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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第七章
247/398

ゆめゆめ忘るるなかれ

 吐く息が凍り付きそうなほど白かった。


 あれから数日が経ち、あの日、犬ぞりで駆け抜けたイリア山中の雑木林に但馬は居た。眼下にはエーリス村の農場が広がっていて、村全体が一望でき、今そこで村の復興作業に従事させられているシルミウム軍の様子が手に取るように見えた。


 ウララの話によれば、かつて彼女の兄は冬になると、この場所まで日課のように通っては、雪崩が起きないように新雪をスキーを使って落としていたらしい。彼女が朝食を作り終えて家から出ると、彼はこの場所から手を振って、颯爽と斜面を滑り降りて来たのだそうだ。その姿が格好良くて、彼がいなくなってから自分も真似してみようとしたが、そんなに上手くいかなかったようだ。


 だから、もしも但馬が彼女の兄だとしたら、きっとスキーが上手いだろうと言われて、彼女に請われてスキーを履いてみたのだが、但馬は切り立った断崖みたいな傾斜の上に立っただけで腰が引けてしまい、数メートルも滑らない内にすっころんで雪まみれになった。ウララはその姿を見てクスクスと笑い、それで彼女の中の疑惑は綺麗サッパリ拭い去ってしまったようだった。


 シルミウム軍はその後アスタクス軍に降伏すると、武装解除して全員が捕虜となった。死者や脱走兵が大勢出ていて、最初と比べたら人数は少なくなっていたが、それでも7千人前後もの大量の捕虜を抱えた方伯は、かつてガラデア平原でアナトリア帝国が抱えたのと同じような、大勝による問題に直面したようだった。


 これから捕虜の解放交渉を行うわけだが、アスタクスとシルミウムは仲が悪く、難航が予想された。ついでに言えば彼らは傭兵が主体であるから、シルミウムの交渉団からも冷遇される可能性が高く、こんなものを抱え込んでいても、捕虜を食べさせるだけでもどれだけの金がかかるか分かったものじゃなかったのだ。


 捕虜の中には仮に解放されても、大敗したシルミウムが契約通り給金を支払ってくれるかも分からないので、あからさまに寝返りを示唆するものも居た。もちろん、そんなものを抱きかかえたところで、アスタクスにも何の得にもならないから、結局はアナトリア帝国が行ったように、方伯も捕虜に自分の身代金を稼ぐよう、肉体労働を課すことにしたようである。


 それに、どうせ長く続いた帝国との戦争で国が疲弊し、春になる前に復興を急がねばならない土地が山ほどあったのだ。働き手はいくらでも必要だった。そんなわけで、解放の見込みがなさそうな兵士から順に、捕虜たちはアスタクスの地へと散っていった。


 さて、そんな復興が必要な土地の一つに、新たにアスタクス領に組み入れられたエーリス村もあった。


 エーリス村は天領であり、それもアクロポリスの治水に多大な影響を与えるというのに、今回、シルミウム軍が進駐してきても、皇国は事態を見守ることしか出来なかった。シルミウムを撃退するための兵を派遣しようとも、議会に入り込んだ彼らの勢力によって阻まれ、兵を雇い入れることすら出来なかったのだ。


 皇国にはもう、かつてのように、地方を抑える能力がなくなっていたのである。


 そんな調子じゃいつまた今回のような騒ぎが起こるか分からない。だから、天領と言えば聞こえは良いが、ろくすっぽ管理も出来ない土地であるなら、もういっそアスタクスに預けてしまおうという流れになったそうだ。元々、大昔はそうだったのだし、今回の件でアクロポリスでのシルミウムの株は大分下がってしまったから。


 しかし、方伯は初めはそれを良しとせず、ちゃんと力をつけて皇国が管理しろと突っぱねた。


 そもそも、彼が挙兵した理由は、アナトリア帝国がカンディアを侵略したからに他なかった。なのに、自分は帝国を非難するのに、その自分がエーリス村を手に入れては、侵略戦争みたいじゃないか。


 大体、正直なところを言ってしまえば、ダムがある以外は僻地と言っていい山奥であり、こんなところを手に入れたところで何も嬉しくはない。必要のない土地を奪うのは、ただの侵略だとして方伯は領有を嫌がった。皇国議会が頭を下げても、部下がどんなに勧めてもだ。


 但馬は、ダンスホールの前で始めて彼と会話した時、自分のことを正義だと言った姿を思い出した。なるほど、きっとこれが彼の正義なのだろう。彼は一貫して正義の味方であり続けようとしたのだ。


 最終的には村人たちに直接助けてくださいと言われたことで、彼は村の復興を理由に受け入れたが、周りがどんなにああしろこうしろと言ったところで、きっと頑なに拒否し続けただろう。彼は誰かに助けを求められたら手を貸すが、そうでなくては何もしない。損得だけでは動かない人間なのだ。


 大国だからプライドが高いというのは確かにある。だが、それを差し引いてもめちゃくちゃいい人ではないか。アナスタシアが言っていた通りなのだ。


 思えば、ザビエルにロンバルディアの話を聞いた時に、ほんの少し考えを巡らせれば但馬だってそれに気づけたはずではないか。かつて勇者は奴隷解放の名の下にアスタクス地方を蹂躙した。人手不足になったアスタクスは凶作に陥り、隣国では死者が大量に出ていた。だから方伯は、困った農民たちに頼まれて、勇者を退治するために挙兵したのだろう。


「なんでこんなのと戦争になっちゃったんだろうねえ」


 但馬は誰ともなしに呟いた。


 もちろん、それはシルミウムの間者が暗躍していたからだが……やはり、大国の王という権力者を色眼鏡で見ていたからではなかろうか。


 人間、権力者というものには不必要に反発したくなるものだ。それは恐らく、権力者がその気になったら太刀打ち出来ないという気持ちが、焦りを生み出すからではないだろうか。


 それには身に覚えもあった。ハリチに霊廟を建てたことが批判されたり、工場法でやり玉に上がったり、但馬も似たようなものだったのだ。彼らは、どんどん権力を掌握していく但馬がもし悪人だったらという妄執に駆られ、見えない怪物を相手に気勢を上げていたのだ。だから但馬は議会を作ったのではないか。


 それと同じことで、但馬も怖がったり遠慮したりなんかせずに、一度方伯に直接掛けあってみればよかったのだ。それなりの立場になっていた但馬なら、彼だって話を聞いてくれたのではないだろうか。


「おーい! 先生!」


 彼の呟きが風に乗って聞こえたのだろうか、遠くの方でそれに気がついたエリックが手を振った。


 彼の背後にはアナスタシアとウララが居て、どうやら但馬のことを探していたようだった。


 アナスタシアはアスタクス軍と共にエーリス村に入っていた。実は、今回の作戦の立役者は、誰を隠そう彼女だったのだ。


 但馬はアクロポリスの料理店タイユバンでウララに地図を書いてもらった時、チューリップ畑を見て今回の作戦を思いついたわけだが、それにはアスタクス方伯の協力が不可欠だった。


 しかし、彼に直接会いに行っても、ここまで関係がこじれた後では、まともに話が出来るかわからなかったし、そもそもシルミウムは但馬の動向を気にしていたから、そんな但馬が方伯とこっそり会っていたら、その後の仕掛けにイケメンが乗ってくれるとも思えなかった。


 だからどうしても誰にもバレずに意思の疎通を図りたかったのだが……そこで但馬はアナスタシアを伝言役にすることを思いついたのだ。


 方伯は彼女に命を助けられたからか、彼女の言うことは尊重するきらいがあった。サンタ・マリア宮殿で但馬と嫌味合戦をしていた時も、アナスタシアが間に入っただけで、すぐに大人しくなったし、但馬が直接彼を訪ねて行くよりも、よっぽど適任だったのだ。


 そしてそれが上手くいった。


 但馬は調停の最中に方伯を挑発し、彼を激高させたところでアナスタシアに仲裁に入って貰い、そこで彼女に耳打ちをしてもらったのだ。あんな状況で耳打ちをされても、普通なら激高したまま頭に入ってこなかったろうが、流石は百戦錬磨のジジイである。彼はすぐに但馬に何らかの意図があることを察すると、その場はピエロになって収めてくれた。


 後は宮殿のアナスタシアに会いに行って伝言を頼んだり、トレーダーに扮したアスタクスの間者を利用したりでタイミングを見計らい、但馬が散々アクロポリスの相場をバブらせてから、方伯にそれを弾けさせたのである。


「先生、ミダース様が呼んでるよ」


 雪をサクサクと踏みしめながら、アナスタシアは但馬に近づいてくると、いつもの眉毛だけが困った表情で言った。


「分かった」


 但馬は立ち上がり、パンパンと尻についた雪を払いのけると、彼らが今やってきた道を戻り始めた。


 思えばこの国に来てから、アナスタシアには事あるごとに助けられてばかりだった。それが嬉しくもあり、気恥ずかしくもあり、但馬は地面が雪でさえ無ければ、スキップでもしたい気分になった。


 でもそんな喜びを顔に出すことなんて出来なかった。

 

**********************************


 方伯の呼び出しは、アウルムの処遇についてだった。


 あの日、アスタクス軍に投降してきたダルマチア子爵アウルムは酷い有様だった。


 この地に来てからアスタクス軍は基本的に戦闘を避け、穴を掘ったりキャンプファイヤーをしたり、そんなことばかりしていたから、実際にシルミウム軍が戦闘らしい戦闘をしたのはたった一度きりのことだったと言うのに、追い詰められた敵将のその顔は、心労から眼窩は落ち窪み、ギラつく瞳は充血して、どこもかしこも痣だらけで抵抗の痕が窺われた。


 両脇を従者たちにガッチリと抱えられて、アスタクス方伯の下へ連れてこられた彼は後ろ手に縛られており、降伏したといえば聞こえは良かったが、殆ど部下に裏切られ連行されたと言ったほうが良かっただろう。


 恐らく、味方を大砲で撃ったことで、相当恨みを買ったのだ。ただでさえ、アクロポリスで大損をぶっこいたという噂は陣中に届いていたのに、その上、あんなことをされたら、シルミウムに対する忠誠心など全く無い傭兵が、これ以上付き合う義理もなくなる。


 そうして人望を失った彼は、砦までをも失って、逃げ場を失った兵士たちから投降を進言され、一晩中揉めに揉めた挙句、ついに説得しきれなくなり、部下に拘束されて無理やり降伏をさせられたようだった。


 この一ヶ月、付き合ってみた感じでは、彼は自信家でプライドがとても高く、簡単に心が折れるようなタイプには見えなかった。


 だが、意外にもアスタクス方伯の前に突き出された彼が取った行動は、恥も外聞もなく地面に這いつくばりながらの、命乞いだったのである。


「ビテュニア様、どうかお許し下さい。私は利用されただけなのです。今回の策を考えたのは私ではありません、父が考えたのです! 私は父に頼まれ、この地に入り留まってさえ居れば良いからと、押し付けられたのです。もしそうしなければ、彼の後継者は嫡男の私ではなく、弟や妹になったでしょう。私は病弱な母を抱えており、致し方なかったのです!」


 しかし、もちろん、そんな言葉に今更心を動かされるようなアスタクス方伯ではなく、


「白々しい。仮にそうだとしても、おまえを許す理由にはならん。これまで儂が受けた数々の屈辱、その身を持って償うがいいわい」

「ああ! どうかお慈悲を……そうだ! もしも私を許していただけるのであれば、このオクシデントのビテュニア侯の領有を、シルミウム方伯の嫡男である私が宣言いたしましょう! もちろん、議会にもそれを承認させます。私が今までに築いてきた人脈があれば、それが可能です」

「くだらん」


 方伯はギリギリと苦虫を噛み潰したような顔をしてから、文字通り唾棄した。


 これまで数々の修羅場をくぐり抜けてきた、その鋭い眼光に睨まれたアウルムが、ウッと息を飲み込んだ。


「儂が一度として、そのような領土欲を見せたことがあったか。確かに我が国は建国以来、拡大路線を取ってきた。しかしそれは大昔の話、広大なアスタクスをロンバルディアやお主らのような奸賊が狙ってきたからではないか。幾度と無く返り討ちにしてやっても、なお皇国の傘を着てちょっかいをかけてくるお主らに業を煮やし、皇王を攻めたことをいつまでもいつまでも根に持って……あ……なんだか考えただけで腹が立ってきおった。こやつと話しておるとムカムカする。やはりさっさと殺すことにしようか」

「っ!? ひいいいいいいっ! どうかお許しをっ!」


 愚痴愚痴と零す方伯の言葉も気になったが、このままイケメンが処刑されるのを見ているのも忍びない。但馬は彼のその態度に呆れつつも、助け舟のつもりで横槍を入れた。


「爺さんよ。あんたが怒るのも尤もだし、俺だって腹立たしいんだけど、そいつを殺すのはちょっと待ったほうがいいんじゃないか」

「……お主はこやつの肩をもつつもりか?」

「もちろんそんなつもりはないけど。こいつからは色々と聞きたいこともあるし、それにこれからシルミウムと色々交渉するんだろう? その時、こいつを人質に取っておけば、色々とスマートに片付くんじゃないのか」

「なるほどのう……若いくせに詰まらぬことばかり考えおる」


 すると方伯は眉間にしわを寄せて、ムスッと唇を尖らせ、


「どいつもこいつも実にくだらん。お主の言うことは筋が通っているが、逆に言えば筋しか通っておらん。心がないのじゃ。本当は、そんなことなどどうでもよいのじゃろう? この腹立たしい男を、ギタギタの八つ裂きにしてやりたいのじゃろう? 但馬波瑠よ……あれを見よ」


 そう言って彼が指差す方を見ると、そこには農場で村の復興に従事するシルミウムの捕虜の姿が見えた。


 彼らはその農場で、地面が露出するまで雪をかき分け、雪に埋もれた味方の死体を一人残らず掘り起こしては、そこで仲間の死体を燃やしていた。村の片隅には砲撃によってちぎれ飛んだ兵士たちの肉塊が積まれており、拾いきれないものが未だにあちこちに散らばっていた。


 淡々と作業する兵士たちの目は皆虚ろで、もしもほんの少し何かが違ったら、自分がこうなっていたのだろうという絶望を映し出していた。


「あれをやったのはお主じゃろう」


 方伯の言葉が胸に突き刺させる。


「たった一度きりじゃ。たった一度きりの会戦で、お主は何千人の命を奪ったのじゃ。あそこにいる兵隊たちは、皆お主のことを恨んでおるじゃろう。ヴェリア砦を思い出せ。帝国軍は三千もの逃げ惑う我が民を、淡々と銃で殺し尽くした。その命令を下したのはお主ではないのか」


 心臓がバクバクと鳴り響く。息が真っ白になるくらいの寒さなのに、服の下ではダラダラと汗をかいていた。彼の言葉に何も言い返せなかった。


「今、そこで手を縛られて転がっておるのが、こやつではなくお主じゃったと想像してみよ。きっとこんなものでは済まぬぞ。腕の一本や二本はもうついておらぬかも知れん。誰もが喜んでお主の首を取るじゃろう。少なくとも儂はそうするし、こやつだってそうするに違いない」


 確かに、そうかも知れない。但馬は助け舟なんかを出しているが、この立場が逆だったら、到底アウルムのことを信じられないだろう。なのに、何故、自分はこんなことをしてるのか……偽善でも、満身でもない。現代人特有の道徳観念か、ドラマの登場人物に感情移入するような、そんな歪な何かだ。


「のう……但馬波瑠よ。立場が違えばこんなものなのじゃ。お主だって分かっておるのじゃろう? 人を殺して良いのは、殺される覚悟のあるものだけ。お主に、その覚悟が無かったとは言わせぬぞ」


 果たして、自分にそんな覚悟があったのだろうか……


 方伯は物凄い形相で但馬を睨みつけると、自分の佩刀を抜き去った。彼は但馬に自国の民を大勢殺されたのだ。今にも飛びかかって来そうな気迫だった。但馬は思わず息を呑んで後退った。


 しかし彼は飛びかかって来たりなどはせず、ただ大きく深呼吸したかと思うと、雪にまみれて泥だらけになった地面にザックリと剣を突き刺し、但馬にそれを引きぬくように促した。


「なに、お主を責めるつもりはない。じゃが、心に刻み込んでおけ。そこに()るのは儂らの一つの可能性に過ぎん。儂らは今までにどれほどの人間を殺してきたというのか。どれだけの救わねばならぬ民を生み出してきたのか。命乞いなどしていい立場であるものか。さあ、分かったならば剣を抜け。こやつをどうするかはお主が決めろ。それでもこやつを助けたいのであれば、好きにするがいいわ」


 方伯はそう言うと、従者が差し出してきた椅子にドッカと腰掛けた。そして目を瞑って、もう何も見ていないと言った感じに腕組みをして沈黙した。


 但馬は何か言い返そうとしたのだが、何も言葉が出なかった。気圧されたというのは確かにある。だが、それ以上に、圧倒的に、彼の主張は正しかったのだ。


 鋭利なその刀身が鈍色に光る。


 但馬は吸い寄せられるようにフラフラとその剣を手にとった。精巧な作りをしたそれは、鏡のようにピカピカに磨かれており、どんな硬い岩をも真っ二つに切り裂いてしまいそうだった。


 彼が息を呑み込んでその剣をためつすがめつしてると、いよいよ追い詰められたイケメンが這いつくばりながら但馬の足元へと転がってきた。


「但馬様! 但馬様! どうかお慈悲を、命だけはお助けください。一緒に会社を作った仲じゃありませんか。アクロポリスに居る時は、たくさん便宜を図ってあげたでしょう?」

「しかしなあ……」

「大体、卑怯じゃありませんか。あなたは我々と組むと言った。賠償金を支払うのなら許すとも言った」


 確かに言ったことは言った。もちろん、ウソも方便というやつであるが……だが、こうして命乞いの最中に言われてしまうと、正直心苦しかった。


「大体、あなたほどの商人が、どうして一銭の得にもならないアスタクスなんかと組んでいるのですか。これまで数年に渡る戦費はどうやって回収するのですか。私達と組めば莫大な富が帝国にもたらされることをお約束したのに、何故裏切ったんですか!」

「それはおかしいのう。お主はこやつに大金を支払うというが、そんな金が今どこにあると言うのじゃ?」


 アウルムが苦し紛れに陳情していると、但馬ではなく方伯が横槍を入れた。但馬とアウルムが作った投資会社は全てが破産し、彼の実家であるダルマチア銀行も破綻の憂き目にあったのだ。だったら彼に今、どれだけの支払い能力があるというのだろうか。


「そ、それは……」

「ふん、こやつの心変わりを知りたいと言うのならば、儂が教えてやろう。それは儂らが賠償金を支払うと約束したからじゃ。お主らが支払うと言っておった金貨五千万枚。そっくりそのまま儂がこやつらにくれてやったのだわい」


 アウルムは驚愕に目を見開き、


「なっ……何故!? あなたにそんな莫大な金額が用意出来るはずが……」


 すると方伯は肩を竦めて、実に残酷な笑みを浮かべた。


「お主らはアクロポリスで、どれだけの財産を失った? その失った財産は、一体どこへ消えたんじゃ。ところで、儂はここへ来る前に、部下を取引所へ向かわせたのじゃが……一体何を売っていたと思う?」


 アウルムの顔色が、サーッと真っ青に変わっていく。


「アウルムよ。お主は初めから、こやつの手のひらの上で踊っていたのじゃ。こやつはお主に大金を稼がせて、時期を見計らってそれを儂に摘み取らせた。お陰で儂は何もすることなく、戦費を回収した上に、戦争を終わらせるだけの資金まで得られた。まったく……汗水かかずにこのようなことばかりしていては、お天道さまに顔向けが出来ぬ……じゃが文句はあるまい? お主はいつもそうしておるのじゃろう?」

「汚いぞ!」


 するとアウルムはその顔から、余裕を全てを剥ぎとった見窄らしい表情で、必死になって但馬をけなし始めた。


「悪魔め! ペテン師め! おまえが初めから俺のことを騙していやがったのか!? 俺に金儲けをさせて気分をよくさせておいて、いずれ破綻する日を思い浮かべながらほくそ笑んでいたのか!? おまえのやったことで、どれだけの人々が迷惑を被ると思うんだ。アクロポリスの人々は訪れる不況に耐えられず、どん底に叩き落されるに違いない。ダルマチアの領民は、いきなり仕事もなくなり、莫大な借金だけを抱えて野垂れ死にだ。おまえのせいで、多くの人々が路頭に迷い、またたくさんの人たちが死ぬんだ!」

「……だが、おまえらが撒いた種だろう」


 但馬はうんざりしながら言った。


「確かに俺は大勢を殺した。そしておまえの言うとおり、これからまだまだ被害が増えるだろう。だが、戦争を引き起こしてきたのは、俺でも方伯でも無く、おまえたちだったじゃないか。俺達が戦うことが無ければ、戦場で死んだ人たちも死ぬことはなかったんだし、おまえの領民が露頭に迷うこともなかったはずだ。みんな、おまえらがやったことじゃないか」

「ふ、ふ、ふざけるなっ! そんなのはおまえらが抵抗しなければ良かっただけの話だ。そしたら、ここまで大事にはならなかったんだ。俺達が悪いわけがない。おまえが事態を引っ掻き回したのが悪いんだ。おまえさえ居なければ、この国はこんなことにはならなかったんだ!」


 流石に全ての責任を転嫁されては興ざめである。殺す、殺さない以前の話だ。但馬が握りしめた剣を見つめると、その鏡のような刀身には、自分の顔がくっきりと映っていた。そして、その顔は困惑ではなく、哀れみの色をしていた。


「そ、そうだ……ならばこうしよう。議会を動かして、今回の取引を全部チャラにさせよう。人々の生活に多大な影響が出る可能性が高い投機が行われたのだから、法に則って処理すべきなんだ。その法律を作ってしまえば、選帝侯はおまえらに金を払えない。俺達が助けてやらなけりゃ、おまえらはまた戦争しなきゃならない」


 精細を欠いたアウルムは、何を言っているのか支離滅裂だった。だからもう何も言わずに、首を落とすか落とさないか、それだけを考えればよかったのかも知れない……だが、但馬は言わなくてもいいことを言わざるを得なかった。


「……議会を動かすって、もうそんなこと出来ないぞ。おまえらがどうやって議会を支配してきたかを思い出せ。金の切れ目が縁の切れ目って言うじゃないか」

「そんな馬鹿な! 我々が今までどれだけの金をつぎ込んできたと思っているんだ」

「だからこそじゃないか。いい目を見た奴らは、また次のいい目を連想するから言うことを聞くんであって、それが閉ざされたと分かったら途端に渋くなる。もう、アクロポリスにシルミウムを支持する議員は殆どいないんだよ。おまえらの国から来た奴ら以外に」

「……嘘だろう?」


 だと良いのだが……結局、金で支配していたものは、金で裏切られるのだ。


 但馬が黙って首を振るのを見ると、アウルムはしばらく放心したあと、突然ぐったりとくずおれて地面に突っ伏した。


 左右を押さえつけていた彼の従者が釣られてバランスを崩し、ムッとした顔をしながら彼を引き起こそうとしたが……


「……ぐうううっふぐうううううぅぅぅぅ~……うおううううっぐぐううぅぅぅぅ~~~~……」


 後ろ手に縛られたアウルムが、泥だらけの地面に顔を埋めて、唸るような泣き声を上げ始めると、従者たちはかつての主人のその情けない姿を流石に気の毒に思ったのか、お互いに顔を見合わせてからそっぽを向いた。


 もうアウルムを押さえつける者は居なかった。ほっといてももう、彼が抵抗するとは思えなかったからだろう。アウルムは首を差し出すかのように地面に這いつくばりながら、低い唸り声のような泣き声を、いつまでもいつまでも上げ続けた。


 その情けない姿は、もう見ていられなかった。彼はここにきてようやく、自分が何もかもを失い、そして命をも奪われようとしていることに気がついたのだろう。


「ほれ、何を呆けておる。さっさと首を落としてやれ」


 方伯がにべもなく言う。これ以上、彼に追い打ちをかけるべきなのか。但馬はじっと自分が握りしめた剣を見つめた。


 本当に殺して良いのだろうか。いや、本当に自分に殺せるのか?


 但馬が立てた作戦で、多くの人が命を落としたのは本当だ。だが、彼自身が直接手を下したことは一度もない。エルフなら、もはや人の形をしていないせいか、それほど抵抗は無かったが……今殺そうとしているのは、自分と同じ形をした一人の人間なのだ。


 技術的に難しいとか、そういう言い訳ならいくらでも出てくる。だが、多分、今の但馬であったらそんなものは関係ないだろう。エリオスや、リーゼロッテとも互角かそれ以上にやりあえるのだ。たかが、動かない人間の首を落とすくらい、朝飯前ではないか……


 だが……この心理的抵抗はなんだろう。憎い相手のはずなのに、もうそんな気持ちはかけらもない。


 思い出せ。こいつらがやった数々の悪行を。コルフを扇動しリディアを封鎖した。メディアではエルフをけしかけ、リリィと自分を殺そうとした。自分たちの陰謀をアスタクス方伯になすりつけた。そのせいで、何万人という人々が死んだのだ……


 思えば、リディアには建国時から何者かが暗躍していた。初めは奴隷商人ということだったから、まさにシルミウムのことだったのだろう。恐らく、ウルフとブリジットの母親を暗殺したのも、こいつらだったのではなかろうか。


 確かに、作戦を考えたのはアウルムではなく、シルミウムの他の誰かなのかも知れない。だが、この地で大将を引き受けたのは彼なのだ。誰かが責任を取らねばならないのだ。


「早くしろ。何をそんなに悩んでおる。己が殺した者の数に、一人や二人増えたところで、今更大したことあるまいに」

「うるさいな」


 なんやかんや、アクロポリスで共に過ごしている間に情も移っていたのだろう。年の頃が近いせいもあるかも知れない。


 本当に人に手をかけるというのが、こんなにも抵抗があるなんて……


 地面に伏せているアウルムの首の後ろに、ボコッとした骨が突き出ている。この骨と骨の間に刃を差し入れれば、ぽろりと首が落ちるらしい。上手いものがやると首の皮一枚だけを残し、首が膝の上に抱きかかえるように落ちるようにするのだという。


 そこまでは出来ない。だが、すっと首を落とすくらいなら、落ち着いてやれば出来るはずだ。だが……


 本当にやるのか……?


 カランカランと手にしていた剣が地面に落ちた。


 アウルムの肩がビクリと震えた。


 いつの間にか、手のひらにびっしょりと汗をかいていた。それで手が滑って、剣が落ちてしまったのだ。


 但馬はもう一度剣を拾い上げようと、しゃがんでその柄に手を伸ばした。しかし、それが限界だった。


 ボタボタッと、剣の柄に汗が滴り落ちる。よほど緊張しているのか、つかもうとする手が上手く開かない。心臓がバクバクと鳴って、まるで別の生き物みたいだ。


 やりたくない。こんなこと。絶対に……


「どうした、但馬波瑠。ビビって動けぬのか。情けないのう……まあ良い。お主が出来ぬと言うのであれば、儂がやろう。ほれ、その剣を拾って儂に貸せ。人を殺すと言うことがどんなものなのか、特等席でよく見せてやろう」


 そう言われても但馬は動けなかった。この剣を拾い上げて、アウルムの首を切ることも。方伯にその剣を渡すことも。


 じゃあ、彼を許してやるつもりなのかといえば、それも踏ん切りがつかなかった。こんな宙ぶらりんな状態で、何も責任を取らせずにアウルムを解放することが、果たして本当にいいことなのだろうか……


「さあ、どうした、ほれ、早くせんか」


 方伯が挑発するかのように立て続けに声を浴びせかける。その人を喰ったような声に苛立ち、思わず方伯の方を斬り殺してやろうかと殺意が芽生えた。だが、それじゃアベコベだろう。


 但馬が自分の不甲斐なさに奥歯をギリギリかみしめていると……その時だった。


「その辺にしてやってはどうじゃ」


 但馬達がいる村の広場に、凛とした声がこだました。


 振り返れば、そこにはいつの間にやってきたのだろうか。厚いコートに身を包んだリリィが、リーゼロッテをつき従えて立っていた。


「もう、十分に脅かしてやったじゃろう。ならば貴君の気も晴れたじゃろうて」

教主(リリィ)か……何しに来たのじゃ。邪魔をするならば帰れ」

「ご挨拶じゃのう。もちろん、この男に三行半を突きつけに来たのじゃ」


 するとリリィはテクテクと、但馬たちの中心で、地面に突っ伏していたアウルムの前へと進み出た。その彼が、一体何が始まるのだろうかと、泥だらけの顔を上げると、リリィは芝居がかった顔つきで、手にした剣の柄をサクッと地面に突いてから言った。


「ダルマチア子爵アウルムよ。そなたは議会に金をばら撒き、天子たる余を私欲のために利用しようとしたな? そなたとグルであった議員のうちの数人が、今回の大暴落騒動で首が回らなくなり、それが明るみに出た。議会は腐敗が進み、一国が支配する状況に置かれていたことが白日の下に晒され、今混乱の極みを迎えておる。一体、誰が悪かったのかと、犯人探しをしておるところじゃ……」


 皇国議会は汚職や賄賂が当たり前のように行われていたが、もちろん、それは本来ならば許されることではない。


 今まではそれを、それこそ金の力でもって押さえつけていたのだが、今回の大暴落で損失を被ったせいで、もうそれが出来なくなったのだ。


「と言うわけで、アウルムよ。そなたに証人喚問への出廷命令が下った。早急に首都アクロポリスへと戻り、議会で洗いざらいしゃべるがよい」

「……私は、助かるのですか?」

「嘘偽りを申せば処刑される。じゃが、本当のことを述べても、もはやそなたは大手を振って外を出歩くことすら出来ないじゃろう。それが、助かると言うのであれば、助かるのではないか」

「うぅ……うぐぐうふぐうぅぅぅ~……」


 するとアウルムはまたその場に崩折れサメザメと泣いた。リリィは大の男の泣き声に渋面を作ると、


「男が泣くでない。これが一度でも余の伴侶になろうとした男だと思うと情けなくなってくる。尤も、それも議会が取り消して、そなたはもう余の許婚でもなんでもないのじゃがな。ほれ、三行半じゃ」


 そう言うとリリィは自分のハンカチを取り出してアウルムの顔を拭ってやった。


 多分、涙を拭ってやるつもりだったのだろうが、目の見えないリリィがやると、元々泥だらけだった彼の顔が、あっという間に真っ黒に染まり、余計に見てられないものになってしまった。


 だが、それを滑稽と感じるよりも寧ろ愛おしいと感じるのは、これがリリィという少女の人徳なのだろうか。


 先程まで、元主人を拘束していた従者たちが、村の井戸で手ぬぐいを絞ってくると、リリィに変わってアウルムの顔を乱暴に拭った。


 但馬はその姿を見届けると、さっきから地面に放りっぱなしだった剣を拾い上げようと手を伸ばした。しかし、指がガチガチにかじかんでしまって、それが上手く握れない。


 仕方ないので、しゃがみこんだまま固まってしまった自分の指を、別の手で一本一本伸ばしていたら、突然視界に影が差した。


「お主……ホッとしたじゃろう?」


 方伯は地面にうずくまる但馬の横にかがむと、自分の剣を拾い上げつつ、耳打ちするかのような小さな声で、彼に呟いた。


「教主がやってきて、あの男を許すと言った時。お主はホッとしたのじゃろう?」


 どきりと心臓が高鳴った。何か、ものすごく、見透かされているような気がした。


「……それがお主の本質じゃ。ゆめゆめ忘れるな」


 それは自分で決断を下せなかったという優柔不断さのことか、それとも、敵であっても直接は手をかけることが出来ないという心の弱さのことだろうか。おそらく両方のことだろうが……


 去りゆく方伯の背中を見つめていると、但馬のみぞおちに、ギリギリと剣先でも突き立てられたような激痛が走った。


 それは自分の胃の痛みだったが……目の前のリリィに言えば、きっとすぐに治してくれるはずなのだが……


 但馬は、じっとその痛みに耐えていた。


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