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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第七章
228/398

リリィとアナスタシア

 但馬とシリル殿下が膝を突き合わせて会談を行っている最中、リリィが応接の間でぶっ倒れた皇王を寝室まで引きずっていこうとしたら、慌ててリーゼロッテが駆けつけて彼女に手を貸した。


 かつての従者とは言え、今はアナトリア帝国の使節団の一員である彼女に対し、リリィが席を外しても良いのか? と尋ねたら、どうせ自分は護衛以上の意味は無いからと言われ、


「そう言えば、勇者にはいつも付き従っておる大男がおったな。あれは息災か」

「エリオス様はいまはコルフの大使様で……」

「ほう? 暫く会わぬうちに、勇者の周りも大分様変わりしたものじゃな」

「リリィ様が今のリディアにいらしたら、きっと退屈する暇などございませんよ。4年のうちに、国が見違えるように良くなりましたから」


 建ち並ぶ工場、鉄道、舗装されたアスファルト道路。市内には忌避されていた高木が街路樹として植えられ始め、ハリチまでの街道は高速の駅馬車が頻繁に行き来している。サーフィンやハンググライダー、写真館に競馬にレストランなど、娯楽施設もたくさん増えた。


「ふむー! それはまるで夢のようじゃ……しかし、今の時勢では中々難しかろう。余がリディアに行きたいなどと申したら、アスタクス方伯が怒鳴りこんでくるに違いない」

「社長がなんとかしてくれませんでしょうか」

「和平がなっても、余が自由に動ける時間も、もうそれほど無いしのう……」


 なんだか歯切れの悪い返事が返ってきたことにリーゼロッテは不安を感じたが、それを問いただすよりも前に、宮殿の侍女たちが次から次へとやってきて、彼女に恭しく挨拶をはじめた。


 エトルリア皇王の居城サンタ・マリア宮殿は、かつてリリィの従者であったリーゼロッテも暮らしていた、懐かしのホームでもあったのだ。


 侍女らはかつてのリーゼロッテの同僚であり、国は違ってしまったが、出世して帰ってきた彼女のことを、みんな暖かく祝福しにやってきたのだ。そんな侍女らに対し、リーゼロッテは通りすがりの一人ひとりに馬鹿丁寧にお辞儀しては近況報告をし、昔話に花を咲かせた。


 リリィがそれをニコニコと見守っている。


 因みにその間、グロッキー状態の皇王は無視された。


「わあ! 女皇様!」


 のんべんだらりと侍女たちと世間話を交わしながら皇王の寝室までやってきた時には、当の本人が虫の息だった。


 皇王の部屋で待機していたアナスタシアはそれを見るなり仰天して駆け寄ってきて、彼女固有の抗生魔法を熱心に詠唱し始めた。すると、皇王の顔がみるみるうちに良くなっていき……気がつけば何事も無かったかのように、スウスウと彼女は寝息を立てているのであった。


「ふ~む……相変わらず見事な手前じゃのう。もはや余の出る幕などない」

「そんなこと言ってないで、ちゃんとヒールしてあげなよ。女皇様、真っ青だったじゃない」

「む? 左様か。余には母上の顔色までは窺い知れぬからのう……生まれた時からこのような方だったので、取り立てて騒ぎ立てるほどのことでもないと思ってしまうのじゃ」

「この城の人たちは異常だよっ!」


 見方を変えれば敵地のど真ん中にやってきたというのに、この言い草にはリーゼロッテの顔も引きつった。それより何より、


「アナスタシアさん。何故、あなたがここに居らっしゃるのでしょうか。社長も驚いて居られたようですが」

「とにかく色々あって……私もよく分からないうちに、こんなことになっちゃったんだけど」


 ビテュニアを包囲していたら、突然、僧服を着て現れた時も驚いたが、その後、当たり前のようにサンタ・マリア宮殿に食客として滞在していたのには二度驚かされた。詳しく話を聞きたかったのだが、何しろ戦争中のことで、気軽に訪ねてくるというわけにもいかなかったのだ。


 アナスタシアはそう問われると、これまた彼女特有の眉毛だけ困った表情で、ここに至る経緯を順を追って語り始めた。


 曰く。


 彼女はロンバルディアでザビエルと共に孤児院関係の仕事を行ってる最中、アナトリア軍が敗北したことを知った。イオニアの街で籠城を始めたアナトリア軍には、けが人が多数出て居ると聞いた彼女は、居てもたっても居られなくなり、救援物資を運ぶという船に同乗してイオニアの街までやってきた。


 ここまでは但馬もリーゼロッテも聞いていた通りである……


 その後、街を出た彼女はザビエルに従ってアスタクス方伯の陣地へと入った。ザビエルはロンバルディアの旧臣で摂政としての一面もあり、アスタクス方伯とも面識があった。それでお目こぼしを願いに行ったわけであるが……実際にはそんな心配などする必要も無く、アナスタシアは方伯陣地に入ると歓待されることとなる。


 ペスト騒動の時、アスタクスの人々も区別すること無く助けていたからだ。


 その噂を聞き及んでいた方伯は、彼女が敵陣へ入ったと聞いても仕方ないと目をつぶり、その彼女が自分の陣地に来たから歓待した。意外と義理堅いようである。


 それに感謝したアナスタシアは、方伯軍のけが人も同じように治療し、方伯の覚えが良くなった彼女はそのままヴェリアを通り抜け、パドゥーラの大聖堂へと向かった。


 国境の街パドゥーラも度々戦禍に見舞われた土地であるせいか孤児院が多く、ここでも孤児院を訪問したり、ザビエルの講演を手伝ったりしていると、やがて方伯軍が敗退し、パドゥーラを通って引き上げていった。


 そして戦闘で死んだ者たちを埋葬しに、大聖堂は僧侶を派遣することになり、アナスタシアはその役を買って出て、彼らと共に元戦場へと向かった。


 そこには話に聞いていた通り、おびただしい数の死体が打ち捨てられており、そのあまりの光景に絶句したアナスタシアであったが、そんなことも言ってられないくらい、死体は腐敗の進行が進んでおり、みんな黙々と埋葬作業を行っていた。


 そんな中、但馬がふらりと街へとやってきたのである。


 リーゼロッテやエリックの姿も見える。


 しかしアナスタシアは、遺体を回収する僧侶の間に埋もれて、こっそりと彼らの姿を遠巻きに眺めることしか出来なかった。なんと言って声を掛けて良いのか分からなかったのだ。


 そうこうしていると、僧侶の一人と但馬が会話をし始め、彼は金貨のどっさりと詰まった袋を置いて去っていった。僧侶たちはその偽善行為に憤慨し、アナスタシアはそれを身を小さくして聞いてた。擁護しようと思えば出来ただろうが、彼女にはそれが出来なかった。


 最後に見た彼の顔が、どことなく辛そうだった。本当はこんなこと、やりたくないのだろう。なのに彼はやらざるを得なくて、そして見知らぬ誰かに勝手に恨まれていく。


「……そうですか。社長は元来、気の優しいお方ですから、もしかしたら辛かったのかも知れませんね。ただ、アナスタシア。彼は作戦を立案しただけであって、あれをやったのは私なのですよ。ですからあなたは、社長を恨まないであげてください」

「ううん。そもそも恨んでなんかいないし、先生が悪いとも思ってないよ。思ってはないけど、他の誰かがどう思うかは分からないし、なによりも多分、先生は自分のことを責めるでしょう」

「……そうかも知れませんね」

「なんだか、可哀想だなって思ったの」

「可哀想……ですか?」

「う、うん。よくわかんないんだけど……」


 彼は今までいろんなことを上手くやってきたし、これからも上手くやっていくだろう。恐らく今回の戦争だって上手くやってのけてしまうに違いない。現に、今のところほぼ完璧と言っていい戦果を上げている。


 だから、みんなは彼に頼るのだけれど、それじゃあ彼は一体誰に頼ればいいのだろうか。かつてはハンス皇帝が居て、上手く舵取りしてくれていたが、今の彼には誰がいると言うのだろうか。


 決してブリジットやリーゼロッテ、その他の周りの人達を批判したいわけじゃない。自分だって彼に依存しきっていたくせに、偉そうにそんなことは言えないだろう。


 ただ、上手く言葉に出来なかったが、アナスタシアはもやもやしたものを感じていた。


 あのまま放っておいていいのだろうか。しかし、追いかけて行って但馬にそんなことを言ったとしたら……彼はきっと怒るだろうし……


「だから結局、何も言えなくてそのままパドゥーラへ戻ったんだけど」


 ザビエルはアナスタシアがモヤモヤしているものを抱えているのを見抜いていたようだった。彼は彼女が帰ってくるや否や、せっかく知り合えたのだし、もう一度方伯と会って、言いたいことをぶつけてみてはどうか? と提案してきた。


 正直、自分の気持ちを見ぬかれたのも驚いたし、そんな提案をされたことにも驚いた。だが、今更くよくよしている場合でもなし、彼の厚意を受け入れると、アナスタシアたちは今度は方伯を追いかけてビテュニアへと向かった。


 だが、彼らが考えているよりも、ずっとアナトリア軍は早かった。足止めを食らっていたとは言え、それでも、アナスタシアたちがビテュニアへと到達するよりも前に、両軍はガラデア平原でぶつかってしまった。


 こうなるともう戦争中の本陣に説教しに行くわけにもいかないし、仕方ないので、一行はビテュニア近郊の修道院で逗留していた。


 だが……それも束の間、ガラデア平原会戦で帝国軍が方伯軍を打ち破り、あっという間に最後の砦を陥落させると、方伯軍は散り散りになって解散した。


 その最中、その混乱に乗じて兵士たちが野盗になったり、逆に襲われたりと、オリエント周辺は大変なことになっていた。


 アナスタシアたちが逗留する修道院にも、けが人が運ばれてきたり、戦火を避けて逃げてきた農民たちが集まってきて、暫くすると野戦病院のようになっていた。彼女はそこで八面六臂の活躍を見せたのであるが……そんな時に、身分の高い重傷者という人が運ばれてきた。方伯だった。


 方伯は逃亡の末、本拠地であるビテュニアに潜入しようとして、パルチザン掃討を行っていた帝国軍に遭遇し、大怪我を負ったようだった。


 彼の周りにはもうお付も殆どおらず、ヒーラーが居なかったせいで治療が出来ず、危篤状態だった彼はたまたまアナスタシアの居る修道院に来て、九死に一生を得た。


 イオニアで出会った少女に、まさか自分が助けられるとは思わなかった彼は、意識を取り戻すと素直に礼を述べた。そして、生きていたら褒美を取らすと言って、今度はティーバの砦へと向かうために、大忙しで出立しようとしていたのであるが……


「ここで言わなきゃ、もうチャンスがないと思って、ミダース様にお願いしたの」


 アナスタシアが但馬と話し合いをして欲しいと言うと、方伯はあからさまに嫌悪感を示した。しかも、彼女が憎き宰相の養女だと知ると、彼らしくもなく、ものすごく動揺を見せて、ウロウロとうろつきまわった。


 方伯は暫くの間、葛藤を続けたようである。


 彼は謀将であり、きっと様々な手を思い浮かべたに違いない。


 だが、やがて、ふっと溜息を吐くと、張り詰めていた緊張の糸が解れたと言った感じにリラックスし、まるで孫娘でも見るような優しい顔で彼女に言った。


「おまえを人質に取って、あれに言うことを聞かせれば、おまえの望み通りに戦争はすぐに終わるじゃろう。じゃが、儂はそんなことはせん。面倒くさいからなっ! どうしても儂を止めたければ、アクロポリスへ行き、聖女でも連れて来るがいいわい」


 方伯が但馬のことをどこまで調べ尽くしているかは知らなかった。だが、聖女リリィを連れて来いというくらいだから、彼とリリィが懇意であることは知っているようである。


 アナスタシアは彼の言葉に頷くと、それ以上無理にお願いすることはせず、ザビエルと共にアクロポリスへと急いだ。


 そして聖教会へ現れた彼女を見て、首都の信者たちは大層驚いたそうであるが……とにもかくにも、リリィと再会したアナスタシアは彼女の助力を得て、戦争の調停のために皇王を引っ張りだすことに成功したのである。


 後は、ビテュニアで起こった通りだ。


「はぁ~……アナスタシアさん。あなたは方伯と仲良しになっていたのですか」

「うん。いい人だよ。でも、先生のことが大嫌いみたい」

「そりゃあ……そうでしょうね」


 同情しては戦争にならないから、戦いの最中は考えないようにしていたが、方伯の立場になって考えてもみれば、あれだけ領民を殺された上に、けちょんけちょんにやられた相手を好意的に思えるわけがない。もしも思えたらマゾである。


 アナスタシアは出来ると思っているようであるが、そんな二人をいきなり突き合わせても、殴り合いの喧嘩なら想像できるが、建設的な話し合いが出来るとは到底思えなかった。


 リーゼロッテは唸った。その方伯と但馬が、アナスタシアを通じて奇妙な関係を築いているとは思いも寄らなかった。彼に報告したら、きっと面白い顔が見れるに違いないだろう。


 顔といえばもう1つ気になることがある。


「そう言えば……アナスタシアさん。暫く見ないうちに、どうして、あなたとリリィ様はそんなにそっくりに……なんだかおかしな言い方ですねえ……とにかく、どうしてあなたたちは、そんなにそっくりなのです? 初めは髪型だけかと思っておりましたが、こうして並んで立たれると、姉妹と言っても間違いじゃないくらいに似ております」

「それは……私も不思議なんだけど、何でなのかはさっぱり……」

「そんなに似ておるのか? 父上にも母上にも言われて驚いておるのじゃが……余は目が見えぬのでな」


 アナスタシアとリーゼロッテが話していると、侍女と共に母親をベッドに寝かしつけたリリィがやってきた。彼女が何の気なしにアナスタシアの腕を取って、嬉しそうにホッペタを近づけると、そこにはもう見分けがつかないくらいそっくりな2つの顔が並んでいるのだった。


「あの日は聖教会がなにやら騒々しかったのでのう。何事かと尋ねてみれば、余と瓜二つの女性が訪ねて参っていると……誰かと思えばメイド長ではないか。懐かしいのうと喜んでおったのじゃが、そのメイド長も含めてみんな黙りこくっておるでな、余は仲間はずれにされたのでは無いかと悲しくなったぞ」


 淡々と語るその姿が、既にアナスタシアとそっくりなのだ。


 リーゼロッテは確信した。決して、自分の目の錯覚などではない。確かに、初めて会った時からどことなく似たところのある二人だとは思っていたが……それは姉妹のように仲が良かったり、同じ髪色だったり、同じ制服をきてたりとか、その程度のことだった。


 顔立ちが似ているとか、ここまで瓜二つだなどと思ったことは一度もない。


 二人は1歳しか違わないが、体質のせいもあってリリィの発育は遅れ気味だった。そのリリィがこの4年の間に歳相応に成長したら、アナスタシアにそっくりになっていたわけである。


 生まれも育ちも違う。リディアで出会うまで、縁もゆかりもなかった二人が、それなのに、何故こんなに似てしまうのか……誰もがその奇妙な現象に首をかしげていた。


 だが、目が見えぬリリィはそんなことよりも、もっと別のことに関心がいっていたようである。


「ところで、さっきから話を聞いておって気になっておるのじゃが……」

「なんでしょうか」

「メイド長は勇者と喧嘩でもしておるのかのう。妙によそよそしいようじゃが」


 リーゼロッテとアナスタシアは、なんと答えればよいのか分からず、バツが悪くなって顔を見合わせた。しかし、そんな空気など読めるはずもないリリィが続ける。


「もしもそうであるのなら、余が間を取り持ってやってもよいぞ。久方ぶりの再会なのじゃ、二人がギクシャクしていては余も悲しい。せっかく異国の地へ来ているのであるから、どうせじゃったら街を一緒に散策してきてはどうじゃ。そうしたら、二人の仲ももう少し進展するかも知れないぞ。いや、それとも……くふふふ。もしかして、倦怠期という奴かのう」


 リーゼロッテが片目をつぶり、コメカミに指を置いて苦笑気味にアナスタシアを見つめた。その彼女は、長い自分の二つ結びの髪の毛をしきりに弄んでいる。


「ならば余は何も言うまい。夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うでな。ところで、二人はどこまで進んでおるのじゃ? あれから5年も経っておるのじゃから、さぞかし仲睦まじくなっておるじゃろうが……」

「リリィ様」

「なんじゃ?」


 もはや隠しておくわけにもいかないと、アナスタシアは淡々と告げた。


「まだ非公表なんだけど……先生はブリジット陛下とご婚約なされてます。先帝陛下とお約束し、お兄さんのカンディア公爵にも認められてるの」


 リリィはその言葉を聞くと一言、


「なんと……」


 と言ったきり、口をパクパクとさせ、眉毛をハの字に曲げ、困ったように右往左往してから、両手の親指と人差指を突き合わせクネクネさせつつ、


「それは……すまなかった。そうか、勇者は我が友とくっついておったか……余はてっきり……いや、何も言うまい。あれも良い女であったから、当然そういう結果もあり得るじゃろう。それでは、メイド長は今どうしておるのじゃ? 同じ屋根の下では暮らしては居られまい」


 そこまで踏み込んで聞いてくるものは誰も居なかったから、アナスタシアは一瞬、返事に窮した。が、すぐに思い直すと、


「うん。だから、独り立ちしようと思って、色々やってみたけど上手く行かなくって。今は友達と孤児院経営をしてるんだけど、それも先生がお金を出してくれたからで……」

「そうか。それは辛かろう」


 歯に衣着せぬ物言いは、他の誰かだったらきっと頭にきて怒鳴り返していただろう。しかし、リリィの同情はすんなりと受け入れることが出来て、アナスタシアは胸が暖かくなると同時に苦しくもなった。


「ふーむ……そうじゃ。では、こういうのはどうじゃろう。アナスタシアよ、ここは思い切って母上の侍従になってみないか?」

「……ええっ?」

「見ての通り、母上は余をも凌ぐ虚弱さゆえ、まともに外を出歩くこともままならん。普段の公務は余が付き従っておるので何とかなっておるが、そなたがついていてくれるのであれば心強い」


 調停の橋渡しが実現してなお、アナスタシアがアクロポリスに滞在し、こうして宮殿の中に居るのは、実はそれが理由だった。


 彼女がリリィに助けを求めて聖教会に駆け込んだ後、知人ということで皇王夫妻に目通りがかなったのであるが……皇王は、但馬の時と同じようにふらふらとぶっ倒れ、謁見の間を血で汚した。


 しかし、皇王がぶっ倒れるなどいつものことであり、慣れっこになっていた侍従たちがダラダラと後始末をしていると、仰天したアナスタシアが彼らを押しのけて治癒魔法を唱えた。すると彼女の抗生魔法はやはりというべきかオンリーワンの能力で、あれよあれよと皇王が回復したのである。


 それを見て仰天するのは今度は城の侍従たちの番だった。久しく見ていなかった皇王の健康な姿を目の当たりにして、彼らはこぞってアナスタシアに、アクロポリスに居る際は、是非宮殿で皇王のそばに控えておいてくれないかと言ったのだ。


「であるから、お主さえ良ければいつまでも宮殿に居て欲しいくらいじゃ。給金もいくらでも出そう。何しろ、ここにはお主にしか出来ない仕事があるのじゃからの」


 もしもそう言う選択肢があるのなら、それも悪くないなとアナスタシアは思った。だがやはり現実的ではないだろう。アナスタシアは但馬の養女で、皇国とは敵国であるアナトリアの人間である。リディアで待ってるジュリアのこともほっとけないし、おまけに出自が悪すぎる。


 もしかしたら、アナスタシアの過去が、いつか皇王の威光を傷つけるかも知れない。そんなことになってはいけないと、彼女は断ろうと言葉を続けたのだが、


「私はその……スラムの出身だし、色々あったし、お城の侍女なんてとてもじゃないけど務まらないよ……だから、残念だけど」


 と言いかけた時だった。


「お主の事情は聞き及んでおる。聖教会としては謝罪こそあっても、お主を責めるようなことは決してありえない。もしもそんな輩がおれば、余が責任を持って断罪しよう。それに……」


 リリィは思わぬことを口走った。


「余は、もうじき降嫁する身の上。宮殿を離れ、夫の領地に入ったあとは、今まで以上の籠の小鳥じゃ。そうなった時、母上を一人にするのは忍びなくってのう……」


 これにはリーゼロッテが激しく反応した。彼女はリリィが幼い頃から一緒に暮らしてきた、いわば乳母みたいな存在だったのだから、当然だろう。


「ちょちょちょ、ちょっと待って下さい? リリィ様、ご結婚なされるのですか?」

「言うておらなんだな……左様。余はまもなく降嫁する」

「何故です!? そんなことしたら次代の皇王はどうなるのですか。リリィ様が継がれるのではないのですか?」

「二代続けて女系であったり、余が教主という立場も兼ねているのが問題なのじゃ。故に皇家は余ではなく、ギレム家の誰かが継ぐことになるじゃろう」

「そんなこと、だからって家のために結婚するなんて……」

「それが貴族の務めじゃ。ましてやエトルリア皇国1千年の歴史を、余の代で絶やすわけにはいかぬからの。そんなことではない。大事じゃ」


 そして彼女は改めてアナスタシアの方へ向き直ると、


「じゃからアナスタシアよ、余が居なくなった後、母上を……いや、皇王を頼めないだろうか。これは友として、そして一国民としてのお願いじゃ」


 そう言ってアナスタシアの手を取るリリィは、どことなく寂しげであった。


 アナスタシアはそんな彼女に、なんと言っていいか分からず、その手を握り返すだけで何も言えなかった。


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