ないなら、作ればいいのか
日本人による紙の年間使用量は、一人につきおよそ210キログラム。これをリディア市街の人口10万に当てはめて考えると、年間生産量は2万1千トン、将来的にこの国はそれだけの紙が消費される可能性を秘めているというわけである。
これをサトウキビの搾りかすやトウモロコシの皮だけで作り出そうとしても、あっという間に在庫が尽きることは想像に難くないだろう。現実でも、製紙工業が盛んになると、まず材料不足に悩まされることになった。その結果、新しい方法を考え出さねばならなくなったのだ。
そこで登場したのが砕木パルプである。これは読んで字の如く、木を砕いて作るパルプであり、材料は木でさえあれば何でも良い。因みに、木の種類によって繊維の質が変わり、例えば針葉樹の特徴としては硬くて強い紙になりやすく、広葉樹は逆にしなやかで強度の弱い紙になりやすい性質がある。しっかりと下処理したそれまでの紙とは違い、強度に劣るので低級紙として扱われるが、弱いと言うことは柔らかいということであり、柔らかいと言うことはケツが拭きやすいと言うことだ。これを作らずしてなんとするか。
因みに、昭和初期、こうして作られた新聞紙が各家のトイレには置かれており、日本人はそれを使ってケツを拭いていた。新聞紙で拭くとインクが取れてケツが真っ黒になったらしい。そういう歴史があるから、ちり紙交換は古新聞とトイレットペーパーを交換してくれるというのは、意外と知られていない豆知識だ。
「あんたの国……本当にケツを拭くための紙ってのがあったのか。冗談だと思ってたのに」
「おいおい、俺が今まで嘘吐いたことがあったかい」
「……え?」
そのトイレットペーパーの歴史はやはりと言うべきか、古代中国に端を発する。当時の紙漉き職人が皇帝のご不浄用に献上したのが始まりのようで、遣隋使などでその慣習が伝来したのであろうか、日本に伝わったのはかなり早く、平安時代にはもう貴人が使うものとして、延喜式に記録が残されているそうである。
そのためか、京都周辺では和紙を薄く漉いたものが化粧落としや、便所紙として比較的早い段階から使われていたようだ。しかし、それでもまだまだ高級品で、本格的に庶民に使われるようになったのは、江戸時代に浅草紙という古紙の漉き返し、いわゆる再生紙が作られるようになってからだった。
この浅草紙というのは初めから鼻紙や便所紙として利用するのを想定し、わざと繊維結合をゆるく作った紙で、庶民の間で広まると、江戸の名産品として各地にも伝わっていったそうである。
しかし明治初期には廃れたのか、それとも需要に供給がおいつかなくなったのだろうか? 明治時代のホテルには、外国人貴賓客用のトイレットペーパーを用意するのに苦労したという記述が残されている。それによると、当時の日本にはトイレットペーパーはなく、すべて輸入に頼っていたそうである。
トイレットペーパーは、西欧において砕木パルプが登場した後すぐに、アメリカ合衆国の実業家、ジョセフ・カエティによって商品化された。当時は1枚1枚がシート状になったティッシュペーパーのようなもので、我々に馴染み深いトイレットロールの登場は、さらに数十年後にイギリスで商品化されるのを待つことになる。因みに人類初のトイレットロールは、今と同じくミシン目入りのものだったようだ。
そして19世紀末に欧米でインフラが整いはじめると、「一体成形型台座付き便器」いわゆる洋式便器が販売開始され、その普及と共にトイレットペーパーも一般人に受け入れられるようになっていったという。
さて、欧米に遅れること数十年。日本では明治中頃から、京花紙というシート状の薄手の紙が登場し、また新聞紙や古紙をチリ紙と呼んでトイレットペーパー代わりに使われ始めた。因みに便所用のものを特に落とし紙と呼んだそうだ。きっとギャルゲーの攻略は承っていないだろうが。その後、落とし紙は水洗トイレが普及するにしたがって、水に流せるトイレットロールに徐々に切り替わっていき、京花紙はティッシュペーパーの代用品となっていった。
話を戻そう。シモンに作ってもらった、もう一つの機械は石臼のような構造で、下の台に固定した材料を、上から押しつぶせるように重石のなった砥石面がグルグル回転するといった形をしていた。これを水車動力で動かして、水で濡らしながらゴリゴリと木材チップを摩り下ろすと、簡単に繊維がほぐれてパルプになる。
これが砕木パルプである。これがもう、そのまますぐに紙になってしまう。必要なのは、摩り下ろす前に、チップを蒸気に当てたり煮たりして柔らかくしておくくらいなのだが、
「……こんなんでも出来ちゃうわけ? 見た目は昨日のドロドロと全然違うけど」
「木をそのまま使ってて、不純物が混じるから茶色いんだ。普通は漂白して使うんだけど、しなくても性能的には何も変わらない。因みに、この不純物を薬品を使って取り除けばクラフトパルプってものになるんだけど……」
クラフトパルプとは、クラフト紙、要は我々のよく知っているボール紙の材料のことであり、現在主に紙として使われるものは殆んどこれで作られている。作り方は上述の通り、木から機械的に削り出した砕木パルプ(機械パルプ)を薬品で煮詰めて不純物を取り除く。
この際に使われる薬品が苛性ソーダ、いわゆる水酸化ナトリウムなのであるが……小学校の理科の実験でもお馴染みの劇薬で、薬局で簡単に手に入るものであるのだが、残念ながら異世界では勝手が違い、1日中探し回っても見つからなかった。
市内をうろつき、駐屯地の医師のところに出向いても見つからず、はあ? なにそれ? って顔をされるばかりだった。
そして途方に暮れていたところでようやく気づいた。
水酸化ナトリウムは天然には存在しない。ほっとくと空気中の二酸化炭素と反応して重曹になってしまうからだ。ありふれた薬品であるから、すぐに見つかると思っていたのだが、当てが外れた格好だ。
「そんなわけで現状はもうお手上げで、おまえが機械も作ってきてくれたことだし、これでよしとしたわけさ」
「俺としては昨日作った紙だけでも十分だと思うけど」
「いや駄目だ。大量生産して安くばらまかないと、すぐに商売に出来なくなる」
「どうして?」
「昨日、今日とやってみて分かったろう。紙漉きってのは意外と簡単なんだよ。始めのうちは羊皮紙と同じくらいの値段で売れるだろうが、作り方がわかってしまえば、あっという間に真似される。そしたら大暴落だ。だったら、最初から誰にも真似できないほど安く提供してやればいい」
「はぁ~……さすが詐欺とは言え、一度でも大金を得た人は考え方が違うな。地道にコツコツやってくって発想はないのかい」
別にちんたらやっていたいならそうすれば良いだろうが、アナスタシアの借金を一日でも早く返したいと言う当初の目的を忘れたのか。
彼女がいる手前、黙っていたが、シモンもその後すぐに思い至ったらしくバツが悪そうな顔をしていた。
結局その後は黙々と作業し、その日は低木から作った紙と、砕木パルプで作った紙を天日干しし、日が暮れたら中に取り込んでおいてくれとアナスタシアに頼んで市内に戻った。街へ帰る途中、駐屯地へと続く分かれ道でシモンと別れ、一人で市街の門を潜った。何しに行くのかはバレバレで聞きはしなかったが、恐らくブリジットに報告に向かったのだろう。
ブリジットは水車小屋で作業するようになってから姿を見せなくなったので、てっきり放任されたのかなと思っていたが、どうやらシモンを利用しているようである。あまり趣味の良い話ではないが、宮仕えの苦しいところだろうか。
そんなことより、このところ留置所で寝たり、植え込みで寝たり、ベンチで寝たり、ゲロったり。ロクな環境で寝れていないので、今日こそどこか宿を取ろうと市内の宿屋を回ったのであるが、例の高級ホテルの騒ぎを知っているのか、どこもかしこも門前払いで泊めてくれそうな宿がない。
ここはネカフェも終夜営業のファミレスもない異世界だ。どうすりゃいいのと途方に暮れて、結局いつものように街の中央広場まで戻ってきたのだが、普段なら昼の屋台と夜の屋台が入れ替わる時間になっても、いつもの飲み屋屋台のおっちゃんがやってこなくて、人影も疎らである。
どうしたんだろう? と思って撤収する屋台を捕まえて尋ねてみたら、
「ほれ、西の空でセレネーが、もう沈もうとしてるだろう」
セレネーとは二つある月の一方のことみたいで、
「今日あたり、ぼちぼち月が一つ隠れちまうから、これから暫くは夜の営業が少なくなるのさ」
なるほど、月の公転周期が違うから、二つが同時に上がることは、一月に長くても10日前後のことらしい。月が一つしかなければ、やはり街灯もない世界だから、夜は暗くてあまり人が出歩かない。
「それに、今日は大晦日だ。正月くらいはみんなゆっくりするものさ」
といって屋台のおっさんは去っていった。
そうか、もう大晦日だったのか……
異世界に突然飛ばされて、日付も曜日の感覚もガラリと変わってしまったから、あまり意識していなかった。但馬の記憶が確かなら、飛ばされてくる前は7月くらいだったから、こちらに来ていきなりクリスマスだ年末だと言われても、ちんぷんかんぷんだったのだ。どうせすぐに元の世界に帰るつもりだったし、日本と違って12月の陽気が暖かであるなら尚更である。
しかし、気がつけば帰る算段も立たないまま10日も経ってしまって、今では結構馴染んできている。異世界だと言っても、但馬がいるのはずっと街中で、食生活も勇者の影響からか、時折腹をこわすくらいで地球のそれとあまり変わらず、意識して魔法でも使わない限りは、海外旅行しているくらいの感覚でしかない。
月明かりに導かれるように、広場から埠頭方面へと歩いてきた。港に来るのは初めてだったが、埠頭はやはりコンクリートで出来ていて、見た感じ地球のそれとあまり変わりは無い。ただ、停泊している船が木造のガレー船で、それがとんでもなく違和感を醸し出していた。
いや、こっちの人からしてみれば、これが普通なのだろうが……
普段なら夜釣りの釣り人が居るのだろうが、大晦日だということか、人影はまるでなく、打ち寄せる波の音だけが辺りに響いている。
港を離れ海岸へ出て、その白い砂浜をテクテクと歩いていたら、やがて製塩所のでっかい煙突が見えてきた。揚げ浜式のいわゆる塩田で、砂浜の上に海水のプールを作り、それを天日干ししている。やがてそれが乾いたら、砂ごと煮炊きして不純物を取り除いていくという、昔ながらの製塩法だ。その際、煮炊き用の燃料が大量に必要になるのだが、この国は石炭が出るのでその点が有利に働いて、他国にも売れるくらいの量を確保できているようである。
ところで現代日本では、とても大量需要に対応しきれないので、このような塩田方式は戦後には廃れて、今では主にイオン交換膜製塩法というもので電気的に作られている。
食塩、いわゆる塩化ナトリウム(NaCl)は、水溶液中でNa+とCl-と言う電荷をもった分子、イオンとなって存在しているが、そこに電極を突っ込むと、それぞれ電極のプラス、マイナス方向に吸い寄せられる。その性質を利用して海水中の塩を濃縮しているのだ。
この際、+電極では塩素ガスが、-電極では水素と水酸化ナトリウムが生成されるが……
「……ないなら、作ればいいのか」
但馬は製塩所の煙突を見ながら独りごちた。
昨日今日と使った機械の出来具合からしても、シモンの工作能力は結構なものがあるようだった。ならば、あとは自分の設計次第でなんとかなるんじゃなかろうか……彼は回れ右すると、来た道を戻り始めた。
すっかり暗くなった夜空には月一つだけが昇り、久しぶりに懐かしい地球の空を思い出した。通りすがりの人達が剣など腰にぶら下げてなかったら、きっと錯覚したことだろう。