セレスティアの街で
勇者病の謎を追いかけてやってきたセレスティアの世界樹で、但馬は何がどうしてこうなったのか、ティレニア人と会話をしていた。彼が言うには、こんなテレビ電話など、昔は珍しいものではないらしく、そして当たり前のように持っていたカラー写真で但馬の面を確認したあと、挙句の果てにとんでもないセリフを宣ったのである。
「世界が、滅びる……だと?」
あまりに突拍子もないセリフに、但馬は顔をしかめて、胡散臭いものでも見るような目つきで相手を睨みつけた。するとモニターの向こうの相手は、こちらの様子を見て何かを察したのか、あちゃーっと言った感じの苦笑を浮かべつつ、
「あれ? あれれ? あれれれれ~……大御所様、もしかしますと、未だに記憶が戻っていらっしゃらないのでしょうか……?」
「記憶がなんだって……? それより質問に答えろ、世界が滅びるだとか、巫女がどうだとか、何の話なんだ」
但馬が重ねて質問すると彼は額に手を当てて、首を振った。落胆していると言うか、馬鹿にされてるというか、なんとなくそんな気がして、但馬はムッとしながら続けた。
「おまえが何者かは知らないが、初対面のやつにそんなあからさまな顔をされるいわれはないぞ。馬鹿にしてるのか」
「いやいやいやいや! とんでも、とんでもございません! 大御所様におかれましては、平にご容赦のほどを……」
「その大御所様ってのも一体何なんだ? なんで俺のことをそんな風に言うんだ。知ってることがあるなら全部吐け」
すると男は困ったなと言った表情で、ポリポリと後頭部をかきむしりながら、さも難しいと言わんばかりの歯切れの悪さで、
「我々も詳しくは知らないんですよ。そんな私がご説明差し上げて、もしも記憶が戻った時に齟齬が出てしまっては返って困りますし、自力で思い出してもらわねば……」
「思い出す……思い出すってのはいつの記憶だ? リディアに来るよりも前の話か?」
もしくは前世とも呼べる、前文明期の記憶だろうか。
但馬は何の因果か宇宙飛行士になって、火星からの帰還軌道上で事故に遭い、死ぬ……その時の記憶なら思い出したと言えば思い出したのだが、こんな初対面の相手にべらべら喋るつもりにはなれない。だからまともに返事する気はさらさらないのであるが……
しかし、彼が言う『記憶』とやらは、それとはまた別のもののようだった。
「いえ、もしもあなたの記憶が戻ってらしたら、こんな問答などせず、直接ティレニアまで来ていたと思いますよ……もしくは、どこかの世界樹から通信が来ると思ってたんですが……まさか、記憶も戻らずにそこまで辿り着いてしまうとは」
「つまり、俺は何も分かってないと?」
「ええ、まあ……そう、棘のある言い方をしないでくださいよ」
「そんな思わせぶりな態度を取られたら、誰だってイライラするだろう。俺に何を思い出せと言うんだ。これ以上俺の機嫌を損ないたくないのなら、観念して吐け」
「うーん……困ったなあ。いっそ、ティレニアまで来ていただければ、何か思い出すかも知れませんが」
ティレニアへ行く……元々は、そのつもりであった。仕事は確かに積み上がっているのだが、いい加減、気になることは後回しにせず、すっきりさせた方良いとウルフにも言われている。だからリディアに帰る前に、そのお言葉に甘えるつもりだった。
どちらにせよ、ここ、セレスティアでの調査が低調に終われば、残る手がかりはティレニアしかないのだ。コルフにはエリオスとランが居て、ティレニアに行きたいなら力を貸してくれるとも言っていた。最悪の場合はリーゼロッテと二人で侵入という手もあるのだが……
「大御所様に閉ざす扉など、我々にはございません。いつでも好きなときにいらしてください。歓迎いたしますよ」
「よく言うな。だったらなんで、今まで俺に接触を図らなかった。さっき、俺の顔を見るなり写真で確かめたな? 前から俺の存在に気づいていたはずだ」
「それはもちろん。あれだけ目立っていれば」
「国としても何度かアプローチをしたはずだ。だがおまえらは友好の使者であっても常に黙殺していた……何故だ?」
すると男は厄介なことになったと言った素振りを隠すこと無く、うんざりしたようにため息を吐きながら、
「それは、国として付き合うつもりは毛頭なかったからです。そんなことをして、あなたと接触してしまったら、返って混乱するだけでしょう?」
「どういうことだ?」
「……だって、あなた。我々が直接あなたの元に出向いて行って、あなたは神に選ばれた人類の救世主だ。勇者だなんだって言って、素直に信じられたと思いますか? キチガイだって思われるのが落ちですよ」
その言葉には重みがあった。
ズシッとボディーブローでも食らったような気分だった。
この地、セレスティアに立って出会った亜人たちが、但馬のことを見て大喜びでそう言ったこと。
自分と同じ記憶を持っていたリーゼロッテの父親が、勇者を名乗って世界中を駆け巡っていたこと。
リディアの浜辺で、一人ぽつんと目覚めた時のことを思い出せば、最初自分はここがゲームの中の世界だと……もしくは、よくある異世界転移モノの主人公にでもなったような気分だと思っていたこと。
これら全てが、冗談や喩え話ではなかったと言うことか……?
この、目の前の男の、思わせぶりな態度を考えれば、そういうことだったと言うのだろうか?
「お~い、ガヴっち~。なんか面白いものでもあったの? このアーカイブ、もう飽きちゃったよ。取っ替えて~」
困惑した但馬が返事も返せず、黙りこくっていた時だった。相手の背後から声が近づいてきて、ひょっこりともう一人の別の人物が顔を覗かせた。
耳に何やらイヤフォンらしきものを突っ込んだ、なんとなく苦労知らずのお坊ちゃんみたいな、柔和な表情をした青年の顔が画面に大写しになる。
「なにこれ、なんのアーカイブ見てんの?」
「あ、おい! こら! やめろっ!」
但馬と話をしていた男が、大慌てでその青年を押しのけると、青年はモニターのこちら側に向けて、ぎょっとした表情を作り、
「え!? うそ!? なんで? 大御所様!?」
ブツッと音声が途切れて、男が青年をグイグイと押しやっている姿だけが映しだされていた。青年は興奮したように但馬を指さし、何かを口走っていたようだが、こちらには何も聞こえてこなかった。
やがて男は青年を追い出すことに成功すると、肩で息をしながら元の場所に戻ってきて、ブツッとまたマイクが入ったような音がしたと思ったら、
「……申し訳ありませんが大御所様、これ以上はちょっと……」
と言って、映像が一方的に途切れた。
多分、男が通信を遮断したのだろう……その後、但馬が先ほどのソフトを何度も起動しなおしても、ティレニアにもう一度繋がることはなかった。
さっきのは偶然繋がっただけなのか……いや、恐らくは、相手側がこちらの呼び出しを無視しているからだ。
「くそっ……!」
ダンッ! っと、但馬は端末の操作台に、忌々しげに拳を叩きつけると、そのまま倒れるようにゴロンと地面に横たわった。
「キャッ!」
っと、三十路が三十路らしからぬ可愛い声を出した。どうやら、彼女の方もあっけに取られて意識がモニターに集中していたらしい。大の字に寝転がる但馬を非難がましく睨みながら、スカートの裾を手で押さえている。
「あ、ごめん……そう言えば、ここは世界樹の中だったっけ。あまりの出来事に、ここがどこだとか、周囲の状況も何もかんもぶっ飛んでた」
「あれは一体、何だったのでしょうか?」
「彼らがいうことが確かなら、ティレニア人なんだろうけど……」
それにしても最後に出てきたあの青年……彼が耳につけていたのはイヤフォンではなかったか? まさか、携帯音楽プレーヤーでも持ってるとでも言うのだろうか?
他にもアーカイブがどうとか言っていた。それはコンピュータか何かのデータファイルのことと考えて差し支えないのだろうか。アーカイブとは元々は未来に残すデジタル記録のことのはずだったか。そういったものがあそこにはあるのだろうか。
ティレニアに来れば何か思い出すかも、とか言っていたが……
「どうします?」
「行くっきゃ無いだろうな……いくら気に食わなくても。ただ、真正面からいくべきか、こっそり忍びこむべきか。その前に、この遺跡のことも調べなきゃだし……ああああああっ!! なんか色々ありすぎて面倒くさくなってきた!」
「……社長、お疲れなんですよ。一度、お休みになられたらいかがでしょうか。考えてもみれば結構な長旅でしたし、まだセレスティアに到着したばかりなのです」
そう言えばそうなのだ。なんだか、トリエルからずっとイベントが目白押しで、時間がすっ飛んでいったような錯覚を覚えていたが。
「それに、外でツヴァイたちが待ってますよ。そろそろ落ち着いた頃でしょうから、様子を見に戻りませんか?」
「……そうだな。そうしよっか」
但馬はそう言うと、背中で地面を叩いて体を起こそうとして……普通に失敗してリーゼロッテに引っ張り起こされた。色々と台無しだった。
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世界樹から外へ出ると、流石にもう泣いている亜人は一人も居なかった。彼らは中に入った但馬たちをじっとその場で待ち続けていたようで、但馬たちが姿をあらわすと、整列して一斉に頭を下げ、
「先程は恥ずかしいところをお見せしました。改めてお礼を言わせてください。世界樹を止めてくれて、ありがとうございました」
と、謝意を表した。入る前は但馬の態度に落胆していた子供たちの目も、今ではすっかり尊敬の眼差しに変わっており、戸惑う但馬の手を引っ張っては、今日は歓迎の宴をするから是非街の方まで来てくれと懇願した。
もちろん、断るつもりはないし、今日の調査も店じまいにしようとしていたところだった。彼らに案内されるままに犬ぞりに乗ると、来た時とは別方向に向かうソリに首を捻り、
「あれ? 街に戻るんじゃなかったの?」
「あっちは子供たちの寄宿舎なんですよ。街は森を抜けた平野部にあります」
聞けば、就学中の子供たちに、うっかり世界樹の秘密を知られないように、学校は寄宿制になっていて卒業するまであの村で隔離されているらしい。言われてみれば、子供たちが何人いるかは知らないが、茅葺きの民家は数が少なくて大人も含めて全員で暮らすには狭すぎた。
但馬たちが上陸した際にいきなり子供が飛びかかってきたのも、あの辺には子供しか居なかったからだろう。ツヴァイ達、少数の大人の亜人が教師兼寮母として子供たちの世話をしている他は、みんなかつての街で暮らしているそうである。
考えてもみれば食糧問題など、森の中だけで暮らすのは無理がある。そういった普段の生活をする街に、今は向かっているそうだった。
背の高いスギのトンネルを抜けると、どこまでも続く荒涼とした銀世界が広がっていた。風が吹く度に粉雪が舞って、まるで砂漠のような錯覚を覚えた。
犬ぞりを引く御者が嬉しそうにここが自慢の街だと言っている。広さはざっと見ただけでも10キロ四方はあるのではなかろうか。この広大な平野の殆どが、彼らの農場だそうで、あちこちにサイロと風車のようなものが建ってるのが見えた。
サイロがあるということは畜産をやってるらしく、彼らの着ているウールのセーターは自分たちで育てたヒツジから刈った毛で作ったものらしい。あとは養鶏もやっているそうで、こちらは風車小屋で雑穀の粉を挽いて飼料にしているそうだ。
トリエル辺境伯モーゼルからジャガイモやテンサイを作ってるとは聞いていたが……まさかそんな大規模な農業を行ってるとは思わず舌を巻いた。だが、そうしなければならなかったのだろう。年々子供が増え続けて、食い扶持が必要だったのだ。
更に詳しく話を聞いてみると、輪栽式農業も行っているらしい。どこからそんな知識をと思ったが、それもそのはず、勇者と但馬は殆ど同一人物なのだから、こうして自分と似たようなことをやってておかしくないわけだ。
そう言えば、リディアに辿り着いた初日、フレッド君のお爺さんである農場のオジサンが、普通にこれと同じことをやっていて面食らった記憶がある。確か、勇者に教えてもらったと言ってたはずだ。海を越え、大陸も越えた先で、それと似たような光景を見せられるとは、なんだか狐につままれたような話である。
見覚えのある光景はそれだけではない。
街に近づくに連れて、何やら濃い黒煙が上がっているのが見えてもしやと思えば、
「はい。西の方に見える山で石炭の採掘を行ってます」
鉄鉱石も少しは取れるらしく、それで野鍛冶をやっているそうである。灼熱した鉄をハンマーで叩いて、不純物を取り除いては何度も折り曲げる。積層鍛造法なら、これまた似たものを見た覚えがある。シモンの親父さんが刀を作っていたはずだ。つまり、これがオリジナルなわけだ……
製鉄や石炭採掘が何故発展したのか。それは家の中に入ってすぐに分かった。
セレスティアの家は基本的にどこもかしこも木造であったが、内部は非常に温かい。壁材が二重になってるなどの工夫がしているのもあったが、それ以前に暖房器具が強力なのだ。
街にたどり着くと広場に石炭で加熱する融雪機が置かれていたのでもしやと思ったが、家の暖房器具はどうみても石炭ストーブ……それも丸いフォルムのいわゆるダルマストーブであったのだ。
日本でも昭和の中頃まではあったと言われる石炭ストーブは、とにかくその発熱量が尋常ではない。素っ気ない鉄の塊であるストーブが、石炭の熱で真っ赤に灼熱し、学校の教室くらいの大きさなら、汗ばむほどの気温になるのだ。
彼らはそのストーブに網を乗せると、
「ジンギスカンまつりだー!」
と言って、但馬たちのために肉を焼き始めた。ジンギスカンと言う言葉が示す通り、それは羊の焼き肉料理のことであり、誰がそう命名したのかは言うまでもないだろう。何しろ、この世界では元寇なんて歴史を知ってる人物は一人しか考えられないし、ましてや北海道の料理なんて知ってるはずがない。
その料理に使う水であるが……彼らはこのダルマストーブや、融雪機で溶かした雪を生活用水に利用していた。風呂の水にしたり、さらに煮沸して飲料水にしたり、雪かきの手間を無駄にしない、生活の知恵である。
そんな具合にジンギスカンの用意をしながら話をしていると、村に残してきたエリックや、ヴィクトリアの乗組員たちが、セレスティアの住民に案内されて街までやってきた。
置き去りにされていたエリックは暇だったからか、既に村の子供たちと仲良くなっていたらしく、お祭りのために一緒にやってきた子供たちと和気あいあいとしていた。やはり楽器が出来ると女の子にモテるのか、彼がクラリオンを鳴らすたびに男の子たちがそわそわしていた。
本当に子供に好かれやすいやつだなと、指をくわえて見ていたら、その内の子供の一人がやって来て、
「勇者様。昼間はごめんなさい」
と言って頭を下げてきた。一瞬、なんのことかな? と思ったが、多分、いきなり襲撃したことを言ってるのだろう。
「気にしてないよ。お互いに怪我がなくて良かったね。だけど、今度からは自分たちで何かする前に、大人の人に報告しなさい。俺達がもし大昔の亜人狩りのような悪い人たちだったら、今頃君たちは大変なことになっていた」
但馬がそう言うと子供はシュンとうなだれて肩をすぼめてしまった。別に怒ってるわけじゃないのに、こんなに萎縮されてしまうとは……説教臭かったかなと思い、慌ててフォローをしようとしたら、
「ねえねえ、勇者様ってさあ、なんか先生っぽくね?」
とエリックがニヤニヤしながら言い出して、周りの子供たちも、
「本当だ。先生だ先生だ」
とはやし立てた。するとすかさずエリックが、
「あの人、リディアでも先生って呼ばれてるんだぜ。事あるごとに蘊蓄垂れて、やたら説教臭いから」
「なんだと!?」
「きゃ~! 先生が怒った~!」
エリックが大げさに驚いて逃げ出してみせると、子供たちも大はしゃぎで彼の後をついていった。多分、気を使ってくれたのだろう。彼のお陰でしょげかえっていた子供にも笑顔が戻っていた。
但馬はホッとしつつ、未だにソワソワしている子供に対し、
「別に怒ってないよ。間違ったことをしたと思ったら、ちゃんと謝れるなんて偉いね」
と言って頭をなでてやると、子供はにっこり笑って、
「勇者様、本当に先生みたいだね」
「そう?」
「うん。先生より先生みたい。一度、学校にも来てほしいな」
「そうだな、こっちにいる間に一度くらいは……」
実際、機会があったら見学してみたいところだった。学校教育については正直興味はなかったのだが、勇者が始めたというのが気になった。その勇者の影響で、トリエルでも義務教育が始まっていたようだったし、エトルリアの北と南とでかなり学問に対する意識が違う。
但馬はふと思い立ち、
「そう言えば、学校ではどんなことを習うの? 読み書き算盤って聞いたけど……」
「ソロバンって?」
「えーっと……計算のこと」
「うん。計算を習うよ。ちょっと待ってね、先生……」
子供はカバンに手を突っ込んで、中をゴソゴソと探っている。どうでもいいが、もう先生呼ばわりとは……そんなに説教臭いんだろうか?
「はい、これ」
但馬がそんな風に自分の印象に不安を覚えていると、子供がカバンの中から何やら取り出して差し出してきた。紐で綴じられた何やら紙の束である。
「ふ~ん、なんだろ?」
但馬はそれを何の気なしに手に取って……取ったところで、その不自然さに気がついた。
紙……? どうしてここに紙があるのか。
但馬が手にしたそれは、質の悪いわら半紙のようだったが、少なくとも羊皮紙とは違う、何か植物を溶かして作ったパルプ由来のものだった。
リディアにも、アスタクスにも、つい最近まで居たから知ってるが、アクロポリスにもまともな紙は存在しなかった。ひょっとして北には普通に出回っていたのか? と思ったが、それなら商人の国であるシルミウムが扱ってないわけがない。
まさか、こんなところに紙の技術が埋もれていたとは……
勇者が自分と同じ知識を持っていると考えれば、あってもおかしくはないのだが、なんともやりきれないものを感じた。
おまけに、その紙に書かれている内容も内容なのである。
「これって……もしかして、教科書? 版画か……いや、ガリ版刷りじゃねえか、これ……」
子供が差し出してきたそれは、明らかに手書きの謄写機を使ったガリ版印刷だった。数十ページからなるそれが紐で綴じてあり、中を開いて読んでみると……そこに書かれていたのは中学生レベルの方程式や、物体の運動についての公式である。
まさかと思って字面を追ってみると、どうやらそれは力積を使った運動量保存の法則の解説と、運動エネルギーと位置エネルギーの転換を用いたエネルギー保存の法則の解説のようである。つまり、子供たちの言う計算というのは、ニュートン物理学をやろうとしているのだ。
それは、但馬が時間をかけて解説本を編纂しようとしていたことであり……
まさか、こんな僻地と呼べる北方の集落で、勇者に先を越されていたとは思いも寄らず、但馬は頭を抱えた。
これがもし、もっと早く出回っていたら……内容もそうであるが、それを記述しているわら半紙やガリ版刷りの技術が、せめて北エトルリア大陸に伝わってさえいれば……世界はもっと早く近代化の道を歩み始めていたのではなかろうか。
そんな風に但馬が落胆している時だった。
「うおー! すっげえ、すげえ!」
さっき但馬から逃げるようにして家から出て行ったエリックが、興奮したような声を上げている。何がそんなに凄いんだろうか? とそっちに興味を向けると、
シュッシュッポッポ……シュッシュッポッポ……
と、どこかで聞いた覚えのある……非常に馴染み深い音が家の外まで近づいてくるようだった。但馬が嫌な予感を覚えながら慌てて外に出てみると、ツヴァイがニコニコしながら立っていて、
「ああ! 勇者様。今、お呼びにいこうと思ってたところです。是非、勇者様にお見せしたくて、冬場は道が悪くて大変なのですが、無理して持って参りました」
そこには車体にでっかいボイラーを乗せ、石炭の黒煙を上げながら走る、蒸気の力で動く自動車らしきものがあった。ハンドルの他に沢山のレバーがついていて、車の背後には大きな箱のような装置がくっついている。
その車両を操縦しているのが発明者らしく、彼を褒め称えるように、ツヴァイは誇らしげに続けた。
「これは彼が発明した蒸気の力で動く車です。移動をするだけでも馬より早いですが、何よりも凄いのはその力強さで、馬ならば十頭分にも匹敵する力でどんなものでも引っ張ります。私たちは春になったら、これに回転する鍬のような機械をつけて畑を耕すんです。普通だったら100人が一ヶ月をかけて耕す面積を、これなら1台で、1週間もあれば余裕で耕してしまえるんです。どうですか? 凄いでしょう」
これは、トラクターだ。
但馬は溜息を吐いた。ただただ、唖然だった。頭のなかでは様々な言葉が駆け巡っているのだが、出てくる語彙は限られていた。
「凄い」
但馬がボソッと呟くと、亜人達は景気満面、誇らしそうに鼻を鳴らした。
そうだった……元々、蒸気機関はアナスタシアの父親がセレスティアの記憶を頼りに作ったレプリカだったのだ。オリジナルはここにあったのだ。
きっと、勇者が死んで、大陸から孤立してからも、彼らはこれらの機械を改良し続けていたのだろう。世界樹の遺跡が稼働してしまったせいで、黙っていても扶養家族が増え続ける中、何とか食い扶持を稼ごうとして、彼らは努力を怠らなかったのだ。
それがこれらの発明の成果なのだ。
但馬に褒められたことがよほど嬉しかったのだろうか。亜人達はパタパタと耳をしっぽみたいにばたつかせて、時折ヒクヒクと鼻の穴を膨らませていた。いつか勇者が帰ってきてくれると信じて、ずっとこの日を待ちわびていたのだろうか。
それにしても、勇者は一体、何をしようとしていたんだろうか。これだけの教育をして、これだけの発明品を残して……
いや、リディアでやりたい放題やっている自分が言うのも何であるが、少なくとも自分は商売のためにやっていた。だが、勇者の方は無償というか慈愛というか啓発というか、どうも毛色が違う気がする。
奴隷解放と教育。
彼はそれをなんのために、どこまでやる気だったのだろうか……
最初は勇者病の謎を追いかけようとして、ここセレスティアまでやってきた。気がついたらそれは、世界樹が人間を作り出していたと言う、聖女リリィの不可解な行動の謎へと転化して……終いには、ティレニア人とテレビ電話で接触を果たしている。
どうしてこうなった?
それに、あの思わせぶりな態度……彼の言葉を信じるならば、但馬はまだ何かを思い出せていないらしい。それは一体なんなのだ? そう言えば、巫女を決めねば世界が滅びるだとかなんだとか、そんなことも言っていた。
巫女と言うのは、多分、アナスタシアの母親のことだ……じゃあ、今代の巫女ってのは……
分からないことばかりが増えていく。
聖女とは? 巫女とは? 勇者病とは一体……?
わからない。わからないが……取り敢えず、自分にやれることがあるとするなら、分かってることを一つ一つ片付けていくことだけだろう。
まずは世界樹の調査を、そしてかつて勇者が何をしようとしていたのかを、彼の部下であった亜人達と話して仮説をたててみよう。
そしたら次はティレニアだ。もうこうなったら行かないわけにはいかない。だから絶対いくつもりなのだが……
その時、アナスタシアを連れて行くべきか否か……いよいよ、彼女にその辺のことを話せねばならない。
それが但馬には少々重く感じられていた。
明日は一日お休みします。ではでは