総括……そして
「以前、ブリジットには説明したことがあるんだが……魔法ってのは、ぶっちゃけると古代のテクノロジーなんだよ。はるか昔、人間はマナを発明し、それを世界中にばら撒いた。そしてそれを利用するために、頭を開いて脳みそに仕掛けを施した。
逆に言えばその仕掛けがない人間は魔法が使えない。魔法とは、そう言う無理矢理な力だったんだ。
ところが、今の人間は先天的にその仕掛けを持って生まれて来るらしい。そして、その中から力の強い個体、つまり魔法使いが生まれるわけだが……最初は手術で無理に植えつけたものだろう? 元々は人間に存在しない器官のはずだから、普通に考えれば代を重ねるごとに、そう言う性質は淘汰されていくはずなんだ。
その証拠に、貴族の家系でも聖遺物の伝承が出来なくなった家が存在する。ヒュライアなんて完全に使えないみたいだし、ゲーリック家も、庶子である先代ハンス皇帝以外は、誰も使えなくなったことがある。
だから、言ってしまえば、実は遺伝的にブリジットは間違った人間で、ウルフは逆に人間として正しいあり方なんだわ。本人はありがた迷惑だとしてもな」
ウルフは迷惑そうに口を尖らせた。別に怒らせたいわけではないので、黙って話を続ける。
「それはともかくとして、今言った通り、このマナを操作できる性質ってのは、本来ならば遺伝しないはずなんだ。元々が、脳みそに接続したシリコンのチップなんだから当然だ。義足の人の子供が、義足を抱えて生まれてくるようなものだからな。
ところで、逆に義足の人の子供であっても、人間は五体満足で生まれてくる。親が足を欠損しているからって、子供もそうなるなんてことはない。何故なら人間ってのは一人一人がゲノムという人体の設計図を持って生まれてくるからだ。生物は両親の遺伝子を引き継いでその性質が決まるが、生物としての設計図はまた別に持っている。
生物は生殖によって胚細胞が分裂を始めた時から、そのゲノムに記述された設計図を元に体を作っていく。大雑把に、胴体には頭と二本の腕と二本の足が付いていて、頭には眼と鼻と口と耳がついてて、それぞれ何個でどの辺にありますよなんて情報がゲノムには書かれているわけだ。
そこに、脳みその中にチップが埋め込まれてますよ、なんて情報は存在しない。
だから、魔法使いが生まれるというのは、このあり得ない情報をどこからか持ってこないと説明がつかないんだよ。
突き詰めると魔法使いのゲノムには、脳内にシリコンチップ……それに似た回路が存在すると言う情報が含まれているはずだ。ところが、これは人間には不要なものだから、代を重ねる内に淘汰されていく。
さて、それじゃこの始まりはなんだったのだろうか。俺は亜人だったんじゃないかと思ってる」
「……亜人、ですか?」
ブリジットが困惑気味に問う。
「うん。大昔の人間は、過酷な環境に適応するために人体を改造した。脳みそにチップを埋め込み、魔法を自在に使えるようにした。寿命をのばすために肉体は樹木のように変質し、思考力は低下したが、1千年を越えて生きられるエルフになった。
だが、それでも生物として、死は免れない。いつか自分たちは滅んでしまう。それじゃ困るからってんで、変質しきった状態の自分の遺伝子を残すために、彼らは亜人を作ったわけだが……
エルフは体を改造しまくってはいたが、いくらなんでも60兆もある自分の細胞の全てに含まれている、遺伝子までは変えられなかったはずだ。だから最初のエルフってのは実は遺伝子的には人間と殆ど変わりがなくて、エルフ同士が普通に生殖をしたら、ただの人間か、せいぜい奇形が生まれるだけのはずだ。
でも、亜人と交配をすればエルフが生まれる。何故か。亜人はエルフが交配のためだけに創りだした生物、つまり、エルフにとって必要なゲノムは亜人が持ってたんじゃないか。60兆の細胞は変質出来なくても、一つの胚細胞から作り上げるなら、初めから無い遺伝情報を持たせることも可能だろう」
そもそも、亜人という存在自体が、人間と何かの動物を掛けあわせたような見た目をしてるのだから、ゲノムが人間と違うのは間違いない。遺伝子ごと弄くられていてもおかしくないはずだ。
「そんな風に、人としてちょっと違うゲノムを持った亜人は、ベースが人間だから、エルフだけではなく、普通の人間と交配しても子孫を残せた。結果……エルフの性質、魔法を使えるという能力を持った人間が生まれたんじゃないか」
但馬がそう結論付けると、その場に居た二人はお互いに顔を見合わせた後、たっぷり一分位は沈黙していた。理解が追いつかないというのもあったろうが、考えたくはない、忌避的な何かを感じているような、そんな顔をしていた。
「それじゃあ、亜人が居なければ魔法使いは生まれなかったというのか? まるでアベコベではないか。俺たちは亜人を見下して、奴隷にしていた過去さえあるのに」
「それくらい都合のいい存在なんだよ、亜人は。だから勇者は助けてやりたかったのかも知れないが……」
困惑している二人の顔を見ていると、ここから先の話をしていいのかちょっと不安になった。だが結局、但馬は思ったことを口にしていた。
「それより、気になるのは聖女リリィの方だ」
皇国の皇女、今のリリィではなく、1000年前に皇国を建国したとされる聖女の方である。
「伝承ではここの世界樹は聖女が作ったと言われてる。そしてこの施設では、魔法使いに与えるための武器を作っている……聖女が何者かは知らないが、そんな施設を作るくらいだから、魔法の仕組みが分からなかったとは思えない。すると、聖女は人間と亜人の混血だけが使える武器を作っていたことになる……亜人を利用して、亜人の製造装置たる世界樹を壊して回っていたわけだ。これは一体、どういうことなんだろうね」
「……私達が思っている聖女様とは、随分印象が異なりますね」
「世界が危機に瀕していたから仕方なかったのかも知れないが、どうにも胡散臭い裏がありそうで、まだ何か見落としがないか考えてるんだが……
そうそう、それからトリエルの話もある。彼の国は、亜人に依存している関係上、新たな亜人の供給元を探していた。それに応えたのはティレニアだったそうだ……このティレニアって国も、確か聖女が作ったとされてるんだよな」
そしてティレニアは、アナスタシアの母親が巫女という、何かおかしな存在だったと言う国でもある。これをアナスタシア本人にいずれは聞かせるつもりであるが……警戒を怠ってはいけないだろう。
「それから……勇者病だ」
極めつけはこれだ。但馬はこれまでの経緯を話した。エーリス村でウララの兄に起きたこと。シロッコとシリル殿下に調べてもらって、この国に勇者病が蔓延していたこと。それが但馬の登場を境にパッタリと沈静化したこと。
そして導き出される答えは……
「今更こんなことを言い出しても戸惑うかも知れないが……どうやら、俺は亜人では無かったらしい。それどころか、但馬波瑠本人ですら無いのかも知れない……もしかしたらウララの兄貴なのかも知れないが……だが、俺にウララの兄の記憶は全く無いんだ」
正直、初めてウララにその話を聞いた時は、自分の考えすぎではないかと思った。だがその後、考えれば考えるほど、その考えは逆に捨てられなくなっていった。
リオンが見つけたとされる亜人の万能血清。もし但馬が亜人であるならば、病気にかからないはずなのだ。そもそも、但馬は見た目からして人間そのものである。そして他にも、亜人なら生まれつき体が強靭であるが、但馬は贔屓目に見てもせいぜい普通である。虚弱と言ってもいいくらいだ。
そうなると但馬は、元々は別人だった誰かに、記憶だけ植え付けられた何者かと考えるしかないのではないか。
「……その、ウララさんと言う方のお兄さんの記憶は無いんですね?」
「ああ」
「だったら、先生は先生ですよ。それに、先生が誰でもあっても、あのリディアの海岸で出会った時から今日までの記憶は、先生のものですし私の大切な思い出です。それがある限り、先生は先生なんですよ」
「そうか……」
但馬はブリジットにそう言ってもらって、どこかホッとしている自分に、正直、情けない思いがしていた。人間とは一生自分探しを続ける旅人のようなものかも知れない。だが、それにしたって、但馬は得体が知れなさすぎるだろう。
確かに自分は、生きていたころもそれなりに特別な存在だったかも知れない。世界で初めての有人火星探査船のクルーに選ばれ、それを半ば成功させた。そのミッションからの帰還中、宇宙船が事故って次々と人が死んでいく中で、最後まで生き残ったのも但馬だった。その生い立ちも、父親は不明で母親は売春婦という、ドラマみたいに不幸なものだった。かなり特殊な人生を歩んできたと言っても過言じゃないだろう。
だが、だからといって、こんな世界に自分だけが生まれ変わるような理由はないのではないか。自分じゃなくても、同じ宇宙船の別のクルーでも大差なかったのではないか。なのに何故か自分が選ばれて、どうやら大昔から、何度も何度も蘇らされてるようである。意味が分からない。
「勇者病とやらは、北で発生し、徐々に南下してきたのか……」
但馬が難しい顔をしてそんなことを考えていると、同じように眉根にシワを寄せながらウルフがそう聞いてきた。
「ん……ああ。確認されたのはシルミウムが最初で、数もあっちのほうが多かったらしい。これは憶測でしか無いが、恐らく、勇者がセレスティアで死んだとき、世界樹が何かをしたんじゃないだろうか……勇者はずっと世界樹を調べていたようだし……」
「なるほど。ならば但馬よ、セレスティアへ行って来い」
「……え?」
その言葉が意外すぎて、但馬は思わず素で聞き返していた。
「行きたいのだろう、セレスティアに。行って、自分で確かめたいのだろう。だからこんなところで遺跡を調べていたり、人を使って調査させていたりしていたんだろう」
「いや、そうだけど。そんな暇がないのは、おまえも知ってるだろうが。もうすぐ講和会議が始まるんだし、リディア本国は早く帰ってきてくれと悲鳴を上げている。やらねばならない仕事が山積みになってる……」
「そんなことは分かっている。見くびるなよ、但馬波瑠。おまえが何をしたいかくらい、俺達にだって分かるんだ。
確かに、俺達ではおまえの代わりにはなれないかも知れない。だが、そもそも、おまえが俺たちの代わりなのだ。俺達が拙い能力しか持ち合わせていないがために、おまえに負担を強いているだけなのだ。おまえの心の自由を縛り付けてまで、国のために働けなどとは思っていないんだ。だから、頼りないかも知れないけれど、もっと俺達の事も頼ったらどうなんだ。
リディアからくる仕事は俺が引き受けよう、講和会議はブリジットと二人で協力して済ませる。おまえが用意してきた資料は俺も目を通しているし、半分くらいは理解もしているから、後は出たとこ勝負でなんとかなるだろう。いや、ならなくっても、おまえがそこまで背負い込む必要はないんだ。帝国は、おまえの国でもあるが、俺達の国でもあるんだからな。
だから、行って来い、但馬よ。大体、おまえは我慢するようなタイプじゃなかったろう。やりたいようにやらないで、何がおまえだ」
ウルフのセリフはズシッと但馬の心に入り込んできた。自分の驕り、彼らの友情、色んな感情が綯い交ぜとなった、重くて、とても暖かい感情だった。
「……いいの、か?」
「いいだろう、ブリジット」
「はい。もちろんです」
「但馬よ。おまえは自分が何者であるかが判然とせず、不安なのだろう。俺もその気持ちは分かるんだ。今日、ここで、自分には綺麗サッパリ魔法の素質が無いと分かるまで、俺はずっとそんな気持ちを抱えてきた。結果は散々だったが、ここに来なければ一生味わうことの出来ない気持ちだった。お前も行ってスッキリしてこい。もやもやしたものを抱えたまま生きているのは、つまらないではないか」
ウルフはまるで憑き物が落ちたかのように、穏やかな表情をしていた。
但馬はそんな彼の顔をジッと見つめながら、「そっか……」と一言だけ呟いた。本当は感謝をしたかったのかも知れない。照れくさかったのかも知れない。感動して泣きそうだったかも知れない。しかし、出てきた言葉は、素っ気ないものだった。
但馬は照れ隠しに続けた。
「……まるで部下を風俗に誘う上司みたいなセリフだな」
「下品で殴りつけたくなるが……まあ、おまえはそういう奴だ。後のことは任せろ」
「ありがとよ。それじゃあ……本当は、今日は遺跡を調べるつもりだったが、さっさと帰って、資料の仕上げをしておこう。お前たちが見て分かるようによ」
「そうしてくれ」
「今夜は徹夜だぞ」
そう言うと但馬はまるで風のように意気揚々と部屋から出て行った。
本当は、今日は一日この中で粘るつもりだった。粘ったところで何も分からなかったろう。その分からなかったと言うことを胸に抱いて、明日からまた頑張ろうと、そうしようと思っていたのだ。
しかし、その必要は無くなった。
そうなのだ。ウルフの言うとおりだ。こんなのは但馬のキャラじゃない。気になってるのなら調べに行けばいいではないか。
自分が何者か分からない、宙ぶらりんな気持ちのまま彼らと付き合っていく方が、ずっと嘘くさいではないか。
*******************************
……但馬が去った後、残された二人は、
「はぁ~……」
っと盛大な溜息を吐いた。悩み事を抱えているらしき但馬の手前、ああは言ったが、実際には不安で仕方なかったのだ。
ブリジットががっくりと項垂れながら言う。
「……兄さん、軽々しく引き受けていましたけど、先生がどれほどの仕事を抱えてらっしゃるのか、知ってるんですか?」
ウルフはいつものムスッとした顔で返す。心なしか、青ざめているようだ。
「……知らん。だが、あの場はああ言うしか仕方なかったろう。おまえだって賛成したではないか」
「そりゃしましたけどね、物理的に不可能な量ってことは確かですよ」
「……本当に、大丈夫だろうか?」
「義姉さんに手伝って貰うんですね。あとは……クロノアさんとシロッコさんは確保しておいた方が良いです。黙ってると先生が連れて行っちゃいますから、早めに言っておいた方がいいですよ」
「むぅ……仕方ない。但馬に頭を下げるとするか。おまえも他人事みたいに言ってるんじゃないぞ」
ウルフは肩を竦めてお手上げのポーズをしながら言った。そして、部屋をぐるりと見渡しながら、
「それにしても……本当に、遠くまで来たものだな。俺とおまえと、リディアに居たとき、こんな未来は想像ついただろうか。思えばあの頃はエトルリアのことを本国と呼んで仰いでいたんだよな。それがいつの間にか対等な立場となって、国は三国を有する帝国となって、本当なら一生入ることが出来なかったであろう世界樹の中にこうして入っている」
「私はメディアの方にも入ったことありますからね。これで二度目ですよ」
「おまえがあれを連れて来て、あまつさえあれの家来になると言い出した時は、怒りで血管が切れそうになったものだが……」
「ありましたねえ、そんなことも」
「おまえの決断は、正しかったんだな。今にして思えば、それが分かる」
そうシミジミと呟くウルフを見上げながら、ブリジットはニヤニヤとしながら言った。
「どうしたんですか、兄さん。今日はやけに感傷的ですね」
「まあな、本当に、本当に、ほんのちょっぴりだったんだ。俺にも魔法が使えるんじゃないかと、一縷の望みを賭けていたのだが……」
だが、それは見事に打ち砕かれた。そして、但馬の言うとおりならば、自分にはもう、一生魔法を使うことは出来ないということである。だが、悔いは無かった。ウルフは、どこか晴れ晴れとした気持ちで居た。
「……俺も魔法が使えないと分かったからには、無理に武官のように振る舞うつもりも無くなった。これからは政治を覚えて、カンディアをより良くし、おまえの補佐をしていくのも悪くないかも知れないな」
「そんなこと言って、本当は私じゃなくて先生の補佐をしたいんでしょう……? まあ、私はいつか先生の物になりますから、同じことかも知れませんけど」
ウルフは鼻を鳴らすと、苦笑交じりに、
「抜かせ」
そう言って、ブリジットの頭をコツンと叩くと、
「将来のことは分からんが、明日のことは分かっている。但馬の仕事をどうこう言う前に、まずは自分の仕事を片付けねばならんからな。俺は先に帰るぞ」
ウルフは部屋から出て行った。そのコツコツと床を踏み鳴らす音が、どこか楽しげに響いていた。
ブリジットはそれを見送ると、自分も後に続こうと足を踏み出した。外ではリリィが待っているはずなので、いつまでもグズグズはしていられないだろう。しかし、そうして一歩二歩と踏み出したところで、彼女はふと気になって背後を振り返った。
部屋の一番奥、但馬がモニターと呼んでいた壁には、但馬が操作したままの画面が、未だに玲瓏と映しだされていた。彼が鑑定魔法の結果として見えるという、データベースを表示したウィンドウが開きっぱなしなのである。
「う、う~ん……このままにしてていいのかな?」
このまま放置していると、何かまずいのではないかと思い、ブリジットはこわごわと装置に近づいていった。因みに、放置していたところで時間が来れば勝手にシャットダウンされるのであるが……そんなことを知らない彼女は、どうにかしようと端末に手を触れた。
但馬は、ウルフもアクセスレベルが高いから操作自体は出来ると言っていた。なら、自分にも出来るんじゃないかと思った彼女は、但馬がしていた操作を思い出しながら、端末に指を当てて動かしてみた。
すると、画面上にあるポインターがスーッと動き出し……
「お……おお~!」
指を動かすたびに、それに追随するように動くポインターを見て、彼女は自分が何か凄いことをやってるような気になって、鼻歌を歌いながら、但馬みたいに両手で操作してみようと、台座の上に手を載せて適当に動かした。
但馬はそこにキーボードがあると見立てて、慎重に操作していたのだが……そんなことを知らないブリジットに、まともな操作が出来るわけもなく、彼女がめちゃくちゃに叩いたキー操作で、画面はめちゃくちゃに動き出した。
「あ……あれ? あれあれっ!? ちょっとまって!」
待ってと言っても、機械が待ってくれるわけがない。
どうも、ブリジットは変なボタンを押してしまったらしく、彼女はもう端末に手を触れていなかったのだが、画面上はパッパカパッパカとウィンドウが閉じたり開いたり、忙しそうに動き出した。
本当は止めようと思っていたのに、逆に盛大に動き出してしまったのである。彼女は慌てて、
「あわわわわっ! 先生呼んでこなきゃ!」
と思ったが、さっきの今でいきなりこんな尻拭いをさせるのもどうかと思い直した。舌の根も乾かぬうちにこれでは、但馬が不安がって、気分よくセレスティアへ行けなくなるかも知れないではないか。
かと言って、目の前で起こっていることは自分の手には負えそうもない……となると、やれることは一つである。
「逃げよう」
彼女は顔面を引きつらせながら、抜き足差し足、後ろ歩きで端末から遠ざかり始めた。
と、その時だった。
めまぐるしく変わる画面の中央に、ドーンとでっかいウィンドウが開いた。それは画面の殆どを埋め尽くす大きさで、要するに全画面表示で起動したわけで、但馬ならきっと何か重要なアプリケーションが起動したと思ったことだろう。
それが分からないブリジットは、いよいよ壊してしまったのかと思い、大慌てで逃げ出そうとしたのであるが……
「……え?」
最後に見た画面の片隅に、何か気になるものを発見したような気がして、彼女は再度画面を振り返った。
開かれたウィンドウの右下の方には、何かの本を形どったような絵が浮かび上がっており、その周りをクルクルと何か丸いものが回るたびに、そのページが一枚ずつめくれていった。
それがまるで、泳ぐ魚のように見えて……
「まさか……」
ブリジットは駆け寄って、画面をマジマジと見つめた。
本の周りには、クルクルと泳ぎまわる丸っこい物体が映しだされていた。
パソコンというものを知らない彼女からすると、それはただただ奇妙な光景であり、本当だったらそれを魚だとは認識出来なかったかも知れない。
しかし、彼女は直前に但馬たちと『勇者病』の話をしていたばかりだった。
だから、それが何なのか、彼女は直感的に気づいてしまった。
丸っこい体、バナナの先っぽいみたいな鼻。言われなければ気づかないくらい小さなヒレ、高速でバタつく尾ひれはまるでエビのようだった。そして、つぶらと言えば聞こえは良いが、やけに濁っていて生気を感じさせない瞳は、見るものを不安にさせた。
総じて不気味でグロテスクであるその物体は、やがて本の周りを回ることにあきたかのように、クルクルと画面中を泳ぎはじめる。
その姿は、イルカと言ったらシーシェパードに襲撃されそうな、イルカに似た化物のような何かだった。
ゴクリ……つばを飲み込む。
「せ……先生に、知らせなきゃ!」
ブリジットは踵を返すと、大慌てで駆け出した。但馬はさっき出て行ったばかりである。追いかけたらすぐに追いつくかも知れない。
だが……
『ブリジット……』
それは不可能なことだった。
『ブリジット……』
脳に突き刺さるような激痛が走る。ブリジットはその場にへたり込んだ。
『ブリジット……』
声が聞こえる……いや、声が聞こえるような気がすると言ったほうが正解に近いだろう。その場に、彼女以外に音を発するものは何もなかった。仮にあったところで、彼女が上げる叫び声にかき消されて、何も聞こえないはずだろう。
それは脳みそに直接ガリガリと文字が刻みつけられるような痛みだった。
『もし、君がこれを聞いた時、彼が死んでいたなら。何としてでも彼をこの世に引き止めよ……』
ブリジットの両目から涙が溢れる。視界は完全に暗転した。何も見えない。何も聞こえない。真っ暗闇の中で、彼女は脳みそに刻まれる何かを、薄れゆく意識の片隅で感じていた。
明日一日お休みします。