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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第六章
204/398

旅立ちの時⑨

 タチアナは広いスイートルームに一人でごきげんだった。この広い部屋を、現在は独り占めなのだ。彼女はフワフワのベッドに向かってダイブした。


 彼女はお金持ちのお嬢様であるが、悠々自適なセレブのそれではなく、質実剛健の父の方針で厳しく育てられていたせいか、羽を伸ばす機会が殆ど無かった。ロレダン家に居る時は、自分に与えられたせいぜい8畳ほどの狭い部屋で、鬼軍曹のような家令に四六時中見張られながら経営を学ぶという、囚人のような生活をしていたのだ。


 それがリディアにくればいつでも国賓として丁重に扱われ、王侯貴族のような生活をさせてくれる。世界中の美味しい食べ物が集まってきており、電気のある生活は快適だ。今や皇帝となったブリジットとは、気の合う友達であるし、エリックやマイケルのような年の近い男の子と親しく出来るのもリディアならではだった。


 だから大使として指名された時は、大役を担うプレッシャーよりも、嬉しい気持ちの方が強かった。よく選んでくれたと但馬に抱きつきたいくらいだった。


 しかし思い返してみれば、初めて来た時は死地に赴く騎士のような気分だったし、何度も死にそうな目にも遭ったのである。いや、ランやエリオス、アナスタシアが居なければ死んでいたはずだ。それでも、それがあったから今があるのだと思えば感慨深い、喉元すぎればなんとやらである。


 この快適な暮らしを、これから数年間続けられるかと思うと、ウキウキして自然と笑みがこぼれてしまいそうだった。彼女はベッドの枕に顔を埋めると、ニンマリと口元をだらしなく綻ばした。


 と、その時、コンコン……っと、部屋の扉がノックされた。


「ふぁっ……はいっ!」


 彼女はベッドのスプリングを弾ませ飛び上がると、うつ伏せの格好からベッドの上にピョンと正座した。そして誰も見ていないのに背筋をピンと伸ばしながら返事を待っていると、外に居るらしきホテルの従業員から、


「ロレダン様。1階フロントにエリオス様がいらっしゃっております。面会を希望なされていますが、いかが致しましょうか?」

「エリオス様が……?」


 タチアナは一瞬首をひねったが、すぐにエリオスが居るなら但馬も一緒なのだろうと思い直し、


「もちろん、お会いしますとも。お通ししてくださいな」

「かしこまりました」


 従業員にお願いすると、彼はしゃちほこばった声でそう返し、廊下を引き返していった。


 タチアナはベッドから降りると、大きな姿見の前で洋服の乱れを直しながら首をかしげた。それにしても但馬が何の用事だろうか。さっき、帰ったばっかりなのに……


 しかしいくら考えても何も出てこないから、とりあえず待ってれば答えの方からやって来るかと、椅子に腰掛けて来客を待った。間もなく、廊下の方から人の気配がして、再度コンコンと部屋の扉がノックされ、


「ロレダン様、お客様をお連れしました」

「どうぞ、お入りください」


 返事をすると、扉を開いて入って来たのはエリオスで……その後ろには誰も続かず、彼が部屋に入るのを見届けた従業員は恭しく一礼すると、扉を閉めて去っていった。


 あれ? っと思ったタチアナが、


「エリオス様……だけですか? 私はてっきり、但馬様が何か忘れ物でもなされたのかと……」

「む……? すまない。忙しかったろうか。出直した方がよろしいだろうか」

「いえ、とんでもない。どうぞ、おかけになって? あ、もしかして、但馬様のお使いか何かでしょうか?」

「いや……」


 エリオスはポリポリと頭を掻いた。


「昼間に少し話しかけたが、タチアナ殿に少々相談に乗ってもらいたく……」

「ああ! ランさんのことでしたっけ」

「いや違う、ランのことではないのだが……いや、それも多少はあるか。まいったな」


 エリオスは少々困った素振りで眉を顰めた後、タチアナに進められるままに応接セットのソファに腰をおろし、少々言いづらそうに言葉を続けるのだった。


「実は、タチアナ殿に相談したいというのは、コルフのことについてなのだ」

「はあ……」

「あなたもすでに聞き及んでいるかと思うが、俺は今、社長にコルフの大使にならないかと打診されている。俺はそれを受けようかどうしようか迷っているのだ」


 エリオスがそんなことを言い出すとは、まったく想像していなかったタチアナは目をパチクリさせた。さっきベッドに飛び込んだ時に頭でも打って、もしかして自分は夢でも見ているのでは無いだろうか?


「え? え? エリオス様が大使にですって?」

「……似合わないのは承知している」

「いえ! とんでもない! ……あの、本気なのですか? いくら但馬様に言われたとは言え、エリオス様があの方の護衛以外の仕事をなさるとは、想像も及びませんでしたので」

「確かに……俺もそう思っていたのだが」


 エリオスはそう言って難しそうな顔をしてうつむいた。その姿が、まるで宿題が解けなくて困っている子供みたいで、タチアナは彼が本気で悩んでいるのだと思い、これはまじめに聞かなければと、椅子に座り直し、背筋を伸ばした。


「申し訳ありません、少々取り乱しましたわ。それにしても、意外だったのは事実です。いったいどういう心境の変化で?」

「切っ掛けはアナスタシアだった。情けない話なんだが、俺はあれに触発されてな……あの子は女の子だし、ずっと社長の元にいるんだと思っていた。ところがあっさりと独り立ちしてしまって、俺は意外とショックだったんだ」


 エリオスによほど信用されているのだろうか、赤裸々に心境を語られてタチアナは少々ドギマギしたが、


「アナスタシア様の……?」


 彼女が但馬の元を離れてエトルリアへ向かったのは、話には聞いていた。孤児院経営のためのノウハウを学びに行ったはずだ。


「あの子はとても悩んでいた。口では色々言ってはいたが、つまるところは社長の役に立つにはどうしたらいいのかを、ずっと悩んでいたのだ。俺は、社長のそばに居ることこそが正しいと言ったのだが、あの子にとってそれは違ったようだ。それで、あの子を見送った後に俺も少し考えこんでしまった……そんな時、議会というものを見てな」


 民主的な議会運営をすることに、但馬はなんやかんやかなりの期待を持っていた。ところが蓋を開けてみれば、彼が一方的に責められる展開で、エリオスはそれを見ていることしか出来ない自分に歯がゆい思いがしたそうだ。


 しかも、議会が終わったら当の但馬はケロリとしていて、あんなことを言われて悔しくないのかと問うたら、議会ってのはあんなもんだから、寧ろ元気があってよろしいなどと他人事のように(のたま)うものだから、エリオスは開いた口が塞がらなくなったそうだ。


 どうして、ここまでこの国のために尽くしてきて、ここまでの地位に上り詰めた男が、あんな目に遭わねばならないのか。彼の理解者がもっと居ても良いじゃないか。


 そしてエリオスは決心した。


「俺にかぎらず、あれの盾になる者は、今となってはいくらでもいる。今、社長にとって必要なのは護衛じゃなく、志を一つにした仲間なのではないか」


 タチアナは深く感銘を受けた。アナスタシアが居なくなって、リオンも一人でハリチに残って、但馬の周りからどんどんお馴染みのメンバーがいなくなってしまうなと思っていたが……そうではなく、但馬がどんどん偉くなるにしたがって、その周りの人達も自分も変わらねばならないと、自分で考えて行動をし始めているのだ。


 彼女は初め、エリオスが大使にと聞いても困惑しかなかったのだが、今はこの人選が正しいことを理解した。


「それで、大使になろうと」

「本当なら、すぐに議員になれれば良いのだが、俺は貴族じゃない。女王に頼めばすぐにそうしてくれるだろうが、それじゃ駄目だろう」

「そんな方法を使ったら、但馬様が議会で有利に立つためだけにそうしたと言われて、かえって迷惑でしょうね。でも確かに大使なら……あなたの知名度があれば、十分に彼のお役に立てると思います」


 エリオスはホッとため息を吐いた。


「それで、実際、大使というものは何をやればいいのだろうかと思い、こうしてタチアナ殿にご相談に上がったのだ。俺にも務まるのだろうか」

「ええ、寧ろ私よりも問題ないと思いますよ。大使の仕事としては、各種条約の調印や外交の窓口、コルフに居る邦人の方の支援などがありますが、よほどのことが無いかぎり、コルフがアナトリアと揉めるようなことは無いでしょうから、仕事と言っても殆どありません。要人に呼ばれて会食をするくらいでしょう」

「食事か……それが一番難しそうなのだが」

「そんなこと言ってたら、何も出来ませんよ。結局は慣れですよ、慣れ。それに、何があっても我が父、ロレダン総統がエリオス様をお助けすることを約束しましょう。我々は、なんと言いますか、但馬派ですから」

「そ、そうか……ありがとう」

「それに、エリオス様はランさんと内縁関係ですし、彼女を通してティレニア系議員とも接点があります。そう言った点では、我々地元出身の総統派議員よりも優位に立てると思います。エトルリア系議員は南部諸侯の力添えでどうとでもなるでしょうし、問題があるとしたら亜人商人系の議員の方々ですが……彼らはよくも悪くも商人で、お金の関係にシビアですから。金払いの良い但馬様に逆らおうと言う者はもはやおりませんでしょう」

「そうか」


 タチアナのお墨付きを貰えて、エリオスはよほど安心したらしい、


「こんなことまで相談するのはどうかと思ったのだが……タチアナ殿を見込んでお聞きしたい。ランとの関係はどうしたら良いのだろうか。これを機に、籍を入れたほうがいいとも思うのだが、いかんせん、俺は流浪のセレスティア人、ランはティレニア人。アナトリアに籍を持てばいいのか、コルフにすればいいのか……さっぱりなのだ」

「言われてみれば……難しい問題ですね」


 国際結婚の場合、普通なら女性の方が二重国籍になって籍を入れるが……ティレニアという国がそれを許してくれるのかはよく分からない。そもそも気にしてない可能性もあるのだが。


 だがエリオスがコルフ籍になってしまっては、最終的にアナトリアで議員になれない。いっそ、ランがアナトリア国籍を得て、アナトリア初のティレニア系議員になってみてはどうだろうか。確か、国交がなくて困っていたはずだ。


 それにしても……年にしたら二倍以上も上の男に、こんな風に頼りにされる日が来るとは……


 世の中何が起こるか分からないものである。タチアナはその意外性と、案外微笑ましい内容に、エリオスに悪いと思いながらも、ついクスクスと笑い声を立てた……


 しかし、それを見咎められることは無かった。


 ………………ドンッ!!!


 っという音と共に、突然、建物に衝撃波がぶつかり一瞬、強く揺れた。


***********************************


 カタカタとホテルの窓が風もないのに揺れる。どこか、下の階の方からガラスの割れる音が聞こえた。


「何事かっ!」


 ギョッとして身をすくめ、固まっているタチアナを尻目に、エリオスは状況確認のために窓へと走った。


 どこかで爆発が起きたのだろうか? 先ほどの衝撃からして、この建物ではなさそうだ。もっと遠くの方である。窓から外を覗いてみると……案の定、街の一角から黒煙が上がっていた。真下の道路には、さっきの音の正体を探してキョロキョロと戸惑う人の群れが見える。


 エリオスはフッと息を吐くと、まだソファの上で固まっているタチアナに対し、


「大丈夫だ、どこか遠くの方で爆発が起きたようだな。最近は都市ガスも普及してきて、社員も大忙しだと言っていたが……」

「そ、そうでしたか……ああ、ビックリした。ロードス島が噴火でもしたのかと思いましたわ。それで、爆発が起きたのは、どちらの方でしょうか?」

「ああ、あっちは……むっ!?」


 エリオスは慌てて再度窓の外を見た。


 上から見るのは滅多に無いから、一瞬、判断が遅れた。あの方角は但馬の家のある、住宅街の方ではないか?


 窓から見える角度が悪く、良く分からない。エリオスは窓を開け放つと身を乗り出し、じっと目を凝らして黒煙の上がる方角を見た。


「……しまったっ!!!」


 彼の目に飛び込んできたのは、見慣れた近所の家々の屋根と、その中で一番見慣れたはずの自宅の屋根が見えないことだった。


 間違いない、爆発が起きたのは、但馬の家だ!


「え、エリオス様!?」


 エリオスはタチアナが戸惑うのを横目に、


「緊急事態だ。すまない。失礼する」


 とだけ言って、スイートルームのドアから外へと飛び出した。


 あの爆発はなんだ? 但馬が何かの実験を失敗したという可能性もあるが、恐らくは自分の不在を突いた、何者かの襲撃だろう。


 迂闊だった……出掛けるにしても、もう少し近衛の配置に気を配るべきだった。目立つ近衛の鎧を嫌って、必要最小限の人員しかかけていなかった。皇帝の威光に歯向かうものなど居ないだろうと言う楽観もあった。


 自分のミスだ。


 エリオスは冷や汗を垂らしながら廊下へ向かって駆け出した。


 但馬は無事であろうか? 今から行っても間に合うだろうか?


 焦りながらも、必死に頭を回転させ、一秒でも早く現場へ駆けつけようとしている時だった。


 バンッ! バンッ! バンッ!


 っと、駆け出すエリオスの前方で、次々と客室のドアが開き始める。


 その一糸乱れぬ動きに、危険な匂いを感じ取ったエリオスは咄嗟に身を翻すと地面をゴロゴロ転がった。


 パンパンパンパンッ! パパパンッ!!


 つい今さっき自分が居た辺りの空気を裂いて、何かが高速で飛んで行く。


 パシパシパシッ!


 観葉植物の影に咄嗟に隠れ、背後を振り返ると、何かがタチアナのスイートの扉に当たって大きな音を立てた。


 その乾いた音と、当たった扉についた丸い(へこ)みから察するに、間違いない、銃撃だ。


「きゃああああああ~~~!!!!」


 事態を察したらしいタチアナの大きな叫び声が聞こえた。銃撃を受けてすぐこれである。普通なら、何が起こったか分からず固まるか、確認しようとして顔を出してくるのだろうが、襲撃され慣れたものである……


 お陰で足手まといにはならずにすんだが……


 エリオスはそれだけを確認すると、それ以上背後を振り返ることなく、廊下の前方にだけ意識を集中した。


 観葉植物の影から覗いた先に見える開かれた扉は3つ。高層建築であるホテルの最上階の扉は、防火壁も兼ねているらしく、とても分厚く見えた。それぞれの影には、それを盾にするかのように、襲撃者が隠れているようである。


 彼らの得物は……小銃か? 但馬が作ったアナトリア軍最強の武器だ。まさか、それに襲われる日が来るとは……


 エリオスは奥歯をギリギリ噛みしめると、連射が出来ないという小銃の性質を思い出し、襲撃者が第二射を準備する余裕を与えてはならないと、躊躇せずに観葉植物の影から廊下に踊り出た。


「うおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーっっっっっ!!!」


 人間の物とは思えない大きな雄叫びがビリビリと空気を震わせた。


 襲撃者はその声に驚いたのか、装填したばかりの第二射をロクに構えもせずに放ち、案の定撃ち漏らした。


 エリオスはそれを見届けると、腰に差した護身用の警棒を抜き放ち、体にぐぐぐっと力を込めて地面を、ドンッ!! っと蹴り飛ばした。


 100キロは下らない巨漢が、とんでもない速度で飛んでくる。襲撃者は目を剥いて、扉の影にさっと身を隠したが、もはやそんなものは意味がなかった。


 ドスンッ!!


 ゴゴゴゴ……っと、建物を揺るがす盛大な音がして、エリオスが直撃した分厚いホテルの扉は蝶番を引きちぎり、隠れていた襲撃者ごと吹き飛んだ。


 ゴロンゴロンと、まるでボーリングの玉のように、容易く真四角の扉が廊下の奥まで転がっていく。


 巻き込まれた襲撃者は、ダンプカーにでも引かれたかのように、グシャリと変な方向に体を曲げたまま意識を失った。


 そしてホテルの廊下に、血だまりが広がっていく。


「ひゅぅ~……ひゅぅ~……」


 肺から絞り出すような呼吸をしながら、エリオスが血走った目を次の獲物に向けると、男は恐怖に震えて扉の影に引っ込む。たった今、同じことをした仲間がどうなったのか忘れてしまったのだろうか。


 エリオスは情け容赦なしに地面を蹴ると、今度は扉を思いっきり蹴り飛ばした。


「ぴゃッ!」


 扉と壁の間に挟まれた男は、バキバキと背骨が折られ、踏み潰されたカエルのような無残な声を上げて、そのまま泡を吹いて絶命した。


「ま、まてっ! ……や、やめっ!! ……ひぃ~!!」


 その凄絶な死に様を見届けた、最後の襲撃者が、驚愕に震えて小便を撒き散らしながら、必死に命乞いをして後退っていく。


 戦意喪失と見たエリオスは、ギロリと睨みつけると、一体何者の差し金かを尋問するために、男に向かって歩いて行った。


 多分、そこには油断があった。


 バンバンバン!


 っと、エリオスが通りすぎた背後の、まだ開かれてなかった扉が次々と開く。


「しまったっ!」


 咄嗟のことに反応が遅れ、振り返った時にはもう、小銃を構えた男たちが、エリオスに向けて引き金を引いたあとだった。


 バチッ! バチュッ! グチャッ!


 っと音がして、体の中から急激に力が抜けていった。


 エリオスは自分の腹に突き刺さった思った以上に鋭い衝撃に、一瞬、気を失いかけたが、


「むぅ……むんっ!!」


 気合を入れて腹筋に力を込めると、一番手前に居る男に向かって、力いっぱい手に持っていた警棒を放り投げた。


 ドスッ……


 っと鈍い音が響いて、鋭利でもなんでもない警棒が男の心臓に突き刺さる。


 恐らく即死だったろう。ドサッと仰向けに倒れたその顔は笑っていた。


 その姿を見て、もはや迷ってる暇がないと悟ったのか、残る二人が必死になって第二射の準備を始めた。だが、手元が震えて、何度も何度も弾を取り落とし、銃口から弾を詰めることが出来ない。こんなに時間をかけたら駄目だ。もはやこれまで……と男が覚悟したときだった。


 ドサッと、目の前でクマでも倒れたような大きな音がした。


 こわごわと覗き込んでみれば、さっきまで鬼の形相で立っていたエリオスが、ついに地面にひれ伏していたのである。


「やっ……やった……やったぞ! やった!」


 襲撃者たちは歓喜の声を上げる。


 さっきまで小便を垂れ流していた男が、半べそをかきながら仕返しをしようとエリオスを蹴り上げた。


「こ、こ、このやろっ! このやろっ!」


 ドスッ……ドスッ……ドスッ……


 っと、砂袋でも蹴るような音が廊下に響いて、響いて、


 パンッ!


 っと、続いて乾いた音がした。


「……お、おい……」


 銃声か? と驚いた襲撃者たちが見てみると、エリオスは腰だめに短筒を構えて、蹴りあげる男を撃ちぬいていた。男たちは目を丸くした。こんな小さな銃など見たことがなかったからだ。


 それはいつも但馬が所持していた物だった。


 いつぞやの聖遺物騒動後、彼が持たなくなったから、何かあった時のためにと、エリオスが代わりに腰に下げていたのだが……


 まさか、これに助けられるとは……


 しかし、短筒は単発式。後はない。対して襲撃者は残り二人……自分は腹を撃ち抜かれて力を出し切れない……エリオスがついに万策尽きたかと、諦めかけたその時だった。


「な、な、なんじゃこりゃああああ~~~っっ!!!!!」


 廊下の端っこから、素っ頓狂な声が聞こえた。


 エリオスを襲った男たちは、その声にビクリと反応し、銃口を向け、装填していない引き金をカチカチと鳴らした。


「だから……だから……だから……但馬に部屋を貸すのはいやだったんだああああああ!!!!」


 ホテルの支配人は絶叫すると、


「おまえたちっ! あの不届き者をやっておしまいなさいっ!」


 金切り声を上げて、背後につき従っていたホテルの従業員に指示をした。


 従業員たちは尋常でない事態が起きていることを察知すると、まるで訓練されたプロの軍人のごとく、洗練された動きで廊下を駆け抜けた。手には鈍く光るナイフを持ち、双眸は殺人者のように冷淡だった。


 それをただのホテルの従業員だと思っていた襲撃者たちは、その変貌ぶりにまったく反応が出来ず、あれよあれよという間に制圧された。実に見事なものである。


「ふんっ! 御覧なさい、これが……もしもまた但馬が現れたら、軍隊だろうが近衛兵だろうが、相手にしてやろうと鍛え上げた……これが当ホテル自慢の従業員です! あんたたちが大暴れしようとしても、もう、好きにはさせないんだからねっ!」


 支配人は勝ち誇ったかのようにそう宣言すると、ニヤニヤしながら地面に這いつくばるエリオスを見下ろした。


 しかし、その彼が腹から胸から顔から、ダクダクと血を流し、全身血に染まっていることに気がつくと……


「ひっ……ひぃ~! 誰か! ヒーラー! ヒーラー! はよっ!」


 と叫んで大慌てでフロントへ駆け下りていった。


「お客様、大丈夫ですか!?」


 残った従業員が、立ち上がろうとするエリオスに肩を貸す。


 だが、彼はそれを煩わしいとばかりに振りほどくと、壁に手をつきながら、ズルズルと足を引きずりながら廊下を歩いて行った。


 彼が寄りかかった壁には真っ赤な手形がついていた。通りすぎた廊下の絨毯は血が滲んでいた。


 エリオスが1階に降りると、呼びだされたヒーラーが彼を見つけ、びっくりしながらも必死になってヒールをかけた。


 しかし傷は塞がっても圧倒的に血が足りない。


 職業意識から患者の状態を察したヒーラーが、すぐに横になるようにと彼を押し留めたが、エリオスはそんなヒーラーを突き飛ばすとホテルから外へと出て行った。


 貧血状態のエリオスは、目の前が真っ白で何も見えず、耳も聞こえていなかった。それでも、ただただ、但馬の待つ家にまでたどり着こうと、必死になって頭の中の記憶を頼りに、壁をつたい、道をたどって、どうにかこうにか歩き続けた。


 道行く人々がみんな仰天して悲鳴を上げた。


 肩をかそうとした男が殴り飛ばされてからは、みんなもう遠巻きに見ていることしか出来なかった。


 それでも彼は歩き続けた。何度も倒れそうになりながらも、必死に記憶の中の道を辿って……


 どうにかこうにか目的地に辿り着いた彼の元に、集まっていた近衛兵や憲兵たちが駆けつける。


「エリオス様!! 誰か! ヒーラーを!!」

「社長は……無事か」

「そんなことよりご自分のことを」

「無事かぁ!」

「はっ! 宰相閣下はピンピンしておられます!」


 その言葉に、エリオスはガックリと膝を落とした。慌てた憲兵たちが彼に肩を貸す。


「そうか……良かった……」


 地面に座ったお陰で視界が多少は戻ってきた。相変わらず色がなくて、白黒の鉛筆画みたいな視界だったが、それでもさっきよりはマシである。


 だが、直ぐにその考えは捨てた。


 よく見れば、住み慣れた但馬の家が、木っ端微塵と吹き飛んでいるのである。


「なっ……」


 エリオスが再度立ち上がろうとすると、もはや止めても無駄と悟った近衛兵が左右について肩を貸した。


 一歩一歩、足を踏み込みながら、エリオスは最後の力を振り絞って歩いた。もはや足腰の感覚がない。歩いてるというより引きずられてるようである。冷や汗がダラダラと垂れる。


 そんな彼が肩を支えられながら、塀の中へと入って行くと……


「やあ、エリオスさん、早かったね。用事はもうすんだの?」


 但馬がいつものケロリとした表情で出迎えた。彼の足元には、ロープでぐるぐる巻きにされた見知らぬ男たちが転がっており、武装解除された小銃が乱雑に置かれている。それはさっきホテルで見たものと同じである。


「……って、エリオスさん? エリオスさん!? エリオスさん!!」


 但馬は初め、エリオスの状態に気づかなかった……だが、彼の血だらけの姿に気づくと、次々表情を変えては絶叫した。


 そのあまりにいつも通りの光景に、エリオスは今度こそ全身の力が抜けたように倒れ込んだ。左右の近衛兵が彼の肩をガッチリと受け止める。但馬が何かを言っていたが、もう限界で、何も耳に入っては来なかった。


 彼は薄れ行く意識の中で思った。タチアナを放置して来てしまったが無事だろうか……そのことをほんの少し心配し……それから彼はコルフ行きを決心するのだった。


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