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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第七章
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迂回攻撃

 甲陽軍鑑には武田信玄の弟、信繁の遺訓九十九ヶ条が記されているが、彼が城攻めについて述べた言葉にこんなものがある。


 千人で正面を攻めるより、百人の横槍を入れろ。千人で門を押すことは、内通した一人が(かんぬき)を外すのに等しい。


 要するに、馬鹿正直に真正面から攻撃するくらいなら、少数でも側面を突くか、内通工作をした方がよっぽどいいと言うことである。


 日本の築城の話であるが、城は予め敵が攻めてくる方向を定めて、一の丸、二の丸と設計がされている。つまり、真正面から攻めれば準備万端整えられているのだから、簡単に落とすことは出来ない。


 故に、城攻めの名手は、真正面から攻めることはまずなく、土を掘って土竜(もぐら)攻めをしたり、河川から水を引き込み水攻めしたり、大勢で取り囲んで兵糧攻めをしたりした。


 まともに攻める奴は馬鹿なのである。


 ところで、帝国・イオニア連合軍が今やろうとしているのは、その馬鹿の所業であり、南山陣地を攻撃するのはまさに敵の思う壺だった。


 その点、ウルフは早いうちに攻略を諦め兵糧攻めに切り替えたのだから、指揮官としてその判断は拙くは無かった。ただ、最初に述べた通り、千人で攻めるより一人の内通者を作った方がいいという言葉通り、カンディアに間者を入れられ万事休した。


 本当の戦争の名人は、あらゆる手段を尽くして戦略レベルで勝つのであり、戦場についた時にはもう勝敗は決まっているのだ。


 孫子曰く、古の戦争の名人は敵軍をして前後の部隊の連絡を取れなくし、大部隊と小部隊が互いに頼み合うことが出来なくし、階級の貴賎・上下の者が互いに救いあえなくした。


 アスタクス方伯は将軍といういかにも裏切りそうな人物に、わざと秋波を送ってることを見せつけることによって、諸侯を揺さぶり、この状況を生み出している。将軍は焦り、なんとか手柄を立てようとして、それを悪化させた。


 話を戻そう。


 従って、今回の相手要塞の攻略にあたっては、まともに南山陣地を攻めるのはいけない。ここを攻めるのは、敵にうまく乗せられているだけだ。


 軍議の際、将軍は緩やかな斜面の方を正面と言ったが、敵陣に迫ることが出来ないのであれば、実際にはこちら側が側面なのだ。相手は初めから、帝国軍が崖を登ってくるのを待ち構えているわけである。


 囮に食いついてはボコボコにやられるだけであろう。


 そこで但馬は南山陣地攻略を却下し、本陣にちょっかいをかけることを提案した。具体的には、騎兵による迂回攻撃である。


 その昔、騎兵は最強の兵科であった。それは洋の東西を問わず、日本の戦国時代でも上杉武田の騎馬軍団が有名であるように、ヨーロッパでは騎士は貴族の象徴だった。


 何故、騎兵が最強兵科だったのかといえば、それは人間が馬を恐れるからである。


 実際に馬を見ればわかるが、あの大きな体がものすごい速さで近づいてきたら、人間が恐怖心を感じないわけにはいかない。昔の馬は小柄であったとは言え、十分に怖いはずだ。想像がつかないのであれば、例えば400ccのバイクが時速45キロで突っ込んでくるのを想像して欲しい。しかも何十台も。逃げるなと言う方が無理だろう。


 ヨーロッパの古の戦場では、この馬に馬鎧を着せ、板金鎧で武装した騎士がランスを構えて突撃するのが必勝戦術であり、戦術とは保守的な面があるから、みんなこれが上手くいくとわかるとこればかりをやっていた。


 そのうち、戦争が少なくなると、貴族たちは訓練のための馬上槍試合、いわゆるトーナメントを儀式化し、重騎兵を神聖な兵科として自画自賛した。故に欧州の人々は、騎士は強い、貴族は偉いと思っていたのである。


 だが、本当に騎士は強いのだろうか?


 考えてもみれば、馬は草食動物だ。臆病な生き物であり、本来ならば恐れるのは人間ではなく馬の方のはずである。軍用馬が人を恐れないのは、家畜として飼育された上に訓練されているからであって、訓練したからといって馬がトラやライオンになるわけではない。


 だから実は人間が馬を恐れず、槍を手に突っ立っているだけで、突撃してくる馬はその直前でピタリと止まる。騎手がムチをいくら入れても、馬はそれ以上進もうとはしない。そのまま進めば串刺しになるのだから当たり前だ。


 更には音にも敏感で、馬は背後で大きな物音がしただけでもビックリして逃げてしまうのだから、大砲や銃弾の飛び交う戦場で冷静でいられるわけがない。


 その結果、戦場が弓や槍から、銃や大砲へと変わって行くに連れて、騎兵は廃れて騎士は馬から降りるようになった。馬は戦場では役立たずになってしまったのだ。


 だが、これは些か早計であった。


 馬は役立たずの烙印を押されたが、実際にはそんなことはなく、問題は馬を運用した戦術の方にあったのだ。


 様々な伝記や軍記物の影響で、我々は馬と言えば騎兵突撃を連想する。日本のファンタジー小説にすら、必ず騎士が出てくるだろう。特にヨーロッパの騎士と言えば、綺羅びやかな板金鎧を着て、何メートルもあるランスを構えて突撃していくチャージが代名詞であるが、この常識が曲者なのだ。


 馬は臆病で、それ故に足が速くなったのだろうから、重いものを背負わせて真正面から突っ込んでいくのではなく、出来るだけ荷物を軽くし、その機動力を活かした戦法を取ったほうが理に適っているはずではないか。


 馬を不必要に怖がらせないよう、出来るだけ敵の側面や背後に回り、拠点を素早く移動するのに使ったり、追撃戦で敵の背中を追いかけたり、そういう用途では騎兵の右に出るものはいない。実は、大昔のアレキサンダー大王の時代では当たり前のようにやってたことなのだが、中世という長い暗黒時代に、貴族が騎士を神聖視するあまりに、この常識は失われてしまったのである。


 それを再構築したのがスウェーデン王グスタフ・アドルフで、彼は歩兵、砲兵、騎兵を組み合わせた三兵戦術を作り上げた。即ち、砲兵で敵を粉砕し、歩兵で敵を取り囲み、騎兵で止めを刺すのである。


 三兵は互いに協力し合って苦手を補い、どれかが突出することはない。騎兵は隙を見つけては、側面や背後から歩兵や砲兵にサーベルによる抜刀突撃を繰り返し、その際は機動力を失わぬよう、深追いせず足を止めないように気を配った。歩兵は敵騎兵に近づかれないように、方陣を組んで応戦した。そして機動力や守備力のない砲兵は、それを他の兵科に任せて攻撃に専念した。


 こうして三兵科が互いを補いあいながら戦う三兵戦術は、ナポレオン戦争時代に主流となって、後の諸兵科連合(陸海空、様々な兵科が連携するもの)へと姿を変えていく。だが、その元祖は遥か紀元前のアレキサンダー大王であるから、いかに彼が天才であったか恐れ入る。世にある様々な戦法は、大体、大王が大昔にやっているのだ。


 ところで、騎馬戦術の天才といえば、アレキサンダー大王の他に源義経(みなもとのよしつね)が挙げられる。これは文字通りの判官びいきではなく、彼の騎兵運用は歴史的に見ても抜きん出たものがあった。


 特に日本三大奇襲の一つにもあげられる一ノ谷の戦いは、まだ元寇も無かった時代に、遊牧民でもない極東の島国で起きたこととしては、あり得ないほど馬を有効活用したものだった。


 これまでに示したように、騎兵の最大の長所はその機動力であり、長距離を短時間で駆けて奇襲をすることに向いている。義経は騎兵を打撃力ではなく完全に乗り物として扱い、足の遅い歩兵とは別に遊軍として用いて、僅か70騎による敵の城郭への迂回奇襲を成功させた。有名な鵯越(ひよどりごえ)の逆落しである。


 全く予期しない方向から襲撃を受けた一ノ谷の平家は、城郭の最奥から上がる火の手を見て真っ先に裏切りを疑い、たった70騎の兵士の仕業とは知らずに我先にと逃げ出してしまった。


 最前線である生田の森で奮戦を続けていた平家の総大将平知盛(たいらのとももり)は、一ノ谷が落とされたと知って混乱に陥り、呆気無く敗北。都落ちしていた平家は、この戦いにより止めを刺された格好になり、本拠地屋島も追われて滅亡へと突き進んでいくことになる。


 さて、このような実例があったにも関わらず、日本で騎兵を打撃力としてでなく、ただの乗り物扱いしたのは、その後戦国時代の末期までただの一例もないそうである。恐らく、日露戦争の秋山隊までないのではないだろうか。そう考えると、いかに義経が突出した天才であったかが窺えるエピソードであるが……


 まあ、実際に馬を飼うなんて機会はそうそう無いだろうから、誰だって実物を見たら、強い! 速い! 格好いい! と思って、騎兵突撃してしまうのも仕方ないだろう。義経は奥州という馬産地で育ったから、馬を特別視していなかったのもあるかも知れない。


 ともあれ、第一次フリジア戦役以降のこの世界でも、騎兵は同じように廃れていた。


 特にガラデア平原会戦で、大砲の音にビビって、馬が全く使い物にならなかったのを経験していた方伯は、その運用を見直し、今回は山に拠ることもあってか、独立した騎兵部隊を連れていなかった。せいぜい、野戦砲を引くために砲兵一部隊に数頭がつけられているくらいであった。馬は使えなければ、ただの大飯食らいなのだ。


 逆に、但馬の方は知っての通り、ハリチで馬を生産していた。特に、彼の私兵である亜人騎兵(ホワイトカンパニー)は、そのために馬産地で暮らし、競馬をやっていたくらいである。その身体能力の高さもあって、今となってはこの世界でも、馬の扱いでは右に出る者がいないくらい、優秀な騎兵軍団となっていた。


 但馬はあの軍議の後、自慢の騎兵軍団を迂回攻撃させることを提案。翌日、揃いの白装束に身を包んだ亜人騎兵500騎が南山前に布陣する帝国軍本陣から進発。フリジア街道をこれ見よがしに東に進んでいった。


 明らかに南山を迂回する動きに方伯は警戒し、砦から歩兵隊を出すが、ものの数十分も経たずに東の平原に騎兵部隊が現れると、その早さに慌てふためき、街道を制圧しようと、バラバラに歩兵部隊を山から下ろした。


 すると間髪入れずに湖岸の帝国砲兵陣地から曲射が浴びせられた。


 南山の敵砲兵から散々跳弾砲撃を食らっていた帝国軍もまた学習していた。帝国砲兵の有効射程は1キロであるが、威力を考えない曲射であればその倍近く飛ぶ。支援砲撃は直撃させる必要はなく、散弾を適当にばら撒けばそれでいい。無防備な歩兵はそれで怪我をするのだ。


 思わぬ砲撃を食らい、歩兵を引っ込めた方伯であったが、それでは南山の砲兵陣地の背後が心許ない。南山の守備兵が騎兵を警戒すれば、帝国軍の右翼が前進の構えを見せ、本陣の砲兵が支援しようと東を向けば、今度は帝国左翼が動き出そうとする。


 そんな具合に騎兵の動向を見ながら、帝国軍と方伯軍が牽制しあう中、街道沿いにごちゃごちゃやっていた亜人騎兵たちは、最終的に北へと逃げていった。埒があかないと考えた方伯が歩兵を北から回りこませようとしたのを嫌ってのことだった。


挿絵(By みてみん)


 北山の東に騎兵が現れただけで、これだけ自陣が乱されるとは思わなかった方伯は、砦内に温存していた歩兵隊を砦北側へと配備し、消えていった騎兵の再襲撃に備えた。だが、その行為は無駄であり、方伯はすぐさま騎兵を追撃する別働隊を編成する羽目になる。


 この迂回してきた騎兵の狙いは、実は敵本陣ではなく、逃げていった先にあった。方伯は予定していた補給が届かないことで、それを知ることになったのだ。


 亜人騎兵は偵察によって相手補給部隊の動きを知っており、敵本陣を狙うふりをしてそちらを襲撃しにきたのである。


 これより争点は前線から、後方を撹乱する亜人騎兵とそれを追撃する方伯軍の戦いになる。戦線が膠着する中、その状況を打開する手を但馬は敵後方に求めたのである。


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