チューリップ狂
チューリップ狂とは、17世紀、黄金時代のオランダで起きた、歴史に記録される限りでは最初の投機バブル騒動である。
バブル経済自体は、14世紀にはフィレンツェやジェノヴァに証券取引所が存在していた事実から、以前にも度々起こっていたことは疑いようがないそうだが、歴史として事細かに記録されたのはこれが最初である。
当時のヨーロッパはヨーロッパ全土を巻き込む大戦争、30年戦争の真っ最中であり、その戦費調達のために資金が市場にダブついていた。それが好況のオランダに集中したわけだが、バブル経済の常として、何を買っても値上がりするものだから、やがてその証券自体を担保に銀行が融資を開始し、市場には実態のない額面以上の金銭が流通するようになってしまった。
いわゆるレバレッジの発見により、現物のやり取りのない先物市場で、現代のようなマネーゲームが繰り広げられてしまったわけである。
取り分け、当時オスマン帝国からもたらされたばかりのチューリップは、その可愛らしさから貴族に人気であり、その人気による価格変動に目をつけた商人たちが、チューリップに投資を開始すると、あれよあれよという間に相場は天井知らずの上昇を始めた。
そしてピーク時にはなんとたった一個の球根が、当時の平均的な職人の稼ぎ10年分以上にまで上昇してしまったらしい。仮に現代のサラリーマンに当てはめると、4千万から5千万円。これはチューリップ畑の価格ではなく、球根一個の値段なのである。
しかし、バブルの終焉などいつの時代も同じで、その最後もまたあっけないものだった。
1636年の年末に掛け高騰し続けていたチューリップ市場は、なんらかの切っ掛けで売りが殺到すると、1637年2月、突如として暴落を始めた。その勢いは凄まじく、あれよあれよという間に5月には最高値の十分の一にまで下落した。
その間、支払い能力を失った人々がオランダ政府に助けを求めたが、政府の介入も意味を成さず、元々、チューリップ相場を当てにした借金は担保自体がチューリップだったりしたものだから、あちこちで不良債権が発生し、首が回らなくなったある者は破産しある者は自殺した。
さて、本当かどうかは分からないが、こうしてチューリップ狂と呼ばれる騒動を起こした者たちは、その殆どが現物を見たことがなく、自分たちが何を売り買いしているのか、まったく知らなかったそうである。ケネディの逸話に、靴磨きの少年が出てくるが、それと同じくらい、当時のオランダでは広く投機が流行していたようだ。
その後は日本の失われた20年みたいな不景気が訪れ、オランダ経済に暗い影を落としたらしい。これを和らげる唯一の方法は、皮肉にもチューリップ相場を維持することだけであり、オランダと言えば誰もが思い浮かべる、あの美しく広大なチューリップ畑はこうして生まれたそうである。因みに、現代でもオランダのチューリップ相場は世界で最も高くて有名なのだとか。
……とまあ、なんか似たようなことが、アクロポリスでも起こっているらしい。
元々、チューリップの球根は、イオニア海交易でメディアから入ってきたそうなのだが、チューリップ=ユリ科の植物ということで、リリィの結婚を祝おうとした貴族が晩餐会でこれみよがしにプレゼントしたら、貴族の間で評判になったようだ。
「……え? リリィ様結婚すんの??」
それが初耳だった但馬がびっくりして素っ頓狂な声を上げるが、チューリップの球根を真っ二つにされた食通は、
「そんなことよりも、我の球根をどうにかせい! 弁償じゃ! 弁償じゃあ!」
「うっせえなあ……男がいちいち小せえことで……」
と言いかけた但馬だったが、バブってるせいで球根の相場は現在、金貨5枚とかになってるそうなので、小さいとは言い切れない。
「ちぇっ、仕方ねえなあ。じゃあ新しいの買ってやるよ」
「ややっ!? よろしいのですか? 但馬殿が気に為さることもありますまい」
ザビエルが目を丸くしていたが、元々、但馬が言い出さなければ彼が真っ二つに割ることも無かったろうし、ザビエルにまで累が及ぶのは本意ではなかった。お世話になってるし。だから但馬はうんうんと二回頷くと、
「いいよいいよ。それに球根だし、真っ二つにしたくらいで芽が出なくなるとも限らない。ホテルに帰ったら植木鉢に植えてみるよ。育ったらこれは俺のものだ」
「なに? それはまだちゃんと育つのか?」
「……それすら知らずに売買してたのかよ」
但馬がジト目で睨みつけると、食通はあさっての方を向きながら口笛を吹いていた。
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食通に雪の中を引っ張られて、訪れた取引所は、見た目は何の変哲もない酒場だった。
どうやら、この国では国に定められた指定酒場があるらしく、証券やなんやの現物を伴わない取引はここで行われるらしい。
元々、現実の世界でも先物取引とは、農家が翌年の収穫量に影響されずに一定の収入を得るために、酒場で翌年の収穫物を買う権利を売ったのが始まりだと言われている。言わば農家のリスクヘッジが目的の、農家同士の持ち合いだったから、その取引は場末の酒場で口約束で行われていたそうで、それに商人が目をつけて売買を始めたのが証券取引所の始まりだったそうである。
このような動きは世界中のどこにでも見られ、日本にも戦国時代から存在し、コメ相場やあずき相場などの先物市場で儲ける、いわゆる相場師も居たようだ。株取引なんかを始めると、そのテクニカル指標に酒田五法なんてものがあるが、これは江戸時代の相場師が考案したものだと言われている。
但馬が訪れた取引所は活況で、隣の人の声すら耳を傾けなければ聞こえないほどだった。
ディーラーらしき男たちが、大声で注文を読み上げ、それを慣れた様子で商人たちが手でサインを送る。一見しただけでは、正直、何をやってるのかさっぱり分からず、魚市場みたいなやりとりをぽかんと眺めていると、食通が懇意にしている仲買人を連れてやって来た。ここで行われる取引には税金がかかるのだが、許可されてない一般人に勝手なことをされては困るから、一般人は仲買人に手数料を払ってやるのがルールらしい。
よく考えられてるなと思いながら、食通と仲買人と三人で店のテーブル席に着いて酒を注文する。
今日は何の取引をするのか? と尋ねられ、チューリップの球根が目的ではあったが、試しに他にはどんなものがあるのかと聞いてみたら、
「基本的に現物を伴わない取引ならなんでもありですよ。小麦やコメ、砂糖、じゃがいも、最近では西海会社株やリディア国債など、アナトリア帝国の商品が人気です」
と言われて、思わず飲んでた酒を吹き出しそうになった。
そう言えば、泊まってるホテルに石鹸があったが、あれはこちらで作られたものではなく、どうやらコルフ商人が売りに来たものであるらしい。それと同じように、最近は証券もすべて植物由来の紙で出来ているが、それはリディア紙と呼ばれて広く普及しているそうだ。
但馬がケツを拭くために作ったそれが、こんな遠い異国の地まで届いていると考えると、改めて自分の影響の大きさを実感する。だからなんだと言うわけではないが……ゲロまみれで留置所にぶちこまれたり、全身ウンコまみれ伝説とか、不祥事までこっちに届いてないかと不安になった。
リディア国債先物の値動きがちょっと気になりはしたが、ここへ来たのは食通の球根のためである。無駄遣いをする前に早めに確保しようと話を向けると、球根は物が物だけに、現物を見せての個別売買を行ってると言われた。
チューリップと言う植物は球根から育てるが、これにだってちゃんと種はある。球根というのは、宿根草と呼ばれる特定の植物が越冬するためにその根っこに作る、栄養を蓄える球状の貯蔵器官のことである。
チューリップは花を咲かすと地下に球根を作り、冬になると地上部分は枯れ、翌年の春になると、また地下に作った球根からクローンが芽を出すというサイクルで成長する。これがまっぷたつになっても、根っこさえ生きていれば(もしくは根っこの生える部位さえ無事なら)、またその根っこに分球と呼ばれる自分のクローンを作るので、園芸家はこうやって球根を増やすのだそうだ。
通常、チューリップは種から育てると花を咲かせるまで長い年月、場合によっては10年以上もかかるそうだが、球根なら春になればまた咲くので、学術的な目的があるとか、品種改良でもしようとしないかぎりは、普通はこの球根を取引するわけである。
で、クローンであるから、一つのチューリップに出来る球根は、みんな翌年には同じ花を咲かせるはずだ。だから、予め春に咲いた花のスケッチをとっておけば、その球根に大体どんな花が咲くのか、育てる前からわかるわけである。
と言うわけで取引はこのスケッチを見て行う。当然、綺麗な花を咲かせる球根には買いが殺到するから、そう言う商品に関してはオークション方式で対応して、少しでも高く売れるように工夫してるのだそうだ。
取り敢えず、出物がないかとフラフラと商品を眺めていると、とある一角でその目玉とも言うべき商品にお目にかかれた。
「おお! なんと美しい。貴公、我はあれを所望するぞ!」
それを一目見るなり、食通が感嘆の声を上げた。その大声に商品を前に検討を続けていた他の取引客が、ライバルが来たといった感じに一斉に振り返る。安く買うならあまり目立たない方が良いのではと思いつつ、仕方ないからその後に続く。
しかし、但馬たちがそのチューリップの前にたどり着いても、周囲の客達は微動だにもせず、じっと彼らのことを見守っていた。先に買われちゃってもいいのかな? と思いながらその商品の値段を見る……
「なるほど、高すぎるわけか」
商品の提示価格をみれば、他のチューリップが一株金貨5枚前後で取引されているにも関わらず、これはその倍の10枚を要求していたのである。チューリップ相場は高騰を続けているとはいえ、流石に倍の値段じゃ誰も手を出したがらない。
どうしてこんな強気の価格を提示していられるのかと言えば、理由はそのイラストを見てすぐに分かった。
そこに描かれていたチューリップは、他の物とは違って単色ではなく、色鮮やかな白と赤のまだら模様がついた代物だったのである。花弁の中央から薄っすらと炎のように伸びる赤色は美しく、見る者の目を奪った。
しかし、但馬は思わず苦笑いをした。なぜかと言えば、実はこの美しい2色のまだら模様は、病気の証なのだ。
現実の世界でもオランダのチューリップバブルの頃に、このような花が高値で取引されていたのであるが、後の研究でこれは球根を食べるアブラムシが媒介したウイルスによる病気、モザイク病であることが判明している。
モザイク病は食用の植物が罹ると致命的だが、観賞用のものならば、中にはチューリップのように色が変わるくらいで生育にあまり影響がないものもあり、そういったものは希少種として取り扱われて、園芸家に好まれた。日本でも江戸時代に、ツバキの品種改良ブームを起こしたことがあったそうである。
先に述べた家が買えるくらいにまで高騰したオランダのチューリップも、このようにモザイク病にかかった株であったことが現在では知られている。だから、これも同じように、しばらくしたら高騰するのだろう。
だから、あの強気な値付けはそこまで分の悪い賭けではないはずなのだ。
どうせ食通にくれてやるのだ。だったら手を出しても悪く無いかな……と思った但馬であったが、いかんせん、現金の手持ちが少なすぎた。昨晩、エリックたちと散財したというのもあるが、普通に考えて金貨10枚というのは持ち過ぎなのだ。重いし。
帝国内か、イオニア海沿岸ならば小切手が通用するが、ここは帝国とは国交の無いエトルリア皇国である。宿に帰ればあるにはあるが、こんなことのために行って戻って散財してというのもバカバカしい……
ディスカウント出来ないかな?
そう思い、ひょいと出品者の顔を見たら……
そこには何だか知らないが、お化けでも見るような信じられないと言った表情をした少女の顔があった。
マジマジと見つめる瞳に但馬の顔が反射していた。瞼が、二度三度と瞬かれる。なんだ? 但馬があまりにもイケメンだから、見惚れてしまったのか? ……などと自惚れられる顔をしてるなら良いのだが、多分、そんなことはないだろう。ありえるのはせいぜい、酒に酔って何かやらかしたのではないかと勘ぐるくらいのものである。
何をやっちゃったんだろうか?
ともあれ、あまり凝視されていると、日本人特有の気恥ずかしさがムクムクと沸き立ってきてしまい、こらえきれずにひょいと視線を外したら、
「お兄ちゃん!」
などと、目の前の少女がいきなり素っ頓狂な声を上げた。
「お兄……ちゃん??」
何を言われるのだろうと身構えていたが……まさかお兄ちゃんとは。
もちろん、但馬には妹なんかいない。家族と呼べるのは息子と娘と居候だけで、妹なんて甘い響きの生き物なんざ、彼が生きていた前文明時代にも存在しなかった。
なんだこれは。但馬の心の奥底にしまい忘れた空前の妹ブームを利用して高額商品でも売りつけようという魂胆だろうか。それとも新手の宗教勧誘か。もしや憲兵隊でも潜んでいて、事案にされてしまうのであろうか。
ハッとなって思わず周囲を見渡すと、
「お兄ちゃん。お兄ちゃんだよね!?」
「い、いや、人違いだろう。くっ……俺の妹属性を利用して、取り入ろうとするとは、なんと狡猾な……罠にはめようったってそうはいかないぞ」
「何言ってんのよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょう? ハルお兄ちゃん!」
「いや、だから俺に妹なんてものは……ハルお兄ちゃん?」
確かに但馬はハルお兄ちゃんである。妹が居たらきっとハルお兄さまとか、ハル兄とか、兄ちゃまとか呼ばれているに違いない。ただの人違いだと思ったのだが、こうもピンポイントに名前を言い当てられると、ただの、とは言い切り難い。
もしや本当にどっかで会ったことがあるのだろうか? と尋ねてみると、
「どこもも何も、私達は同じ両親から生まれた兄妹でしょう? 小さい時から同じ村の同じ家で暮らしていたじゃないのさ」
「え? なに? 実妹設定? お兄ちゃんは実妹でも構わず食っちまえるお兄ちゃんだからいいけど、その設定は人を選……いやいや、そうじゃない。ありえんて。やっぱり人違いじゃねえか」
「そんなわけ無いわよ。こんなにそっくりなのに」
「じゃあ、百歩譲っておまえのお兄ちゃんにそっくりだとしよう。それでもありえんぞ、俺はこの国に来たのは今回が初めてのリディア人だ」
「リディア! やっぱりお兄ちゃんなんだね! リディアで死んだって聞かされた時はショックだったけど、生きてたんだ。本当に良かった」
そう言うと少女は感極まったと言った感じに、但馬に抱きついてきた。但馬はギョッとして引き剥がそうとしたが、それは無駄な努力だった。
なんということだろうか、その少女はただでさえ実妹だと言うのに……おまけにBカップだったのである。
「くっ……卑怯な。一体、俺に何をさせようと言うのか。世界は!」
但馬が妹の圧力に屈し、フラフラとその肩をお兄ちゃんだよおお! と叫びながら抱擁しかけた時だった。
「一体何の騒ぎですか? 取引所内での私闘は即禁錮刑ですよ! ……おや、あなたは……」
但馬たちの騒ぎを聞きつけて、店の責任者がやってきたらしい。ただでさえ人が多く、雑多な言葉が飛び交ってる建物内だと言うのに、どうやら自分たちは悪目立ちし過ぎたようである。
禁錮刑とか、いきなりきついセリフが出てきたので、四つん這いになって土下座しようと思ったら……
「げっ……おまえは」
「やはり、但馬様でしたか。昨晩は、ろくにご挨拶も出来ずに申し訳ございませんでした。ところでそちらの女性は……但馬様のお連れですか?」
振り返れば、どこかで見たイケメンが、哀れなものでも見下すかのような目つきで、二人のことを見つめていた。
昨晩、マルグリット・ヒュライアと一緒に現れた男、ダルマチア男爵アウルムである。