BIOSPHERE 2.0 ⑤
皇王の話によると、勇者は晩年、世界樹とこの世界の秘密を解き明かすことに執心していたようである。聖女リリィが1000年前、何をしていたのか。そして、どうして但馬のような存在が生まれたのか。残念ながらそれに明確な答えは見いだせなかったようだが、彼は世界各地の世界樹の遺跡を調査する過程で、失われた過去の文明の記録の断片を、いくらか取り戻していたようだった。
曰く。この世界はやはり、ガンマ線パルサーとなったベテルギウスの影響で、一度滅びているらしい。
21世紀のある日、何の前触れもなく唐突に起きたベテルギウスの終焉は、遠い太陽系に甚大な被害を及ぼした。運の悪いことに、ベテルギウスが崩壊する際に発した大量のガンマ線を浴びた地球は、浴びた面が吹き飛び、その反対側にも、続く混乱をもたらした。
ガンマ線の直撃を受けた人々はほぼ即死し、地球上は猛烈な電磁波の影響で壊滅状態に陥った。通信が麻痺し、発電所が停止し、交通網は遮断され、流通が滞り、犯罪が激増し、それからの数ヶ月間は北斗の拳の世界みたいな、どうしようもない日々だったようである。
それでも人類がどうにか落ち着きを取り戻せたのは、インターネットが生きていたからだった。地球上は電磁気的に絶望的な被害を被っていたが、海底ケーブルでつながっている有線通信網はまだ生きており、電力が回復するに従ってそれが判明すると、パニックに陥っていた人々は、未曾有の危機に対処すべく対立をやめ、ついに人類は歴史上初めてにして唯一の世界政府を発足するに至ったのである。
世界政府は人類に残された知識を結集し、知恵を絞った。
その結果判明したのは世界人口のおよそ8割が失われたことと、農林水産などの第一次産業が壊滅的な被害を受けて、人類が食糧危機に陥りかけていることだったが、とにもかくにも、どうにかその危機を脱した人類は、電磁波の影響の強い地上を捨てて地下に潜ったのである。
だが、残念ながらそれで何もかも解決とはいかなかった……
地上の被害状況を調査していた世界政府は、ある日、天体の異常に気がついた。地球と月の距離が、明らかに異変前よりも遠かったのだ。
地球と月が、年間3センチずつ離れていっていることは、昔から知られている現象である。月は今後、50億年をかけて地球の引力を脱して安定すると言われている。その月の離れる速度が、パルサーの影響で極端に加速されたようなのだ。
おそらく、大量のガンマ線と地球の磁場が影響し合い、月に摩擦のような力を加えてしまったのだろう。このまま行くと1万年後には、月は地球の重力圏から脱してしまうのだという。これは非常に由々しき事態であった。
月が地球から離れていくことの、何がそんなにまずいのだろうか。
いつかみたいに回転する天体の運動を、フィギュアスケーターに例えてみよう。
スピンするスケーターはそのスピン中に手を広げたり閉じたりして回転速度を切り替えている。スピンしているスケーターが腕を体にピッタリとくっつけると、スピンは速度を増し、逆に腕を広げるとスピンはゆっくりになる。
スケーターが腕を伸ばせば伸ばすほどスピンの速度は遅くなり、仮にスケーターの手が10メートルくらいまで伸びたとしたらどうなるだろうか。きっと傍目には動いてるのか止まってるのか分からないくらいに、その回転速度は遅くなるはずである。
ところで、地球と月は重力で繋がっており、それは目には見えない紐で繋がれているのと変わりがない。
今度は地球を室伏アニキ、月をハンマーに例えてみよう。ハンマーは、室伏アニキに引っ張られているから彼の中心にして回るが、月も同じく地球に引っ張られているから地球を中心にして(ホントは楕円軌道だが)回転する。
この時、アニキが振り回すハンマーの紐が伸びたらどうなるだろうか? フィギュアスケーターの時と同じように、アニキの回転は遅くなるだろう。つまり、月が遠ざかったら、地球の自転は遅くなってしまうわけである。
地球の自転が遅くなって困るのは、何も一日の長さが長くなることだけではない。
通常、回転体は高速に回転するほど安定であり、遅くなると不安定になる。独楽を思い浮かべて貰えばわかるが、回してすぐの高速に回転している状態では、壁に当たっても床が動いても独楽は倒れないが、回転が鈍くなってくると、グラグラと揺れて自然に倒れてしまう。
つまり地球の自転が遅くなれば、その自転軸が不安定になる。また、遠心力も弱くなるから、赤道上に集中していた海水が極地へと流れ始める。すると地上は地震と洪水に見舞われて、生物が生息していられなくなる。
以上の理由により、地下へと逃れた人類は、地球を脱しなければならなくなった。
彼らは更に人口を減らして宇宙へと逃れた。静止軌道上にコロニーを作り、吊り下げ式の軌道エレベーターを使って地上と行き来した。地球は人が住めなくなってしまったが、それでも人類にとって地球は故郷であり、資源の宝庫でもあった。
その後、世界政府は長い停滞の時期を迎えることになる。地上からも追い出された人類は、インターネットを失い、そこに蓄積された知識をも失った。
暗黒時代の到来である。
しかし、ペストの大流行がルネッサンスを誘起したように、追い詰められた人類の中で、なんらかのブレイクスルーがあったらしい。コロニーに閉じ込められた人類は、やがて惑星間航行技術を取り戻し、太陽系へと散らばっていった。
そうして太陽系内を自由自在に動き回れるようになった彼らは、他の惑星から衛星を運んできて、離れ行く月の釣り合い重りの代わりにした。
この2つの月によって、月の公転軌道は安定的となり、結果として地球の自転軸も安定するようになったのである。
さて、こうしてまた穏やかな地上を取り戻した人類であったが、彼らは故郷へとは戻らなかった。太陽系を自在に移動できるようになった人類は、その時にはもう太陽系外への航行も可能になっており、地球にこだわらなくても良くなっていたのだ。
それに、長く続いた天変地異のせいで地上は未だに壊滅状態であり、南極大陸が赤道上にあったり、テラフォーミングが必要であったりして、人が住める環境になるまで時間がどれだけかかるかわからなかったのだ。
そのため、殆どの人類は太陽系を捨て、外の星系へとその拠点を移していった……
しかし、中には地球に残るという選択肢を選んだ者たちも居て、その人達が過酷な環境に耐えるために、世界樹のシステムを作り上げ、自分の体を改造し、エルフになったわけである。
さて……それからどれくらいの月日が過ぎたかは分からない。
地球に残った人類は、その殆どがエルフとなって今のロディーナ大陸で暮らし、少数のオリジナルの人類がセレスティアの地で細々と暮らしているという分布で、この地球上に生存していた。
エルフとなった者達はその人間性を失い、もはや文明的な生活は望めなかった。それじゃオリジナルの人類はどうだったかと言えば、彼らは彼らで過酷な環境で暮らしていく内に、また暗黒時代に逆戻りして、かつて栄華を誇った地球の科学文明は崩壊した。
そして、そんな時にまた新たな災害が人類を襲うことになったのである。
全球凍結である。
20世紀末に提唱された仮説によれば、地球は22億年前と6億5千万年前の二度、全地表が厚さ1キロもの氷に覆われた時期があったと言う。これを全球凍結仮説と呼び、現在、地球史の主流となっている仮説である。
物体はそれを形成する分子の振動の大きさによって温度が決定する。分子の振動が大きければ大きいほど温度は高くなり、振動が激しさを増せば、ついに結晶を維持できなくなり、液体、気体へと変化する。
ところで一般的に物質とは、鉄板や石などの固体ほど温度を通しやすく、空気のような気体は通しにくい。
熱せられたフライパンを指で触れば、アツゥイ! っとなるが、そのフライパンのすぐ近くに手をかざしても、暖か~いくらいで済む。サウナは気温90℃くらいあるのが普通で、その中に居ても誰もヤケドをしないが、90℃のお湯につかれば人間は死んでしまうだろう。
これは、固体や液体は分子同士が密に集まってて、すぐ隣にある分子同士が振動を伝えやすいからだと考えられる。対して、気体は空間を飛び回り広く分布してるから、振動=熱が伝わりにくいのだ。
このように、物体は振動を伝え合う媒質があって、初めて温度に変化が生まれるから、魔法瓶のように周りを真空で囲ってしまえば、中に入った物体は温度を外へ伝えることが出来ない。だから、魔法瓶の中身はいつまでも暖かい(もしくは冷たい)ままでいられるというわけだ。
ところで、地球は太陽の熱を吸収してその気温を保っているそうだが、地球と太陽の間は宇宙空間という真空である。それじゃ、どうやって太陽は熱を伝えているというのだろうか。
実は熱……つまりエネルギーは、物体の振動だけではなく、光によっても伝えることが出来るのだ。
光の正体=電磁波は質量のない光子とよばれる素粒子の一種であり、光子はなんらかの物体に到達すると、その物体の原子に吸収され、激しく電子を振動させるという性質がある。
原子は電子を振動させたあと、すぐまた光子を放出(いわゆる反射)し、激しく振動していた電子も元の状態に戻る。こうして宇宙から飛んできた太陽光は地上を反射してまた宇宙に戻ろうとするが……地球の表面には大気の層があって、太陽の光が宇宙に逃げようとする際、その大気に含まれる二酸化炭素やメタンなどのガスが光子エネルギー(主に赤外線)を吸収するから、大気は気温を一定に保てるのだ。
この、地表から逃げようとするエネルギーをより良く吸収する気体を、温室効果ガスと呼ぶ。地球温暖化の犯人として、悪いイメージが根付いてしまっているが、実はこれがないと、地球の表面は温度を保つことが出来ず、極寒の宇宙空間と同じ寒さにまで気温は下がってしまうのだ。
さて、昨今ではこの温室効果ガスが増えたことが問題になっているが、逆に減ったらどうなるのだろうか?
当然、地球全体の気温が下がり、寒冷地からどんどん人が住めないような気温になっていき、ついには北極や南極の氷が勢力を増して大陸をも覆い始め、世界全体が分厚い氷に包まれることになるだろう。
実は地球上で太陽エネルギーを最も吸収してるのは海水なのだが、この海水も、凍ってしまうと逆に光を反射してしまうようになるので、こうなってしまうともう、太陽の光で地球の氷を溶かすことは不可能になってしまう。
さて……ここから先の正確なことは、勇者にも良くわかっていないようだが、1000年よりももっともっと昔の話。ロディーナ大陸は一面の緑におおわれ、そこにはエルフしか暮らしていなかった。
エルフは自分たちの生存戦略のために、大陸中に世界樹を建造し、大気にマナを放出していったのであるが……
ところが世界樹は光合成エネルギーを用いてマナを生成する関係上、光合成を行うために極端に二酸化炭素を吸収する性質があった。
それが大気中に満遍なく広がるほど大量にマナを生成したものだから、大気中から吸収された二酸化炭素量は尋常でない量に上った。
そのせいで、エルフが生存圏を広げるその過程で、大気と海水の間で飽和する二酸化炭素量のバランスが崩れたのである。
結果、極地から徐々に寒冷化が始まり、その勢いはぐんぐんと増し、ついにセレスティア(南米大陸)の大地を白く覆い尽くし、凍った海水はいよいよロディーナ大陸にまで届こうとしていた。
しかし、人間性を失ったエルフには、もはやそのような危機に対処するほどの能力が無かった。彼らは日々を漫然と生存することだけに費やし、世界で起こっていることの一切に、興味が向かなかったからだ。
従って、エルフはもうじき、自分たちが滅亡するというのに、のんきに何もしなかったのである。
そんな中……衛星軌道上には神に準じる何か、であるところのリリィが存在しており、彼女は今まさに滅亡の危機に瀕している人類を目の当たりにして、何とかそれを食い止めようと考えた。
そうして彼女は人間に模して自分のアバターを作り、セレスティアにいたオリジナル人類を率いて、ロディーナ大陸の世界樹とエルフを駆逐すべく、地上に降り立ったのである。
これが、この世界の滅亡と再生の物語であり……
その後1千年以上続く、人類とエルフの戦いの始まりであった。





