それは素晴らしいことじゃありませんか
但馬がアクロポリスに帰還してから幾日も経っていない頃、講和条約はアナトリア皇帝ブリジットとビテュニア選帝侯ミダースの両名の調印をもって締結された。それと同時に、アナトリア帝国とエトルリア皇国の恒久平和を謳った平和宣言がなされ、満場の拍手のもとで両国の今後の繁栄を誓う宣言文に、皇帝と皇王によるサインが刻まれた。
これによって両国の正式な交易が開始されることになり、アナトリアの技術がエトルリアへと渡り、イオニア~ビテュニア間のおよそ1000キロを結ぶ大陸鉄道の建設が急ピッチに始められようとしていた。
時を同じくして、帝国首都ローデポリス東方のフラクタル地帯では、帝国海軍による入江の調査が行われており、ここに拠点を作りながらの護岸工事が行われていた。帝国はこの工事により、フラクタルの山々の斜面に鉄塔を作り、コルフまでの電話線の敷設を目指そうと言うものである。
これら二つの巨大プロジェクトにより、エトルリア南部は圧倒的に働き手が不足し始め、労働市場は空前の売り手市場となった。また戦後処理の賠償金問題や、国内の金融不安のためにシルミウムからは人民の流出が始まり、結果、エトルリア南部には北から続々と労働者たちが集まり始め、時代はまさに民族の大移動の様相を呈し始めるのであった。
ところで、但馬は調印式が行われている正にその時、議会ではなくタイユバンにいた。
講和会議の初めから、ずっと所要で席を外していた彼は、結局全ての会議をウルフに任せて一度も出席しなかった。思えば戦争が始まってから一度も戦場に立つこともなく、会議すらすっぽかしたわけだから、本当に傍から見たらこの戦争中、彼は何をやっていたのか……まあ、それはそれとして、今更自分の手柄みたいに調印式だけ出て行くのは何だからと、彼は一人、パーティーの仕込みを行っているタイユバンの料理人たちと居たわけである。
その日のタイユバンの厨房には珍しく食通も入っていて、大真面目に料理人達相手にあれやこれやと口うるさく指示をしていた。但馬はこの日、アクロポリスを発つ前の最後のパーティ会場としてここを選び、リリィをこっそり招待していたからである。やはり、この国の人にとってリリィは特別らしく、彼はチューリップでボロ儲けした時以上に喜び、但馬に感謝していた。
まあ、喜んでくれるのはいいけれど……話し相手が居なくて退屈だと、そんな具合に彼が一人暇そうにテーブル席に腰掛けている時だった。入り口からひょっこりクロノアが現れ、まだ準備中であることを告げようと出て行った店員に出迎えられていた。
「閣下、ここに居られましたか」
「よう。どうしてこんなとこいるんだ? 調印式は見に行かなかったのかよ」
「それはこちらのセリフですよ。議会へ赴いたら閣下がいらっしゃらないので、日付を間違えたかと思いました」
クロノアはアクロポリスにいる間、実家に帰省し、通いで但馬の仕事を手伝ってくれていた。今日も同じく、実家から議会へ行ったら但馬が居なかったので探していたらしい。アクロポリスは平和だから、別に護衛は必要ないと言っているのだが、
「そういうわけには参りませんよ。エリック君もエリザベス様も居らっしゃらない以上、私が閣下をお守りしなければ」
「エリックなんか物の数にならんだろ。だったらいつもと同じだよ」
本人が聞いたら泣きそうなことを言いながら、但馬は退屈そうにあくびをかました。クロノアは肩をすくめ、苦笑交じりに言った。
「それにしても、お二人はどうされたのですか? てっきり、閣下と一緒に帰ってくるものとばかり思ってましたが」
「ちょっとシルミウムに関心が出来てね、その調査に行ってもらったんだ。エリックだけだと不安だし、リーゼロッテさんはシルミウムに土地勘があるって言うからさ。おまえには悪いと思ったけど」
但馬がそう言うと、クロノアは困ったように苦笑しながら、
「ははは。そうですね、少々残念ですが、仕事優先ですから致し方ありません」
「あの人、お使い頼んだら寧ろホッとしてたからなあ……あれじゃいくつになってもお一人様から脱出出来ないよ」
但馬が愚痴りそうになると、慌ててクロノアが口を挟んだ。
「エリザベス様……とエリック君には何を調べるようにお願いしたのですか? わざわざお二人を出向かせるくらいですから、公にはしたくないことなのでしょうか」
「いや、そんなことは無いんだけどね。説明を求められたら面倒くさいと思ったんで……シルミウムの学校教育の有無と、識字率についてちょっとね」
「識字率……ですか? 一体、なんのためにそんなことを」
ほらみろ、面倒くさいことになったと思いつつ、但馬は苦笑いしながらかいつまんで説明した。
セレスティアに辿り着いた但馬達は、歓迎の宴のために街に招待されて、彼らのその生活水準に驚かされた。電気こそなかったが、蒸気機関は存在し、リディアにはないトラクターが発明されて大規模農業が行われていたのだ。
もし、これがかつてのセレスティアでは普通のことであったのなら、アナスタシアやシモンの親父さん達は、但馬がリディアに現れるよりも前にそれらを作っていたはずだろう。そうでないということは、これらは内戦後に発明されたわけである。
しかも詳しく話を聞いてみると、これはセレスティアに残された亜人が作ったのではなく、世界樹から生み出された子供たちが、成長して自分たちの力で作り上げたと言うのだ。ツヴァイ達はそれを我がことのように喜んでいたのだが……言うまでもなく、これはものすごいことだろう。
但馬は、これは勇者の残した教科書に秘密があるのだろうと考えた。きっとそこにはトラクターや融雪機に関してのアイディアが示されているのではないかと思ったのだ。ところが、調べてみても教科書にはそれそのものの記述などどこにも見当たらず、せいぜい高校1年生レベルの力学について書かれているだけだった。
つまり、彼らはそこに書かれたニュートンやら熱力学からヒントを得て、あれらを作り上げたわけである。
「それを無理とは言わないが、内戦が終わってから、せいぜい15年だろう? 子供が成長するのも時間が掛かるし、開発期間はここ5年程度のものじゃないか。それであそこまで……リディアの蒸気自動車に匹敵するくらいのものを作り上げたのは、とんでもないことだろう」
「セレスティアとは、そんなに技術が発展した土地だったのですか」
「いや、やはり未発達だよ。例えば、リディアにある発電所や化学プラントのようなものは全く無いし、それを作ろうと言う発想もない。ただ、元からあるものを発展させて新たなものを創りだすという点では、リディアにも引けを取らないってわけさ。で、俺はこれは多分、学校教育にあるんじゃないかと思ったわけ」
ただ、学校教育だけでここまですくすく育つとも思えない。だから、元々この世界の人間は、亜人と同じように創りだされた存在なのだから、これまた亜人と同じように特別なんじゃないかと考えたわけだ。それは体力的な能力ではなく、頭脳的なものに特化しているわけだが……
それが意味するところは、この世界の人々は適切な教育方針で導いてやれば、著しい発展を遂げる可能性があると言うことだ。
「調べてみると、どうも晩年、勇者は人々を教育することに熱心になっていったようなんだよ。トリエルに学校教育を導入するように言ったのもそうだし、セレスティアで義務教育が始まったのも、彼が死ぬ直前だった」
「もしかして彼は教育によって、世界の独力による進歩を期待していたということでしょうか?」
「恐らくね。もしくは、民主化だ」
民主化という言葉に馴染みが無いからだろう。クロノアは何のことかと首をひねっていた。
つまり、まあ、ここが面倒くさいところなのである。
1976年。前年にベトナム戦争が北ベトナムの勝利で終結し、ソビエト連邦の威信が高まる中、フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは自著『最後の転落』の中で、そのソ連の崩壊を予言した。
彼は、女性の識字率が上がると出生率が下がる(女性の社会進出が促され晩婚化が進む)という、人類の普遍的特徴からソ連で近代化が進んでいるのに対し、それに反して乳幼児死亡率が増加しているという矛盾を指摘して、ソ連の崩壊が始まっていると主張したのである。
知っての通り、その15年後にソ連は崩壊し、彼は一躍預言者として名を馳せることになるのだが、この統計を駆使した社会学は1980年代からブームとなり、識字率は民主化の進行度合いを測る一つの指標となっていった。
これによると、一つの社会が識字率50%を越えると、その社会で民主化が始まる傾向があるようだ。過去の先進国の民主革命が起こった時期を調べてみると、大体その通りになっているそうで、日本の明治維新の頃の識字率も、藩ごとにばらつきがあったようだが、江戸のような都市部では男子の識字率が70%~80%と突出して高かったらしく、都市部を中心に攘夷運動が起こったのは必然だったと言えるだろう。
「それが起こると何か悪いことでもあるのですか?」
「どちらかと言えば良いことだよ。古い研究だと民主国家同士は戦争をしないって結論が出てるくらいだから」
「それは素晴らしいことじゃありませんか」
クロノアが真顔で言う。
「だと良いんだけどね」
しかし、但馬は言葉を濁した。
民主主義が良いとか悪いとか、他の社会形態が良かったとか言いたいわけじゃない。単純に、民主化の過程で人類は例外なく『内戦』を起こしてきているのが気がかりなのだ。
イギリス革命に始まり、フランス、ドイツ、イタリア統一運動、アメリカ独立戦争と南北戦争、日本の戊辰戦争と西南の役、そしてロシア革命。第二次大戦で列強と呼ばれた国々は全てが民主革命を経験している。
人類の歴史を紐解けば、古い権威を打倒する時には必ずと言っていいほど暴力が起こっているわけで、それが何故かと考えれば識字率にたどり着く。要するに無学の父親と、教育された息子が、ぶつかり合わないわけがないのだ。
そう考えると、セレスティアで起きた『内戦』とは、もしかして歴史の必然だったのではないかと思えてくる。更に、ここで問題なのは、但馬と勇者は同一人物と言っていいのだから、同じ知識を共有しているはずということだ。
なんでそんな奴が、拙速に、無節操に、あっちこっちで教育の重要さを説いたのか。いや、そりゃ確かに教育は重要なのだが、その結果、何が起こるか彼が全く想像していなかったとは思えないだろう。
本当に、勇者は何を考えていたのだろうか。
ともあれ、彼によって教育が施されたトリエルの人々は、比較的穏やかな発展を遂げている。こちらの方は今はまだ心配していない。
対して、シルミウムの方はどうだろうか。彼の国は、方伯による中央集権から、それを取り巻く商人貴族の専横に変わっていった歴史がある。そしてそれが今、崩れようとしているわけである。
おかしなことが起こらなければ良いのであるが……
「まあ、そんなわけでさ、そういったのも含めて、内部事情を調べてきてくれって頼んだわけだよ。今日の調印式が終わったら、シロッコもあっちに合流させるつもりなんだけど……」
但馬はチラリとクロノアの顔を見てから、
「なんだったら、クロノア。君もシルミウムに行ってきたらどうだい?」
「え? 私ですか?」
但馬は頷いた。
「リーゼロッテさんには後でシロッコを向かわせるから合流しろって言ったけど、別にシロッコだけとは言ってないんだ」
「しかし、私が突然やってきたらエリザベス様は困惑なさるのでは」
「かもね。でもあの人のことはどうだっていいんだよ。クロノアがどうしたいかだろ」
別に無理矢理くっつけたいわけじゃない。ただ、リーゼロッテのグダグダっぷりを見ていたら、このまま放っておいたらギクシャクしたままを続けそうだったし、くっつくならくっつく、振られるなら振られるとはっきりして欲しかったのだ。
それに、ああいうタイプは押しに弱そうだし、ここが踏ん張りどころじゃないのか。
但馬がそんな思いを込めて言うと、クロノアも思うところがあったのか、
「そうですね……結果がどうなろうとも、今後も閣下のために尽くすのであれば、エリザベス様と協力して仕事をしていく機会が何度もあるでしょう。いつまでもこんなことは続けていられませんし、白黒つけてこようかと思います」
「そう? 悪いね、せっついたみたいで」
「いいえ、寧ろチャンスを与えてくれたことに感謝いたします」
クロノアはそう言って拳を握り締めると、鼻息を荒くして店から出て行った。シルミウム渡航のために今から準備をするそうだ。ところで、店に来た当初、但馬の護衛の代わりにやって来たとか言ってなかったか……
まあいいか……とあくびを噛み殺しながら、そろそろ講和会議も閉幕しただろうかと懐中時計を取り出した時だった。
クロノアと入れ替わりに店のドアが開いて、今度はアナスタシアがひょっこりと顔を出した。こちらの方は顔なじみじゃなかったから、店員が追いだそうとしたのだが、
「ああ、いいんだよ、その子は俺の家族だから」
但馬がそう言うと、アナスタシアが店員に会釈しながら但馬の方へやって来た。
「先生、来たよ。まだ誰も来てないんだね」
「早かったね。皇王様の方はもう議場に向かったの?」
「うん。最後に泣かれちゃって困ったけど……会議にはリリィ様も出席してるから」
アナスタシアは結局、アクロポリスにいる間はずっと宮殿で皇王の面倒を見ていた。寄付金を募るために貴族と知り合う必要があったから、それは好都合だったのだが、リリィと二人が一緒に居ると周囲が混乱するので、結果としてリリィの方が外に出ていることが多くなり、そのうち皇王がアナスタシアに懐いてしまって、なんだかおかしな関係になってしまっていた。
とはいえ、これからは皇王の面倒はリリィが見なければならないのだし、そろそろアナスタシア離れしてもらわねばならないだろう……いや、元からそうだったのだが。
「先生こそ、会議に出なくてよかったの? 姫様が残念がってたけど」
「面倒なことは全部ウルフに押し付けちゃったからな、今更俺が出て行っても迷惑がられるだけだよ」
「そんなことないよ。みんな先生が居たから上手く行ったんだって思ってる」
「そんなことないよ」
「そんなことないよ」
変なお見合いみたいになってしまって、二人はそれぞれ苦笑した。
アナスタシアを呼び出したのは、もちろんアクロポリス最後のパーティに出席してもらうためであったが、それだけではない。もう一つは言うまでもなく、彼女の出自について、ついに話してみようと思ったのだが……
但馬は真顔に戻ると、奥の部屋へと彼女を誘った。
タイユバンは相席の大テーブルとカウンター席の他に、奥座敷に何脚かのテーブルがあり、一般客はそこを利用するが、但馬のようなVIPに貸し出している個室と、二階に宴会場があった。
今日はその宴会場を借りるつもりなのだが、開始までまだ時間があったから、何の用意もされていない宴会場は閑散として静まり返っていた。
但馬はその会場の隅っこに椅子を取り出して来て座ると、対面にアナスタシアを座らせた。そして、一応、誰にも聞かれてないことを確認するために、レーダーマップを起動してから、いよいよ今までずっと言いづらくて隠し通してきた、彼女の出自について話し始めるのだった。
「えーっと……まず何から話せばいいかな。アーニャちゃんは俺が少し特殊な能力を持ってることは知ってるよね」
「うん」
「その力を使うと、知らない人の名前や身長体重なんかが分かるんだけど」
「個人情報抜き放題だね」
「うん。それでアーニャちゃんのことを調べてみたことがあるんだけど」
「……抜かれちゃったの?」
「う、うん……でね? 君の名前をよく見たら、アナスタシアってファーストネームの他にシホワってファミリーネームがあったんだ。君はこの名前に心当たりは?」
アナスタシアは目を丸くしてブルブルと首を振った。自分に苗字があることなんて全く知らなかったらしい。ここまでの反応は想定内だった。問題はこれからだ……
「それで……ある日、ランさんにたまたま君の名前を聞かれた時に、アナスタシア・シホワだよって言ったらさ、彼女が言うには、その名前はティレニアのとある家系のものじゃないかって……だからもしかすると、君のご両親はティレニアにルーツがあるんじゃないかと思ってるんだけど」
「へえ~……」
アナスタシアは自分のことなのに、まるで他人事のように感心した素振りで、
「本当にそうだったんだ」
と言った。但馬はたっぷり、30秒位、次の言葉を失った。
「……え?」
「だって、水車小屋に居た頃の仲間から、アナスタシアって名前はティレニアによくある名前だよって言われてたし、小さいころお父さんが酔っ払った時に、俺はティレニアの偉い貴族様なんだぞ~って……冗談だと思ってたんだけど」
「……なのに、ファミリーネームは知らなかったの?」
「うん」
アナスタシアはあっけらかんと頷いた。但馬はガックリと項垂れた。どっと疲れが押し寄せて来た……おまけにアナスタシアが畳み掛けるように尋ねてきた。
「先生、ずっとそれを言いづらそうにしてたの?」
「……え?」
「なんか、ずっと前から時折、私の顔をじっと見てることがあって、何か用かな? って思って尋ねると、いつもなんでもないなんでもないって……何がそんなに言いづらいのかなって」
「……」
「どうして教えてくれなかったの?」
但馬は素直に白状した。
「……言ってしまったら、アーニャちゃんがティレニアに帰るって言い出すんじゃないかと思って。それが嫌だったんだ」
するとアナスタシアは苦笑しながら、
「いやだな、先生。そんな薄情なことしないよ。私はずっとリディアで育ったんだし、あっちに家があるんだし、リオンもいるし、ジュリアと一緒にお仕事もしてるし……そんなこと考えてたの?」
「うん」
「馬鹿だなあ、先生は」
「はい、馬鹿です……」
ぐうの音も出ないとはこのことだ……但馬は己の馬鹿さ加減に呆れながら、その後、ティレニアのことと五摂家について掻い摘んで説明した。
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「……それで、アナスタシアさんは?」
「ケラケラ笑ってから真顔になって、お父さんたちが逃げ出してきたんなら、きっとその五摂家ってのは悪い奴らだねって。そんなところに帰りたいとは思わないってさ」
アナスタシアとの会話後、暫くするとタイユバンの店員たちが忙しくし始め、但馬達は宴会場から追い出された。その後、一階の隅っこでジュースを飲みながらティレニア行きの話をしてる最中に、講和会議の調印式を終えた人たちが続々と集まってきて、ウルフが来て今後の打ち合わせをし始め、ガルバ伯爵が来て自分の作った保守党への支援を呼びかけ、ブレイズ将軍がふらりとやってきてアナスタシアに寄付金を置いていって、最後にブリジットとリリィが一緒にやってきたところでパーティが始まった。
みんな笑顔で楽しいパーティだったが、但馬は例によって例のごとく、酒を何杯か飲んだところで記憶がなくなり、気がつけばパーティも終わって日付も変わって深夜になっていた。出席者たちはみんなとっくに帰ってしまっており、タイユバンにはブリジットだけが残っていて、但馬が目を覚ましたら彼女の膝枕の上だった。帝国の皇帝がそんなことをしてるせいか、店員が恐縮しまくっていたが、馴染みの但馬が起きたことでホッとしたらしく、コップに水を入れて持ってきてくれた後、明日の仕込みがあるからと厨房に戻っていった。
二人きりになったあと但馬は、水を飲んでから、昼間にアナスタシアとあったことを彼女に話したのだった。
「まあ、そうだよなあ。ご両親が駆け落ちだってことは知ってたみたいだし、故郷があったとしても帰りたいとはなかなか思わないよね」
「先生は、アナスタシアさんがいなくなると思って、寂しかったんですね」
「う……ごめん。ブリジットに言うようなことじゃなかったかな」
するとブリジットは首を振って、
「そんなことありませんよ。そういうことも話してくれるようになったんだなって、寧ろ嬉しいくらいです。アナスタシアさんは先生にとって、リディアに来た時以来の家族ですから、特別なことくらい分かってますし……それに、私の親友でもありますからね」
「うん」
「でも、先生がそんなセンチメンタルなことを考えてたなんて意外でしたね」
そう言ってブリジットはクスクスと笑った。但馬は顔を赤くしながら、
「うるさいな。でもまあ、確かにそれもあるのかも。俺は両親があの通りだったし、育ててくれたお祖父ちゃんお祖母ちゃんを次々と亡くしてったせいで、家族がいなくなるってのが凄く嫌なんだ。それに……」
いつまでも、瞼の裏にはくっきりとあの光景が映し出される。すし詰めの満員電車と、殺人的な夏の暑さが強烈だった、日本にはもう、どう足掻いても帰れないのだ。
「考えてもみれば、俺はホームってところがないんだよなあ……」
振り返る場所がどこにもないから、いつもどこか自信が持てずに迷ってしまうのかも知れない。
「私じゃ、先生のホームにはなれませんか?」
するとブリジットが珍しくドキッとするような、雰囲気のあるセリフを言った。勇ましい逸話が多いだけで、普通にしてればこの子は可愛いのだ。そんなことを言われてドギマギしない男は居ない。
「思えばリディアを出てからずっと一緒に居たのに、リディアに居た時以上に二人っきりにはなれませんでしたね」
「そうだな……王宮に居ると、侍女が邪魔してくるもんな」
「そう考えると、今がチャンスなのかも……」
そう言いながらブリジットの顔が近づいてくる。彼女の膝に頭を乗せていた但馬は、彼女にガッシリと頭を抑えられて動けない。
「ブリジット、今日は珍しくなんかアグレッシブだね……」
「だって、今日で最後じゃないですか。先生は明日から、またお仕事でティレニアに行っちゃうのでしょう? 二人っきりになれるのは、今度はいつになるかわからないのに……」
しかも、アナスタシアと二人でだ。もしかすると、そのことが彼女の中で何か引っ掛かりがあったのかも知れない。
但馬はちょっと甘え過ぎたかなと思いながら、腕を伸ばして彼女の髪の毛を優しく撫でた。すると、ブリジットが目を閉じてゆっくりと顔を近づけてくる。
しかし、その彼女の吐息が顔にかかるくらいに近づいたところで、急に但馬が体を起こしたせいで、
「キャッ! いったっ! 痛いっ!」
ガツンッと歯と歯がぶつかって、ブリジットは涙目になりながら上体を起こし抗議してきた。
「痛いなあ……どうしたんですか? 先生」
「いや、誰かに見られてるような気がして」
但馬はそう言ってブリジットの膝枕から起き上がると、ドタドタと足音を立てて宴会場の出入り口へと向かっていった。
会場の入口から外の廊下をキョロキョロと見ると、階下へと続く階段の手前で、黒いツインテールがひらひらと曲がっていくのが見えた。
「誰か、居ましたか?」
背後からブリジットのふてくされたような声が聞こえてくる。
「……いや、気のせいだったみたいだ」
但馬はそう言って彼女のところに戻ってくると、今度はその彼女をなだめるために、あの手この手で気を引くのに苦心することになったのであった。
アクロポリス最後の夜は、そうして更けていった。
明日1日お休みします。