詐欺師の本懐
但馬が、ガルバ伯爵、ダルマチア子爵アウルム、そして謎の妹ウララと対話してから数日後、アクロポリスの拘置所である監視塔で蟄居を命じられていたアスタクス方伯ミダースは、ようやく議会の許しが出て釈放される運びとなった。
宮殿内での刃傷沙汰は確かにまずかったが、普段なら監視塔に入れられることも、ましてや何日間も拘束されるようなことも無かったはずなのだが、アナトリア帝国との戦争で劣勢に立たされていることが祟ったのか、方伯がいくら睨みを利かせても、皇室も議会もまったく動じることがなく、必要以上に時間を食わされた。
この時間的損失が、どのくらい調停に響いたかわからない。
いや、もしかしたら、それもこれも全てシルミウムの奸計だったのかも知れない。
まさか、もう4年近くも戦っていた帝国との戦争が、彼の国の謀略であったとは……そのシルミウムは、いわゆる二虎競食の計を用いてアスタクスを弱体化させると、ついにその野心をエトルリア大陸に向けてきたのだ。
方伯が監視塔に軟禁されていた間の報告によれば、シルミウムはエトルリア大陸北部、オクシデント地方エーリスに兵1万を篭もらせて、周辺の村々をその武威で威嚇しているらしい。その周辺の村々は、帝国との戦争が終わってないアスタクスの介入が期待できないと見るや、続々とシルミウムの傘下に屈しているとのことである。
兵力1万など、アスタクスにとっては物の数ではない。無論、アナトリア帝国とのことがあったので慢心はしないつもりだが、仮に相手が帝国製の装備を使っていたとしても、今更簡単にやられる気はさらさら無かった。
しかし、そのためにはまずアナトリアとの和平交渉を成立させねばならないのだが……
先日会話をした但馬波瑠も、自分たちの真の敵が誰であったかを知って、今頃憤っているはずである。
だから、その点は障害にはならないと方伯は思っていた。
「……なん……じゃと?」
シリル殿下による調停が再開するや否や、方伯は但馬との直接対話を望んだ。何故か殿下は少し渋っていたが、但馬の方は応じるとのことだったので、即日、宮殿内の会議室でアナトリア、アスタクス国家間による直接対話が持たれた。
方伯はその席で和平を提案し、場合によっては、カンディア併合を認め、できうる限りの賠償金の支払いを約束するつもりであった。
シルミウムは、この時間も利用してオクシデントで勢力の取り込みを行っているのだ。ほんのすこしばかりの時間も惜しい。ところが……
「なんじゃと? もういっぺん言ってみろ」
「だから、和平は行わない。どうしてもというなら……そうだな。ヒュライア領以南の割譲と、あんたの直接謝罪、それからアスタクスの選帝権の返上と、賠償金・金貨5千万枚を要求する」
あまりのことに方伯は最初、その意味がよく飲み込めなかった。ようやく、信じられない額を要求されていることに気づいても、なんと言っていいか分からず、彼は同じことを何度も聞き返すはめになった。
「領土割譲だ? 謝罪だ? それに……金貨5千万枚とな? 5千枚ではなく」
「当たり前だろう、ガキの小遣いじゃないんだぞ」
まったく表情を変えずに、但馬はにべも無く言ってのけた。金貨5千万枚と一口にいうが、それはアスタクスのGNPを大きく上回る。ビテュニアの国家予算は金貨300万枚と大陸随一であるが、それを持ってしても支払いに何十年かかるだろうか……
いや、そんなのは無理だ。払えっこない。
方伯はぽかんと口を半開いて、調停役のシリル殿下を仰ぎ見た。彼はアチャ~っと言った表情を作り、方伯の視線を避けると、肩をすぼめて椅子に小さくなっていた。その姿を見て、彼が渋った理由を理解した方伯が大声を出す。
「貴様! まさか、このような席で冗談を言ってるのではあるまいな!」
つい先日、刃傷沙汰をおこしたばかりである。すぐさま周囲から近衛兵たちが飛んできて、彼が暴れないかと警戒した。同席していた彼の部下たちも気が気ではない様子で、これ以上下手なことを言うんじゃないと言った感じの、すがるような目つきで但馬のことを見つめていた
しかし、彼はそんなこと知ったこっちゃないといった具合に、
「冗談なわけない。現状を踏まえると、これくらいの要求が妥当だと判断しているだけだ」
「妥当じゃと? 何を言っておる。一体どういった計算をしたらこんな馬鹿げた数字が出てくるのじゃ」
すると但馬は氷のように冷徹な目つきで、
「方伯さんよ。今現在、あんたの国は俺の帝国に蹂躙され、戦力がバラバラに散らばってしまっている。これを改めて一箇所にまとめて組織し直すには、よほどの時間と、俺達の撤退……つまり協力が不可欠だろう?」
「そうじゃ、だから早く出て行けと、多少の損失は覚悟で和平交渉を行っている」
「それじゃもし、俺達がその協力を拒否し、戦争を続けるとしたらどうなるんだ。北部の係争地であるオクシデント地方は確実にシルミウムに付くだろう。そしてシルミウム軍は春までに北部を制圧し、戦力を整えたら南下する」
「貴様、何を言って……!?」
「帝国とシルミウムに同時に攻められたら、あんたの傘下である領主たちも次々鞍替えするだろう。こんな好機に座して見ている馬鹿もいないから、ロンバルディアも国境を越えてくるはずだ。そしてアスタクス地方は三分割され、建国数百年の歴史に幕を閉じることになるだろう」
但馬の野心をむき出しにした言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。それは誰もが一度は考えるであろう、最悪の事態であった。だが、それと同時にみんなはどこか甘いところのある帝国宰相が、そんなことを言い出すとは思っていなかった。
「その時に得られるであろう、帝国の利益を考えれば、金貨五千万枚など安いものだろう。ヒュライア以南なんてのも、おおまけに負けてるんだぞ。本当なら、ビテュニアは俺のものだ」
「貴様あ~!! もういっぺん言ってみろ!!」
但馬の不敵な挑発に、ついに堪忍袋の緒が切れた方伯が激昂して立ち上がる。すかさず近衛兵たちと飛び出してきて、彼を押さえつけようとしたが、その必要はなくなった。
方伯は椅子を蹴倒し、急に立ち上がると、頭に上っていた血が一斉にどうかなってしまったのか、フラフラと貧血を起こしてぶっ倒れた。
近衛兵の代わりにアナスタシアが飛んできて、方伯を抱き起こして、必死にヒール魔法を唱えた。会談の場に出席していたブレイズ将軍が憎悪に煮えたぎった目つきで但馬を睨みつけた。
「宰相殿。冗談にしては程が過ぎるぞ。今すぐそのふざけた言葉を訂正し、謝罪を要求したい」
「そいつあ出来ない相談だな。何しろ、冗談じゃないんだから」
「見損なったぞ! 貴公がそのような邪な人物であったとは……!」
「それを見抜けなかった自分を責めるんだな。どっちにしろ、あんたの領土もいずれ帝国のものになる。その気があるなら、ビテュニアまで来な。今戻ってくるなら助けてやっても構わない」
「なっ……ふざけるなっ!!」
次はブレイズ将軍が激昂して但馬に向かっていこうとしたら、今度こそ近衛兵達が飛び出してきて彼を取り押さえた。刃傷沙汰を警戒して、腰のものを取り上げていたため、聖遺物のない貴族などただの老人に過ぎず、ブレイズ将軍はあっという間に地面に組み伏せられてしまった。
悔しげに但馬を見上げる瞳が濡れている。しかし、但馬は一切表情を変えること無くその姿を見下し、話は終わったと言わんばかりに席を立ち上がると、クロノアを従えて会議室から出て行った。
シリル殿下が追いかけてきて、
「但馬殿よ。本当にこれで良かったのか? 本当に、これが貴君の望むことなのか?」
すると但馬は振り返り、肩を竦めて言い放った。
「良かったじゃないですか。これで、あなたの娘さんは、皇国で最大の国に嫁ぐことになる。そんなシルミウムと帝国が組めば、皇国の益々の繁栄は間違いなしですよ」
シリル殿下は絶望の表情を浮かべた。
「ああ、私はなんということをしてしまったのか……リリィのために良かれと思ってしたことが、ただの一国に権力を奪われる結果となってしまった。そしてなんという男を引き入れてしまったのだろうか。妻も娘も間違っていたのだ。やはりこのような得体のしれない男など、信用してはいけなかったのだ」
崩折れるシリル殿下に背を向けて、但馬は不敵な笑みを浮かべつつ、
「くくくっ……はあ~っはっはっはっはっ!!」
高らかな笑い声を上げながらその場を去っていった。
力強く地面を踏みしめるその足取りに迷いは何も見当たらない。そして彼はその足で、城下にあるシルミウムの取引所へと向かっていったのである。
「……さあ、戦争の始まりだ」
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「いやあ、素晴らしい! 最高の結果ですよ、但馬波瑠様。あなたを引き入れることが出来てよかった。思い切って打ち明けた甲斐がありましたよ。あなたさえ居れば、我々の勝利は間違いなしです」
ダルマチア子爵アウルムは満面にゲスい笑みを浮かべ、揉み手をしながら但馬のことを褒めちぎった。
「俺は商人だからね。どうすれば一番利益に繋がるかと常に考えているのさ」
シルミウムの取引所、VIPのみが入ることを許されるという隠し部屋の中に但馬は居た。外からは今日も威勢のいいトレーダーたちの声が聞こえてくる。
但馬は宮殿での会談が一段落つくと、休戦調停も和平交渉も、これから先は提示した条件を飲まないかぎりは行わないと宣言し、慌てふためくアスタクス勢力との対話を一方的に打ち切って城から出た。
シリル殿下、ガルバ伯爵が立て続けにやってきては但馬の翻意を咎めたが、彼は一顧だにせずそれを黙殺した。
最後にやってきたリーゼロッテに食い下がられたことだけは難儀したが、それも但馬に付き従うクロノアが抑えると、彼女は悔しそうに顔を真っ赤にして去って行った。
忠実なクロノアは気の毒なことに表情を真っ青にしていたが、それでも主人の考えに異を唱えることはせず、唯々諾々と付き従った。彼は取引所に入ると、但馬の入った部屋の扉の前に立ち、門番のように周囲を見渡していた。
あの対話の日から一夜明け、但馬はダルマチア子爵アウルムの提案に乗る旨を伝えた。イケメンは半信半疑のようだったが、すぐさま但馬がビテュニアへ戻り、皇帝ブリジットの許可を得てきたことで、どうやら本気であると信用することにしたようだった。
「ブリジットを説得するのは流石に骨が折れたがね。機嫌を直してもらうために、どれだけ彼女の耳元に愛を囁いたことか。まったく、ひどい苦労をしたぜ。だからアウルムさんよ、くれぐれもあの件は約束を違えてくれるなよ?」
但馬がジロリと睨みつけると、アウルムはにやにやとした笑みを浮かべ、
「心得ておりますとも。シルミウムは今までの謝罪を含め、賠償金、金貨五千万枚を帝国に支払うことをお約束しましょう」
その代わり、シルミウムはかなりの譲歩を受入れねばならなくなった。だが、それが但馬を信じる決め手となった。
但馬はシルミウムと組むに当たって、アスタクス方伯にしたのと同じ要求を彼に求めたのだ。賠償金、金貨五千万枚とヒュライア以南の領地割譲である。これはアスタクス方伯はとても受入れられない条件だったが、侵略者であるシルミウムは違った。
アナトリア帝国とシルミウムが組んで得られる領地から上がる収益を考えれば、金貨五千万枚など数年で元が取れるのだ。その上で、シルミウムは天領を含んだアスタクス地方の広大な領地を手に入れ、今後は帝国の軍事力をも利用出来るのである。
既に金で抑えている議会は、これでますますシルミウムに逆らえなくなるだろう。おまけに、聖女リリィを手に入れれば、聖教会もこちらに従うはずだ。
これで、シルミウム、皇家、議会、聖教会の選帝権を掌握したシルミウムは、後はリリィとの間に子供をもうければ、晴れて皇国の乗っ取り完了である。金貨五千万枚など、安い買い物ではないか。
アウルムは自分の考えに酔いしれた。
彼はこの世界の王になるのだ。
「それにしても但馬様が居なければ、これほどの結果は得られなかったでしょう。あなたには感謝してもし足りない」
「なに、風向きがたまたま俺たちに向いていただけさ」
「そう仰らずに、どうか私からのお礼を受け取ってください。そうだ! 以前、こちらの取引所であなたが儲けられた資産も、ちゃんと取っておりますよ」
「ああ、あれか。別に気を使わんでも良かったのに」
「そうは参りませんよ。我がダルマチア家の銀行口座に全て入金してあります。今、小切手帳を持ってまいりますから、少々お待ちを」
「おう。それじゃ、お言葉に甘えて……」
アウルムはそう言って料理をぱくついている但馬を尻目に部屋から出た。視線を一切こちらへ向けないクロノアの横を通り過ぎ、自分のオフィスへと向かう。アウルムは横目でクロノアの姿を捉えながら、彼が皇家に連なる人間であったことを思い出し、警戒を怠らないように気を引き締めた。
尤も、彼が気を引き締めねばならないのはそれだけではない。
パンパン……っと、アウルムが手を叩くと、従者が音もなく近づいてくる。
「……但馬波瑠の監視を強化しろ。こちらに付いていると言っては居るが、何を考えているかわからん」
「御意に」
従者はそう答えると、また音もなく消えていった。
アウルムが但馬を警戒するのは当然のことだったろう。シルミウムはずっとリディアを騙していて、それがつい先日発覚したばかりなのだ。いくら合理的だからと言って、今の彼のように、すぐに気持ちを切り替えるなんてことは普通は出来ない。
だから、但馬が自分を騙しているのではないかと、アウルムは考えた。ただ、彼が普通でないことも、アウルムはよく知っていた。
だから、本当に彼が翻意した可能性も否定は出来ない。だがもしも彼がアウルムのことを騙そうとしているのであれば、きっと思いもよらない方法に違いない。
そのどちらの可能性であっても、少なくとも警戒を怠る理由にはならないので、一応監視の目はつけておこうとアウルムは考えていた。
尤も、それは無意味なことであると、彼はすぐに悟ることになるだろう。得てして、自分だけは騙されないと考えている者ほど騙されやすいものである。もしも彼が本気で但馬を警戒しているのであれば、初めから遠ざけるべきだったのだ。
実を言えば但馬はこの時、特定の誰かを騙そうなどとは露ほども考えちゃいなかった。だから誰も但馬の本心など知るよしも無かったのだ。彼が騙そうとしていたのは、言うなれば世界全ての人々だった。
もし、アウルムがリディアで暮らしていたら思い出したかも知れない。だが、残念ながら彼はリディアに直接出向いたことも無ければ、そのリディアで但馬が起こした最も古い事件を知らなかったのだ。
但馬がリディアで人々から、一番最初につけられた通り名は、閣下でも、大商人でも、ましてやソープ王なんかでもない。
詐欺師である。
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アスタクスの暗殺者に狙われるかも知れないからと、ホテルを引き払い、但馬がシルミウムの系列ホテルに転がり込んできたのはそれからすぐのことだった。
わざわざ監視対象から来てくれるのは有り難いと、アウルムは彼を歓待し、アクロポリスで一番のホテルのスイートを与えた。
すると但馬は下卑た笑いを張り付かせながら、高級ーヒーを片手に自堕落な生活を始めた。これが一国の宰相であると考えると頭の痛くなる光景だったが、不思議と彼の従者たちは慣れた様子であった。
そんな彼は昼間は取引所でギャンブル地味た投機を繰り返し、夜になると取引所で知り合った投資家たちを引き連れて毎夜毎晩豪遊した。資金はもっぱらシルミウムからの小遣いだったが、たまに投機が成功すると、その金が尽きるまで彼は遊び倒した。唸るような現金でもって男たちを従わせ、お姉ちゃんたちを侍らせる様は、さながら飢えた豚のようであった。
しかしそんな自堕落な生活を続けている内に、居心地が悪くなってきたのか、彼は取引所で知り合った投資家たちを誘って投資会社を作った。アウルムもそれに乗っかると、但馬は手始めにリディア国債市場に爆弾を投下した。
曰く、アスタクスとの戦争にも目処がつき、シルミウムからの賠償金も入ってくるから、国の借金である国債を、償還期限よりも前に高値で買い戻すつもりである。彼がそう言うとリディア国債先物は天井知らずの値上がりを始めた。
投資家たちは但馬がどのくらいの値段で買い取るのかを知りたがったが、そんな彼が際限知らずに国債価格が上がっていくのを見ると、戸惑いながらもそれに追従し始めた。元金の2倍、3倍にもなると、流石にこれ以上の値上がりはあり得ないと現物の売りも出始めたが、但馬がこれを躊躇なく買うのを見ると、彼らは何かとんでもないことが起きていることを感じながら、必死に彼についていった。
やがて国債の異常な値上がりにより、その売却益によって得た資金が市場に注入されると、リディア国債という投資先を失った資金があちこちに散らばっていった。因みに、リディア国債は先物市場で、本当の発行数よりも多く取引されていたのだが、投資家たちは目先の利益だけに目がいって、そんなことは気にしていなかった。
実はこれ、但馬の投資会社が循環取引を行って値段を釣り上げていたのだが……何故、彼がこんなことをしたのかは後に分かることになる。彼はバブルを演出しようとしたのだ。だが、そうとは知らない一般投資家は、突如手に入れたあぶく銭を前に思考力が低下していた。
ともあれ、こうして市場にダブついた資金は、行き場を失い、やがて他の商品先物市場に向かい始めた。ありとあらゆる商品が買われ、あっという間に値上がり始める。まず小麦が買われ、その売却益を今度は米に投資し、それが終わったら大麦、大豆、あずき、菜種、その他諸々と、投資家が投資先を変えるごとに商品は値上がりしていき、すると値上がりを期待する人々が殺到するから、ますます取引は活発になっていく。
かと言って、物が売れたのなら買った人が必ずいるわけで、誰も彼もが儲かるはずがない。そう言って警戒する人が出てきたのであるが、ところが、そんな時に一人の天才が現れて言うのである。
但馬曰く、
「賭博師と投資家の違いが何かわかりますか? 賭け事は誰かが損をするから儲かる、でも投資は全員が儲かるように出来てるんです。ある商品を投資家が金貨1枚で買って2枚で売る。2枚で買った投資家は、別の誰かに3枚で売る。経済が上手くいってればこのように物の価値もどんどん上がって、そうしたら全員が儲かるんです」
どう考えても理屈の通らない暴論である。
しかし、今目の前で起きていることを見ていた投資家たちは、但馬の言葉に簡単に騙された。実際に、商品市場は信じられない値段で値上がりを続けていたのだ。小麦を買って売ったお金で米を買って、米を売ったお金で大麦を買って……そうやって続けていく内に、やがて小麦に帰ってくると、小麦価格は最初の何倍にも膨れ上がっているのだ。
そうやって本当にみんなが儲かってる状況が続いている間は、冷静な意見は無視された。寧ろ、相場に水を浴びせる目的で出た嫉妬ややっかみであると忌み嫌われた。
しかし、当たり前だがその嫉妬ややっかみのほうが正しいのだ。間もなく、市場は次の節目を迎える。商品が値上がりすぎて、誰も買えなくなってきたのだ。
ところが、そこでまた天才曰く、
「買う金が無いのなら、借りれば良いのです。例えば今、小麦を買いたいなら、これから買う小麦を担保に銀行からお金を借りなさい。小麦が金貨1枚なら、金貨1枚を借りて小麦を買い、それを担保にする。でもすぐに小麦の価値は金貨2枚になるんだから、誰も損をしないでしょう?」
なるほど、それは上手い考えだとみんな思った。実際に、今は何を買っても値上がりするのだし、投資家は何もないところから売却益だけを得ることが出来る。仮に値上がりしなくっても、銀行には担保が残るのだから、誰も損をしないのだ。
もちろんそんなわけはないのだが、現実に目の前で起こってることなのだから、みんな変だなと思ってもそれ以上考えなかった。下手に逆のことを言うと嫉妬乙wwwと草を生やされ村八分だ。
しかし、ここまでやってもやがて壁にぶち当たるのだ。何しろ、投資家が取引をしているのは何らかの商品なのだから、その商品が全部担保に入ってしまえば売買ができなくなるだろう。
だからやっぱり天才曰く、
「ではワラント債(新株予約権付社債)を発行しましょう。将来性を買うのです。今、私の国ではフロンティアに向けて船団を組織しています。その船団を組織する資金を投資してください。船団は将来、ものごっついお宝を手に入れて帰ってくるに違いありません。そしたら投資家はウハウハですよ。これは来年、航海に出る船団の新株予約権。こっちは再来年の新株予約権。そしてこれが明後年の新株予約権です!」
ワラント債は売れに売れた。アクロポリスには株式会社が無かったから、その新奇性もあって、何やら物凄い事業に参画してるような気分になるらしく、特に貴族に人気になった。
すると株式会社を作れば一儲けできると考えた者たちが、何やら怪しげな事業を立ち上げては次々と株式会社を設立し、その株券を売り出し始めた。
西海会社にあやかって、ろくな航海技術も無いのに探検船団を組織する会社。最近、リディアでブームのカメラを個人にも手頃な価格で売り出すという、但馬も知らない名前の会社。これからは鉄道の時代であるから、広大なエトルリア大陸に満遍なく鉄道を敷こうという、どこの馬の骨かも分からない会社。
驚いたことに人々はそんな怪しげな会社の株に飛びついて、その株券もまた取引所で転売されては信じられない額に跳ね上がったのである。
するともう新株をいくら発行しても、最初から一般人にはとても手を出せない額で取引されるようになってしまった。シルミウムの取引所には、新株ブームに乗り遅れた人々からクレームがバンバン飛び込んできた。
「一般の人が買えないなんて不公平ですよね。僕は前々から株は高過ぎると思ってたんですよ。だから株を分割しましょう。額面、金貨1枚の株券を100分割して、銅貨1枚で買えるようにするんですよ。そしたら子供にだって買えるでしょう? 今、株を持ってる人は99株を売っても1株残る。また値上がったらその株も分割しましょうよ。僕はねえ、いつか僕の会社の株がお金みたいに使えるようになるのが夢なんだ。子供たちが僕の会社の株券を握りしめて、駄菓子屋で買い物するの。そうして流通した株を円天と名づけましょう。お金の奴隷解放です!」
株式分割は大ブームになった。分割された直後を狙って投機筋が仕掛け、値上がりを演出する。誰もが弄せずして大儲けできるから、今度はあの会社が分割するぞと言う噂が流れると、みんな値上がりを期待してその株を買いに走った。
するといくら分割しても全然儲からなくなり……
「噂に惑わされて大損こくのはですねえ、素人筋だからですよ、素人筋! 我々はねえ、投資のプロだから、そんな嘘には騙されない! 何しろ、会社の人と直接会って……おっといけないゲフンゲフン。だからねえ、投資はやっぱりプロに任せて、素人はお金だけ出してればいいんです! そこで投資信託会社ですよ。我が投信の社債を購入していただければ、毎月運用益が支払われます! 今なら新株予約権つき! お買い求めは、お近くのセ○コマで!」
投資信託会社が出来ると、市場の資金を集めて豊富な資金を背景に、様々な商品の値上がりを演出してみせた。彼らは個人では太刀打ち出来ない潤沢な資金で、いくら個人が売りに出そうと値を釣り上げ、いくら個人が買い上がろうとしてもピタリと天井に蓋をした。
すると投資信託会社に対抗できるのは投資信託会社だけになり、そういった機関投資家が次々と生まれて、アクロポリスの取引所で投資合戦を繰り広げるのであった。
但馬とアウルムは始めの投資会社を分社化し、それぞれ得意分野を決めて投資信託会社を作り、その投資信託会社の発行した社債を担保にさらに市場から資金を集め、巨大な投資グループを形成した。
但馬がなんとなく付けたエンロンと言う名前のその投資信託会社は、アクロポリス、ひいてはエトルリア皇国のありとあらゆる商品を買いあさり、その資産は地球が二三個買えるんじゃないかと言うくらいにまで膨れ上がった。
アウルムの実家、ダルマチア銀行はその筆頭株主となり、気づけば彼は世界一の金持ちに踊り出ていたのである。
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そして但馬がアウルムのところへ転がり込んできてから一ヶ月以上経過した。
年は明け、積雪はより一層深くなっていた。シルミウムはこの間も、エーリス村周辺の集落を説得し続けており、アスタクスの介入が見込めない彼らは続々とシルミウムの傘下に屈していた。
オクシデント地方の制圧はほぼ時間の問題と思われた。
しかし、天領であるオクシデントでそんなことが起きていると言うのに、皇国首都アクロポリスはのんきなものだった。このところの好景気のお陰で国中がバラ色に輝き、年末年始という時期も重なって、もはや他国の不幸などどうでもいいと言った感じのお祭り騒ぎがここ暫く続いていた。
アウルムとリリィの結婚も、既に市中に広く噂されており、今更覆せないくらいに浸透していた。お陰でそのご祝儀と言う意味もあってか、チューリップ相場は更に値上がりしており、今ではなんの変哲もない球根が金貨50枚にまで膨れ上がっていた。
それもこれも、このバブルを演出した、但馬のお陰である。
アウルムは開業前の取引所の中で、帳簿を眺めながら考えた。
『但馬を引き入れて、その彼を監視していたはずが、どうしてこんなことになってるのだろうか……? しかし、もうそんなことはどうでもいいだろう。この唸るような現金を前に、細かいことなど気にするほうがバカバカしいのだ。それよりも、今日はどの会社を買おうか? それとも新たな新株を発行して、また愚かな一般庶民から金を吸い上げようか……』
彼がそんな風に、高級ーヒーをすすりながら、愚民どもを嘲笑っている時だった。
「アウルム様! 大変です! アスタクス軍がオクシデント地方へ向けて進軍中ですっ!」
「なんだとっ!?」
従者が駆け込んできてそんなことを言うので、アウルムは思わず椅子から転げ落ちそうになった。
何しろ金勘定に夢中になるあまり、アスタクスのことなどすっかり忘れていたのだ。と言うか、方伯が生きていることすら忘れてた。彼らはアナトリア帝国に首都を抑えられて、身動きが取れないはずなのだが……
「但馬はどうしている!? 至急、ホテルから呼んでこい!」
「そ、それが、但馬様は今朝からどこにも見当たらず……」
「馬鹿な!? 監視の目は怠るなとあれほど言っていただろう!」
「申し訳ございませんッ!」
アウルムが手近にあった灰皿を投げつけると、従者は額から血をだくだくと流し、直立不動の姿勢を取った。
アウルムはハッとした。小さい頃から付き従っている者だ。その手並みは知っている。こんな失態を犯すような男ではないはずだ……
アウルムはふぅ~……っとため息を吐くと、冷静さを取り戻すように自分に言い聞かせた。あまりやりすぎると、従者に恨みを買ってしまう。
「いや……相手を考えれば、こんなこともありうるのか」
第一、従者を叱るよりも、もっと他に考えねばならないことがあるだろう。
沈黙していたアスタクスが動き出して、それと同時に但馬が消えたとなると、彼らが結託してオクシデント地方のシルミウム軍を攻めようということなのだろうが……
しかし、話し合いすらままならない今の状況で、それは解せないだろう。但馬はここ一ヶ月以上、ずっと監視されていたのだ。
アウルムが帝国軍の動きを尋ねる。
「それが、アナトリア帝国軍はビテュニアから一歩も動かず、沈黙を守っているようです」
「どういうことだ……?」
アスタクス単独で動いているのだろうか。それともそう思わせておいて、何かの罠を張っているのだろうか。しかし、いくら考えてもそんな罠など何も思い浮かばない。
そもそも、それじゃあ、ここ暫くの好景気はなんだったのだ?
但馬が見たことも聞いたこともないような手段を次々と繰り出したお陰で、皇国は大いに潤い、シルミウムはより一層豊かになり、気がつけばアウルムは世界一の大企業のオーナーになっている。
もしも裏切るつもりであったなら、最初からこんなことする理由がないではないか。
アウルムは首をひねりながらも、取り敢えずエーリス村へ伝令を送った。もしも衝突することになるのなら、本陣に入るのは今作戦を任された自分である。
戦争などやった経験はない。武力衝突はないと踏んで引き受けたが……もしも一戦交えることになったら、自分は勝ち切れるのだろうか。
アウルムはブルブルと震える手を、これは武者震いなのだと言い聞かせていた。