欲のない人
チューリップの買い付けをしていたら、見知らぬ出品者の少女からお兄ちゃん認定をされた。何がなんだか分からずに戸惑っていると、騒ぎを聞きつけてイケメンがやってきた。
その鼻の高さといけ好かなさはどちらの方が上であろうか、こいつの場合はきっと高校時代にホラッチョとか呼ばれていた口である。きっとそうであるに違いない。
妹に対する魅力よりもイケメンに対する憎悪の方が勝った但馬は、急速に冷静さを取り戻していくと、すがりつく少女を強引に引き剥がし、強い口調で突き放した。
「連れと言ったな。いいや、違う。俺が違うと言っても、彼女が俺の知り合いだと言い張ってるだけだ。この取引所ではこう言う営業を行ってるのか?」
「滅相もありません。あなたは、チューリップの出品者ですか? 強引な勧誘は退場していただくのが原則ですが」
「す、すみません。もうしませんから、許してください」
少女はまだ何か言いたげな顔をしていたが、空気を読んだのか、シュンと項垂れると元いた席へと戻っていった。実際、この少女が何者かは但馬も気になったが……イケメンの登場の仕方を考えると、もしかしたらこいつらはグルかも知れない。そう思ってもう気にしないことにした。もしくは、宝くじに当たった時に現れるという遠い親戚とか、その類だろう。
その後姿を見送っていると、イケメンが隣に並ぶ。
「中々可愛らしい娘ではありませんか。本当にお知り合いでは無かったので?」
「いや、完全に人違いだ。そう言ってるんだが話を聞いてくれなくてさ。どうも俺にそっくりの知り合いがいるらしいんだが……」
「へえ……ゴネれば但馬様が買ってくれると思ったのでしょうか? いや、妙ですね。今、この街にあなたが居ることを知ってる者は殆ど居ませんし、その顔までとなるとかなり限定されますよ」
「……おまえの仕込みじゃないの?」
「とんでもない。今日のは本当に偶然ですよ。この取引所は、我がシルミウム国が運営している海外拠点でして、アクロポリスに居る時は、いつもここで仕事を押し付けられているのです」
「ふーん……ところでいま、今日のはって言ったか?」
但馬がジロリと睨むと、イケメンは口が滑ったとばかりに苦笑し、口の前でばってんを作ってみせた。
「やっぱり、昨日、偶然を装ってたけど、俺のこと知ってて近づいてきたんだな」
「いきなり馴れ馴れしくても嫌がれるかと思いましてね。昨日はご挨拶までに」
「安心しろ、十分嫌がられてるよ」
イケメンだからな。
それにしても、早速こうしてハイエナどもが近寄ってきたと言うわけだ。大方、ヒュライアを通じて、但馬の面を確認していたのだろう。調停自体は、シリル殿下の話では議会も認知しているようだから、シロッコやザビエルが言ってたように、これから各国の要人に動きもあるだろう。
問題は、こいつが何を考えているかだが……
「そう言わず、もしもシルミウムにご用向きがある場合は、是非当家にご要望を」
「シルミウムとは仲良くしたいと思ってるけどね。外交筋通して、正式にお付き合いをしたいんであって、ぽっと出の男とイチャイチャする趣味はないんだ」
「困りましたね、取り付く島がない」
「本気で俺に何かして欲しいなら、真正面から来るべきだったな。俺は商人だから、その門戸は誰に対しても開いてるつもりなんだぜ」
「同じ商人としては耳が痛いですね……」
イケメンは男爵であるはずだが、貴族ではなく商人を強調するところを見ると、シルミウムという国の気質が窺える。そう言えば、初めて会った時も言っていたが、シルミウムだと漁師か商人でなければ一人前ではないらしい。
「そういや、家業はなにやってんだい?」
「我がダルマチア家は代々、シルミウムの金庫番として金融業を営んでおります。その関係で、先代の娘である私の母とシルミウム方伯との間に私が生まれたんです」
「金貸しか」
「身も蓋もない言い方をすればそうですね。他にもこの取引所の運営や、証券や債権の取引などを行っておりますが……」
「ふーん……」
別に金貸しであることを卑下することはないと思うのだが、どうも彼自身はあまり自分の家業が好きでは無いらしい。まあ、但馬も実業家として銀行と付き合っていると、時には目の上のたんこぶのように思える時もあるし、世間一般では賤業として見られがちなのだろう。確か、銀行家にユダヤ人が多いのは、彼らが差別されていたからだそうだし。
ともあれ、彼が金貸しであるならば話が早い。
「じゃあ、ちょっと金貸してくれないか? 実は手持ちが少なくて、さっきから欲しいものが買えなかったんだ」
「おや……あなたほどの方が買えない物があるなんて」
「そんな唸るような額を借りたいわけじゃないよ。現金は持ち歩かない主義なんだ。リディアに居れば小切手で済んじゃうからさ」
「ああ、でしたらその小切手を担保にご融資しましょう」
「……換金してはくれないんだね」
「商売ですから」
イケメンは、しれっとそう言うと、唇だけで笑った。
仕方ない。手数料だと思って諦めるしかないだろう。
但馬は肩を竦めると、カバンの中から小切手帳を取り出した。そして額面にいくらを書き入れようかと思案にくれていると……
ざわざわと、急に辺りがどよめき出した。何事か? と思いきや、
「……玉葱とクラリオン」
あちらこちらでそんな呟きが聞こえてくる。どうやら、周囲のトレーダー達が、但馬の小切手に印刷されたS&H社の社章を見て、彼が誰であるかに気づいたらしい。
イケメンは取引所の運営者であるそうだし、その彼が話している相手が何者なのか、周りの者達はずっと気になっていたのだろう。話に夢中になるあまり、周囲の様子に気づかなかったが後の祭りである。
あまり目立ちたくは無かったのだが……
いや、目立ってしまったなら、目立ってしまったで、それはそれで利用させてもらおう。
但馬は小切手に額面を書き入れると、さらさらとサインをして、ビリっと破り取った。
「……金貨100枚ですか。結構な額ですね」
「いや、気が変わった。その100枚で、金貨1万枚を融資してくれないか」
取引所内に更なるどよめきが起きる。好景気とは言え、みんな金貨一枚単位で売買をしているところに、いきなり1万枚である。一体、何をするつもりなのかと、その場に集まっていた者達はトレードを行う手を止めて、但馬の動向に釘付けになった。
しかし……
「いくら但馬様とは言え、金貨100枚でその100倍の融資は出来ませんよ。ですが、あなた様ほどの方ですから、大負けに負けて1000枚ほどならなんとか……」
「いや、そうじゃないんだ。証拠金取引がしたいんだ」
「証拠金取引?」
……とは、FX(外国為替証拠金取引)でお馴染みのトレード法である。
通常の株式などの信用取引は、株や保証金を担保に証券会社からお金を借りて投資をするが、証拠金取引はこれを値動きに対して行うのである。
相場が変動する取引ならどんなものでも損得が生まれるが、このとき生じる損得の大小は、取引額に比例する。
例えばある時、とある100円の商品の価値が上がって110円になったとしよう。すると100円の時に商品を買っていた人は、10円得する事になる。更にもし、100万円分その商品を買っていたなら、10万円得することになる。
当たり前だが、沢山買えば、沢山儲けが出るのだ。
だからみんな、確実に儲かる投資があるなら、沢山のお金を投資したいと思うわけだが、ところが個人だと100万円を用立てることだって中々難しい。そこで銀行や証券会社にお金を借りようと思うわけだが……個人の信用なんてたかが知れているから、金融機関はそれほど沢山は貸してくれないだろう。
だからもういっそ借りないことにして、お金を出すから代わりに投資をしてくれるようにお願いしたのが、証拠金取引である。
例えば、今1ドル=100円で取引されているとして、トレーダーは10万円を証拠金として渡すから、銀行に自分の代わりに100万円分のドルを買ってとお願いする。一見90万円の融資をしているように見えるが、投資自体は利益を確定するまでは損得は生じない。
だからもし、円安が進んで1ドル=110円にでもなったら、トレーダーは10万円の証拠金で10万円の利益を得ることが出来、逆に円高に進んで1ドル=90円になってしまったとしても、トレーダーが証拠金の10万円で損失を埋めるので、銀行は損をしないで済む。
損失は常にトレーダーがカバーしてくれるから、銀行は絶対に損をせず、手数料の分だけ得をするので、2000年以降に大流行したのがFXなわけである。
但馬はこれを行おうとしているわけだ。
「……なるほど。損失が出た時点で自動的に売ってしまえば、私は全く損をしないで済むということですね」
「そう言うこと。俺は金貨100枚で1万枚分の取引が出来るから、儲けは100倍。ウィン・ウィンの関係ってやつだ」
「ウィン・ウィン……? なんだかわかりませんが、わかりました」
イケメンがぱちんと指を鳴らすと、彼の従者が本気なのか? と言った顔をしながらも、主人の命令を忠実に果たそうと走っていった。彼にはイマイチ、この取引方法が馴染めないようである。
尤も、主人の方は逆にこの新しい方法に興味津々の様子で、
「それで、但馬様。本日はどのような取引をなさりにおいでくださったので?」
「いや、元々は俺じゃなくって……」
と言って、背後に居るはずの食通を指差そうとしたら、野郎は仲買人と遠巻きに知らんぷりしていた。まあ、これだけ目立ってしまったら、中心にいるのは嫌だろう。
「……知人のチューリップを弁償しにね。ちょっと見にきたんだけど」
「なるほど。今、一番活況な商品ですよ。大々的に投資なされるなら、私からもオススメしますね」
「そうみたいだな。でも、投資するのはこいつじゃない。小麦だ」
「小麦ですか?」
実は、但馬は取引所に入った時から気になっていた。チューリップの高騰ぶりに目を奪われがちだが、他の一般的な穀物相場も相当不穏な動きをしている。特に小麦の高騰ぶりは顕著であり、リディアの相場の3倍以上の値がついていたのだ。
これは恐らく、この世界の最大の小麦生産地であるガラデア平原が戦場となったことで、来春以降の収穫量が減ると見た商人たちが先物市場で強気な買いを入れているのが原因だろう。
「ははあ……なるほど。その戦争が終結するから、これから小麦相場が下落するというわけですね」
イケメンがそう呟くと、周囲の者たちがまたどよめき出した。
「宰相……」「但馬波瑠……」「戦争調停が……」
あちこちからそんな声が漏れ聞こえてきて、気が付くと小麦相場が小刻みに動き始めていた。
どうやら、イケメンのつぶやきを聞いて、他のトレーダー達が小麦に売りを入れ始めたようである。彼らは、但馬が何者であるのかを知っているから、そんな但馬が相場に関心を示したことで、小麦相場の高騰が終わると確信したのだろう。
だが、
「いや、コールだ」
但馬は逆に小麦の買い付けを行った。
彼に先んじて売りに行ったトレーダーたちが、いきなり踏み上げられて仰天している。
イケメンも驚きの顔を隠せず、
「コール……? コール……買いですか!? 既にこれだけ高騰している小麦が、更に上がると……? 本気ですか?」
「ああ」
「そんなバカな……何かの間違いでは?」
「目の前の本人がそう言ってるのに、間違いも糞もあるかよ。いいから買いやがれ」
「わ、わかりました……では、いかほど買いを入れれば……」
「そりゃ、全部だよ。金貨1万。全部小麦にぶっこんじゃって」
但馬のセリフに、さしものイケメンもその端正な面を歪めた。彼には但馬が何を考えているのか分からなかった。彼の従者がどうする? と言った顔で主人の命令を待っている。イケメンは暫く冷や汗を垂らしながら、逡巡していたようであるが、
「買いだ」
彼の命令と同時に、彼の従者たちが一斉に小麦の買い付けを行い始め、取引所は耳をつんざくような怒号に満たされた。
あちこちで悲鳴のような声が上がり、隣の者の声すらよく聞き取れない。地面が揺れているかのような大音響で、次々と注文が読み上げられる。
「……私は、損をしないはずなのだ」
イケメンがつぶやく。但馬は黙って腕を組んで、相場の動きを見守った。
但馬の無謀な買いが入ると、相場は最初のうちは乱高下をした。だが、直ぐに下降に転じると、どんどんどんどん値を下げていった。それはほぼ一直線と言っていい勢いで、但馬が最初に積み上げた値幅はあっという間に尽きて、損失へ転じた。
誰も信じられなかったのだ。但馬も言及した通り、昨今の小麦相場は海を挟んだリディアの3倍にも上り、明らかに異常であった。誰もが、いつ下落に転じるかと思っていたくらいだ。
それを、金貨1万枚などという、目ん玉が飛び出るような買いを入れられたのだ。みんなこれ以上値が上がるなんて考えたくも無かったのに。
だから初めはみんな一斉に小麦を売り始めた。
しかし、但馬の投資が含み損に転じ、その損失額がどんどん金貨100枚へと近づいていくに連れ、下落の勢いは徐々に徐々にと収まっていった。そしてついに彼の設定した自動売却ラインに達しようとしたとき……
ふと、但馬が懐に手を入れ、自分の小切手帳を出した瞬間……
相場は猛烈な勢いで上昇に転じた。
「但馬波瑠……」「S&H社……」「アナトリア帝国……」
但馬を表す単語があちこちから聞こえてくる。彼らがこれ以上の値上がりが信じられなかったのは本当だ。だが、それでも目の前に居る男の自信満々な顔には抗えなかったのである。
この男は下手したら世界一の大金持ちなのである。
そいつが絶対に上がると言って買いを入れたのだ。もしもこれ以上値が下がったら、彼は喜んで追加の買いを入れるのだろう。それは、ここにいる全員がすっからかんになるまで続くに違いない。それに逆らってどうすると言うのか。
小麦相場は上昇に転じ、あれよあれよという間に元の値の倍近くにまで膨れ上がった。
リディアの相場の6倍である。
集まっていた人たちは自分たちが何をやっているのか分からなかった。だが、それでも買いを入れることをやめられないのだ。
但馬は周囲の視線が突き刺さる中、値動きが鈍くなってきたところで軽く売りを入れて、はじめに渡した証拠金を取り返した。いよいよ売りに転じるのか? と思っていた人々は、彼がそれ以上売るつもりがないのを見ると、ショックを受けつつも、なんだか安心してしまったようである。相場はまた緩やかな上昇を描き始めた。
それを尻目に……但馬は手にした現金をチャラチャラと鳴らしながら、最初にいたチューリップの取引所へと足を向けた。
さっきからとんでもない注目を浴びている男が近づいてくると、チューリップ売りの少女は最初の時とは逆に、彼から視線を逸らしてうつむいた。
「よう。まだ俺のこと、君のお兄ちゃんだと思う?」
「……ううん。お兄ちゃんなわけないわ。きっと何かの間違いだったのよ」
「そうだろうとも」
但馬はそう言うと、金貨10枚を彼女に手渡し、代わりに赤と白の花を咲かせる球根を手に入れた。それを見た他のトレーダー達が、次はチューリップだと言って、次から次へと殺到した。
イケメンが感嘆のため息を吐いている。但馬は彼の横を通り過ぎるなり、
「……小麦は適当に手仕舞っておいてくれ。今は、みんなチューリップに夢中だから」
彼の耳に囁いて、店の奥でポカーンと一連のやり取りを眺めていた食通の元へと向かった。
食通は但馬からチューリップの球根を受け取ると、
「むほー! むっほー! 本当に良いのであるか? 我の球根とこれとでは、価値が倍も違うのだぞ!?」
「あぶく銭で買ったものだから別にいいよ。それに、どうせそれだって育てもせずに売るつもりなんだろ?」
「む……まあ、そうなのであるが」
「儲かったら何か奢ってくれよ」
但馬はそう言って食通の肩をポンと叩くと、上機嫌で酒を注文する彼を置いて取引所から外へ出た。
建物内の熱気が嘘のように、外は相変わらずの雪景色だった。気がつけば雪はサラサラの粉雪に変わっていて、人が通り過ぎるたびに、地面に落ちた白い粉がふわりと舞った。
取り敢えず、いい暇つぶしになった。
但馬があくびを噛み殺しながら、エリックの様子も気になるし、一旦ホテルへと戻ろうと足を踏み出した時だった。
「待ってください! どうしてあんなに強気な取引を行えたのですか?」
ハアハアと息せき切って、イケメンが店から飛び出してきた。
「まるで、何が起きているのかあなたにはわかっているみたいだ」
但馬は振り返ると肩を竦めて、
「いや、何も分かってないよ。損失覚悟でぶっ込んだだけさ。殆どギャンブルだった。ただ、強いて言うなら……逆らわなかっただけさ」
「……逆らわなかった?」
「トレンドに逆らわなかっただけだ。相場は明らかに上昇傾向だった。だからみんな、俺が自信満々で買いを入れたら、戸惑いながらも結局買いに転じたろう。みんながあの相場を求めてたんだよ。もうこれ以上は上がらないと言っておきながら、心の奥底ではもしかしてって……そう思ってたんだ」
「……それだけ?」
もちろん、それだけではないが、理由と言ったらこれが大半を占めた。この相場はおかしい、バブってる。もしもバブルなら、この上昇相場には逆らえない。そう確信していたからだ。
おかしいと言えば小麦がリディアの3倍に膨れ上がってる時点でおかしいのだ。元々、リディアは土地が狭く、農業には向いていないのだから、穀物相場は皇国のそれより高いのだ。それが逆転してるだけでもおかしいのに、3倍である。
だから但馬はこれを見た瞬間、ちょっとしたバブルが起こってると考えた。それを裏付けるかのように、チューリップ狂のような出来事も起きている。きっと長引くアナトリアとの戦争で、アスタクス方伯が調達した戦費が、巡り巡ってここへ集中していたのだろう。
リディア国債や西海会社株があるのを見ると、イオニア海交易で膨れ上がった資金も流入しているはずだ。
そうしてぐるぐる循環した金がこの国でバブル経済を形成し始めた。バブルというのはその名の通り、実態が無いから天井も見えない。あるのはただ上昇するという強い意志のみであり、こんなものに逆らおうとしても、世界一の金持ちであっても太刀打ち出来ないのである。
チューリップ狂の例をとってみよう。普通に考えればたった一個の球根が、あそこまで高くなるだろうか。きっと軽自動車くらいの値段まで上がったら、誰だっておかしいと思って売りに転じたくなるだろう。ところが、実際にそれは家が買える値段にまでつり上がったのだ。軽自動車の値段で売ってしまった者は、みんな大損だ。
だからバブルが起こった時、我々が取れる手段は買いしかない。どこまで行けば天井なのか誰にも分からず、心臓の痛みに耐えながらも上値を追い続け、来るべき崩壊の日を待つことになる。
バブルが弾けた時、人々に為す術はない。それまではみんなが買い手だったのだから、お金の続く限り買えばよかった。だが今度はみんなが売り手なのだから、買い手が存在しなければ誰も何も売ることが出来ないのだ。
「あなたはこれ以上値が上がると?」
「ああ。まだ相場は上昇すると思うよ。でも上値を追うときりがない。そして崩壊はあっという間に訪れる。ちゃんとプラスで取引を終えれたんだから、それでいいじゃない」
イケメンは感心したようにため息を吐くと、
「欲のない人だ」
「とにかく、これで借金は返したぜ?」
「お待ちを! 小麦相場の儲けがありますよ。今、使用人が持ってきますから」
「いいよいいよ。お前にくれてやる。どうせ、他人の金で派手に遊んだだけなんだし」
但馬はそう言うと手をヒラヒラさせて、今度こそその場から去ろうとしたが……
「……あなたは、アスタクスをどうするおつもりですか?」
その背中に、落ち着いた声が投げかけられた。どうやら、ようやく本題に入ったらしい。但馬がくるりと振り返ると、彼の返事を待たずにイケメンが続けた。
「知っての通り、アスタクスはかつてその野心を皇国に向けて、世界中と対立しました。そんな過去がありながらも、彼らは広大な食料庫と人口を前面に立てて、今でも我々を威圧してきます。そのお陰で、彼らは各国からものすごく嫌われています」
「みたいだな」
「分割しませんか?」
するとイケメンは、これまで見せたことのないような残忍な表情を見せた。こいつの顔から余裕を取ったら、中身はこんなものだったのだろう。
「アスタクスを解体し、アナトリア、シルミウム、ロンバルディアの三国で分割統治するのです。事あるごとに他国を武力で威圧し、あまつさえ今回のように戦争までふっかける野蛮な国を、このまま野放しにしておくわけにはいかないでしょう」
往来を行き交う人々が、チラチラとこちらを見てから通り過ぎる。きっと、こんな場所で話すようなものではない。
「あなたにその気があるなら、ロンバルディアは絶対に乗ってくるはず。ご一考を」
イケメンは言葉短にそう言うと、慇懃丁寧なお辞儀をしてから建物の中へと戻っていった。
但馬はその背中を冷たい視線で見送ると、フンッと鼻を鳴らして、今度こそその建物から離れた。
「アスタクス解体……ね」
そうすれば、もう二度と帝国はアスタクスに苦しめられることはないだろう。
南部諸侯はきっと帝国に付くだろうし。ロンバルディアとの仲にも影響は出まい。
調停を行っている皇国は嫌がるだろうが、まだ何も決まってないのだから文句も言えまい。
「でもきっとブレイズ将軍は激怒するだろうな……」
あの爺さんが顔を真っ赤にして但馬を非難する姿を想像して、但馬はげんなりした。
但馬達が陰謀でアスタクスを窮地に追いやっても、彼らがなんの抵抗もせず国を明け渡すはずはない。きっと死を覚悟してでも最後の抵抗をしてくるはずだ。そして、そう言う兵士は強い。
それに、解体したあとの選帝権や方伯自体はどう扱えばいいのだろうか。そういうことまで考えると、面倒事しか思い浮かばない。
……いや、それを差し引いても、なんだかしっくり来ない。
「そもそも後から出てきて上前だけよこせってのは虫がよすぎるだろう」
但馬はプルプルと頭を振ると、そんなこと考えるまでもないと、自分に言い聞かせた。