エマージェンシー
辺境と言う言葉の響きのせいか、辺境伯と聞くと格下のようなイメージを持つ者がいるようだが、実のところ辺境伯というのはかなり偉い爵位である。辺境というのは国の外縁部、つまり外敵と接しているため、辺境伯はその外敵から国を守る言うなれば国防の要であり、通常よりも広大な領土と権限を有しているものなのだ。
トリエル辺境伯は、元はと言えばアクロポリスにエトルリア皇国が成立して以降、北エトルリア大陸を開拓するために皇王から任命された役職であり、北エトルリア大陸に広大な領地を与えられた上に、セレスティアの切り取りは自由とされていた最古の貴族の末裔だったらしい。
長い年月の果てに、シルミウム方伯に山だらけの土地に追いやられてしまったのだが、かつての名残から、今でも広大なセレスティアの地を領しているのは、建前上はトリエル辺境伯になっているそうだ。
つまり、勇者はセレスティアに国を作ったのではなく、辺境伯に領地を借りていた代官という立場になるらしい。
尤も、その頃の辺境伯モーゼルは、セレスティアに渡る能力が無かったから、彼の地を実効支配していたのは元開拓民の子孫たちであり、エスキモーみたいな生活を送っていた彼らをどうこうしようとも思わなかったから、領土を主張したことは一度も無かったようである。
そのセレスティアは、向こうから渡って来るのは簡単だが、こちらか行くのはとても難しい土地だった。
セレスティアとは、旧世界では南米大陸のチリとかアルゼンチンとかに相当する土地であるが、この世界では地軸が傾いた影響で北半球に存在している。
地球の自転の関係上、北半球では海流は時計回りに渦を巻くが、するとセレスティアの西の海(太平洋)は、北から南に向かって海流が流れており、反対側の東の海(大西洋)は、南から北へ向かって流れることになる。
結果、トリエルとセレスティアの海峡は不規則な渦潮が発生する海の難所となってしまっているのだが、セレスティアから渡ってくる分には、西岸から適当に沖に出れば、渦潮の発生する海峡を通らずに、海流に乗って北エトルリア大陸に到達出来る。
それじゃ北エトルリアから渡る場合は、逆の東の海へ漕ぎだして海流に乗れば良さそうだが……こちらはサンドイッチ諸島とフォークランド諸島という島嶼があるせいで、海流が乱れ、ぐるりと大回りしなければ渦潮に巻き込まれてしまうという問題があった。
そのため、大昔からセレスティア渡航は熟練した船乗りが、慎重に、その島々を経由していかなければならなかったのである。
正直、そんなことは海の民であっても至難の業だ。
そんなわけでトリエル人は、次第に海峡の向こう側への興味を失っていった。時折、向こうから人がやって来ることはあったが、こちらからリスクを負ってまでセレスティアへ渡ろうとするものは居なくなってしまったのである。
しかし長い年月が過ぎ、勇者が現れて定期航路が出来ると、状況が変わっていった。アスタクスから逃げきた亜人たちが続々と海を渡り、借金を返し終えて自由になったトリエルの亜人達もまた、外からやってきた奴隷達に同情して、こぞって海を渡っていった。
そうなると、亜人に極めて好意的なトリエルの人たちも、セレスティアへ渡って行った彼らのことが心配になるから、たまに様子を見に行ったり、物資を送ってやったり、色々と便宜を図ってやったりとなって、トリエル~セレスティア間の交流は、かつてないほど活発なものになっていったらしい。
ところが、そこで内戦が勃発してしまったのである。
理由は分からなかった。ある時、勇者を信奉する支配階級の間で殺し合いが始まると、気がつけば街を巻き込んで、人間vs亜人でやりあうようになっていた。
たまらず逃げ出してきた難民たちに話を聞けば、切っ掛けは勇者が暗殺されたことで、それ以上は何も分からない。辺境伯はまさかあの勇者が殺されたとは到底信じられず、初めは何かの間違いだと思ったのだが、次から次へと海を渡ってくる難民たちを見るにつけ、信じざるを得なくなった。
それから数年間はセレスティアからの難民が頻繁にやってきた。セレスティアでは戦争により街が荒廃し、人も少なくなってもはや生活をするのは困難だった。
やがてその難民が一段落したころ、辺境伯モーゼルは戦争が終わったのだと判断して、部下に様子を見に行かせることにした。大量の物資を運ぶ定期船はなくなってしまったが、クルーは残ってトリエルで漁師をしていたので、彼らに頼んで見に行ってもらったのだ。
今のセレスティアがどうなっているのか、気になっていたモーゼルは来る日も来る日も彼らが帰ってくるのを待ちわびた。そして彼らの持ち帰った結果は……セレスティア内戦は、最終的に亜人が勝利していたというものだった。彼の地にはもはや人間の姿はなく、亜人がじっと寄り添うようにして暮らしていたようなのだ。
亜人が勝ったという結果は、まったく想定外だったわけじゃない。亜人は元々身体能力に優れているため、普通に戦えば人間に負けることはないから、戦争の結果、そういうことはあり得るとモーゼルは考えていた。
だから場合によっては戦後処理で困った彼らを助けてやろうと考えていたのであるが……ところが、奇妙なことに、亜人達は人間を警戒して、戦争の勝敗以外、何があったかは教えてくれなかったらしい。
理由がわからないと庇いようがない。モーゼルは困った。
セレスティア内戦は公然の事実である。勇者が死んだことは、既に世界中に知られている。アスタクス地方では、ざまあみろと言って憚らない勇者嫌いの貴族もいるらしい。いい意味でも、悪い意味でも注目されていたわけである。
ところで、もしこの内戦が亜人の勝利に終わったと知れたら、世界はどんな反応をしただろうか。
勇者により奴隷解放が進んだとは言え、亜人は未だに差別の対象であった。隠れて彼らを酷使している者だっているだろうし、性風俗産業に従事する亜人は今でもやっぱり多かった。いくらモーゼルが気に食わないと言っても、世界は未だに亜人を見下していたわけである。
こう言う輩が亜人の勝利を知ったとしたら、何を言い出すか分からない。もしかしたら、中央議会でセレスティアまで亜人討伐にいく決議案が提出されるなんてこともあるかも知れない。最悪の場合、亜人は危険なものであると、既に自由になった亜人達までもが迫害されるかも知れないだろう。
こうなってはお手上げだ。
だからモーゼルは、苦肉の策として、それを黙殺することにした。ちゃんと何があったのか理由を聞いて、間を取り持ってやれればいいのだが……いくらこちらが味方だと言っても、何故か亜人達は教えてくれないのである。
内戦の結果がどうなったのか、気になる向きは多々いるだろう。しかし、セレスティアへ渡るのは難しいのだから、黙っていれば誰も近づこうとはしないのだ。そうして気のない素振りをしていたら、やがて風化するだろう。
彼のその目論見は当たって、セレスティア内戦は10年もしたら誰も話題にもしなくなった。多分きっと、戦争の結果、人が居なくなって、セレスティアは廃墟になっちゃったのだろうと、世間一般の人々は考えるようになっていった。
その後、辺境伯モーゼルと一部の部下達は、セレスティアとの交流を再開した。今のセレスティアはトリエルに依存している状態で、あちらで作った砂糖を買い上げて、他の様々な物資を援助しているらしい。
アクロポリスで出会ったVPもそうだったが、トリエルの人たちは本当に亜人のことが好きなのだ。
「……先生はあの話、どう考えてんの?」
トリエルで物資を補給したあと、ヴィクトリアで海峡を避けて太平洋側からセレスティアへ向かった但馬達は、三日目に陸を発見した。海流は逆であるが、やはり偏西風にさえ乗ってしまえばあっという間なのだ。
セレスティア西岸は山が多く、見たところ上陸しても人が住んでいる気配がなかった。
モーゼルもそう言っていたので、ヴィクトリアは陸地に沿って海峡を回りこみ、東側へと進んでくると、やがて広大な平野部に一面の森林が見えてきた。どうやら、その森林の中に人里があるらしく、狼煙のようにいくつもいくつも煙が上がっているのが見えた。
その煙を頼りに船は陸地へと十分に近づくと、接岸できそうな場所は無いので、今回も沖に錨を下ろして停泊し、少人数で上陸しようということになった。護衛であるエリックもそのメンバーに選ばれたのだが、気が乗らないのか船を降りる準備をしてる段階から、ブツブツとぼやいていた。
「なんだおまえ、どうしても行きたくないってんなら残ってくれてもいいけどよ」
「いや、行くよ。流石にこんなことで駄々こねてたら、護衛を首になっても文句言えないからな」
「じゃあ、何が気に食わないってんだい」
「うーん……」
但馬がそう尋ねるとエリックは眉をひそめて唸り声を上げ、やがて言いづらそうに言った。
「トリエルの人たちが彼らに同情的なのは分かったんだけどさ。そうは言っても、その亜人達が戦争に勝ったってことは、人間を沢山殺したってことだろう……? 本当に危なくないのかなって」
言われてみれば、確かにそうである。しかし気にしすぎと言えば気にしすぎでもある。これまでの話を聞いてきた限りでは、こちらの亜人達は人に危害を加える感じではない。戦争が起きたのは何か理由があるんだろうし、その理由さえ無理に聞き出そうとしなければ襲ってこないのではないだろうか。
「そっかなあ……」
但馬がそう言っても、エリックはまだ少し心配そうだった。彼は元々リディア軍で亜人と戦っていた経験があるから、警戒心が強いのだろう。そんな彼の気持ちを察してか、亜人傭兵を率いたリーゼロッテが、
「心配には及びませんよ。いざとなったら他ならぬ我が亜人傭兵団が助けますし、向こうにはメディアから出て行った元仲間もいるようですから。話がまったく通じないと言うことはないはずです」
彼女の背後では亜人傭兵達が、いつもの表情があるようでない無表情で、エリックのことを睨みつけていた。彼らの表情は本当に読みづらく、怒ってるように見えて、これで案外なんとも思って無かったりするのだが、今はどう思ってるだろうか。
そう言われてしまうと返す言葉が無かったのだろう。エリックは肩を竦めて、亜人達に向かって悪かったよと謝罪をした。
そうこうしている内に、ヴィクトリアの乗組員が上陸用舟艇を下ろし、陸へ上がる準備を終えたことを告げてきた。
但馬達は小舟に乗り込むと、海岸線へ向かって船を漕ぎだした。
リディアの海岸で目覚めた頃、まだこの世界がゲームとかファンタジーの世界だと思ってて、地球への帰り方を探そうとして、セレスティアを目指すのが当面の目標だと思っていた。時が過ぎて、ここが遥か未来の人類が滅亡したあとの世界だと気づいてからは、この世界に馴染むことを優先して、別に来たいとは思わなくなっていた。
しかし人間、どう転ぶかわからないものである。
リディアで会社を興してお金儲けをしていたら、トントン拍子に出世して、メディアの世界樹を発見し、国の重臣としてアクロポリスの世界樹に入ることも許されて、ついにはこうしてセレスティアへもやって来たわけである。
このセレスティアにも聖女リリィが遺したとされる世界樹があるらしいし、それを調査したらまた何か分かるかも知れない。特に、但馬が何者であるのか……勇者病とは何なのか。それがわかればいいのだが……
「社長……お気づきですか?」
船が海岸に近づくと、リーゼロッテがこちらを見ること無く、口だけ動かして警戒を促した。その口ぶりからすると、どうやらこれから上陸しようとする浜辺に何か居るようだ。
なんだこいつは。気を探ったとでも言うのだろうか。そんなどこぞのZ戦士じゃないんだから分かるわけねえだろ……と思いつつ、但馬が右のコメカミをポンと叩いてレーダーマップを表示すると、確かに海岸線から少し行った先の雑木林に、複数の光点が見えた。
まあ、ヴィクトリアのような大きな船で見知らぬ男たちが乗り付けてきたら、警戒するなと言う方が無理だろう。願わくば、戦闘にならなければいいのだが……そう思いつつ浜辺に上陸する。
さざなみが寄せては返し、サクサクと砂を踏む音と混じる。風は穏やかで、木々がざわめくはずがないのに、雑木林の茂みがガサガサと鳴った。
まるで、相手は気配を隠すつもりが無いようだ。しかしその割には、姿を一向に見せようとはしない。
もしかして、こちらが気づいてないとでも思ってるのだろうか?
ついさっきエリックが言っていた言葉が脳裏を過る。まさか、彼のその不安が的中したとか言うんじゃないだろうなと思いつつ、但馬達は警戒しながら船から荷物を下ろし、周囲を見渡した。
「先生、どうする?」
と、小走りに近寄ってきたエリックが耳打ちする。リーゼロッテと傭兵たちは、雑木林の気配に気づいてない素振りで荷物の整理をしている。相手はまだ姿を現さない。
どうするもこうするも、トリエル辺境伯とは、セレスティアの亜人たちに危害を加えないという約束をしている。だから、向こうから攻撃でもしてこないかぎり、こちらから奇襲などは出来ないだろう。
仕方ない……但馬は非戦闘員であるヴィクトリアのクルーに船へ戻るように指示すると、自分は代表として砂浜の中央付近まで歩み出た。リーゼロッテ達、亜人傭兵団がその周囲を一定間隔で取り囲む。
「えー……あー……セレスティアの皆さん! こんにちわ! 我々はリディアからやって来た調査船団です。セレスティアには世界樹の調査のためにやって来ました。トリエル辺境伯モーゼル様にも許可を得ています。あなた方に危害を加えるつもりはありませんので、良かったら出てきて、取り敢えず我々と話をしませんか?」
但馬は砂浜の中央に立つと、そんな風に雑木林の方へ大声で話しかけた。
するとまたガサガサと茂みが動いた。それでも、返事は返ってこない。
但馬はもしかして野生動物と勘違いしているのではないかと思ったが……開きっぱなしのレーダーマップで光点を見ると、それは一箇所に集まって何かを相談しているようにも見えるので、おそらく、そこにいるのはセレスティアの住民に間違いないだろう。
やはり、あの巨大な船が不必要に警戒心を煽ってしまったのだろうか。中々返ってこない返事に、但馬は長期戦も覚悟しなければならないかなと考えた時だった……
ヒュッ……!
っと、風切り音が聞こえたような気がした瞬間。但馬はズシンと体が重くなるのを感じた。
目の血管が収縮して視界が白黒に変貌し、脳みそに締め付けられるような痛みが走る。
そして、視界の片隅には赤いEMERGENCYの文字列が点滅し始め、レーダマップが消え、代わりに雑木林の方に幾つものHPバーのようなゲージが浮かび上がった。
(エマージェンシーモードが発動した!? どういうことだ……?)
ギョッとしながらスローモーションで流れる白黒の景色をよくよく見ると……
今まさに、但馬に向かって短い矢が、接近している最中だった。