終わりの始まり
嫌な予感しかしなかった。
首都、リンドスからハリチまで、500キロ弱の距離を夜通し走り通した。一昔前とは比べ物にならないほど便利になったとは言っても、汽車を乗り継ぎ、いけるところまでいって、馬を変えながら走れるだけ走っても、行けども行けども目的地は見えてこなかった。結局そんなものなのだ。新幹線なら2時間しか掛からないというのに、但馬がハリチの爆発事故の知らせを受けてから、現地に到着するまで、丸一日の時間がかかっていた。
夜通し走り続けていた但馬は、やがて街道の正面に見えるヴィクトリア山の向こう側から、微かに光が差していることに気がついた。西から太陽が昇るわけはないから、それはハリチの街から上がっている炎だということは明らかだった。早く早くと馬を走らせども、道のりは未だ長かった。
山の麓に作られた、こぢんまりとした街だった。港と競馬場とホテル以外は特に何もない、小さな街だ。その小さな街が、こんなにも遠くから見えるほど燃えているのか……但馬は絶望的な気分のまま馬を走らせ続けた。
目的地に辿り着いたころ、空はすっかり白んで夜が明けていた。一晩中、移動し続けてクタクタだったのだが、まったく疲労は感じなかった。街の中心部から、火消したちの緊迫する声がいくつもいくつも聞こえてくる。港も、ホテルも、但馬の家も、未だに燃え続ける真っ赤な炎に包まれて、もう原型を留めていなかった。
領主がやってきたことに気づいた街の市長が飛んできて、火を食い止められなかったことを必死になって弁解しだした。火消し達はよくやってるが、薬品のせいで炎の勢いが止まらなかった。出火元は但馬の工場なんだから、自分たちは悪くない。
そんなことは分かってるから、早く被害者たちのところへ案内してくれと言うと、彼はホッと安堵した表情をしたあと、すぐにそれを引き締めて、案内してくれた。
本当に、酷い有様だった。
元々、狭い街だから、これだけ盛大に燃えてしまっては、建ってる建物など一握りしかない状況だった。だから火消し達はもう諦めて、霊廟や離宮に塁が及ばないようにと、山に近い場所にある家や木々を切り倒していた。
その作業と平行して守りやすかったからだろう。避難所はロープウェイの始発駅を取り巻く広場に作られ、そこには野戦病院のようにいくつものテントが建っていた。
どこもかしこも怪我人と、火事から逃れてきた避難民とで、足の踏み場もないくらいだった。一体、これからどうしたらいいのかと呆けていたら、但馬が到着したのに気づいたマイケルが飛んできて、
「先生! 今到着したんですか! 早く来てください、親父さんはこっちです!」
そう言って、但馬の手を必死の形相で引っ張った。
しかし、但馬はなんだか足が動かなくって、彼の引っ張る手を逆に引っ張り返し、その場に踏みとどまろうとした。マイケルは怪訝そうな顔で小首を傾げ、
「どうしたんすか? 先生?」
「あ、ごめん。すぐ行こう」
但馬はすぐに謝ると、結局は、そのまま彼の後に続いた。なんとなくだが、この先に行きたくなかったのだ……
マイケルが連れて来てくれたのは広場の一番奥にある、一際大きなテントで、その周囲では自分の家の使用人たちが忙し無さそうにしていた。どこもかしこも怪我人だらけで、無事だった者達がその世話を買って出ているようだった。彼らは但馬に気づくと、緊迫した表情のまま、いつもどおり恭しく礼をし、そしてテントの中にいた医師のサンダースを呼んだ。
呼ばれたサンダースはテントの中からバッと飛び出てくると、
「閣下! ようやくいらっしゃいましたか。急いでください!」
と、慌てた素振りで但馬を手招きした。何を急がねばいけないのか……マイケルに背中を押されて、嫌な予感を抱えながら但馬がテントの中に入ると……
テントの奥に、全身を包帯に巻かれた男が横たわっていた。
それは傷口を押さえているというよりは、焼けた肌を冷却するために、氷嚢を固定するために巻かれていると言ったほうが良かっただろう。包帯の隙間からところどころ見える肌は、どこもかしこも赤黒く焼けただれて見えた。
その顔も煤で真っ黒で、頭髪は焼け落ちてしまったのか殆ど無い。ただ、そのどこか人を安心させるような柔和な目元は、こんなになってもすぐに誰かを示していた。
「おじいちゃん……」
傍らにはリオンがベソをかきながら立っていて、
「罪より救われて限りなき命を、望むものはイエスに今すがれ。ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずるものは誰も皆救われん」
中央には神への祈りを捧げるアナスタシアの姿があった。
彼女は集中していて但馬が入ってきたことさえ気づかないようだった。必死に目の前の人を助けるために、すべてを神に捧げているようだった。もの凄い密度のマナがあちこちから集中し、テントごと光り輝かんばかりだった。
しかし、今となっては国内で最高のヒーラーである彼女の力をもってしても、進行を遅らせるのが精一杯で、目の前の人の傷は少しも癒やされることはなかった。
「慈しみ深きイエスは罪咎憂いを取り去りたもう……祈りに答えて慰め給わん、祈りに答えていたわり給わん」
どんなに彼女が言葉を重ねても、神の奇跡はもう起こらなかった。それはつい昨日、但馬が見た光景と同じだ。この世界から、ヒーリングの力が無くなってしまったのだ。
なんでこんな時に……
但馬はふらつく足をバシッと叩いて、よろめきながら男の元へと足を運んだ。リオンが悲しそうに脇にどいて、但馬に場所を譲った。
但馬は横たわる男を見下ろしながら、
「親父さん……」
と呟くと、ピクリと男の体が震えた。そしてパチリと目を開けると、但馬の顔を確認し、すぐ眩しそうにそれを閉じてしまった。まだ生きている。まだ息がある。但馬は必死になって叫んだ。
「親父さん!」
しかし叫んでも、それに応える声はもうなかった。多分、声を出したくても、喉が焼けただれて出せないのだろう。何度呼んでも、彼は困ったように目をぱちぱちするだけだった。
但馬がその体に縋り付こうとすると、サンダースに背後から羽交い締めにされた。全身を焼かれてしまっていて、傷口に障るから、絶対に触れちゃいけないと言われ、但馬はその場に崩れ落ちた。
親父さんはそんな但馬に気づいたのか、わかってるからと言わんばかりに、時折ぱちぱちと瞬きだけを返した。それ以外、何も出来なかった。
あの優しかった彼の言葉は、もう聞くことが出来ない。辛い時は相談に乗ってくれた、あの笑顔を見ることはもう出来ない。沢山の時間を共に過ごした、あの工場に一緒に帰ることも出来ない。
アナスタシアの祈りの言葉が続いている。その奇跡の力を持ってしても、これが精一杯なのだ。神が居るなら助けて欲しかった。そんなもの今まで信じたことすら無かったけれど、この命と引換えでもいいから助けて欲しかった。
だがそんな都合のいい神など居るはずもなく。親父さんの瞬きも、徐々に徐々に、少なくなってきた。
サンダースとマイケルの声がどこか遠くから聞こえてくる。お袋さんは間に合わないかも知れない。一体、何に間に合わないと言うのだろうか。
アナスタシアの声は、いつの間にか嗚咽混じりとなって、もう殆ど意味を為していなかった。それでも沢山のマナが彼女と親父さんの周りを、クルクルと飛び交っていた。それは最後の時を必死に足掻く、蛍の光のようだった。
耐え切れず、アナスタシアが崩れ落ちると、祈りの言葉が止まったことに気がついたのか、親父さんが最後の力を振り絞るかのように、手を伸ばし、彼女の頬を優しくなでた。アナスタシアは泣きながらその手を握ると、
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
と、いつまでもいつまでも繰り返した。
すっと何かが抜けていったような気がする。
殆ど動かすことの出来ないその表情が、どこか優しくなった感じがする。
親父さんはパチっと目を開くと、何か言いたげに横目で但馬の顔を見つめた。そしてパクパクと口を動かした。
なんだろうと顔を近づけると、脆弱な呼吸に混じって……
「ごめんよ……」
そう言って、彼はスーッと息を引き取った。
彼が未練を残して死んだのは自分のせいだ。
こんなに苦しい死に様も全部、自分のせいなんだ。
あの時、自分があんな無謀なことを言わなければ……
アナスタシアのことも全部、自分の胸の内だけに隠しておけば……
「うわああああああああああああーーーーーーーーーーーーーっっ!!!!」
そして但馬は絶叫した。気でも狂ったかのようだった。だけど、彼はどこまでも冷静で、どんなに悲しみが押し寄せてきても、おかしくなんかならなかった。
あの日、あの時、ティレニアの奴らが言ってたように、もしも自分が発狂して死ぬというのなら……
どうして今狂えないのか。
どうして、死ぬのは自分じゃなかったのか。
教えてほしい……誰でも良いから教えて欲しい。
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午後、バケツをひっくり返したような雨が降り続いていた。一晩中燃え続けていた街の上空に、いつの間にか積み重なるように覆っていた積乱雲が、決壊する川のような土砂降りを降らせた。そのお陰でようやく鎮火のめどが立ってきたが、どこかで何かの薬品が化学反応でもおこしているのか、木々の燻ぶる匂いに混じって酷い臭気が充満していた。
「どうして……ヒール魔法が効かなかったんだろう……」
アナスタシアは、動かなくなった親父さんの前で嘆いた。
「助けたい人が居たの……でも助けられなかった。だから今度こそは失敗したくないと思ってたのに……」
何の因果か先帝は彼女目の前で死んだのだ。助けたい命が目の前にあったというのに、彼女は何も出来なかった。あの時、助けられなかったという彼女の後悔が、神の奇跡を呼んだはずだったのだ。今では国内で最高のヒーラーとして知られ、彼女に助けられない命は無いはずだった。
なのにまた、彼女は肝心なときに神に裏切られ、絶対に助けたい命を目の前で失くすことになった。どうしてこんな理不尽を彼女が背負い込まなければならないのだろう。どうしていつも、彼女なのか。
「どうして、神様は助けてくれないの? 私が、何をしたっていうの? 教えてよ……教えて!」
但馬は泣きじゃくる彼女に声をかけることが出来ず、ただ黙ってテントの外へ出て、冷たい雨に打たれていた。
後から後から涙が溢れ出てくる。土砂降りに打たれて全身ずぶ濡れだ。視界は霞んでよく見えず、まとわりつく服が重く肌に張り付いていた。但馬は酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせながら、広場の中で不安に震える避難民の姿をぼんやりと眺めていた。
そんな但馬の姿を見つけて、次から次へと色んな報告が上げられていたが、殆ど頭に残らなかった。機転を利かせた医師のサンダースが、代わりに色々と答えてくれていたが、但馬が役に立たず、ヒーラーが使い物にならなくなった今、彼以上にこの現場を指揮するにふさわしい人物も居なかっただろうから、それは適材適所と言えた。
右から左へと流れていってしまう情報の中で、それでも脳裏に引っ掛かっていたことによれば、やはりというべきか、出火元は但馬の工場の最近立ち上げたロケット開発の実験場らしかった。
現場に居た殆どの技師が重症で、責任者が死んでしまった今となっては何があったか詳しいことは分からないが、何かの燃焼実験をしていたのか、それともエンジンに欠陥があったのか、なんらかのミスがあって実験場で火災が発生すると、あとは酷いものだった。
もちろん、火災対策は十分にとっていただろう。それでも一度燃え広がってしまえば、どんなに用心深かろうと、そんなもの端から意味が無かったようだった。なにしろ場所が悪すぎた。ロケットエンジンを開発しているような場所なのだ。そこには燃料と酸化剤も沢山置かれていたわけで……爆発的な火災が起こるとそれはもう手がつけられなくなり、近くにある他の工場に延焼し、運の悪いことにここでも様々な薬品を作り保管していたから、火はあっという間に街中を覆い尽くした。
おまけに怪我人が続出しているというのに、何故かヒーラーの魔法があまり効かないのだ。次々と人が倒れていく中で、この世の終わりのような爆発音が一晩中鳴り響き、どうにか逃げ延びた人々は、恐怖で眠れぬ一夜を過ごした。
全部、但馬のせいなのだ。自分が、ロケット開発なんて無謀な挑戦をしようと言い出さなければ……親父さんに弱音を吐かずに、アナスタシアの秘密を黙ってさえ居れば……彼は但馬の無茶になんか付き合わずに、こんなことにはならなかったはずなのだ。
夕方過ぎ、お袋さんがハリチに到着した。まだ夕方だと言うのに、空は厚い雲に覆われて、夜みたいに暗かった。冷たい風が吹きすさび、びしょ濡れた体はブルブルと震えていて、指先の感覚は薄れていた。そんな泥だらけ、煤だらけの但馬と違って、到着したお袋さんはやけに真っ白い顔をして、妙に穏やかな表情をしていた。
彼女はテントの中に入ると、ぼんやりと横たわる親父さんを見つめて、特に何も言わずに佇んでいた。微動だにしないその姿はまるで彫像のようだった。心配したリオンが彼女の隣に立って手を握ると、ハッと我に返って、一瞬だけニッコリと笑顔を見せた。
その横顔はやけに疲れて見えた。テレビのブラウン管を通した映像のように嘘っぽく見えた。彼女の視線がチラリと但馬の足元を掠めると、お袋さんは結局一度も但馬に目線を合わせること無く、
「ねえ、あんた。どっか行ってくれないか。あんたが悪いわけじゃないってのは分かってるんだ……だけど……息子を亡くして、今度は長いこと一緒に生きてきた連れ合いにも先に逝かれて……どんな顔をしていいのか分からないんだ。あんたのことを、責めてしまいそうなんだ……だから……どっかいっててくれないかい」
但馬は深々とお辞儀をすると、そのまま黙ってテントから出た。途端に、絹を引き裂くようなすすり泣きが聞こえてきた。但馬が彼女を傷つけたのだ。彼女は但馬を傷つけそうになって、より深く傷ついたのだ。
自分なんか居なくなってしまえばいい。でも一体どこへ行けばいいんだ。溜息を吐けども吐けども、一向に答えは出てこなかったし、気が晴れることもなかった。
避難所には人々が寄り集まって、また不安な夜が来る前に、少しでも体を温めようと、キャンプファイヤーを囲んでいた。街のインフラは破壊しつくされ、電気が復旧する目処がたたない。久々に訪れた星のない夜は真っ暗で、あれだけの火災があった直後だというのに、それでも人は火に寄ってきた。
そんなキャンプファイヤーを取り囲む人の数が、昼間よりも増えているように思えたのは気のせいではなかった。見ればところどころにカメラを構えた人たちがいて、避難所で不安な一夜を過ごそうとする街の住人たちを取材しているところだった。
お袋さんの到着を前後して、首都から新聞記者たちも一緒にやって来たらしい。彼らは街の被害を写真に収め、家を追い出されたばかりの被害者たちに率直な意見を聞いた。やがて但馬の元にもやってきて、
「失礼ですが閣下、今回の火災の件、火元が閣下の会社であったとのことですが、具体的にどのような補償を被災者に約束してくれるのでしょうか。また、工場では何を作ってたんですか? これだけの大爆発を起こすような兵器を開発していたという噂は本当でしょうか。国内では格差が広がっているのに、一人勝ちしているS&H社に対する天罰だったという意見もありますが、どのようにお考えでしょうか」
次から次へと矢継ぎ早に質問が飛んでくるが、どれにも答えることが出来なかった。まるで別の言語を操る外国人と話してるみたいで、頭に全然入ってこない。カメラマンがやって来て、パシャパシャと遠慮無く但馬の姿をカメラに収めた。それに気づいた別の記者たちが次から次へとやって来て、また似たようなことを質問攻めにした。気が狂いそうだった。
「誰か、こいつらを避難所からつまみ出せ!」
但馬が叫ぶと、憲兵が飛んできて、もみ合いながら記者たちを避難所から遠ざけた。報道の自由がどうとか言っていたが、そんなもんもう知ったこっちゃなかった。ただ、まるで脳みそがかき混ぜられてるかのように思考がグシャグシャに乱れてて、ナイフでザクザクと切り刻まれているかのような激痛が胸を締め付けた。
一体……自分は今まで何をやってきたのだろうか?
この世界にとって、どんな意味があったのだろうか?
自分が頑張れば頑張るほど、国内の雰囲気はどんどん悪くなっていった。生活が便利になればなるほど、不満を抱える人が増えていった。戦争を激化させ、革命が始まり、人類には制御しきれない爆発事故が起きた。
自分は一体、何を創りだしてしまったのだろうか。
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事故から一週間後、親父さんの国葬が執り行われた。
S&H社の開発主任として、一時期は皇帝ブリジットの上司でもあった彼は、但馬の片腕として発明品の数々を遺し、国内外問わず知らぬものが居ないほどの活躍が認められて、帝国として初の一般人の国葬となった。
その日は先帝の大喪同様に休日とされ、葬儀には国中から大勢の人々が集まってきた。そんな中、お袋さんは終始顔色一つ変えること無く、気丈に振舞っていた。出棺の馬車が市内の中央通りを通過すると、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。それは生前の彼に少なからず影響を受けた彼の部下や、彼に憧れて技術者を目指した若者たちの声だった。
親父さんの遺体はそのままハリチに戻され、ザナドゥ離宮の霊廟の側に埋葬されることになった。奇しくも、彼の息子であるシモンもヴィクトリア山で命を落としており、息子の近くで眠らせてあげたいと言うお袋さんの希望だった。
彼女はあれ以来、すっかり元気を無くしてしまって、誰かが見ていなければ、ご飯も食べずに日がな一日ぼんやりしているそうだった。そのため、アナスタシアが一緒に居て、面倒を見ていてくれてるようだった。
但馬の会社の、そして国の功労者でもあるから、唸るほどの遺族年金が支払われているので、お袋さんがこの先困ることは無いだろう。但馬もやれるだけのことはやったつもりだが、しかし、彼女がそれで安心して暮らしていけるかといえば、絶対にそんなことはないだろうし、これから何年先になっても、きっと事故のことを思い出して、悲しむ日々が続くのだろう。
それを思うといたたまれない気持ちになるのだが、但馬はあれ以来、お袋さんと会っていなかった。会っても、お互いに何を話していいか分からないだろうし、きっと辛さが増すだけだと思うと、勇気が持てなかった。
ハリチの街は事故の影響で、暫くは人が住めそうもなかった。ただの焼け野原ならば復興も可能なのだが、様々な薬品が散乱し土壌を汚染したせいで、人が住むには適さない土地になってしまったからだ。
そのため、燃え残った港と海軍工廠以外の建物はすべて撤去され、但馬の領地はたった一夜にして廃墟と化した。何年もかけてインフラを整備し、海外交易の拠点として、ようやく人々が大勢暮らしていけるまで大きくしたというのに、何もかもが無駄になってしまった。
そして、ロケット開発も中止になった。
そりゃあ、とんでもない大事故ではあったが、たった一度の失敗で諦めてしまっては、何が宇宙開発だと先人に笑われてしまうだろうが……でも、続けようと言ったって、親父さん以外の誰にこんなことが任せられるというのか……
居なくなって初めて分かることがある。今まで、但馬は彼にどれほど頼りきっていたのか、それを痛感させられた。何かアイディアがあっても、もう誰に相談していいのか分からないのだ。まるで片腕でももがれてしまったかのようだった。今まで普通に出来ていたことさえも、上手く出来る自信が全くなくなってしまったのだ。
だが……それで本当にやめてしまうわけにもいかないのだ。やめてしまったら、世界はどうなってしまうのだろうか。
ティレニアの摂家が言うとおり、どうも、このところ太陽の様子はおかしいようだ。これは、いい加減に認めざるを得ないようだった。
シルミウムの冷害に始まり、突然のヒーラーの能力喪失、そしてリーゼロッテが気になることを言っていた。もしかして、エルフが弱くなったのではないかと……
もしも彼女の言葉が本当ならば、これら全てに共通するものはなんだろうか。ヒーラーの能力もエルフの能力も、マナに起因したものであり、そのマナは植物の光合成エネルギーを利用している……
目をそらしているわけにはいかない。確実に、太陽は活動を縮小している。しかし、アナスタシアを犠牲にするなんて出来ない……時間の猶予はどのくらい残されているのだろうか。あと1年は持つかも知れない。だが5年は……? 10年は……? たったそれだけの期間で、本当に、人間を月まで運べるなんて思っているのか?
親父さんはもういないんだ……
どうすればいいんだ……
どうすればいい……
気が狂いそうだ……
気が狂う……? いや……但馬はブルブルと首を振った。
彼らが言っていたもう一つの言葉を思い出した。歴代の但馬波瑠は、必ず発狂して死んだ。もし、それが本当なら、自分はあとどのくらい持つのだろうか。もし、そうなってしまったら、誰がアナスタシアを守れるのだろうか……自分が死んだら、共倒れなのだ。
そうならないためにも、いや、そうなってしまう前に、やはり自分は動き続けなければならない。なんとしてもロケット開発を実現しなければならない。仮に無理だと思っていても、絶望的だとわかっていても、また、犠牲者が出たとしても……やり続けるしか無いのだ。
しかし、そんな彼のなけなしの決意すらも打ち砕くような出来事がまた起きた。
事故から数週間後。但馬はハリチの復興のための法案を通そうと議会にかけたところ、ものすごい抵抗を受けたのだ。その理由は判然とせず、明らかにただの嫌がらせだった。
国民に嫌われ始めていることは気づいていた。ライバル企業に足を引っ張られていることも知っている。だが、議会まで敵だらけになっているとは思いも寄らず、但馬は急いで原因を探った。
「……どうやら閣下は、累進課税法案のことで、金持ち連中に相当恨みを買っているようですよ」
調査に向かわせたシロッコが、いつもの薄い表情で淡々と事実を告げた。どうやらそういうことらしい。
元々は、国内の格差を是正するためにしたことだった。国勢調査ではっきりと格差が広がっていることが実証された。このままいくと、シルミウムのように革命が起きても仕方ないくらい、所得に偏りが見受けられたのだ。
だから国を守るためには仕方ないことだったのだ。今、彼の国のような騒動が起きたら、宇宙開発なんて言ってられなくなるから。
だが、やはりそれで金持ちが納得するわけは無かったのだ。彼らは自分たちの稼ぎを取り戻すために、最も手っ取り早い方法が何かを考えた。それは絶対権力者である但馬を引きずり下ろすことに違いない。
どうする?
元に戻すか……?
だが、そんなことしたら、本当に金持ち優遇を嫌った国民が大暴れしだす危険性がある。格差が激しいと言うことは、金持ちよりもずっと貧乏人の方が多いと言うことだ。
但馬が頭を抱えていると、その頭の上の方から冷静な声が聞こえてきた。
「先帝もブリジット陛下や閣下同様、国民に同情的なお方でした。そのため、皇太子さまが泥をかぶって影で暗躍されていたようですが……」
シロッコが淡々と続ける。
「いかがなさいますか? 国内の抵抗勢力を一掃なさるおつもりがあるのなら、今しかないかと……」
肝が座ってるやつだとは思っていたが、無表情でこんなことを言い出すとは……
上司に対して自分の意見を差し挟むようなことは、絶対にしないようなやつだから分からなかった。いつもこんなことを考えていたのかと思うとぞっとする。だが、このくらいでなければ、国の諜報機関の長は務まらないのかも知れない。
但馬は溜息を吐いた。理想だけで物事は上手くいくわけがない。そんなことは分かっているが……一体自分は何をやっているというのだろうか。もう全てを投げ出して、どこかへ行ってしまいたい。
だが、そんな弱音を吐くことすらも、但馬には許されなかった。
二人が密談を交わしているそんな時……
ドンドンドンッ!
っと、突然、執務室の扉がけたたましく叩かれた。
「閣下! 緊急事態です、よろしいでしょうか!」
「大蔵卿……? 一体何の用ですか」
シロッコは顔色一つ変えなかったが、直前に話していた内容が内容だけに、但馬がドキドキしながら扉の向こうに声をかけると……緊迫した面持ちの大蔵卿が入ってきて、
「お忙しいところ申し訳ありません。実は、先ほど、私の信頼する筋から情報提供がありまして……」
「信頼筋?」
「はい。それによると、間もなくアナスタシア様が襲撃される危険があるとのことで……」
「はあ? アーニャちゃんが……襲撃だって!?」
次から次へと訪れる、ろくでもない事件の数々に、但馬はもう頭の中身がグシャグシャで、ついていけなくなっていた。なんでアナスタシアが襲撃されるのだ? それがどうして大蔵卿の耳に入るんだ?
ただ、そんなことを今問いただしたところで始まらない。但馬はアナスタシアのことだけが気がかりで、取るものも取り敢えず部屋から飛び出すと、後のことは何もかも忘れて駆け出した。
終わりはもう否応もなく……彼の身にも降りかかろうとしていたのである。
ちょっとストック切れかけてるんで、3日ほど空きます。続きは水曜から