変遷する世界
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恋は、他の感情と違って、未来の期待よりも
過ぎ去った過去の記憶の方が常に勝るのである
スタンダール
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あれだけ降り続いていた雪が嘘のようだった。
アナトリア帝国軍が、アクロポリスを包囲した歴史的なその日は、暮れから降り続いていた大雪から一転して、雲一つない眩いばかりの快晴となった。
見上げれば珍しいことに、太陽に丸い虹が架かっていた。
それが海の向こうからはるばるやって来た若い帝国の前途を祝しているのか、はたまた古より続く千年王国の終焉を、神が間近に覗き込んでいたのかはわからなかったが、少なくともアクロポリス市民にとっては、今まで他人事に過ぎなかった戦争を実感させる凶兆と映った。
昨日まで雪の白一色しか見当たらなかった城壁外には、今、色とりどりの軍服を纏った数万人もの人々が取り囲んでいた。その集団には帝国の軍隊のみならず、南部諸侯を中心としたエトルリア人の軍隊も含まれており、悪路に阻まれ帝国の代名詞とも呼べる大砲こそ見当たらなかったが、それでも全ての兵が当たり前のようにマスケット銃を装備していた。
それはアクロポリスを守る守備隊の誰ひとりとして持っていないものである。だが、その威力は折り紙つきで、数千もの命を一瞬にして奪ったと言う噂は、ここアクロポリスにも轟いていた。もし、この双方がぶつかり合ったらどうなるかは、推して知るべしであろう。
エトルリア大陸南西部、イオニアの独立宣言から始まった第二次フリジア戦役は、ガラデア会戦、ビテュニア包囲戦を経てアクロポリスまで飛び火した。
高慢なアスタクスがやられる様をいい気味だとほくそ笑み、何だかよく分からない好景気に浮かれ、突然のバブル崩壊に意気消沈していた市民たちは、はたと夢から覚めたら、現実の自分たちが戦争中であったことに気がついた。しかし、その時はもう後の祭りだったのである。
自分たちが如何に無防備であったかに気がついた皇国は認識を改めた。それまでは頑なにアナトリアを皇国の一部と言って、他国と認めなかったが、その武力はとっくに皇国を凌駕しており、アスタクスと手を組まれてしまったら、太刀打ち出来るものではなかったのだ。
議会は大慌てで方針転換すると、交渉の使者を帝国軍本陣へと送ってきた。
しかし、皇帝ブリジットはその使者をのらりくらりと交わすと、まともな返事は一切せずに包囲を続け、ただ「城門を開け。帝国軍を通せ」と迫った。
アクロポリスを守る守備隊は皇王の近衛兵と聖教会の僧兵を合わせても、せいぜい1千人居るか居ないかであった。対するアナトリア帝国軍は続々と兵士が到着し、最終的には3万人をゆうに超えた。
おまけに、街の眼下に広がるエーゲ海にも、世界最強との呼び声が高いアナトリア海軍が侵入しており、包囲は陸上のみならず海にまで及んだのである。これらの軍艦は時折思い出したかのように、搭載した大砲を撃って、近づく皇国の船舶を威圧した。
城壁の外からは帝国軍のマーチが一日中響いてきており、外の様子が窺い知れない一般市民たちは、不安の内にその音色を聴いていた。そして海では巨大な軍艦が大砲を撃っている。死の恐怖が迫ってきている中、一日中騒音を立てられたのでは、神経がすり減らないでいられるだろうか。
圧力に屈し、城門を開けるように迫る市民たち。議会ではこの事態を引き起こした犯人探しが始まり、特に北部の戦線で敗北したばかりのシルミウム系の議員が槍玉に挙げられた。
包囲は一週間以上続き、ほとほと困り果てた議会が絶望する中……しかし、助けは意外なところからやってきたのである。
エーリス村でシルミウムとの決戦を終えたアスタクス方伯は、慰問に訪れた皇女リリィの送迎のために、配下数千を従えてアクロポリスへと凱旋した。
彼は街を取り囲むアナトリア軍に臆すること無く割って入ると、行動を共にしていた但馬波瑠を引き連れて市内へと入った。
進退窮まっていた皇国にとって但馬の存在は蜘蛛の糸であり、それまでは目の上のたんこぶくらいにしか思われていなかった方伯は、こうして救世主となった。
そして彼は市民の大歓迎を受けつつ、宮殿へ颯爽と参上すると、皇王から直々に帝国との交渉役を任されるのであった……
……さて、今更言うまでもないが、これら一連のやり取りは但馬が描いた茶番である。
彼はエーリス村へ行く前から段取りを決めて、こっそりと動き回っていたわけである。
したがって、要請を受けた方伯が帝国本陣へとやって来るや否や、ブリジットはあっさりと兵を引くことを約束し、その場でアスタクスとの和睦を結んだ。
そして約束通り包囲を解くと、陸上部隊をビテュニアへと引き返させ、自分は少数の精鋭と共に、アナトリア皇帝としてアクロポリスへ入城したのである。
回りくどい話ではあるが、この時より、リディア女伯爵は、リディア女王となり、アナトリア皇帝は、エトルリア皇王と同格の扱いとなった。
但馬はついに、帝国を世界第三の国家として、古の大国に認めさせたのである。
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ところで話は変わるが、アクロポリスでのブリジットの人気は予想外にも高かった。
アクロポリスに入城した当初こそ、海の向こうからやってきた侵略者として警戒され、無言で迎え入れられた彼女であったが、日が経つに連れて街の人々の緊張がほぐれてくると、街を歩けばキャアキャアと声援が飛び、警備の兵士たちが目を血走らせて市民を押し止めねばならないくらいの、まるでアイドルみたいな扱いに変わっていった。
それもそのはず、実は彼女は皇帝となる以前から、遠いこのアクロポリスの地で結構な有名人であったらしいのだ。
彼女の父親であるハウル・ゲーリックは、若い時分はかなりの頻度でエトルリア大陸にやってきていたそうである。おそらくは勇者とこっそり会っていたのだろうが、その際には必ずと言っていいほどアクロポリスにも滞在しており、その剣豪ぶりで名を馳せた彼は、前皇王に請われて御前試合を行ったこともあったそうな。
ブリジットの強さだって冗談みたいなものだが、父親であるハウルはその更に上を行ったらしく、皇国の名だたる武芸者をバッタバッタと切り伏せる姿は、金髪と甘いマスクと異国からやって来たエキゾチックな雰囲気も相まって、アクロポリスの女性たちを虜にしたのだとか。
やがて時が流れハウルは死んでしまうわけだが……代わりに、娘のブリジットが皇女リリィと親しくなり、幼いながらも騎士として剣を振り回し冒険する様を、当のリリィが面白おかしく語って聞かせたことが噂となって、ブリジットはリボンの騎士として、皇国の女の子が一度は憧れるような存在になっていたらしい。
そうとは知らぬ彼女が暇つぶしに城の兵士に稽古をつけてやり、噂に違わぬ実力を見せつけると、その噂は爆発的に広がって、元々燻っていた彼女の人気が再燃した。
以来、彼女はどこへ行くにも人々の注目の的となり、友好の一環として皇王と共に宮殿のテラスに現れた時には、一体どこから湧いて出たのか、開いた口が塞がらない程に民衆が押し寄せた。
そりゃ、嫌われるよりは好かれたほうが何倍もマシではあったが、それにしたって戦争の始末をつけに来た敵国の親玉である。これじゃアベコベではないかと但馬は首を捻るばかりであった。だが、アクロポリスという街は、案外こんなものだったのである。古くからある皇国議会の存在がそうさせたのか、市民が思いのほか自由なのだ。
一方、同じくアクロポリス入りした兄のウルフの方は落ち着いたものであった。彼の名誉のために言っておくが、彼の周りが比較的平穏だったのは、彼が妻帯者であり、その妻が同行していたからだろう。
お陰で妹と違って身動きが取りやすいから、講和会議の話し合いは、専ら彼が担当することになった。
さて、その講和会議の開催は、ブリジットがアクロポリス入りして間もなく決定した。
元々、帝国がアクロポリスを包囲した時点では、シルミウムとの決着はまだハッキリとついておらず、アスタクスと和睦したあと両国で連合を組み、シルミウムを攻める話し合いをする算段であったのだが……
エーリス村では嫡男アウルムを、カンディアでは傀儡にしていたネイサン・ゲーリックを拘束されたためか、こちらがリアクションを取るよりも先に、シルミウム方伯があっさりと降伏の使者を送ってきたのである。
両国から攻められたら絶対に勝てない。だったら領土に侵入されてしまう前に、さっさと両手を挙げてしまおうと考えたのだろう。その点はアウルムの人となりを知っていたのでなんとなく理解できた。シルミウムの民は基本的には商人であり、合理的に考え、勝てない戦はしないのだ。
ブリジットは「今更謝っても遅い、懲らしめてやる」と息巻いていたが、無論、そんなことでいちいち戦争を吹っ掛けていては国が滅びてしまうだろう。
長びく戦争のせいで兵士の厭戦気分も無視できなくなっていたし、ここに来るまでにも戦費が嵩み、今だって兵站を維持するために無理をしている状況だった。但馬は、忸怩たる思いではあるが、ここは諦めろと説得した。
ただ、問題は賠償の仕方である。
当初、シア戦争に入る前に、ダルマチア子爵アウルムは但馬に賠償金・金貨2000万枚を支払う用意があると言っていた。だが、今となっては、それは出来ない相談だろう。
元々、シルミウムは帝国を味方につけることによって、その勝ち馬に乗ってオクシデントを制圧し、ついでにアスタクスから賠償金をふんだくろうと考えていたのだ。
その当てが外れた上に、賠償する相手が二カ国に膨らんだ今となっては、いくら商人の国だと言っても支払い能力が足りるわけがない。
しかし……それじゃ、大まけにまけてやるのか? と言えば、一度提示された額がある以上、こちらも簡単には引くことが出来ないだろう。
多少のおまけはしてやるが、最低でもこちらが納得の行くくらいの賠償を支払わせなければならない。そのため、回りくどいことではあるが、アナトリア・アスタクス連合軍がシルミウムに勝った……と言う名目で、アクロポリスで講和会議が開かれる運びとなったのだ。
その講和会議は、皇国の全ての国から代表を集めて行うことになった。これは要するに、戦争に参加していなかった皇国議会も、ロンバルディアも、トリエルも含めてである。居ないのはティレニアだけだ。
つまり国連会議のようなものを開催しようとしたわけだが、何故こうなったかと言えば、他ならぬ但馬が穏健な対応を主張したからだった。
但馬は現代人であるから、戦勝国が敗戦国を裁くようなことには、断固反対だったのである。
そんなことをしても、冷静な話し合いなど行えるはずもなく、わざわざ次の戦争の種を撒くようなものだと、彼は主張した。例えば、第一次大戦後、敗戦国であるドイツに対し、戦勝国側がドイツの支払い能力を越えるような制裁を課した結果、何が起きたかは言うまでもないだろう。
集団は追いつめられると瓦解するのではなく、より結束する。
そして経済的な困窮は、武器や麻薬の密売などの不正に向かいやすい。
シルミウムにはアナトリア軍から掠め取った最新の兵器があり、それを研究済みでもある。これが犯罪組織に流されたら目も当てられないだろう。コルフを占拠した海賊どもを操っていたのは、他ならぬ彼の国なのだから、そう言うルートがあるのはほぼ間違いないのだ。
無茶を吹っ掛けたら、こういうことが起こりうるわけである。
だからシルミウムが暴走しないように、冷静な話し合いをしなければならないから、但馬は自分たちだけで片を付けるのは、絶対にやめた方がいいと主張した。
彼のこの強硬な主張は、初めこそ出席者の非難を浴びたが、最終的には受入れられた。世間の評判はともかくとして、なんやかんや、この戦争の最大の功労者が誰であるか、その場に居る者はみんなわかっていたからだ。
それに考えてもみれば彼の言うとおり、話し合いに余人を交えることは、悪いことではないだろう。これからのシルミウムの態度も見張っていかなければならないのだ。ぶっちゃけ、シルミウムは国自体がヤクザっぽいし、このまま黙ってるとも思えない……だったら、世界中から釘を差してもらったほうがいい。
アナトリアもアスタクスも、トップが納得すれば話は早く、出席した高官達も最終的には賛成に回った。
そんなわけで、講和会議は戦争当事者のみならず、今回の件にはまったく無関係な、ロンバルディアとトリエルの有識者も招請される運びとなったのである。
そしてアウルムやネイサンのような戦犯は、彼らに裁かれることとなり、賠償金の支払い問題に関しても、オブザーバーとして出席することになる。
正直なところ、このような動きはこの世界では初めての出来事であり、普通なら戦争に勝った者が有利に進めたいはずの和平交渉を、無関係だった国の手に委ねるという考えは、多方面に少なからずインパクトを与えた。
会議は世界中に注目され、これは但馬の狙いでは無かったが、今回の戦争を契機に、世界が、国のありようが、変わろうとしていたのである。