講和会議③
古典経済学では、経済とは突き詰めて考えれば物々交換であり、貨幣はその交換を容易にするための手段に過ぎず、雇用や生産、消費などの経済行動に影響を与えることはないと考えられていた。これを貨幣ベール観と呼んだが、ところで本当に貨幣には経済に影響を与える力が無いのだろうか。
我々は給料の増減に敏感に反応する。給料が倍になれば誰だって喜ぶだろうし、逆に1円でも下がったら非常にがっかりする。これは数字の多寡が問題であり、実際の購買力は関係ない。
例えば、デフレで物の価値が半分に減ったとしよう。巷の物価が半分になったのだから、仮に給料が半分になったとしても、今までと同じように買い物が出来るから困らないはずなのだが……それでも我々は会社から給料を下げると言われると、非常に嫌な気分になるだろう。
逆にインフレ時はどうだろうか。これも同じで、インフレで物価が2倍になっている時、会社が『みんな大変でしょう。給料を1.5倍にしてあげるね』と言ったらみんな喜ぶ。実際、インフレ率に対して給料はそこまで上がってないのだから、生活は苦しいままなのだが、不思議とそんなの気にはならない。リッチな気分になれるのだ。
さて、この実際の購買力に即した賃金のことを実質賃金と呼び、数字だけの増減を名目賃金と呼ぶ。実質賃金が上がれば、買えるものが増えるわけだから、仮に名目賃金が下がっても我々は幸せのはずなのだが……
実は労働者は名目賃金にしか興味が無い。社会全体のことなんて普通考えないし、自分の給与明細しか見ていないのだ。
少し想像して欲しい。名目賃金が下がれば何が起きるだろうか。例えば労働者が家に帰って奥さんに、来月から給料が減ると言ったら、きっと専業主婦だった奥さんはパートを探し始めるのではないだろうか。考えてもみれば物価が下がってることなんて、日常生活レベルではほとんど意識出来ないはずだ。そして労働人口が増えて、失業率が増えると言う悪循環が訪れる。
経済学者が貨幣は実体経済を覆うベールのようなものだと言ったところで、やはり我々は給料の増減で一喜一憂してしまうのだ。
だから不況を脱するには、この名目賃金を上げる努力をした方がいいわけだ。それに名目賃金が上がれば、物価が上昇し、インフレを起こすことに繋がるので、巡り巡って企業の投資も増えるのだ。
例えば、企業は投資をして物を生産するわけだが、この投資というものが、実際、どのような時に行われているかを考えてみよう。生産には時間がかかるから、出来上がった時の商品の価格が、もし生産をせずに銀行にお金をそのまま預けていた場合の利子よりも高くなる時に、企業は投資をすると考えられるだろう。それにはインフレ時のほうが有利なわけだ。
ところが不景気な時、物価が下がり始めてるのに、銀行の利子率が高止まりしていたらどういうことが起こるだろうか。
ケインズは不況期に企業が投資をしないのは、この銀行の利子率のせいだと考えた。
まとめると、不況から脱するためには、まず企業が投資をどんどんして生産を増やし、人を雇用して所得を増やし、また消費者が消費しやすくしてやらねばならないわけだが、そんな時に銀行が10%とかの利子を取って、20%とか30%とかで貸し付けてたら、企業だって投資じゃなくて貯蓄しようと思うだろう。
だから、そうならないように金利を下げなければならないのだが……ところが恐慌後の銀行というのは大体どこも似たり寄ったりで、不良債権を抱えて経営が苦しいから、心情的には高金利を取りたい。しかし、それが出来ないから、貸し渋りや貸し剥がしをして、企業の投資を阻害するのだ。
それじゃいくら政府が公共事業をして労働者を雇用しても、肝心の民間企業の投資が戻ってこないので、たとえ公的資金を注入してでも、さっさと銀行を正常化させねばならない、というわけである。
*********************************
「だから、そんな金がどこにあるんだと言ってるんですよ。シルミウムは現在、国自体が大不況で、国民は明日食べるパンすら買えないんです」
居並ぶ各国の経済相の前で、ウルフは自信満々に言ってのけた。
「金が無いなら作ればいい。貨幣は何も金貨や銀貨にこだわる必要はあるまい」
「どういうことです?」
「現在、各国はそれぞれの国の発行する、貴金属を用いた硬貨を通貨としているが、これを金銀と交換が出来る紙幣に替えるのだ」
会場はどよめいた。多分、彼らには紙幣というものがどんなものなのか、馴染みがまったく無かったからだろう。何しろ、但馬が現れるまで、この世界にはケツを拭く紙すら存在しなかった。
ウルフはどよめきが収まるのを待ってから、
「ここに集まる者たちなら分かるだろう。あなた達は普段の決済に金貨を使うことは殆ど無いだろう。大抵のものが手形で決済し、硬貨をジャラジャラと持ち歩いているものは少ないはずだ。どうしてそうするのか。やはり、硬貨は重いし嵩張るから、大量に持ち運びたくないからだろう。一般庶民も同じだ、もしも紙の貨幣があれば、金貨や銀貨ではなくてそっちを使うようになる」
「いや、しかし……いくらなんでも、そんな紙切れが金貨や銀貨と同じ価値を持ってるなんて、無理があるんじゃないですか」
「そんなことはないだろう。それこそ、みんな小切手を日常的に使っているのだ。これは何も紙切れそのものに価値をもたせるということではない。その紙幣が、同じ額面の金貨と交換が出来ると言う兌換紙幣なのだ」
そもそも、貨幣というものは貴金属にこだわらなくても、例えば小麦などでも問題ないはずだ。金貨1枚は小麦1キログラムと言った具合にだ。実際に、植民地時代のアメリカではタバコの兌換紙幣が使われていたことがあったそうだ。
人類が何故、貨幣に貴金属を使うようになったのかと言えば、それは価値が変動しにくく、勝手に作れず、代替が効かず、いくらでも貯蔵できるからだ。特に貴金属は腐ることがない。
しかし、貴金属は産出量に限界があったせいで、19世紀の産業革命で世界経済の規模がどんどん大きくなってくると、今度はその通貨発行量の低さがネックとなって、先進国であるほどデフレ不況に苦しめられていたらしい。紙幣はその点にも柔軟に対応できるので、結局いずれはこっちにシフトしていかねばならないだろう。
ウルフが自信満々に言うと、それでも疑り深い者が言った。
「交換が出来るというなら、それと同じ額の金貨を所有していなければならないだろう。ならば、結局、発行できる紙幣の数量が決まっているではないか。根本的な解決にはならないのでは?」
「いいや、上限を超えて発行できるはずだ。何故なら、実際にそうして用意した金の全てが、交換に使われることはないからだ。ちゃんと交換が出来ることを国が保証してやれば、交換を求める者はやがていなくなる。誰だって重い金貨よりは、軽い紙幣の方を持ちたがるだろう?」
「それは詐欺じゃないのか」
「そうはならない。保有する金以上の紙幣を発行しても、仮に本当に交換を求められた時に、何が何でも交換に応じてやれれば、それは嘘にはならないはずだ。実際、そんなことは起きないだろうがな……それでも不安だと言うのなら、もしもの話をしよう。今回、講和条約で締結した賠償金のために、シルミウムが発行する額の紙幣の全てが、市場から実際に交換を求められたとしたら、その時は我が国が金を貸し出し、交換を保証することを約束しよう。我が国が金産出国であることを忘れないで欲しい」
議場がざわつき、賛成反対の意見が飛び交った。反対意見の声を聞いてみると、やはりアナトリア帝国は新興の国であるから、そんな景気のいいことを言っていても、いざとなったら金を用意出来ないのではないかということだった。
しかし、それに対しては意外なところから助け舟が入った。
「そいつが言ってるのは本当だぜ。アナトリアってのは金銀のことに関しては、トリエルよりも上を行っている。以前から、うちの金銀があっちに流出してると思ったら、こいつらがわざわざ鋳溶かして純度を上げていやがった。おまけに今度はそのやり方を、タダで教えてくれるそうだぜ。剛毅なこっちゃねえか。そんなやつが嘘を吐いてなんになる」
トリエルから招待され出席していたVPがそう言うと、懐疑的な意見はピタリと止まった。貴金属を扱う鉱山主だけあって、彼はなんやかんや大金持ちで有名だったのだろう。
そんな人が平気だと言うのだから、貧乏人が何を言っても虚しいだけだ。ウルフは彼の後を引き取って続けた。
「どちらにせよ、これをやらねば不況から脱せないことを念頭において欲しい。シルミウムは新紙幣を発行し、それを不良債権処理のために銀行に貸し付ける。賠償金も新紙幣で支払う」
「それでいいんですか? アスタクスが、その新紙幣で受け取った賠償金を、金に交換したいと言ってきたら、アナトリア帝国が支払うことになるんですよ?」
「恐らくそんなことは起こらないだろうが……まあ、それでも問題ない。外貨は資産だからな。新紙幣はシルミウムで流通することになる、つまり、それがあれば最低でもシルミウムから物と労働力を買うことが出来るわけだ。そしてアスタクスはその金を使って公共事業を行えばいい」
ウルフはそう言うと、クロノアに合図をしてOHPのスライドを交換した。今度も写真を元にしたスライドで、それがスクリーンに映し出されるやいなや、感嘆の息があちこちから漏れた。
それはリディア鉄道の写真で、西区のターミナル駅の乗降客の様子や、田園地帯を走る列車の姿を次々と見せながら、彼は続けて言った。
「これは我が国を走る鉄道と呼ばれるものだ。見ての通り、大型の機関車が客車を引っ張り、一度に数百人の人間や、物を運ぶことが出来る。最大時速は30キロほどだが、最近の研究でどんどん速度も上がっているらしい。すでにリディア近郊で営業を開始しており、最終的にはハリチまで結ぶつもりだ。その総延長は300キロになる。
さて、繰り返すが、景気を回復させるためにはまず雇用を生み出すのが先決だ。そのために、アスタクスには、これでイオニア~ビテュニア間を結ぶ大陸鉄道の建設を提案する。
現在のエトルリア南部は大ガラデア川を利用した運河交易が盛んであり、ビテュニア~フリジア間が経済の中心となっている。だが、今後、我が国との外洋交易が始まるとロンバルディアやイオニアのある西部も賑やかになってくるはずだ。だが、残念ながら今は交通が不便で、経済の中心地には遠すぎる。身軽な個人であっても片道5日~7日はかかる行程だが……もしもここに鉄道が通れば、1日で往復が可能となるはずだ」
一週間の道のりが、1日。それも往復である。あちこちから唸り声が上がる。ざわつきやどよめきと言うよりも、ショックで言葉を失っている感じである。ウルフは続けた。
「既に我が国で証明済みだが、鉄道の駅が出来るとその周辺は急速に発展し街が出来る。きっとアスタクス西南部の発展に好い影響を与えることだろう。ゆくゆくはこれをアクロポリスまで延伸すれば、鉄道路線周辺はますます経済が活発になるだろう」
恐らくリディアで実際に鉄道を見たことがあるのだろう。比較的若い議員の一人がウズウズしながら質問をしたそうに手を上げたが、ウルフはそれを制し、質疑応答は後で行うと言ってから続けた。
「そして我が国は、フラクタル開発を行い、リディア~コルフ間の長距離電話網を整備しようと考えている。電話というのはこのように……」
そう言ってから彼がマイクを持ってしゃべりだすと、突然、議場の後ろの方から声が聞こえてきて、何も知らなかった出席者達は度肝を抜かれた。
議場の後ろに技術者が設置していたスピーカーには真空管のアンプを搭載しており、彼の声は普通よりもずっと大きく響いた。
「このように、遠隔地に居る者同士に声を届ける機械だ。驚かれるかも知れないが、これは既にリディア国内に整備されているもので、ローデポリス~ハリチ間の300キロを繋いでいる。発明者は言わずと知れたあの男だが、この技術を使って彼は大臣時代の殆どを、首都には来ないで領地で仕事をしていた」
そう言うと彼は、壇上に手をついて前のめりになり、一拍の間を置いて出席者を見渡してから、力を込めて強調した。
「そして……リリィ様の平和宣言でも触れられた通り、今回の戦争の反省点を挙げると、まず我々は会話が足りなすぎたと言うことに尽きる。お互いの首都が、海を挟んで千キロ近くも離れていては、それも仕方なかっただろう。だが、もしあの時に電話があれば……もっと外交官同士が気楽に話が出来れば……ここまで拗れることはなかったのではないか。我々は、いずれはエトルリアと帝国が電話で結ばれるようになることを望んでいる。これはその布石と考えてもらいたい」
議場からは自然と拍手が沸き起こった。それは徐々に大きくなっていき、最終的には出席者によるスタンディングオベーションに変わった。みんな、なんだか大きなことが起こる前触れを感じていた。しかし、それが何か表現が出来なくて、ただ力いっぱい手を叩くしか無いと言った感じだった。
ウルフはその拍手が静まるのを辛抱強く待ってから、
「最後に質疑があれば応答したいが、何かあるだろうか」
「先程は軽く流してしまったが、そんな風にお金を好きなだけ作れてしまうなら、シルミウムだけでなくアスタクスでも取り入れて、戦後復興に利用するのは駄目なのか」
「アスタクスも新紙幣を発行したいなら、それ自体は止められないが、戦後復興の資金にするつもりなら慎重に対応するよう求める。紙幣は好きなだけ刷れるだけであって、それは本来なら金や銀と交換に応じなければならないのだから、結局のところ刷れば刷るほど負債を増やしているにすぎないのだ。そして負債は、いつか返済しなければならない」
経済学者に言わせると、貨幣数量説というのがあって、物の価値は市場に出回っている貨幣紙幣の流通量によって決まるそうである。
少し前に言及した通り、人間、お金が無ければそもそも物は買えないのだから、もしも中央銀行によって市場に供給されているお金の量が少なければ、それだけ物の値段は下がることになる。例えば、元々全世界に1万円しかお金が出まわっていないのであれば、世の中の誰も1万円以上の買い物は出来ないはずだ。
それとは逆に、十分にお金が供給されていても物の価値が下がる時がある。例えば、大不況で国中が借金で火の車になってる時は、みんな返済にばかりお金を使ってしまい、物を作っても売れなくなり、結果、物価が安くなるのだ。
このように、物価を維持するためには十分な貨幣の供給量と、それがちゃんと使われるよう、流動性が確保されていなければならないわけである。
「シルミウムに新紙幣の発行を勧めているのは、この流動性の確保のためだ。あの国はこの間のバブル崩壊の煽りで金融が麻痺している。みんなちょっとでもお金があれば、借金の返済に使われ、そのせいでお金が銀行に集中してしまって、不況の原因となっている。だから、まずは使えるお金をばら撒いてでも、お金がちゃんと流れるようにした方がいい。そして、元通りにお金が流通するようになったら、銀行に貸していたお金を引き上げて、通貨供給量を元通りにすればいいと言うわけだ。そのままだと、市場に流れる貨幣の量が大きすぎて、大インフレを起こしてしまうからな」
不況になったら公共事業と金融緩和政策を同時に行わなければいけないと言う理由がこれである。
また別の出席者の質問が続いた。
「紙幣を作るということは、シルミウムにリディア紙の製法と、印刷法を教えるということなのでしょうか」
「無論だ。紙の製法自体は既にS&H社の専売特許が切れており、国内では一般にも作られ始めている。製法は簡単で、必要な薬品を買えば誰にでも出来るだろう。印刷についても問題ない」
「鉄道もそうなのか?」
「これについては技術者の意向もあり重要な部分は秘匿とするが、そちらが研究開発することを妨げるつもりはない。聞くところによると、S&H社では次の機関を開発中であり、これが成功すれば場合によっては蒸気機関の方は技術公開されるかも知れない。S&H社は私企業なので、但馬波瑠に聞かねばこれ以上は分からない」
「電話も?」
「これも鉄道と同じような回答だ。しかし、こちらの方は、前提となる技術が複雑すぎて、その全てを公開するわけにはいかないと言った返答だった。S&H社から必要な機械を買って、電話会社の運営を自前でやりたいというなら、それは構わないそうだ」
その後、細かいものを含めて一通りの質疑応答が終わった。みんな顔を真っ赤にして熱に浮かされたような顔をして、不思議と充実感の混じった疲労に満たされていた。議論はまだ始まったばかりであったが、この若い帝国を引っ張る青年に着いて行けば、みんな問題無いだろうと思っていた。
そんな中、老獪な目つきをした男が、憮然とした素振りで呟いた。彼は長い年月を敵を作ることに費やして生きてきたのだろう、その眉間に刻まれた皺はとても深い影を作った。
「他国のこととはいえ……これだけの技術を公開して、アナトリア帝国は本当にいいのか? 技術差というアドバンテージがなかったら、今回の戦争だってどうなっていたか分からないだろう。これでシルミウムやアスタクスが力をつけたら、次は君らだってタダではすまないかも知れないぞ」
対して、ウルフは全くの躊躇を見せずに即答した。
「問題ない。その時には、帝国はその域を脱しているだろう。我が国には、鉄鋼がある。金山がある。石油がある。化学プラントがある。海の向こうにはブリタニア、レムリアと言う植民地を抱えており、手付かずで広大なガッリアの森がある。
技術の移転とは言っても、既にエトルリア南部諸侯とは取引を行っているものばかりだし、これから陳腐化するものも多い。それに、暮らしぶりが良くなれば、帝国への印象も良くなるだろう。我々との交流を通して、何と戦っていたのかをよく知り、よく考えて欲しい。どうするのが、より得であるのかを」
彼は最後にこう言って締めくくった。
「そして、これは個人的な意見だが、私があなた方の立場なら、あれとやりあうのだけはゴメンだ」
彼がそう言うと、会場のあちこちから笑い声が起こった。
但馬に後を任されたウルフの演説は、こうしてどうにか成功の内に終わった。