王様の孤独
エーリス村の広場で、捕虜たちがキャンプファイヤーを囲んでいた。
彼らは日中、仲間の死体を掘りおこしたり、村の復興の仕事を終えると、日が暮れると共にここに集まってきて、食事をしたり、酒を呑んだり、捕虜だと言うのに割りと優雅な生活をしていた。
彼らを拘束するものは何も無く、監視員もかなりいい加減な配置だったが、脱走しようとするものは皆無だった。何しろ、逃げだそうにもここは雪山で、凍死せずに逃げられるものなら、どうぞお好きにしてくださいと言ったところだったのだ。
厳冬の山奥は猛烈な寒さで、宿舎は隙間風が入らないよう、寝る以外のことが出来ないくらい狭く窮屈に出来ていた。だから彼らは毎晩キャンプファイヤーを囲んで、思い思いにだべったり、酒を酌み交わしたりしてから、宿舎というよりもネグラと言った方がいいような部屋に帰る日々を送っていたのだ。
宿舎と言ってもただの簡易テントで、ついでに言えばエーリス隧道の中にあった。シルミウム軍が村人を追い出してしまったから、村の家々は利用できたのだが、全員が入るには全然数が足らなかったから、不公平が出るのを嫌ってそうしたのだ。
但馬が雪崩で埋めてしまった砦が使えればいいのだが、多分、それを掘り起こして使えるようになるまでに、春になってしまうだろう。そうしたら、いつまた山のぬかるんだ斜面から雪崩が起こるか分かったものじゃないから、誰もそんなところには帰りたがらなかった。
それにしても、よくもまあ、こんな場所に砦を築こうと思ったものである。
確かに、ダム湖を抑えれば、アクロポリスへのプレッシャーにはなるが、そのためだけにこんな限界集落みたいな土地に一万人もの人員を割くのは、明らかに過剰だったと言えるだろう。
なんでそんなことをしたのか? 当初は不自然には思わなかったが、今にして思えば、実はそれくらいシルミウムは余裕が無かったのだ。
戦下手の彼らはアスタクス軍を、よっぽど恐れていたのだろう。だから、しつこいくらい、但馬を引き入れようと躍起になり、莫大な賠償金を支払うことさえ確約した。結果として、それが仇となり、彼らは春を待たずしてアスタクス軍に惨敗することになってしまったのであるが……
ともあれ、こうしてイオニアの攻防から始まる第二次フリジア戦役と、エーリス村の領有をかけたシア戦争は幕を閉じた。
それにしても4年もの長きに渡る戦争の勝者は、一体どの国だったのだろうか。まずアナトリア帝国は間違いないが、アスタクスもそこに含まれるだろうか。最終的に、方伯は賠償金をそっくりそのままシルミウムに押し付けて、領土を増やし、名を上げたのだから。
「まったく、おかしな話じゃの」
アスタクス方伯ミダースは、自分の宿舎にした村長の家の窓から、キャンプファイヤーをする捕虜たちの姿を眺めていた。
本当はこんな山奥にいつまでもいる必要はないのだが、国に帰ろうと思ったところで、アクロポリスからリリィがやってきてしまい、帰るタイミングを逸してしまった格好だった。
かの教主は、皇国議会の決定を伝えにやってきただけではなく、この地で犠牲になった戦没者の慰霊と、強制労働に従事させられている捕虜たちの慰問を行うことになっていた。
それならばと、罪人アウルムをアクロポリスへと連行するつもりだったので、一緒に帰ろうとして方伯はこの地に留まっていたのである。
つまり、実を言えば彼を処刑しようとしていたのは、ただの茶番だったのだ。
元から、彼は今回の一連の事件の証人として、殺すわけにはいかなかったのだ。だが、方伯は但馬という男を実際に見て、妙な気を起こして、あんなことをやってみたわけである。
コンコン……っと、部屋のドアがノックされる。彼とともにエーリス村へ入っていた、ブレイズ将軍がやってきた。
「ミダース様、ここにおられましたか」
「自分の部屋におって何が悪い」
「リリィ様が慰問の余興として、捕虜たちと一緒に歌われるそうですよ。良かったら一緒に見に行きませんか」
「いかん。儂はここで見ておる。捕虜が萎縮するだけじゃ」
そう言って窓辺から一歩も動かない方伯を見て、ブレイズ将軍は肩を竦めてからその横に並んだ。
窓からは村の広場の様子がよく見えた。
捕虜たちは彼らが信仰している聖教の教主であるリリィに会えて、本当に嬉しそうだった。こんな雪山の奥まで連れてこられ、死にそうな目に遭ったと言うのに、もうそんなことは忘れてしまったかのようだ。
彼女の側にはリーゼロッテがピッタリとくっついていて、捕虜たちが感極まってリリィに握手を求めようと近づくたびに、まるで母猫のようにシャーッと威嚇して捕虜たちを震え上がらせていた。彼女がひと睨みするだけで、みんな借りてきた猫のように大人しくなる。彼女は今回の戦争で、最も名を上げた将軍の一人だったからだ。
他方、その主人である但馬は広場を遠巻きに眺めるような位置に腰を下ろし、広場の様子を漫然と見ていた。恐らく、方伯と同じく水を差さないようにと気を使ったのだろう。
そんな彼の元に、エリックとアナスタシアがやってきて、一緒に中央まで行こうと誘ったようだが、彼は頑なにその場から動くことを拒み、やがて諦めた二人が去っていった。
広場の中央で誰からとも無く歌声が上がると、リリィが輪唱のようにそれにくっついていき、するとそれを取り巻く大勢の人々も彼女に倣って、歌はやがて大合唱へとなっていった。
山の男が意気揚々と、恋する乙女に高嶺の花をプレゼントするという、陽気でただ優しい歌が、キャンプファイヤーの薪がパチパチと爆ぜる音が混じって、夜空へと溶けていく。
自分たちがつい先日まで戦争をしていたのだと、忘れてしまいそうなほど穏やかで眩しい光景だった。
2つの戦争が終わって世界情勢は大きく動いた。
アナトリア帝国は一連の戦闘で、エトルリア皇国に比肩する国家として揺るぎない地位を得て、皇帝ブリジットの名は皇都に轟いた。
アスタクスは北方オクシデントを含む、エトルリア大陸全域を守護する領主として、皇国に信任され、大陸中央に君臨する皇国最大の盾となった。
逆に、それまで議会で最大の派閥を組み、キャスティングボートを握っていたシルミウムは立場を失墜し、北エトルリア大陸に追いやられた。先ごろのバブルの崩壊と、アスタクスに対する借金と、アナトリアへの賠償金とで、これから十数年は苦しい時期を過ごさねばならないだろう。
この立役者となったのは、言うまでもなく帝国宰相但馬波瑠であったが……
実を言えば、戦後、彼の名前はまったくと言っていいほど、人々の会話に上ることはなかった。あってもせいぜい、アクロポリスの取引所を出禁にされた、金融界の極悪人としてくらいのものである。
まあ、それも致し方無いことだろう。実際、彼は何もしていないのだ。
戦争中に華々しい活躍をした功労者として、人々の賞賛を一身に浴びたのは、まず第一にエリザベス・シャーロットであった。その一騎当千の武勇は、全ての戦場で圧倒的な戦果をあげて、なお不敗である。勇者の娘という噂に違わぬ実力を見せつけ、人々の記憶に強烈な印象を植えつけた。
第二に皇帝ブリジットである。若く美しい乙女が、強大な帝国を率いる女帝として戦場に君臨し、あまつさえ先頭に立って突撃を敢行し武功を上げたという噂は、尾ひれはヒレをつけて世界中に衝撃を与えた。
また、彼女の兄であるウルフもカンディアでの夫人の奪還劇や、ガラデア会戦では総大将として活躍したことで人々の覚えが良く、アスタクス方伯も苦しい敗戦を耐えぬいて、最後には勝利を掴んだことで絶賛されていた。
だが、但馬は基本的に後方でうろちょろするだけで、一度として戦場に立つことは無く……従って何の戦果も得ることも無く終戦を迎えたのだから、何も知らない一般人の目には、彼は凡将にしか映らなかった。
なにしろ彼が戦場に立った時には、いつも勝利が約束されていたのであるから。
「ところで、ミダース様。どうでしたか? 宰相殿に実際にお会いになられて。私の言うとおり、中々見どころのある若者だったでしょう」
「ふんっ……お主も調停の席で騙された時は、ボロクソ言っておったじゃろうに……」
将軍はそっぽを向いて苦笑いしている。方伯はフンッと鼻息を飛ばすと、
「まあ、気に食わぬがな、皆が気にするだけのものはある。若い故に大胆でありながら緻密、そのくせ数多の戦場を知り尽くしているような老獪さをも感じさせる。発明家、商人、政治家としても力を発揮し、多彩である」
そんな凡将であるところの但馬は、しかし同じ将である者達には、最も警戒すべき相手と認識された。
アスタクス方伯は、今まで彼が戦った者の中でも屈指だと思っていたし、恐らく、アウルムに至ってはトラウマものであろう。
「じゃが、思わぬ甘さも露呈したの」
それは最後の最後、アウルムを脅かすために余興を演じた時のことである。方伯は腹芸をやれば、但馬が乗ってくると思っていた。ところが、彼は余裕を無くし、罪人であるアウルムを切ることに、物凄い抵抗感を見せた。何千人と言う人間を殺せと言う命令は下せるにもかかわらずである。
なんとなく、始めて間近で見た時にも違和感を感じていたのだ。彼は百戦錬磨の謀将のような働きをしておきながら、どことなく世間に擦れていない感覚があった。成り上がり者によくあるような、嘘っぽさを感じさせるのだ。
恐らく、本来は情にもろいタイプなのだろう。だから相手の顔を見てしまうと、もう殺せないのだ。どういう育ち方をすれば、ああなるのだろうか。もしも、あの時、ヴェリアの北に亜人兵を率いてきたのがリーゼロッテではなく但馬だったら、結果は変わっていたのではなかろうか。
方伯は捕虜たちを遠巻きにしながら黄昏れている但馬を見ながら、彼は陣中に居るべき将で、戦場には出るべきでないタイプだろうと考えた。
「たまにそう言う者は居る。切れ者で人には好かれるが、大概足元を掬われて出世は望めないものじゃが……幸か不幸か、あれは今、世界をも手にできる立場に居る。それがあやつの命取りにならねば良いがな」
「今後、彼が追いつめられるとしたら、やはりまた海を挟んだ隣国である我々と戦う時でしょうが……ミダース様は、いずれ雌雄を決するおつもりですかな」
すると方伯は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「真っ平御免じゃ、二度と戦いたくない」
「ははははは」
それを聞いてブレイズ将軍は愉快そうに笑った。
********************************
キャンプファイヤーを囲んで、リリィが楽しそうに笑っていた。
リディアにいた時にも思ったが、彼女は誰とでもすぐ仲良くなる。言うなればローマ教皇のようなお偉いさんのはずなのに、まるで偉ぶらず気さくで楽観的な様に、気がつけば人が集まってきて、彼女の周りはいつも笑顔に満たされていた。
アナスタシアと並ぶと、あれ? っと思うくらいに似ているのに、あまりそう感じさせないのはそのせいだろうか。リリィは太陽のように明るいが、アナスタシアは水面に映った月みたいな儚さのようなものがあった。
慰問会はいつの間にか合唱会になったかと思えば、気がつけばダンスパーティーみたいになっていた。お城の晩餐会みたいなものではなく、みんなが思い思いにおかしな踊りを踊っては、周りの者たちがゲラゲラ笑う、なんだか花見の宴会みたいな感じである。
お調子者の兵士がひょっとこみたいな顔をしてクネクネ踊ると、ヤンヤヤンヤと喝采が上がった。大抵は口汚い罵りだったが、どこかしら愛情を感じさせた。
但馬はそれを遠巻きに眺めていた。自分が入って行ったら興ざめだろう。彼らは昼間、自分たちの仲間の死体を掘り返しているのだ。それをやらせたのは但馬だ。
自分もリリィのようになれれば良いのだが、偉くなればなるほど、人を遠ざけるようなことしかしていない。
責任を背負い込んでるつもりはない。だが、自分が決断しなければ始まらないことが多すぎる。そして大抵の場合、自分の気持ちなどは余計だった。
村で一番大きな家に目をやると、家の窓から方伯がこちらを見ていた。彼はどんな風に考えているのだろうか。自分は為政者として間違っていないだろうか。本当は色んな事を聞きたかったが、自分の立場からそれは憚られた。
これが王様の孤独と言うやつなのだろうか。いや……少し感傷的に過ぎただろうか。
キャンプファイヤーが火花を散らし、ゆらゆら揺れた。立ち上る炎を見ていると、人間ってのは不思議と色んな事を考えてしまう。いつまでもこんな場所に居ても寒いだけだし、エリックに後を任せて自分も宿舎に戻ろうと、但馬は腰を上げた。
明日にはもう、この村ともお別れだ。アスタクス方伯が、皇女リリィと帝国宰相を警護して、アクロポリスへと凱旋する手はずとなっている。
但馬達がエーリス村で攻防を繰り広げている最中、帝国軍はビテュニアの包囲を解き、アクロポリスへと進軍した。北の海ではシルミウム・オクシデントの海峡を通り抜け、ヴィクトリアを旗艦とする帝国艦隊がエーゲ海に侵入した。
帝国軍はアクロポリスを取り囲み、国に帰るために港を使わせろと迫った。これにより議会議員を牽制し、シア戦争への皇国の介入を防いだわけである。
高みの見物を決め込んでいたアクロポリスの市民は、これには度肝を抜かれた。このところの好景気に浮かれていたが、今は戦争中だったのだ。しかし皇国に帝国と戦える規模の軍隊は無く、アスタクスが抜かれてしまったら、抵抗する力がないことまでをも思い出させられた。なのに、議会はずっと、その皇国の盾とも呼べるアスタクスの足を引っ張り続けて、今まで方伯を支援したことは無かったのだ。
折しも、但馬が引き起こした経済混乱により、議会議員とシルミウムの癒着が明るみに出始めた頃合いだった。きっと今頃、アクロポリスでは粛清の血の雨が降っていることだろう。
また、この動きと前後して、帝国大将マーセルの粘り強い説得がようやく実を結び、カンディアのクーデター勢力が白旗を上げたようである。そしてシルミウムの手先となっていたネイサン・ゲーリックが拘束された。
追い詰められた彼は、シルミウムとの関係をあっさりと白状し、現在、アクロポリスへ移送されてる最中である。後々、皇国の議会で証言台に立つことになるだろう。
結局、陰謀を企むものは、手のひらを返されると一瞬にして転落してしまうということなのだろう。
「お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」
但馬が広場を後にしようと踵を返すと、すると方伯の泊まっている家の方からウララがやってきた。あの家は元々ウララの家らしく、方伯に貸している間、彼女は別の家に泊まっていたが、家の掃除や方伯の身の回りの世話などを特別に許されて、昼間は彼女がせっせとハウスキーパーをさせられているらしい。
現代人的な考えだと、ふざけんなよこらと言った感じだが、ウララにしてみればとても光栄なことらしく、命じられてからは毎朝嬉しそうに自分の家に通っては、せっせと爺さんの世話を焼いていた。
今まで考えたことも無かったが、もしかしたら自分もそうやって誰かに命じれば、みんな名誉だなんだと言って、喜んでやってくれたのだろうか。一度、試してみようかなと思ったが、絶対に落ち着かないだろうからと、すぐに思いなおした。
「ああ。俺はそろそろ帰って寝る」
「みんなのところへ混ざればいいのに」
「俺が入って行ったら、みんな萎縮するよ」
「変なの。侯爵様と同じようなこと言うのね……あ、そっか。お兄ちゃんも同じようなものなんだっけ」
するとウララは但馬の胸のあたりから、じっと上目遣いで見上げてきた。お兄ちゃんは血の繋がらないお兄ちゃんだから、そんなことをしたら赤ずきんちゃんみたいに食べられちゃうぞ。
「不思議だなあ。こうやって間近で見ても、私のお兄ちゃんにしか見えないのに、別人だなんて」
「……そんなに似てるの?」
「う~ん……最後に別れたのが、もう10年近く前だから、記憶もちょっと曖昧かも知れない。でも、お父さんもひと目で勘違いしちゃうくらいだし、似てるのは間違いないと思うよ」
「ふーん……他人の空似かねえ」
「でも、本当にお兄ちゃんだとしたら、リリィ様とお友達なんて絶対にあり得ないから、やっぱり何かの間違いなのよ、きっと」
「そういう納得の仕方はお兄ちゃんも傷ついちゃうから、少しオブラートに包みなさいね」
ウララは自分の頭をコツンと叩くとてへぺろした。案外、陽気な妹らしい。
その姿になんだか和んでしまい、但馬はすぐに帰るつもりだったが、せっかくの機会だからと思い、今まで聞きそびれていたことを尋ねてみた。
「そういやあウララのお兄ちゃんってどんな人だったんだ?」
「……え?」
「俺に似てるんでしょ? どんな感じの人だったのかなと。美男子?」
「うーん……それをお兄ちゃんに言うのはちょっと恥ずかしいんだけど」
きっと散々貶されるんだろうと思っていたが、意外にもウララはもじもじしだすと、どうせ他人の空似なんだしと自分に言い訳しながら、
「とても格好良かったよ。私とは7つも歳が離れてて、ずっと大人だったんだけど。お陰で年の近い村の男の子たちは、子供っぽく見えたんだ。だから、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになるんだって思ってたのに、血がつながってる兄妹は結婚出来ないんだって知った時は泣いたなあ」
「お、おう……お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないけど、ちょっと恥ずかしくなってきたよ」
ウララは顔を赤くしながらクスクスと笑うと、
「でも……私には優しいお兄ちゃんだったけど、村の人に対しては怒りっぽくて、いつも喧嘩ばっかりしてたんだ」
「そりゃまたどうして。気が短いやつだったのかい?」
「う~ん……どうかな。お兄ちゃんがいつも怒ってたのは村の将来のことだったから。村はこの通り、山奥で閉鎖的で、外からやってくるお客さんをすごく邪険に扱ったりしてたの。だから、人が寄り付かなかったんだけど、村の特産品なんかの売買に街を行ったり来たりしてたお兄ちゃんは、それじゃいけないって村の人たちのことを怒ってた。交易は村長の権益で、お兄ちゃんはその後を継いだの。だから村の人達は外の人たちとの交易があるから生活が成り立ってるってことを、あまり意識してなかったのよね。結局、お兄ちゃんが居なくなってから、その有り難みが分かったんだけど」
街への販路を持っていた者が居なくなって、村長に命令された村人は、自分たちで物を売り買いせざるを得なくなった。それで自分たちが井の中の蛙だったことを知ったのだろう。子供が社会に出て始めて壁にぶつかるという、ありがちな話である。
それにしても、どうしてウララの兄は突然村から出て行ってしまったのだろうか。
その理由は意外なものだった。
「お兄ちゃんは、ハルって名前が示す通り、勇者様の名前にあやかって付けられたのよね。だから、小さい頃から自分の名前の由来である勇者様のことが好きだったみたい。私にもいろんな逸話を聞かせてくれたわ。でも、ある日それが行き過ぎたのか、自分のことを勇者の後継者だなんて言い出して……」
「……後継者?」
「そう。自分は勇者タジマハルの生まれ変わりだから、勇者の真似をしていたら、やがて彼と同じ力に目覚めて、この世界の英雄になれるんだって……その頃から奇行を繰り返すようになっちゃったの。丁度、10年くらい前かな」
「子供が正義の味方ごっこをする感じか」
「ううん。それとはまた別のような……最後なんか、追い詰められた感じだったし。どっちかって言うと病気ね。世間からは勇者病って呼ばれてた」
「勇者病……?」
妙に懐かしい響きである。確か、リディアで始めて目覚めた時、但馬の行為を咎めてブリジットが言っていた言葉だった。彼女は勇者を尊敬していたから、勇者の真似事をする者が嫌いだったそうで、あれで一気に興味がなくなったらしい。シモンがそう言う連中のことを勇者病と呼ぶんだと教えてくれたはずだ。
「私は山奥育ちだし、詳しいことはあんまり知らないんだけど、都会では一時期熱病みたいに流行ったらしいよ。我こそは勇者である! って言って、いろんな人に迷惑をかける男の子が、あちこちで自然発生したんだって。小さな子のごっこ遊びだったら良かったんだけど、意外としっかりした大人や、魔法の素養がある貴族の子息なんかにも居たみたいね」
「……そりゃ、穏やかじゃないな」
「うん。うちの村だとお兄ちゃんが村の交易の要だったから、お兄ちゃんがおかしくなってから、村の人達と何度も悶着を起こしてたの。お父さんがそれを止めようとして、大げんかになって、子供だと思ってたけど、その頃にはもうお兄ちゃんの方が強くなってたから……」
多分、父親のことをやっつけてしまって引っ込みがつかなくなったのだろう。それ以来、彼は村の納屋で寝泊まりしたり、街へ頻繁に行くようになった。
「村に帰ってきてる時は、私がこっそりご飯の支度してたんだ。私には相変わらず優しいお兄ちゃんだったけど、でもお父さんとのことがあったせいか、村の人達とはどんどんぎこちなくなっていっちゃって……」
「孤立しちゃったんだ」
「うん」
「そんな、たかだか勇者の真似事したくらいで、村八分にすることもないのになあ……実害は無かったんだろ」
「確かにそうなんだけど……」
ウララは少し考えこむようにしてから、言いづらそうに言った。
「当時は私も子供だったから、そんなに気にはならなかったんだけど、確かにあの頃のお兄ちゃんはおかしかったわ。何もない壁に向かってブツブツ喋ったり、空気に向かって怒鳴り散らしたり、突然、コメカミの辺りをグリグリしながら頭が割れるように痛いって騒ぎ出したり……かと思ったら、いきなりケロって治っちゃって、そんなことしたか? って……それが真に迫っていたから、みんな紛らわしいって怒ったのよね」
まるで邪気眼が発動して、何かに苦しんでる中二病そのものである。最初、勇者病と言われた時に中二病みたいだなあと思ったが……
しかし、但馬は正直なところ、それを聞いてあまり笑えなかった。
「……お兄ちゃんは、もしかして何かが見えてたのかい?」
「うん、どうだろう。普通に考えて、そんなことはあり得ないんだけど。私はまだ小さかったから、お兄ちゃんが本当に何かが見えてるのかなって思って、一度聞いたことがあるんだよね」
ウララは当時を懐かしむような顔をしてから、すぐに嫌なことを思い出したと言った感じに表情を暗くし、
「……そしたら魚が見えるって」
「……魚?」
「うん。なんだか、全力で殴りたくなるような、嫌な顔をした魚だって。そいつが色々教えてくれるんだって」
「魚が……教えてくれる?」
「なんかそんな感じのことを言ってた。何を教えてくれるのかは教えてくれなかったけど……お兄ちゃんが嘘を言うとは思ってなかったから、私はそれで納得したんだけど、村の人達はそうじゃなかったのね。おまえはおかしいって、そんなことでお父さんと喧嘩するおまえが悪いんだから謝れって……それで追いつめられちゃったのかなあ」
ある日、彼女の兄は村の人達とも殴り合いの喧嘩になり……そして、取り押さえようとする村人たちを全て叩きのめしてしまったそうだ。
彼女の兄は別段、喧嘩が強いわけではなかった。もちろん、乱暴者でもないし、大勢の大人に取り囲まれたら簡単にやられてしまう程度の実力の持ち主でしかないはずだった。
しかし、その時の彼は何かが乗り移ったかのような、華麗な脚さばきと剣撃とで、村の男達をバッタバッタとなぎ倒し……
そして最後にその場に立っていたのは、彼一人だったらしい。
それが決定的となって、彼は村の人達と口も聞かなくなった。村人たちもそんな彼のことを気味悪がって、彼を避けるようになり、その行動にも何も口出ししなくなった。終わりの日は着々と近づいていたのである。
「それからまた暫く経ってね、お兄ちゃんが深夜に納屋で騒ぎ出したの。お父さんはいつものことだから、もう放っておけって言ったんだけど、私はなんだか嫌な予感がしてさ、上手くは言えないんだけど……だからまだ外は真っ暗だったけど、お兄ちゃんの様子を見に行ったんだ。
納屋の扉の影からこっそりと中を覗いたら、お兄ちゃんは誰かと言い争ってる感じだった。でも、その相手を探してもどこにも見当たらないの。私は、お兄ちゃんが幽霊とでも口喧嘩してるんじゃないかって思って、夜だったのもあって、怖くなったのよね。それで、その場にしゃがみこんで、泣きそうになっていたら、ピタッとお兄ちゃんの声が止まって……」
彼はウララに覗かれていたことに気づいたらしい。うずくまってるウララを抱き上げ、なんでもないと言ったが、自分の声が母屋にまで届いてたことを知ると、意気消沈して悲しそうにウララのことを見つめた。
爪を噛みながら何かを考えている兄を見ていると、その爪が真っ黒でボコボコになっていて、ウララは兄は本当に病気なんだなと、この時始めて思ったそうだ。
そんな彼の足元には、街へ行く時に使っていたリュックが出されており、着替えや食料がつめ込まれていた。
ウララは兄に、どこかへいくのか? と尋ねたそうだ。
「そしたら、リディアに行くって」
「リディアに……?」
「うん。何しに行くのって聞いたら、探しものがあるんだって。だから今度は、何を探しに行くの? って聞いたら……」
彼は突然、目をくるくると回し、焦点が合わない人のようにフラフラと体を揺すると、頭をゴツンゴツンと叩きながら、険しい表情で言った。
「おまえを消す方法だって」
そう言う兄の顔が怖くって、ウララはその場から逃げ出した。そしてそれが、彼との最後の会話になった。
それから何年かして、兄妹の父である村長が、彼がリディアで死んだという噂を聞いてきたらしい。その頃、兄と同じようにリディアに旅立つ勇者病の患者が大勢居たらしく、そのうちの一人から彼の消息を聞いたのだそうだ。
彼と同類が居たということも気になった。彼がリディアへ何しに行ったのかもそうである。だが、但馬がその時一番気になっていたのは、
「……おまえを消す方法」
「うん……そう言うお兄ちゃんの顔が鬼気迫っていたから、私は知らないうちにお兄ちゃんのことを傷つけてたのかなって……お兄ちゃんが家から出て行ったからしばらくは、ずっと憂鬱だったんだよね。でも、いくら思い返してみても、お兄ちゃんが怒るようなことを、私はやってないんだよ」
そりゃあ、そうだろう。彼は恐らく、彼女に対してそう言ったわけではない。彼女には見えない、何かにそう言ってたのだ。
2000年代、マイクロソフトのオフィス系ソフトを起動すると、ヘルプ表示を行うサポートキャラクターが呼んでもないのに飛び出してきた。カイルと名付けられたそのイルカのキャラクターは、まだ解像度の低いデスクトップの大半を占拠して、ソフトの所有者を苛つかせた。
おまけに当時のヘルプは検索の精度も悪く、内容も薄かったものだから、いつしかカイルは憎悪の対象にまで昇華した。そしてある時、彼にブチ切れた誰かが、インターネットの掲示板に彼のスクリーンショットを投稿したのだ。
その検索窓にはこう書かれていた。「おまえを消す方法」と。
あの日……リディアで目覚めた但馬が真っ先に見た、イルカっぽいキャラクター、キュリオ。あれは、但馬にしか見えなかった。ブリジットも、エリオスも、シモンも、そんなものは見えてないと言っていたはずだ。
もしかしたら、ウララの兄は、あの謎のイルカを見ていたのではないか……
勇者病……
ただの比喩だと思って今まで気にも留めていなかったが、どうも根が深いものがあったらしい。但馬は自分のコメカミをグリグリと押すと、あのキャラクターをまた出す方法は無いかと、自分にだけ見える、あのゲームみたいなメニュー画面を見ながら考えた。
そんな方法は、どこにも無かった。
(第七章・了)