シルミウムという国
シロッコと別れた後、但馬は公園をぐるりと一周してから、彼に渡された食い倒れマップを見つつ適当な店へ足を運ぶことにした。一応、朝食は食べたのだが、味気なかったせいか全く食べた気にならず、どうにも小腹が空いていたのだ。
あれがスタンダードなこの国の朝食だとすると、これから調停が終わるまでの数日間が思いやられるから、出来れば間違いであって欲しいのであるが……性格的に淡々としているシロッコがこんなものを作ってしまうくらいだから、きっとエトルリア皇国の飯の不味さは確定的であるのだろう。
うんざりしながら商店街を歩いてみても、お菓子作りが盛んなフリジアのような華やかさはなく、降雪のせいもあってどうにも辛気臭く見えた。早くもホームシックにかかってしまったのだろうか。
気を取り直し、シロッコの味覚を信じてマップを眺めていると、ロンバルディア料理と言う文字が目についた。
ロンバルディアはザビエルの故郷で、勇者が味噌や醤油を広めた国である。出汁の概念もあるようだから、砂を噛んだような皇国の料理と違って、もしかしたら期待が持てるのではなかろうか。
そう思っていそいそと足を向けたが、残念ながら店の看板が見えてきた段階で、但馬は朝食を諦めざるを得ないようだった。
海鮮料理タイユバン。威風堂々たる看板は遠目にも目についたが、その店の入り口は閉ざされており、道行く人が見向きもしないから営業時間外であることは間違いないようである。
一応、ダメ元で店に近寄ってみたら、ご丁寧にも門に掛けられた黒板に、昼からの営業の旨が記されていた。
ガックリしながら……ここが駄目なら他に開いている店を見つけなければならないが、食い倒れマップには営業時間までは書かれていない。どうしたものかと思案に暮れていると……
ふと地面に目を向ければ、ポツリと何かが落ちていることに気がついた。
店の玄関の真正面、雪に埋もれたそれを手に取ってみれば、どうも何かの球根のようである。
場所が場所だけにきっと食材だろうが、玉葱でもエシャロットでもラッキョウでも無いし、見たことのない形をしている。一体これはなんだろう? と、首をかしげていると、カランコロンとベルの音が鳴り響いて店のドアが開かれた。
自動ドアなんて気の利いたものはこの世界にはない。誰かが店から出てきたのだろう。邪魔になってはいけないからと、脇に避けて顔をあげたら、
「やはり、但馬殿でしたか」
「あれ? ザビエルさん??」
見覚えのあるカッパハゲが店の中から覗いていた。ハリチの料理対決以来だから、およそ半年ぶりのことである。
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タイユバンの中は広々とした居酒屋風の店だった。4つある大テーブルの周りに椅子がひしめき合っていて、その奥にはお座敷のようなスペースがある。
店に入って右手奥にはカウンター席があって、床から壁からピカピカに磨かれた厨房がそこから覗けるようになっていた。その厨房に続く廊下には七輪のようなものが並んでいる。そういう料理も出すのだろうか。今度は是非、営業時間内に来たいものである。
見たところ店の中にはザビエルしか居らず、彼はその厨房でグツグツと何かを煮込んでいた。かつては食聖と呼ばれた料理人であるから、さぞかし美味いものに違いない。
「ここはザビエルさんのお店なの?」
尋ねてみると彼は首を振り振り、
「いいえ、知人の店です。アクロポリスに滞在中はここをお借りしているのです。普段なら大聖堂に部屋を借りられるのですが、今回は急に来たものでして、迷惑を掛けても申し訳ありませんからな」
「アーニャちゃんに付き合ってくれたんだっけ……すみませんね、なんか色々と面倒を見ていただけたようで」
「いえいえ、それはこちらの方です。彼女といると、色々と勉強になります故。いやはや、さすが聖女と呼ばれただけありますな。行動力が凄まじい」
元々はそういう娘では無かったのだが、エトルリアに来てからはかなりアグレッシブに行動しているようだ……いや、そういう娘だったのが、元に戻ったのだろうか。
「なんにせよ、ザビエルさんが付いててくれると思うと安心できるよ。本当は一人にしちゃっても平気かって、チョット心配だったんだけど」
「彼女も同じようなことを言っておりましたな。但馬殿は一人で抱え込みやすいから、誰かが見ててくれればいいのにと……」
「そう……そんなこと言ってたの」
「彼女は彼女で、あなたのことを心配しているのです。人は補いあって生きていくものですから、あなたばかりが責任を負う必要はない。寧ろそう考えてしまうことが、彼女に対する無礼に値するのではないでしょうか」
「坊さんは説教臭いなあ」
「いかにも。そう、毎日のように言われ慣れております故」
ザビエルはにやりと笑いながら鍋の中身をくるくるとかき混ぜた。そう言えばそういう人だった。あまりにも説教臭いから、初めはアナスタシアに煙たがられていたのだ。
それにしても、さっきから一体何を作ってるのだろうかと尋ねてみれば、
「以前、ハリチで但馬殿の料理……と言っていいのかわかりませんが、不思議な粉を作っておいででしたな」
「ああ、うま味調味料ですか?」
「それです。シルミウムの漁師が、塩ゆでした牡蠣の乾物を出汁に、それはそれは美味い汁を作るのです。うま味調味料のことを思い出し、この汁を煮詰めて濃縮したら、旨味だけを取り出せないものかと思い立ち、こちらの厨房を借りて試しに作ってみたところ、案外上手く行きましてな。評判も良いので、こうして仕込みをしているのです」
「牡蠣っていうと……ああ、オイスターソースか」
中国の広東料理には牡蠣の旨味を引き出した料理が元々あり、20世紀にこの旨味だけを抽出出来ないかと開発されたのが、いわゆるオイスターソースである。
作り方はシンプルで、基本的には、沸騰しないよう慎重に牡蠣のすり身を塩茹でし、旨味が染み出してきたらザルで濾し取り、また新しいすり身を投入、それを何度も繰り返して濃縮されて出来た液に、カラメルや貝柱や醤油などを加えて味を整えるのである。
各社それぞれ微妙に味が違うのはこの味付けが違うからで、また、味付けがされているから、オイスターソース単品だけでも野菜炒めくらいなら、下味をつけなくても十分に美味しく仕上がるようになっている。
「ほう……但馬殿はこの料理を知っておられたのですか」
本当のことを言うと面倒くさいので、
「えーっと、知ってるというか、作ろうとしたんですよ。でも、リディアだと安定して牡蠣が仕入れられなくって、商品化は無理かなと思って諦めたんです」
「なるほど、流石ですな。但馬殿も同じことを考えていたのですか。シルミウムは養殖が盛んで手に入れやすいのですよ」
「へえ、養殖やってんだ」
そう言えば、昨日出会ったイケメンが、シルミウムでは漁師か商人でないと食ってけないと言っていたのを思い出した。その旨を尋ねてみると、
「あの国は、我が国に輪をかけて植物が育ちにくい土地柄です故、大昔から漁業が盛んなのですな。皇国の目の前にはエーゲ海が広がっておりますが、そこに散らばる島々は、全てがシルミウム方伯に従属しております。今でこそ、アナトリアにその座を譲りましたが、ほんの数年前までは、世界の海を支配していたのは他ならぬシルミウムですし、それどころか、太古の昔に最も栄えていたのが彼の国なのです」
「そうだったのか……イオニア海ではさっぱり見かけないから、てっきりアスタクスに追いやられて影が薄いのかと」
「言い得て妙ですな。実際、およそ500年ほど前、ガラデア平原の開拓が完了し、アスタクスが広大な穀倉地帯を得たことで立場が逆転したのです。それまでは原生林に覆われたアスタクスの地よりも、シルミウムの方が住みやすかったようでして」
言われみれば、今でこそアスタクス地方は豊かな土地が広がっているが、大昔にはエルフが存在して人が住めるような土地じゃなかったはずだ。
それを差し引いたところでも、農耕が出来ないのであれば、寒冷地のほうが人が住むには適しているはずなのだ。
意外かも知れないが、人類の歴史でも、農耕が始まる以前の石器時代には、植生が豊富な熱帯雨林地方よりも寒冷地の方が人が多かった。日本でも縄文時代の古墳は関東以北に集中していることが知られている。しかし、縄文時代といえば最後の氷河期に当たり、その頃の関東地方の気温は3℃近くも低く、今で言うと東北地方の気候に匹敵する。
普通に考えれば暖かくて植物の生い茂ってる南の方が食べ物も豊富で住みやすそうだが、どうして人間は寒冷地に集中したのか。
色々理由はありそうだが、第一に農耕が出来ないなら人間は狩猟に頼ることになるが、すると大勢の人々が食いつなぐには、それなりの獲物の存在が必要なことである。恒温動物はその体温を維持する関係上、寒い地方の方が大型化しやすく、つまり人間はマンモスを追いかけてシベリアにたどり着いたというわけである。
しかし、日本にはそう言った大型の獣は居なかったはずだ。ところが、縄文時代の最盛期には、関東には30万人もの人間が暮らしていたらしく、それは当時の関西とくらべると5倍以上にも登る。この東高西低は何故起きたのだろうか。
考古学者の山内清男はサケ・マス論を提唱し、それを川を遡上する魚の存在に求めた。先に述べた通り、当時は氷河期で気温が低く、従って関東の河川も水温が低かった。となると、今の北海道のように、サケやマスが関東の河川にも母川回帰していたはずで、人々はそれを漁獲して保存食にしていたというわけだ。
尤も、サケ・マス論は貝塚からそれらの骨の化石が殆ど見つからないということで、発表当初から論争の的になり、現在でも定説とは言い切れない。しかし、川を埋め尽くすほどのサケやマスが遡上してきたことは確かなのだから、当時の人々がそれを見逃すとは考えられないので、なんらかの利用をしていたのはほぼ間違いないだろう。
「仰るとおり、シルミウムの河川には回遊魚が産卵のために遡上してきます故、エルフも居なかったことから、大昔は北エトルリア大陸の方が人口が多かったのです」
それが原生林が開拓され、農耕が可能になったらどんどん南に移っていった。すると面白く無いのはシルミウムである。
「そんなわけで、アスタクスが力を付けて皇国を乗っ取ろうと画策した時、真っ先に反撃の狼煙を上げたのはシルミウムの人々でした。以来、アスタクスとシルミウムは何かにつけて競いあう間柄になったのです」
「ふーん……アスタクスはロンバルディアとも仲が悪いようだし、全方位に嫌われてるなあ……」
出る杭が打たれやすいのは、どの世界でも同じことなのだろうか。尤も、今それを叩いているのはアナトリア帝国なのだが……
但馬が他人事のようにつぶやくと、ザビエルはカッカッカッと笑い出した。
「確かにその通りで、今回の戦争でアスタクスがボロ負けしたのも、他国はいい気味だと思っているのが本音です故。調停が始まるや否や、早速足を引っ張ろうと、シルミウムの者たちが暗躍を始めたようですな。ここだけの話ですが、実は私のところにもやってまいりまして、アスタクスを懲らしめるために力を貸して欲しいなどと申しておりました」
それはシロッコから報告を受けたとおりだ。ただ、ここまでシルミウムが熱心だったとは知らなかった。
「いずれ但馬殿のところへもやってくると思いますぞ」
「そうですね……いや、実を言うと昨日、それっぽいのをもう見かけたんですよ」
「おや、さすが商人共は手が早い。それで、なんとお返事を?」
「返事も何も、ただ挨拶されただけです。大体、まだ何も決まってないからねえ……」
そんな話をしている最中も、ザビエルは鍋の様子を淡々と見ており、やがて満足な程度に牡蠣の濃縮が終わると、砂糖やらなにやらで味付けを始めた。初めは透明だった液体に、色がついてとろみが出てくると、いつか見たことのあるオイスターソースそのものになって、なんだか懐かしい気持ちが湧いて来ると同時に、腹がグウグウと鳴り出した。
「おや、但馬殿はお腹が空いておいででしたか」
「そう言えばモーニング食べれる店を探してたんだった。ここ来たら閉まってたから、途方に暮れてたとこだったんだけど……」
「でしたら何かお作りしましょう。こうしてソースも仕上がったことですし」
「いいですねえ。ピーマンの野菜炒めなんかがいいなあ」
中華料理といえばやはりピーマンだろう。肉と玉葱とピーマンを炒めて、オイスターソースを絡めて食べるのである。玉葱の旨味と牡蠣の旨味、それをピーマンの苦さが引き立てて絶品なのだ。
但馬は、ふと思い出し、
「そうそう。そう言えば、さっき店の前で拾ったんだ。これ、一見すると玉葱みたいだけど、なんですかね?」
「はて……私も見たことがありませんな。どれ、貸していただけますか?」
ザビエルに渡すと、彼は見知らぬ球根をザックリと半分にくし切りし……
「ふ~む……見たところ、ただのゆり根のようですな。ゆり根は毒です故、食べないほうがよろしかろう」
「あ、そうなんだ。じゃあ、なんであんなところに落ちてたんですかね? 店の前にあるから俺はてっきり……」
「あああああああああああ~~~っっっ!!!」
二人がそんな会話を続けていると、背後から突如、耳をつんざく大声が轟いた。但馬は自分たち以外に人が居るとは思ってなかったので、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
睨みつけるように、その迷惑な声の主を振り返ったら……これまた懐かしい顔がそこにはあった。
「ななな、なんてことだ! 我は食通! この世に存在せしあらゆる美食を極めし者!」
「……ご丁寧に自己紹介ありがとうよ。つーか、久しぶりだなあ。あんたがここに居るってことは……」
「ええ、このお店のオーナーはこの御方です故」
ザビエルがこっくりと頷いて補足する。食通は料理対決の時にハリチにいきなり現れた変人であるが、元々ザビエルの知人だったのだ。道理で、妙なタイミングで現れて、対立を煽るようなことをすると思ったが、初めからあの勝負はザビエルの仕込みだったわけである。
人が悪いなあ……と、ザビエルに抗議しようしたのだが、そんなことなど関係ないとばかりに、有無を言わさぬ口調で食通がまくし立てた。
「そんなことよりザビエル! 貴様はなんてことをしてくれたのか!? 先程から無い、無いと探し回っていた我の球根が、今、まな板の上で真っ二つ!!」
「おや、これはあなたのでしたか」
但馬はえへらえへらと笑いながら言い訳した。
「店の前に落ちてたんだよ。てっきり食材だと思ってザビエルさんに料理して貰おうかと思って。悪かったなあ」
「謝って済む問題ではないのであるっ! 貴様ら、それが一体なんであるか、よもや知らないとは言わせまい!」
「知らん」「知りませんなあ」
但馬とザビエルが即答すると、食通は顔を真っ赤にしながら、
「それは、チューリップの球根だああああああああああああ!!!!」
絶叫する食通を二人はぽかんと見守った。
元々、頭のおかしいやつだと思っていたが、ついに引き返せない領域まで気が触れてしまったようだ。多分、リリィにもアナスタシアにも治せまい。
「な、なんだ! 我をそのような哀れな者を見るような目で見おってからに!」
「そりゃあ……ねえ」「そうですな」
「貴様らは知らぬのである! あの球根にいかほどの価値があるというか」
但馬はなんだか嫌な予感がした。
「へえ、あれ、そんなに高価なものなの?」
「うむっ!」
食通は胸を張り、なんだか偉そうに……いや元々偉そうなやつであるが、こう宣った。
「あれは一株金貨5枚にも及ぶ、それはそれは貴重な球根なのである!」
「……金貨5枚!?」
それって、一昔前ならリディアの平均年収ではなかったか……?
但馬とザビエルはギョッとして、真っ二つになった球根を凝視した。
なんでこんななんの変哲もないものに、そんな価値が? 唖然とする二人に対し、涙ながらに食通が語った話は、それはそれは胡散臭い、バブルの物語であった。