カンディア騒乱④
カンディア軍港内で起きた不正事件の余波は結構大きかった。
まず、事件を受けて、アナトリア軍には兵站を専門に扱う部隊が創設された。引き続き、兵站基地はカンディアに置かれたが、それを管理する者は、駐留軍やカンディアの文官らからは選ばず、中央から派遣した軍幹部に行わせることにしたのだ。
選ばれた彼らは、帝国軍に属する職業軍人で、いわば戦闘のプロだった。そんな彼らは兵站部隊と聞かされて、かなりショックを受けていたようであったが、今回起きた事件による被害と、兵站の重要性をこんこんと説いて、どうにか納得して貰った。
しかし、あまり長くは、やりたくなさそうである。
やはり、時代が違えば常識が違うとでも言えばいいのだろうか。彼らは前線で華々しく活躍してこそ出世の道が開けると考えており、後方で飯を配っていても何のプラスにもならないと感じていたのだ。
絶対にそんなことはない、戦争が終わったら確実に出世させてやると言っても、何もしてないのに出世しては、周りから恨まられるからと言って拒まれた。古今東西、飯が無くて敗れた軍隊など、いくらでも居ると知っていて尚これである。彼らは未だに、馬上槍試合で雌雄が決するような時代から頭の中身が抜け出せないでいるのだ。
恐らくこれには世界の常識や軍全体の意識改革が必要であり、その教義を浸透させるには時間がまだまだかかるだろう。もしくは、アレキサンダー大王のような強烈なリーダーシップを発揮する将軍が出てくれば良いのだろうが……そんな都合のいい話など期待するだけ無駄だった。
ともあれ、カンディアの無駄遣いを是正できたお陰で、当初の目的である財源確保は達成された。今まで聖域として手をつけられなかった軍事予算にメスが入ったことで、莫大な予算が地方のカンディアから、中央へと戻ってきたのだ。
そして引き上げさせた軍事予算を調べあげたところ、ただでさえ軍事費というものは金食い虫であるのに、目を覆いたくなるような無駄遣いがあちこちに見つかった。着服を差し引いても、兵站部の仕事は雑の極みであり、お陰で国内外にかなりの金が流れてしまっていたようである。
まあ、イオニア海交易で還流して周辺の景気刺激に役立っていたと考えればまだ許せたが、マフィアだって、エトルリア系の商館だって、イオニア海には無数に存在するのだ。どれだけの国費が敵国に流れていったのかと思うと頭の痛い問題だった。
だが一人で考えていても答えは出ない。そんなわけで、軍事予算配分のやり直しと、法人税の減税と、カンディアの現状も知りたいので、但馬は議会を招集することにした。
今回の事件を議会で話し合い、対策を講じるつもりである……だが恐らく、議会は荒れに荒れることだろう。
カンディア系議員はやり玉に合うだろうから、それを嫌って下手なことをしなければいいのだが……しかし、あのプライドの塊みたいな若い議員たちが、黙って屈辱に耐える姿は想像できず、但馬は深い溜息を吐いた。
こんな心配は杞憂に終われば良いのだが……
もちろん、そんなわけもなく、但馬の想像通り、この後の展開は酷いものだった。いやそんな想像など足元にも及ばなかったと言ったほうが正しいだろうか……
彼自身、時代が違えば常識が違うと感じている通り、それは本当に現代人からしてみたら思いもよらぬ、常識はずれな事件だったのだ。
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議会招集状を各議員に送付して一週間。
但馬はその間、議会対策のために国内議員と積極的に会食し、そのついでに意見を吸い上げつつ、新法案に関する大雑把な草案をまとめていた。
本当はカンディアの現状が知りたかったのだし、カンディア系議員の意見も聞きたかったのだが、こういう時に中央と地方が離れてるのは痛かった。特にカンディアは島国であり、同じ大陸にあるならハリチでもメディアでも電話が通じるのに、唯一カンディアだけが帝国内で孤立しているのである。
ローデポリスからカンディアまで500キロ。現在では片道3日弱まで短縮されたが、それでも往復で一週間ちかいタイムロスが生じるのだ。意思疎通を行おうにもその一週間がネックとなって、絶対に上手くいくことがないから、双方ともにあっちはあっちという意識が強く、彼らが独立色を強く出すようになっていったのも、仕方ないことだったのかも知れない。
おまけに、統治者であるはずのウルフは、ずっと戦争で国内に居なかったのだ。ウルフに後を任された者達は、初めは忠実に国を守ろうと思っていたに違いないが、しかし、最高責任者が居ない中で、中央から命令や通達だけがやってくるうちに不満が溜まっていたのだろう。反論しようにも、返事が帰ってくるまで一週間もかかるし、ウルフに助力を得ようとしたら、これはもっとかかるのだ。
そして不満が溜まりに溜まったところで事件は起きた。
その日、ローデポリス西港に巨大なマストが姿を現した。今となっては旧式となった帆船に、いくつもの大砲を乗せたアナトリア軍のヴィクトリア級戦列艦である。世界中を探してもこのように大砲で武装した船はイオニア海にしかなく、その特徴的なシルエットはこの海に住むものなら誰もが見間違うことが無かった。
しかし、リディアにある軍港はハリチの海軍工廠だけであり、ローデポリスに軍船がやってくることはまずないのだ。それがいきなり現れたものだから、港湾の作業員たちは慌てふためき、間もなくインペリアルタワーに報告が入った。
「宰相閣下、カンディアです。帝国二番艦カンディアが現れました!」
現在、海軍は前線に近いシャーマンコーストに集結しており、内海の守りとしては戦列艦カンディアだけが残されていた。しかしこの船も、現在はイオニア海沿岸都市を守るために、エトルリア大陸周辺を巡航しているはずであり、ガッリア大陸にまで来ることはあり得なかった。
何事か? と驚いた但馬が港へ急ぐと、その特徴的なシルエットが近づくに連れて、更におかしなことに気付かされた。
「いや、あれは……カンディアじゃなくて、ヴィクトリアじゃないか?」
港に近づくに連れ、その掲げてる旗が違うことに気づき、但馬は双眼鏡を覗き込みながらつぶやいた。しかし、それが本当なら、どうしてシャーマンコーストにいるはずのヴィクトリアがこんなところに現れるのか……
首をひねっていると、こちらが警戒しているのを察してか、ヴィクトリアから上陸用舟艇が降ろされた。乗っていたのはジョンストン大佐だった。
やってきたのは帝国二番艦カンディアかと思ったらヴィクトリア、それに乗ってたのはカンディア艦長のはずのジョンストン……わけが分からない。
しかし、こんなのはまだ序の口であった。
「カンディアが占拠された!? クーデター??」
緊急に集められた閣僚たちは事態についていけず、みんな馬鹿みたいに口をポカンと開けていた。この場合のカンディアとは、船の名前ではなく、国の名前なのである。
「はい……もはや間違いありません。宮殿が包囲され、軍港も占拠されました。マーセル大将は逆賊共に捕らえられ、私はたまたまシドニアにいたヴィクトリアに乗って、命からがら逃げてきたようなもので……」
「ちょっと待ってちょっと待って! 色々わからないことだらけだ。まず、どうしてシドニアにヴィクトリアがいたの?」
「順を追って説明いたします」
カンディア軍港を任されていたジョンストンは、公爵夫人ジルに呼び出され、今回の不正事件の収拾をするように指名された。
ジョンストンはウルフに留守を任されていたとは言え、海上警備が主な任務であったため、港湾部の者たちが不正を行っていたことにまったく気づかなかったのだ。
彼はそれを知ると己の不甲斐なさを呪い、綱紀粛正を敢行し、カンディアに所属する予備役達を徹底的に締めあげた。そして不正を行った者たちを逮捕、軍籍を抹消し、営巣にぶち込み取り調べを始めた。
上層部が留守であることを良いことに、緩みきっていた兵士たちはこれに仰天し、一旦は規律を取り戻したかに見えた。だが、そんな中、前線で指揮をとっているはずの帝国大将マーセルがシドニア港に帰還すると話が変わった。
なんと、今回の事件が発覚した前後から、前線に対する補給が途絶えていたというのだ。
思った以上に粘るアスタクス方伯を倒しきれず、シャーマンコーストの攻防は持久戦の様相を呈しており、前線の装備に余裕はあまり無かった。武器弾薬ももちろんだが、食料が届かなくては軍隊は士気がだだ下がり、戦線を維持することもままならない。一刻の猶予もないと判断したマーセルは、ウルフに直談判し、直接物資を取りに戻って来たのだ。
そして、マーセルは補給基地であるシドニアに入港して、始めて今回の事件を知ることになった。こんな重大な報告が、補給が途絶えたのと同じように、前線には伝わっていなかったのだ。
これにマーセルはキレた。
それはもはやただの怒りではなく、憎悪に近かった。
彼は兵站部で後始末をしていた可哀想な文官の首を刎ねると、それを持ってカンディア宮殿に押しかけた。そして宮殿務めの内政官や議員達を集め、その首を投げつけて恫喝まがいに、次に首を刎ねるべきは誰か自分たちで決めろと怒鳴りつけた。
若い文官たちは、歴戦の将軍の怒りに中てられ、色を失った。完全に空気に飲まれた彼らが何も言えずに黙っていると、いよいよマーセルの怒りは頂点に達し、以降、酒をぶちまけ、瓶を叩き割り、剣を振り回し、口汚く罵り、飲み過ぎた彼が酩酊し意識を失うまで、地獄のような叱責が浴び続けられたのだった。
嵐が去った後、誰も彼もが疲れきってフラフラになっていた。若く優秀な彼らは、この数日でいくつもの挫折を味わい、生まれて初めて命の危険を感じ、そして親父にも殴られたことのなかったプライドをズタボロにされた。
そんな時更に、カンディアに与えられていた軍事予算を減らし、今回の件についての話し合いをするため、議会を招集するという通達が舞い込んできたのである。
そして彼らは恐慌状態に陥った。
「恐らく、このまま議会に出席しても、叱責され出世の道が閉ざされると思ったのでしょう。追い詰められ、やけっぱちになった彼らは、酒を飲み過ぎて眠りこけていたマーセル大将を拘束した後、軍港へ赴き営巣に閉じ込められていた将校クラスを解放しました。そして何も知らない兵士たちを武装させ、カンディア宮殿を取り囲み、御前様を軟禁状態に置いたのです」
ジルが捕まっていると知った閣僚たちがどよめいた。キンッ……キンッ……と金属を叩く音が聞こえてくる。ブリジットの頭に血が昇ってきてるらしい。
「私が気づいた時にはもう手遅れで、軍港は解放された下士官によって占拠され、港には近づけませんでした。宮殿は取り囲まれ、中の様子は分かりません。私は出来る限り情報収集をした後にシドニアへ急ぎ、残っていたヴィクトリアの兵員と共にカンディアを脱出しました。一応、投降を呼びかけるために、島をぐるりと一周し、軍港へも近づいてみたのですが、港から威嚇の砲撃を受けて説得は無理と判断しました」
「そんな無茶苦茶な。どうして兵士たちが、言うことを聞くのですか?」
どうしてと言われても、それが軍隊なのだとしか言いようが無かった。兵士一人ひとりが自分勝手なことをしては危なっかしくて仕方ないし、団体行動が出来なければ各個撃破されるのが落ちだ。大体、軍隊は人殺しの道具という時点ですでに理不尽なのだし、おかしいと思っていても、上官の命令には絶対従わなければならないのが、兵士の絶対のルールなのだ。
敵は本能寺にありと言われて京都に入った明智光秀の兵は、そもそも自分たちが戦う相手も行き先すらも知らなかったと言うし、226事件を起こしたのは数人の下士官であって、動員された殆どの兵隊はわけもわからず上官命令だから従っていただけだった。今回もそれと同じことなのだろう。
「カンディアに残ってる兵士の数は?」
「およそ3000です」
「リディアに残ってる兵力とどっこいどっこいだな……予備役を動員すれば勝てるだろうが……」
但馬はブルブル頭を振った。
「いや、勝っちゃ駄目だ。いたずらに兵力を失うことになるし、捕まってるジルさんやマーセルさんが危険だ」
ジョンストンが難しい顔をして続けた。
「そう言えば、詭弁に過ぎませんが、彼らは今回の軍事予算削減を蜂起の理由にあげていました。アスタクスとの戦争が長引いている中、その前線基地であるカンディアから力を削ごうとするのはおかしいと。これは現場を知らない中央の独断専行であり、せめて戦争が終わるまでは現状を維持すべきだと」
「順序が逆でしょう。不正があったからそれを正しただけなのに」
「ええ、ですから詭弁です。ですが、それだけでも命令された兵士たちにしてみれば、軍港を占拠しそこを守る理由くらいにはなるでしょう。そして、前線基地で暴動を起こすことによって、その戦争の帰趨は自分たちが握ってるのだぞというアピールにもなるわけです」
このままでは前線が危機に晒されるぞ、それが嫌なら言うことを聞けと……
はっきりいってこんな自勝手な要求は論外なのであるが、それじゃあどうするのかと言われても、ろくに打つ手が思い浮かばない。そして冷静に考えてみると、言うことを聞いておくのが一番被害が少なくてすむのが、なんとも歯がゆかった。
困るのは前線で補給を待っているウルフなのだ。本音を言えば、問答無用でブチ殺してやりたいところだったが、ここは大人になって、駄々をこねてる子供をあやし、1日でも早く前線が元通りになるようにしなければ、被害が増すばかりだろう。
だから、まずは黙って言うことを聞いておいて、戦線を立て直し、然る後にこの馬鹿どもをじっくり料理してやればいい……恐らく、これが最善だろう。
それにしても、みんなそれなりに能力があるから今の地位にいるのであろうが、いくら追い詰められたからと言って、そんな彼らがここまで愚かな行為に走るものなのだろうか?
但馬は正直不可解にも思ったが、とりあえずブリジットに具申しようと口を開きかけた時だった。
「失礼致しますっ!」
謁見の間に慌てふためいた近衛兵が転がり込んできた。
「なんだっ! 会議中は、誰も通すなと言っておいたはずだっ!」
上司である近衛隊長が怒鳴りつける。飛び込んできた近衛兵も、そんなことは重々承知であろう。
「申し訳ございません! ですが緊急事態につき……」
「なんですか、申してみなさい」
「はっ! たった今、ハリチの海軍工廠から連絡が入り……」
近衛兵はそこで言いにくそうに一旦区切ってから、
「装甲艦ロードスが先ほどハリチへ現れたとのことです。カンディア公爵様が乗っておられ、乗組員は負傷者だらけだった模様です。現在は治療を受け、みな命に別状はないとのことです」
初め、何を言ってるのか分からず、理解が追いつくまで少し時間がかかった。謁見の間に集まった人々からどよめきが起きる。
「一体何があったんですか?」
補給が途絶えた前線のアナトリア軍は、それでも数日間は持ちこたえていた。補給がないとは言え、南部諸侯の領内は交易路が健在であったから、民間からの調達を行えば、まだ暫くは食いつなげるはずだった。
しかし、やはり人数が人数なので、インフラの整っていない大陸の端のど田舎から調達できる物資では不十分に過ぎた。
ウルフは何度も早馬を飛ばし、シャーマンコーストへのマーセルの帰還を待ったが、期日を過ぎても一向に戻ってくる気配がない。
そしてこれ以上、前線を維持するのは不可能と判断したウルフは、苦渋ではあったが前線を下げる決断をした。別の船を派遣して、カンディアの様子を探るような余裕がもう無かったのだ。
それをアスタクス方伯軍に狙われた。
ウルフが撤退を開始すると、防衛陣地に引きこもっていた方伯軍は一転攻勢に転じた。装備の面では勝っていても、撤退戦では背中を向ける方が圧倒的に不利であり、アナトリア軍は長く続くアスタクスとの戦争で、最大の犠牲者を出すことになった。
おまけに、方伯は初めからそれを狙っていたのだろう、執拗にヒーラーばかりを狙って攻撃してきたのだ。ヒーラーがいなければ負傷者を回復することが出来ず、戦線の立て直しに時間が掛かるからだ。
そうはさせじとウルフは被害が増えるのを承知で、ヒーラーを逃がそうとするが、そこにガラデア平原から逃げ帰ったはずの敵方の魔法兵が現れて万事休した。ガラデア平原から魔法兵が撤退していたことを、ウルフはこの時始めて知ったのだ。
甚大な被害を出しながらも、どうにかイオニアの街まで戻ってきたアナトリア軍であったが、もはや士気は最悪だった。食料は尽きかけ、負傷者の治療もままならない。連戦連勝であったアナトリア軍は、初めて敗北したのだ。しかも何故負けたのか、反省したくても情報が少なすぎてよく分からないのである。
艦砲射撃が届く距離になったら、方伯軍の追撃は止まったが、それでもこちらの動きを探るかのようにあちらこちらに出没しては、ウルフを苛立たせた。
補給が受けられないのだから、砲弾の数にも限りがある。もう間違いない。敵はそれを知っていて、無駄弾を撃たせようと挑発しているのだ。
カンディアに向かったマーセルは未だに戻ってこない。このまま、ここで待っていてもジリ貧である。優先順位を補給に切り替えたウルフは、イオニアの街にアナトリア軍を入れて籠城戦の構えを取った。籠城戦なら艦砲による支援が無くても互角以上に戦えるはずである。街に犠牲が出るかも知れないが、致し方なかった。
そして輸送船を一隻ロンバルディアへ向かわせ、自分は負傷者と共に最も足の早いロードスに乗り込み、ハリチを目指した。妻もいる根拠地であるカンディアのことは気になったが、中央と連絡を取る方が先だと彼は判断した。
「公爵様はカンディアの顛末を聞いて、自分の見る目がなかったと嘆いておられました。そして、これ以上恥は晒せぬと、陛下に進退伺をなされておいでです」
謁見の間は沈黙に支配されていた。全ての事情を聞いても、誰も言葉が出てこなかった。あのプライドの高いウルフが妹に頭を下げてるのだ。なのに、何から手を付けて良いのか分からないのだ。
「ご報告します。取調中のフリジアの商館が、アスタクス軍の関与を認めました。民間人を装って、カンディアにまだ多数の間者が潜伏している模様です」
そんな中、また別の近衛兵が新たな情報を持ってやってきた。彼は謁見の間の異様な雰囲気に一瞬気圧されたようだが、直ぐに気を取り直して職務を果たすと、逃げるように去って行った。彼はまだ、カンディアが占拠されたことを知らないのだ。
甘かった。フリジアでテロリストを一掃したことで、もう大丈夫だと勝手に思いこんでいた。アスタクス方伯はまだ手を打っていたのだ。これは戦争なのだ。向こうだって必死なのだ。ありとあらゆる奸計を使ってでも勝ちに来るのが当然なのに、こちらはそれを怠った。
ブリジットがクラウソラスの鞘を爪弾くキンキンという音だけが響いている。いつまでもいつまでも続くかと思えるくらい長い沈黙が続いたが、やがて彼女はそれをピタリと止めて、言った。
「私の具足を用意してください」
「御意に」
彼女らしい、柔らかな声だったが、その簡潔な言葉は、どこか有無を言わさぬ迫力があった。
もはや、止めても無駄であろう。誰も彼女に反論すること無く、彼女の言葉に従った。
ブリジットは但馬の方を振り向くと、
「先生、作戦をお願いします」
但馬に指示を仰いだ。
謁見の間に集まった人々の目が一斉に突き刺さる。よりによって自分かと思ったが、マーセルもウルフも居ない今、国軍の最高位階級者は他ならぬ但馬なのだ。
仕方ない……彼は暫し黙考すると、言った。
「外務卿は、カンディアの懐柔をお願いします。多分、スパイのせいで、どれだけ要求を飲んでも断ってくるだろうけど、動揺は誘えるでしょうから」
「かしこまりました」
「大佐はカンディアの海上封鎖を行ってください。内務卿は交易船に渡航禁止の通達と、彼に必要な船舶と装備を用意してあげて」
二人が頷く。
「カンディアの蜂起はアスタクスの間者の仕業と見ていい。これを攻めるのは相手の思うつぼだ。フリジアの方は一度失敗したのだから当面は安全だと思う。引き続き、同盟に警戒に当たらせる。よって、籠城中の本隊への補給と増援を最優先目標としたい。それにはシャーマンコーストの再度の奪取が急務だ」
カンディアが使えなくなったことにより、補給基地はハリチまで下がることになる。後方連絡線が非常に長くなるが、幸い、外洋航行技術は帝国にしかないので、上陸地点までの安全は保証されていた。
「その後、イオニアからアスタクス軍を追い払い、全軍をもってカンディアを包囲する。もし無血開城に応じなければ、犠牲を覚悟しなければならないだろう。でも、彼らの建て前は国のためだと言うのだから、分の悪い賭けでもないと思う」
「わかりました」
但馬が目標を示すとブリジットは厳かに立ち上がり、謁見の間に集うみんなに向かって言った。
「私はこれより死地に向かいます。奸賊、ビテュニア選帝侯ミダースを討ち倒し、我が国に手を出せばどうなるかを、エトルリアの民に身を持って教えてやりましょう」
闘志を秘めた瞳を湛え、ブリジットがマントを翻し声高に宣言する。
「装甲艦ロードスをハンス・ゲーリックと改めよ。我が旗艦の名を天下に知らしめ、悪を討つ最強の剣となさん!」
そして謁見の間から歩み出ていった。その後ろを近衛隊長ローレルが付き従い、彼女たちが目の前を通る時、閣僚たちは皆最敬礼のお辞儀で見送った。
間もなく謁見の間の扉が開かれ、事態をまだ知らない近衛兵たちが首を捻る中、近衛隊長は部下に向かって言い放った。
「皇帝陛下、御親征!」
その言葉は瞬く間に国中へと広まった。
建国以来、戦争をしてない時期のほうが少ないこの国であっても、トップ自らが戦場に赴くことはそうはなかった。戦場はいつも遠くにあり、今となっては本当に対岸の火事でしかなかったのだ。国民は知らせを受け、この歳若い女帝を、期待と不安の目で見送った。
こうして、皇位継承から半年も経たずして、新帝は戦場に立つことになってしまった。
これを新帝の力を誇示するための儀式とするか。それとも、彼女を危険から遠ざけておくことに失敗したと考えた方が良いのだろうか。
但馬には分からなかったけれども、少なくとも彼女をその戦場で守る役目は、他ならぬ自分であろうと心に秘め、彼は彼女と共に戦場へと向かうのだった。
(6章・了)