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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第一章
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どうしちゃったんだよ

「そうか……息子は君に何も言わずに行ってしまったのか」


 リディア軍が出陣して暫くすると、やがて沿道の見送りの人垣も散り始めた。釈然としない気持ちを抱えたままで、それを見送ることしか出来なかった但馬が呆然と立ち尽くしていると、シモンの父親が彼の様子に気づいて訪ねてきた。


 もはや隠しても何の役にも立たないだろうから、但馬はシモンと二人で計画していたこと……アナスタシアを身請けしようとしていたこと、そのために金稼ぎに躍起になっていたこと、自分と組んで製紙工場を建てるつもりでいたこと、でもそれがポシャってしまったこと、そして、ほんのちょっぴりギクシャクしてしまったことなどを包み隠さず話した。


 但馬はため息混じりに、どうして何も言わずに行ってしまったのかと、彼の父親に愚痴るように言った。


「いったいどうしちゃったんだよ。なんか俺、嫌われることでもしたのかな……」


 確かに但馬は不審者だ。自分の出自を伏せていて、聞かれても曖昧なことしか答えない。というか答えられない。商売のパートナーとして、その態度が気に入らなかったのかも知れないが、なら直接言えば良いではないか。あの男は、それが言えないなんてキャラでもなかったはずだ。


 但馬がシモンの唐突な変貌に困惑していると、彼の父親が言った。


「いいや、あいつは君のことはいつも褒めていたよ。そう、初めて出会った時なんかも、あいつが休戦で家に帰ってくるなり、皇女殿下にお会いしたと言うから、俺も家内もそのことを聞きたがったんだが、そんなことよりももっと面白い奴に会ったんだって、君のことばかり話していた……まあ、正直、あまりにも胡散臭い話だったので眉唾だったんだが……」


 そう言うと、彼は少し戸惑いながらも、


「君は、魔法使い(マジックキャスター)だそうだね……?」

「……ええ、まあ」

「うん……初めて聞いた時は、倅が話を盛ってるんだと思った。だが、今なら信じられる気がするよ。なるほどなあ……」


 シモンの父親は何かに納得するかのように、二度、三度と頷いた。そして少し懐かしそうな顔をしながら言うのだった。


「あいつは、君のような特別な人が相手してくれることが初めは嬉しかったんだよ。だが、そのうちプレッシャーになっていったんじゃないだろうか。君と倅は年もそう変わらない。なのに、君は魔法使いで、大金持ちで、そして誰も知らないような不思議な知識を沢山持っている。ところが、自分の方はと言うと、これといって何も持ってないんだ」

「いや、そんなことないでしょう。今回の件なんて、はっきり言ってあいつが居なければ何も出来ませんでしたよ。俺はたまたまやり方を知ってたってだけで……」


 父親は苦笑交じりに言った。


「君の場合は破格だと思うが……まあ、そうだな、だからお互い様なんだよ。人は自分の出来ることしか出来ない。そして、得てして自分が出来ることは、つまらなく感じてしまうものだ。君は君で、自分の価値が信じられないように、あいつはあいつで差をつけられたと思って焦ったんだろう。だから、自分にしか出来ないことを見せたくなったんじゃないだろうか。義務を果たすことによって……」

「義務?」

「ああ。先生、もしも君が君の言う工場を作ったら、息子をどうするつもりだった? お飾りとまでは言わないが、きっと重要なポストを約束しただろう。そして、今は軍属の身分であるあいつを、特権を使って徴兵免除にしたはずだ」

「それはまあ……じゃないと、アーニャちゃんの借金返せませんからね」

「でもそれじゃ、義務をほったらかして、ただ施しを受けているだけみたいじゃないか」


 確かに、それはそうなのだが……


「それを受け入れてしまったら、もう君の仕事上のパートナーでは無くなる。ただの腰ぎんちゃくか何かだ。倅はそうなることを嫌ったんだろう。きっと最後の抵抗みたいなものだ」

「でも、彼女を一日でも早く解放してやりたいって、他ならぬシモンが言ってたんですよ? 戦場に行っちゃったら、その間、身動きが取れないじゃないですか。それに、俺はそんなことであいつのことを見くびったりもしません」

「息子のことを信用してくれてありがとうよ。でも、それじゃ尚更じゃないのか? 先生……あいつはアナスタシアを助けるために、プライドをかなぐり捨てる覚悟はあったと思う。ところが君はあいつのことを決して軽んじたりしない」

「そりゃまあ」

「もっと軽んじられていたら、自分を殺してへえこらも出来ただろう。そうじゃないから、君に頼るばかりじゃ心苦しかったんじゃないだろうか」

「…………」

「今回の件で、大金を稼ぐことは出来なくなってしまったんだろう?」

「ええ、まあ……」

「普通なら、ここで諦めるはずだ。君自身はもうお金を稼ぐ理由もないのだし。でも君は次のことを考えているようだ。そんな君にばかり負担をかけて、自分でも何かをしなければと思ったんじゃないか。そのために当初の目的(アナスタシア)を犠牲にしてでも」


 なんだか本末転倒のような。でも気持ちは分かるような。但馬はなんとも言えない複雑な気分を味わった。果たしてそれが黙って居なくなる理由になるのだろうか……やはり釈然とはしない。


 シモンの父親は続ける。


「そもそも君に出会わなければ、アナスタシアを身請けするなんてことは、ここまで現実的に考えられるものではなかったはずだ。夢物語だったんだ。だから、君には感謝こそすれ、決して悪い気持ちでいるはずはないだろうよ」

「そうだと……いいんですけどね」

「あいつなりに、いろいろ考えて、こう結論づけたんだろう。なら最後まで、どうか見守ってやってくれないか」


 そういうシモンの父親は、息子思いの良い親に見えた。とても最初に彼と喧嘩をしていた人と同じとは思えなかった。そう言えば、彼は初めは但馬に対して批判的だったはずだ。息子のやることなすことにケチをつけていた。それが水車小屋に行ったことで、憑き物が落ちたかのように変わった。彼も夢を見れるようになったことで、少し変わったのかも知れない。


 アナスタシアの、あの何もかも諦めたような顔が脳裏に過ぎる。


 きっとシモンも彼の父親も、本質的にはあれと変わらなかったのかも知れない。但馬は以前までの彼らのことを、まったく知らないのだ。但馬が現れるまで、彼らはアナスタシアを助けることなど出来なくて、そして喧嘩ばかりしていたはずなのだ……それを自分が変えてしまった。


 それが良いことなんだか悪いことなんだか分からないが、少し肩入れしすぎてしまったかも知れない……本来なら、あまりこの世界の人達と仲良くなるべきでは無いのだ……自分はいつか居なくなるのだから。


 アナスタシアを助ける、助けないというのは、本来、自分ではなくて彼の仕事なのだ。但馬が気にすることではない。なのに、どうしてこんなに気にしているのだろう。嫌われたと思って、焦ってしまったのだろうか……まあ、いい。考えすぎても仕方ない。


 但馬はため息を一つ吐くと、シモンの気持ちを飲み込むことにした。


 それにしても親なら息子のことが心配じゃないのだろうか。戦争に行くと言うのに、寧ろ誇らしげな感じで、正直違和感が半端ない。


「そりゃあ、息子がお国のためになるんだ。とても素晴らしいことじゃないのか」


 訪ねてみたら、そんな言葉が帰ってきた。あ、そうなの?


「俺達みたいな流浪の民が、こうして何不自由なく暮らせているのも、国民と平等に扱っていただけるのも、すべてハンス様のおかげだろう。そのハンス様のために戦えるのは名誉だし、徴兵期間を終えれば、誰もが正式に国民として迎えていただけるのだ」


 まあ、そんなものなのかな? 但馬は日本人に生まれたし、国籍がどうので困ったこともないので、彼の気持ちは殆ど理解できなかった。


 ただ、どうやら戦況が激しくなることは滅多にないらしく、そういうわけで命の危険はあまりないのだそうだ。


 リディアと、その南西にある国家・メディアは、国力こそリディアが圧倒しているのであるが、森林によって隔てられているせいで人間は真っ直ぐに近づくことが出来ず、逆に亜人主体のメディアからはどこからでも侵攻が可能なので、そのせいで苦戦を強いられているのだそうだ。


 具体的にはリディアは常に攻勢に出て、メディアに圧力をかけ続けねばならない。メディアの戦力を釘付けにしておかないと、いつ奇襲を食らうか分からない、いきなり首都ローデポリスが戦場になることだって有り得るのだ。


 リディアの西端にはヴィクトリア峰という小高い山が、海に突き出るように岬を形成している。この岬は塩害の影響からか、海側から山頂にかけては禿げ上がり高木が少なく、エルフが来ないのでリディアが抑えて橋頭堡にしている。だが、逆側の麓には森林が広がり、更にメディアに続く海岸線はヴィクトリア峰から流れる川に隔てられていて、突破しづらくなっている。


 そんなわけでリディアとメディアはここ10年、ヴィクトリア峰の領有をめぐって争いを続けてきたのであるが、川を挟んでにらみ合いを始めてからは、戦線は膠着状態に陥り、双方ともに有効な手段がないまま、ずるずると戦争が続いていた。


 しかも、それだけの時間があったから、お互いに野戦築城も完璧で、仮に川を突破できたとしても、果たしてメディアに到達できるか疑問であるそうだ。おまけにリディア軍は森に近づくことが出来ないので、常に海岸付近の隘路を通らねばならない。


 したがって、川を挟んでお互い睨み合う以外、戦線が移動することが殆ど無く、必然的に戦死者も年々減る傾向にある。去年に至っては、お互いの厭戦感情から、ついにクリスマス休戦が合意に至って、そろそろエトルリア本国による仲裁も視野に入ってきているらしい。


 まあ、実際のところ、中世の戦場での戦死者は驚くほど少ないのだ。


 銃の登場以前、基本的にどの国の戦場も、歩兵は槍を持った密集陣形を採用し、相手方と突き合っていたわけだが、実は槍による戦死者は記録によると極端に少ない。


 実際に槍を持って人を刺そうとしても、面と向かってる相手には、たとえ敵だとしてもどうしても躊躇いが生まれる。それに、相手も必死に避けるから、なかなか致命傷には至らない。仮に相手をうまく刺せたとしても、今度はそれが体に食い込んで引き抜けず、もたもたしている内に、他の敵にやられてしまう。なので、戦国時代の日本だと、初めから刺すことは考えずに、上下に振って叩いていたくらいだ。


 と言うわけで、その頃の戦死者と言ったら専ら弓兵による矢傷が原因で、それも戦場から帰った後に破傷風にかかって死んだのが、死因の殆どであったそうだ。近代の総力戦とはわけが違い、戦場でどちらかが全滅するか、降参するまで戦うようなことは、まず無かった。おまけに、この世界にはヒーリングという魔法があるので、尚更戦死者は少ないだろう。


「だから、息子が戦争にいくと言っても、それほど心配はしていないな。寧ろ、普段の警らで、魔物と戦う方がよっぽど危険だ」

「あ、そうなんですか……」


 なんだか、戦争戦争と聞いていたので、203高地みたいなものを想像していたが、よく考えて見れば、あの貧弱な装備ではそんな悲惨なものにはなり難いだろう。


 そんな具合に、親の方が楽観的なのに、但馬が心配するのも馬鹿らしい。取り敢えず、行っちゃったものは仕方ない。但馬は父親と別れて水車小屋へと向かうことにした。


********************


 いつものように水車小屋のあるスラムまでくると、これまたいつものように物乞いが托鉢坊主みたいに念仏をぶつぶつ唱えていた。彼らは兵隊が通りすぎようが、なにしようが変わらない。バラック小屋の住人も相変わらずで、いつものように怪しげな薬を決めてラリっていた。


 気持ちを切り替えよう。少しギクシャクしていた矢先の出来事だったので、動揺してしまったが、男が消えたからって大騒ぎしてどうするのだ。ホモなのか。


 プレッシャーを与え過ぎた自分のせいかも知れないと思って、後味が悪くなったのが原因だろうが……工場を作った後の仕事の割り振りは、殆ど彼に任せるつもりだった。その上、王様に会わせたり、確かにちょっとやりすぎだったかも知れない。


 シモンが帰ってきたら、もう一度仕事の割り振りを考えなおした方がいいだろう。今回みたいに彼が思い詰めてもいけないから、特別扱いし過ぎないようにしたほうが良いのかも知れない。


 あれ? でも、その場合アナスタシアはどうなるのだろう。彼が彼女を放っておくというなら、但馬が身請けを引き受けりゃいいのか? いやいや、なんで自分がそこまでしなきゃならないんだ。じゃあ、やっぱり放っとくしかないのかな?


 水車小屋の中に入って、いつものように暗い廊下を右へ左へ。やがて日の差した扉をくぐると、そこは動力室に続いている。


 但馬が扉をくぐると、この水車小屋の中で唯一日の差す動力室の作業机の上で、アナスタシアがいつもの手習いのように、紙に聖書の写しを一生懸命書いていた。彼女は但馬が入ったことに気づくと、目だけ動かして上目遣いで彼のことを捉えた。細長く、絹のように彼女の前髪がサラサラと揺れた。但馬は昨晩、うっかり出歯亀のように遭遇してしまった、彼女の客との場面を思い出して、つい目を逸らしてしまった。


 ああ、そうか……


 自分ももう、嫌なんだな、彼女がああいうことをするのは。だから、シモンがいなくなって焦っていたのだ。彼女のことを助ける道理が自分には無いから。


 アナスタシアが、室内に入らず扉の前で立ち尽くす彼を怪訝な表情で見つめていた。但馬はため息を噛み殺して、何事もなかった素振りをしながら室内に入った。


「おはよう、アーニャちゃん」

「……アンナじゃなくて、アナスタシア……」

「いいんだよ。俺の国ではそう言うの」


 ごく一部でな。但馬は話を逸らすかのように言った。


「そういや、これから暫くは二人で作業しなきゃならないんだ。シモンが戦場に行っちゃったんでね……アーニャちゃんは聞いてた?」

「……うん」

「え? マジで? ……くそ。俺には何も言わなかったのに」


 なんとなく聞いてみただけなのに、あっさりと肯定の言葉が出てきて、但馬は肩透かしを食らった格好で首をひねった。彼女に言っていたとするのなら、やはり前々から軍隊に戻る気で居たようだ。でも、本当になんで但馬には言ってくれなかったんだろうか。彼がコンプレックスを持っていたんじゃないかと言う、彼の父親の言うこともわかる。だが、やはり釈然としない。


「あいつ、行く前に何か言ってた?」


 もしかして、何か彼女に言い残しているかも知れないと思い、但馬は何気なく聞いてみた。本当になんとなくだった。彼女は少し考えてから、


「……帰ってきたら、結婚しようって言われた」


 するととんでもなく意外な答えが返ってきて、但馬はドキリと心臓が跳ね上がるような思いをした。


 ……は? なんじゃそりゃあ。なんでそうなるんだろう? 但馬がちんぷんかんぷんと言った顔をしていたら、彼女はいつものように眉毛だけを寄せた表情で、


「去年の暮れだったけど……お金出すから身請けするって言われたの」

「うん、知ってるけど」

「助けてくれるのは嬉しいけど、凄い大金だから、無理はしないでって断ったの」

「は? なんでさ」

「借金の相手がジュリアからシモンに変わっても、あたしはここで体を売るくらいしかお金を稼ぐ方法がわからないから」


 いや、お金を返さなくてもいいんだが……もちろん、シモンも彼女にそう言ったわけなんだが、それでは彼女は納得しない。だから彼は決断した。


「でも、どうして? って聞いたら、結婚しようって」


 シモンは彼女のことが好きだから、自分の嫁になってほしいから金を出すんだとちゃんと言っていたらしい。そう言えば、彼女が納得すると思ったからだろうか。いや、幼なじみを助けたい気持ちは本物だろうが、普通はそこまで踏み込めない。借金の額が額だから。それを迷わずやれるのは、そういうことなんだろう。


 但馬は他人の日記を盗み見してるような、なんとも後ろめたい気分になった。


 そして、一度はポシャった身請け話だったが、今回の紙の開発で再度現実味を帯びてきたので、


「今度の遠征から帰ったら、先生に頼んでお金はなんとかするから、結婚してほしいって言われた」


 と、アナスタシアは言った。


「あ、そう……なんだ。ふーん……で、受けるの?」

「うん」


 但馬は首をひねるばかりだった。


 もしもそれが本当なら、ますます彼が何も言わずに行ってしまった理由が分からない。話を聞く限りでは、帰ってきたら但馬を頼る気満々のようだし、アナスタシアのことも決してほったらかしていたわけでもなさそうだ……だったら、行く前に金を貸してくれなりなんなり言ってからにすれば良かったじゃないか。彼が居ない間も、彼女は体を売り続けることになるんだぞ。


 後ろめたいなら言ってくれれば良かったのに。別にただで金をくれてやろうとしてたわけじゃないんだし、それなりにきつい仕事もしてもらうつもりだったんだから、もしくは金だけ貸してくれって言ってくれれば貸したんだ。自分が金を持っていることはあいつも知っていただろう。頭なんか下げなくてもいい。ひとこと言ってくれさえすればすぐに金は貸したんだ。


 額が額だから言い出しづらかったのだろうか。感覚的に金貨1千枚ってどんなもんなんだろう。1億円くらいだろうか。だとしたら躊躇する気もわかるが……やっぱりなんか釈然としない。なにか行き違いでもあったのだろうか。


 但馬はフルフルと頭を振るってから、ため息を吐いた。なまじ、助けられる金を得てしまったせいで、焦りでも生じたのかも知れない。思考が変な方に飛んでいってしまう。とにかく、シモンが帰ってくるのを今は待つしかないのだから、焦っても仕方ないのだ。


 但馬が嫌われたわけでも、帰ってきたらこっちの仕事もちゃんとやる気でいるようだ。ならば今はそれで良しとしよう。考えすぎてはいけない。つーか、どうでもいいが、帰ってきたら結婚しようなんて死亡フラグみたいなこと言うなよな……


「まあ、そういう事なら……わかったよ。まあいいや。えーっと……それじゃ……そうそう、その間に紙漉きの方をどうにかしないとな……」


 と言いながら、但馬は頭を掻き掻き水車の動力部へと足を運んだ。


 大量生産の道は途絶えてしまったが、官公庁への卸しの仕事はすでに受注済みなのだ。取り敢えず、早急に用意して欲しいと言われた枚数だけでも、さっさと漉いてしまわないといけない。但馬が一人でやるしかないだろうか。それとも誰かを臨時に雇って対応するべきか。商売は信用が大事である。気になることがあっても、それで手を抜くわけにはいかない。


 その後はどうしようか。当初の大量生産の道が途絶えてしまったので、売り方を少し工夫しないと自分で自分の首を絞めかねない。例えば、官庁や富裕層向けには職人を育成して高品質なものを用意し、低所得者層にはわざと品質を落として、機械的に処理して効率を上げるとか、考えたほうが良いだろう……いずれ帰ってくるシモンのために仕事を残しとかないといけないし……


 そんな風に他所事を考えながら、水車の動力部にくっついていた単極誘導用の磁石を外したりして、ふと見れば、


「げっ……気持ち悪ぅ!?」


 但馬の足元に、なにやらぶよぶよした奇妙な液体が入ったコップが放置されていた。


 思わずステップを踏むように遠ざかり、恐る恐る、そのコップの中身を確かめてみた。


「うわ、これって……」


 見れば、そのコップの中身は、どうやら水酸化ナトリウム水溶液に溶かされたカエルか何かの死体だった。タンパク質が溶かされて、半透明でブヨブヨになった皮が浮いており、もはや骨格標本のようになりつつある。そう言えば、昨日小屋に来た時、スラムの子供たちがゲラゲラ笑いながら色々とぶっ殺していた。子供って残酷っすなあ~……などと遠巻きに眺めて放置していたが、子供は残酷な他にも、片付けができないという性質もあったのを忘れてた。


「とほほ~……これ、俺が片付けないと駄目なのかな」


 泣きながら但馬はコップをつまみ上げると、もはやまともに片付ける気にもなれず、環境破壊上等で、コップの中身をドボドボと川に流し捨てた。しかし、一日放置してたせいか、コップの底に白いドロドロしたものがこびり付いており、逆さまにしただけでは全部流れてはくれなかった。


 白いので、もしかして苛性ソーダが沈殿したのかな? と思ったが、こんな風にこびり付いたりはしないだろう。


 なんだこれ? と思いながらも、もちろん手で触る気にはなれなかったので、そのまま川の中にドボンと突っ込んで、棒きれで中身をぐるぐるとかき混ぜたのであるが……


「あ……」


 すると、コップの中身で沈殿物が泡立ち、たくさんのシャボン玉がぷかりぷかりと川を流れていくのだった。


 但馬はそれを見て、あることを思い出していた。水酸化ナトリウム、つまり苛性ソーダに脂肪酸や油を混ぜると、鹸化して白いクリーム状のものになる。それを冷やして固めたものをなんと呼ぶか、もはや言うまでもないだろう……


 これを石鹸と言うのだ。


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[一言] 主人公はそもそも異世界に定住する気がないからヒロインは存在しないのかな?
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