えて目をつぶると、周囲の男たちが一斉にギャハハハっと笑い出す。
「なあ、ボス。どうせ殺すんなら、最後に一発やってもいいか?」「おまえだけずるいぞ、俺にもやらせろ」「じゃんけんだ、じゃんけん。順番は守れよ」
大勢で寄ってたかって一人の女をいたぶって、何が楽しいというのだろうか。下卑た男たちの声が耳障りに響く。
以前だったら、そんなことを言われてもなんとも思わなかったが、今はただ不快だった。水車小屋のあの時だって、こんな風に誇りまでは奪われてはいなかったはずだ。
悔しくて仕方なかった。だが、それでもすぐに殺されないのであれば、チャンスはあるかもしれない……彼女はそう考え、どうにか隙を見つけて逃げ出そうと、虎視眈々と機会を窺っていた。
「ちょっと、あなたたち、そんなことやってないで、さっさとその子を連れてずらかるわよ。グズグズしてるつもりなら報酬を払わないわ」
アナスタシアが奥歯を噛み締めながら脳をフル回転していると、サリエラが言った。やはり同じ女性だから、アナスタシアが性的な暴力を受けようとしている姿が気に食わなかったのだろう。
「なんだよ、ボス。まだビビってるのか? すぐに終わるから待ってろよ」
「ビビってなんか! ……いいえ、そうかも知れないわね。私は恐れている。だから早くこの国から出て行きたいのよ。分かったら早くして。そいつをレイプしたいなら、この国から出てからにしてちょうだい」
「ちっ……分かったよ、しゃあねえな」
絶体絶命のピンチの中、アナスタシアはサリエラの目的を悟った。彼女は、異変の続く世界に苛立ち、但馬の目を盗んで儀式を強行するために、アナスタシアをさらいに来たのだろう。
こんな強引な真似をするのは、但馬のことを恐れているからだ。アナスタシアはそう確信すると、死中に活路を見出すようにサリエラに向かって言った。
「ここに来る前に、先生には首都で会おうって連絡を入れたわ。私が到着しない今、彼は異変に気づいてるかも知れない」
サリエラの肩がビクリと震えた。本当は、但馬と会う約束なんてしておらず、すぐにバレる嘘だったが……それでも、サリエラには効果があるようだった。
「分かったら私を解放して。そうしたら、先生には内緒にしておいてあげる」
「ちっ……そう言えば私が折れるとでも? そんなもの、もうとっくに覚悟してるわ。あなたこそ、もう無駄な抵抗は諦めておとなしくしなさい。本当に殺すわよ!」
イライラした口調でサリエラが言う。あとひと押しかも知れない……アナスタシアは懸命に頭を回転させると、最後の賭けに出た。
「抵抗しなかったらどうなるの? どうせ、ティレニアに連れて行かれて、あの儀式をするつもりなんでしょう?」
「……そうね」
「やっぱり……じゃあ、あなたには私は殺せない。私が死んだら、儀式が出来なくなる。あなたは目的を果たせなくなるじゃない」
「ふ~ん……それで、どうするつもり? 抵抗してもあなたに勝ち目なんか無いわよ」
「あなた達の生け贄になるくらいなら、私は舌を噛みちぎって死んでやるわ」
追い詰められたアナスタシアがそう言うと、サリエラは一瞬だけ眉を顰めたが……すぐに、おかしそうに鼻で笑うと、
「じゃあ死ね」
と言って、男たちにアナスタシアを殺すように命令した。男たちはコロコロと変わる方針に、目を丸くしている。
「え? やっぱり殺すのか? 捕まえろって言ったり、殺せって言ったり、どっちなんだよ……まったく。それじゃ、殺す前に一発楽しませてもらうぜ? それくらいはいいだろ?」
「そんな悠長なことやってる暇は無いのよ! 殺せって命じてるんだから、さっさと殺しなさい!」
サリエラが絶叫するように言い放つと、男たちはやれやれと言った感じに肩をすくめた。そして、仕方ないと言った感じにグズグズと剣を引き抜くと、アナスタシアを見下しニヤニヤしながら言った。
「しゃあねえ。死ぬ前に、一度くらいは天国を見せてやりたかったけどよ……悪く思うなよ? 姉ちゃん。恨むんなら、あの女を恨みな」
男が剣を振りかぶった。
アナスタシアは男に乗っかられ、複数人に取り押さえられていて、必死にもがいても身動き一つ取れなかった。
鋭い刃先がキラリと光る。
見誤ったのだろうか……
サリエラたちの言う降霊の儀式を行うには、アナスタシアの身体が必要なはずだ。だから、脅すようなことを言ってても、実際に命までは取れないと高をくくっていたのだが……
サリエラの目的は儀式ではなかったのか? それとも、儀式はアナスタシアが死んでても出来るのだろうか? 本当に……自分はこのまま死んでしまうのか?
殺される……
アナスタシアはゾッとして叫び声を上げた。すぐに男に口を塞がれて、同時に視界も塞がれた。真っ暗闇の中でアナスタシアはパニックになりながら、最後の抵抗を試みたが、それは全く無駄な抵抗だった。
「悪く思わないでちょうだい」
冷徹な女の声が聞こえる。本当にサリエラはアナスタシアを殺そうとしているようだ。命乞いをしたくても、口が塞がれて息もできない。身体を動かしたくても、ガチガチに固められてしまって、もはや指先ひとつ動かせなかった。
その時、アナスタシアの脳裏に走馬灯のように思い出が駆け巡った。死者が最後に見るという情景に、彼女はゾッとすると同時に……自分の人生のあまりのやるせなさに、胸がギュッと締め付けられる思いがした。
思えば、自分の人生はろくなもんじゃなかった。親に捨てられ、金持ちにレイプされ、借金漬けにされ、生きるために子供のころから身体を売っていた。但馬に出会えたことだけが唯一の救いだったというのに……自分からそれを手放した。そして彼はもう、手の届かないところへ行ってしまった。
どうして、自分ばかりがこんな目に遭わねばならないのだろう……一体、自分の何がいけなかったと言うのだろう……どうして、生まれてきてしまったのだろう……
彼女は涙を流しながら己の人生を呪った。
馬乗りになっている男の体が揺れる。多分、アナスタシアに止めを刺すつもりだろう。彼女はそれがわかっていても、もう何の抵抗もする気力が湧かなかった。
最後に一度だけ但馬に会いたかった。でも、もうその望みもかなわないだろう。こんな時、誰に祈ればいいのだろうかと考えても、彼の顔以外に何も思い浮かばなかった。
(助けて……助けて……助けて、先生!)
果たして……心の中の叫びが通じたと言うのだろうか。
パーーーーーンッッッ!!
っと、突然、辺りに乾いた音がこだましたかと思うと、
パシャッ……
っと、アナスタシアの顔に、何か生暖かい液体が浴びせられた。
その瞬間、彼女の顔を押さえつけていた男の大きな手が力なく剥がれて……
久しぶりにアナスタシアの目に周囲の景色が飛び込んできたと思ったら……
馬乗りになっていた男の額に空いた穴から、まるで蛇口を捻ったかのようにダクダクと血が流れ出し、今まさに、彼女に覆いかぶさるようにして倒れてこようとしているところであった。