旅立ちの時①
打ち壊しの起こったメアリーズヒルの街は、これで労働者がごっそりと居なくなり、残ったのはボロボロに焼け落ちた工場跡ばかりとなってしまった。まだ鉄道が通ってなかった頃に逆戻りである。
街には10の工場があったが、地元の工場主は数人いるだけで、殆どが首都で生活している貴族の所有物だった。事件の知らせを聞いて駆けつけた彼らは、ボロボロになった工場を目にしても、呆然とするばかりで実感が沸かない感じだった。彼らは投資家であり、経営者ではなかったのだ。
投資が無駄になってしまった彼らは、そこに但馬の姿を見つけると、おべんちゃらとともに国から補償が出ないかと必死に訪ねてきた。事故や災害なら出してもいいのだが、今回の場合ははっきり言って難しい。ただ、今後の議会運営次第では、見舞金くらいなら出せるかも知れないと、暗に仄めかしておいた。
第一回の帝国議会では、今回の件を議題に上げるつもりだった。同じことを繰り返したら国が疲弊してしまう。だからそうなる前にルール作りをしなければならないだろう。と言うか、そもそも、今回の件は現代人である但馬なら、ある程度予想をつけておかねばならなかったはずだったのだ。
今回の事件がどうして起こったのか。それは言うまでも無く、労働基準法がないからだ。
この世界は、工業化が始まったばかりで、工場労働者を酷使した先にある健康被害と、彼らが蜂起した際の打ち壊しによる経済的な損失を、まったく経験していない。これはプロト工業化時代に、実際に起きた問題なのである。
産業革命が始まった頃のイギリスでは綿織物工業が盛んであった。元々、植民地であるインドの綿織物を輸入していたイギリスだったが、やがて新大陸で綿花のプランテーションに成功すると、安価な綿織物を今度は逆にインドに売りつけるようになった。
そして武器弾薬をアフリカに輸出し奴隷を買い、その奴隷を新大陸へ運んで農業に従事させ、出来た綿花を輸入して綿織物に加工することで巨万の富を得た。有名な三角貿易である。
インドは殆ど無理やり買わされていたわけだが、イギリス人は綿織物を作れば作っただけ売れるので、国中で紡績工業が大流行した。そうして競争が生まれると、技術発展が促されるのが世の常である。
この時代のイギリスでは、糸車、飛び梭、織機、紡績機と、綿織物の工作機械が次々と生み出されていった。最終的には紡績における多数の行程が、水車動力により自動化され、綿織物は大量生産が可能となり、これが産業革命の前触れとなった。
しかし、大量生産が可能になったのとは裏腹に、それに従事する労働者の数は逆に減っていったのである。
例えば、糸を紡ぐには本来二人の人間が従事する必要があったのだが、糸車が開発されるとそれが一人で出来るようになった。更に、元々綿織物は職人の技術がなければ作れなかったのに、織機が開発されると誰でも作れるようになってしまい、価格が暴落した。更に飛び梭が開発されると、生産効率が格段に増し、また価格が下落する。
最終的にこの工業化の流れは、水車動力を利用して一人の人間が複数の糸を短時間に大量に紡ぐことまで可能とした。人間は糸が切れてないか、紡績機の様子を見ているだけで、後は何もしないでもよく、それまで綿織物に関わってきた大勢の人々は、仕事を無くしてしまったのである。
このように、機械化が起こると、生産力が増しているというのに、国民の仕事が無くなり、平均所得が減ると言う矛盾した問題が発生する。機械は、大量生産を可能とし競争力を上げるが、価値を全く生み出さないのだ。
そもそも、物の価値とはなんであるのか。
無人島に食料と一千万円、あなたならどっちを持っていくか? なんて例え話がある。無人島に札束を持って行ったところで、何かを買えるわけじゃないから意味が無い。つまり、お金というものはそれ自体に価値はないよと言う例えである。
しかし、こう言っても「いいや、俺は1千万円を持っていく。持って行って泳いで帰ってきてみせる!」などと言いはる業突く張りが出てきて、果たしてその一千万円に生命をかける価値があるのかどうかと、知らず知らずのうちに別の議論に発展して行ったりするのであるが……
果たして、このお金ってのは何なのか?
ここに古代人Aが居ると仮定しよう。古代人Aは狩猟は苦手だが手先が器用で、動物の革をなめして服を作るのが得意だった。ある日、古代人Aは服の材料が欲しくって、狩猟が得意な古代人Bのところへ行き、自分の作った服と動物の革を交換してくれとお願いしたとする。BはAの服の出来栄えを見て、喜んで交換してくれたとしよう……
これに気を良くしたAは仕入れた材料で更に服を作り、また別の日にBの元へ交換に行った。ところが、今度はBは交換に応じてくれない。何故だろうか? Aから服を手に入れたばかりなのだから、当たり前である。
しかしAはBから動物の革を得ないと新しい服を作れなくて困るから、なんとか交換してくれとお願いする。するとBは、服はもう要らないから、魚となら交換してやると言うとする。Aは魚釣りも苦手だから、ほとほと困り果てるが……そこに偶然、魚釣りが得意な古代人Cが通りかかり、自分の釣った魚と服を交換してくれと言ってきたとしよう。
こうして、古代人AはCから魚を交換してもらい、晴れてBの動物の革と交換してもらうことが出来た。
古代の人々はこうして物々交換だけで生活していたわけだが……それじゃ不便だから共通した価値を持つもの、お金を作った。いつも古代人Cが通りかかるとは限らないからだ。
つまり、お金とは交換するときの媒介品、価値尺度の1つでしかなく、Bにとっての二枚目の服、Aにとっての魚と同じで、それ自体は何の価値もない、使わなければ(交換しなければ)意味のないものと言えるだろう。
しかし、お金があれば色んなものと交換が出来るから、みんなお金を集めようと必死になり始める。物を売ってお金にし、そのお金を貯めて、更に大きな買い物をしたりするようになる。そうなるとそのうち、お金を貯め込むこと自体が目的となり、お金に物と同等の価値が宿っていると錯覚してしまうようになる。本来それは持ってるだけでは、使わなければ、価値は生まれないはずなのだが……
これを貨幣の物象化、物神性という。
さて、かくして我々はお金のために労働を始めるわけだが、お金を得る手段は何も物を売ることだけではないだろう。古代人AはBから仕入れた革を加工して服を作っていたわけだが……ある日、BがAにいったとしよう。
「お金をあげるから、動物の革から服を作ってくれないか」
Aは何も用意せずにお金だけを貰えると思って喜んで引き受けた。しかし、これはどちらが得かは言うまでもないだろう。動物の革はAにしか売れないが、服(二次加工品)になれば色んな人に売れる。つまりAはただでお金を貰ったわけではなく、単に労働を売っているだけなのである。
ところで、具体的にどのくらいの値段で売れば良いだろうか? Bが儲けを出すには、
『商品の値段=人件費(Aの賃金)+材料費+諸経費(設備費用とか)+利益(Bの取り分)』
で売れればいい。仮に材料費400円、諸経費も400円、人件費100円として、100円の利益を得ようとすると、
『1000円=100円+400円+400円+100円(利益)』
1000円で売ればいいこととなる。かくして、Aが働くことによって、何も無いところから100円の利益が生まれた。働いているのはAで、Bは寄生しているだけなのだが、材料を用意したり、設備を用意したり、実際に売りに行ったりしてくれてるのはAではないので、まあいいだろう。労使関係の二人はこうしてお互いに満足した。
ところがある日、機械が導入されると話が変わってきた。それまでAは、日に1枚しか服を作れなかったのに、機械によって、なんと日に10枚も作れるようになったのだ。
Aは、これで給料が上がるぞ! ……と思ったが、そうは問屋がおろさない。
Bは機械で楽に作れるようになった分、商品の値段を下げることにしたのだ。具体的にどれだけ下げたかと言えば、
『商品の値段=人件費/10+材料費+諸経費+利益』
『910円=10円+400円+400円+100円』
である。つまり生産力が10倍……売り物が10倍になったから、商品1個あたりの人的コストを1/10にしてしまったわけである。安くなったお陰で商品は飛ぶように売れた。
Aの給料は下がっていない。今までどおりである。もし機械がなければ、Aは日に服1枚しか作れないのだから文句も言えない。だが、利益は10倍である。
働いてるのはAなのに、どうしてBばっかり儲かるんだ? しかし、そんなことを言えば、辞めたきゃ辞めればいいと言われる。機械は誰にでも扱えるので、Aが居なくても、もう構わないのだ。
始めの商品の値付けを見れば分かる通り、物の価値は人間の労働によって発生した。人間の労働が付加価値を産んだのだ。
ところが、そうして生み出された価値は、機械化によって減ってしまう。機械化は物の価値を目減りさせるだけで、人間のように価値は生み出さないのだ。機械の導入が進めば進むほど価値は毀損していき、価値が減った分だけ大量生産がなされ、過当競争が繰り広げられていく。
そして、一握りの人間だけが富を独占し、そこに貧富格差が生まれるのだ。
マルクスやエンゲルスは著書、資本論でそのことを指摘しており、資本主義の限界を予言した。機械化が行き過ぎると物の価値が無くなってしまい、戦争による破壊によって消費先を絶えず創りださなければ、やがて資本主義は行き詰まり、世界は滅亡すると彼らは考えていたようだ。
そして行き着いた先が共産党宣言なわけである。尤も、共産主義がうまくいかなかったことは、その後100年をかけて証明されるわけだが……
なにはともあれ、産業革命期の機械化の波で、仕事を失った職人たちは激怒し、開発者を襲撃した。働いても働いても裕福になれない、貧富格差に激怒した市民が、機械化で儲けている工場の打ち壊しをしょっちゅう行っていた。
また、機械化の弊害は意外なところにも出た。機械を使えば誰でも簡単に商品が作れる。誰でもと言うことは、子供にだって作れると言うことである。
ところで、これと同じ時期にノーフォーク農業による農業革命が起き、食料事情が劇的に改善したお陰で、農村部では労働力がだぶついていた。
そのため、普通なら故郷から外へ出ることもなく、一生を長男の家で厄介になり、結婚することもなかった次男や三男が、好景気の都市部へ出稼ぎに出るようになり、そう言った無産階級者が都市で結婚し子供を産み、更なる人口爆発が起こった。
彼らは故郷に帰っても畑がなく、食っていけないから、家族と一緒に暮らすためには都市部で暮らし続けるしかなかった。しかし、社会保障などない時代だから、働き続けなければ生きていくことが出来ず、仕事を選り好みすることは出来なかった。(まるでどこかで聞いたような話であるが……)
何の技能もない彼らにとって機械化の進む大規模工場は都合がよく、雇用者も彼らのそんな事情を知っていて、たいていの工場は寄宿舎も完備していた。そこには、託児所と呼んだら日本死ねと叫ばれそうな部屋も用意されており、子供たちは両親が働いている間、そこに詰め込まれた。言うまでもなく、劣悪な環境である。
機械化の波が労働条件をどんどん悪くしていったことは先に述べたとおりだが、競争が激しくなった資本家の方も、自分たちだけが生き残るためになんでもやった。安い労働者を住みこみで酷使し続け、その子供たちまでも働かせた。
子供たちは簡単な機械なら操作出来たし、体が小さいことで、狭い機械の隙間に入り込むことが出来たために重宝され、大人と同じように長時間働かされた。
彼らは居眠りをすれば容赦なく殴られ、言うことを聞かなければ飯を抜かれた。工場には監督者と言う、典獄のような男たちが居て、暴力で彼らに言うことを聞かせていた。まあ、時代が違うので一概に悪と決めつけられないのであるが。
実際問題、親は子供たちがそういう目に遭っていることを知っていた。後に、議会の調査でそれが判明するのだが……どうしてそんな劣悪な環境でも、逃げもせずに唯々諾々と働き続けたのか? と議員が労働者に問うと、そうしないと子供と一緒に暮らせないからだと返ってきたそうである。我々、現代人には理解出来ない話であるが、それが普通だったのだ。中には劣悪な環境で死んでしまう者もいたのに。
貧すれば鈍すると言う言葉通り、この労働者たちは学もなければ覇気もなかったようで、資本家の中にはそれを不憫に思ったのか、それとも不可解に思ったのか、なんとか人間らしくしようと試みたものもいた。
かのアダム・スミスも国富論の中で唐突に教育について語りだし、労働者も学問をやったほうがいいと説いている。分業が進むと、労働者は自分が何を作っているか分からなくなってくるから、生きがいが感じられずに精神に失調をきたすと考えたようだ。
彼にかぎらず、この時代、それが何かは分からないが、おかしなことが起こってることに気づいた人は沢山いたようだ。特に子供が働かされていることには抵抗を受けるものが多かったようで、劣悪で不衛生な環境下で子供の間に伝染病が流行したことを切っ掛けに、1802年、最初の工場法が制定された。だが、これはやっぱりまだまだ見せかけだけで、不十分なものだった。
マンチェスターの紡績工場を経営していたロバート・オウエンは、自ら様々な機械の改良を行う傍ら、若い頃から労働者の状態に心を痛めていた。これをなんとかしたいと思ったオウエンは富を得ると、初めは学校と工場を併設した共同体のような施設を作り、労働者の教育に務めた。それは徐々に社会主義的な活動へと発展し、労働組合や共同組合運動を指導するようになっていき、ついに工場法の改定に成功した。
1819年、彼の努力により紡績工場法が制定され、それまでの不十分な工場法は、9歳以下の労働の禁止と、16歳以下の12時間を超える労働の禁止という明確な文言が加えられ、具体的な内容になった。しかし、監督制度が無かったために残念ながら実行力には乏しかったようだ。
しかし、彼らの働きによって徐々にではあったが労働環境は良くなり、1833年には本当に実行力のある、一般的な工場法が制定され、時代を経て現在の労働基準法に近づいていくことになる。
いよいよ、産業革命期、近代と呼ばれる時代が訪れたのだ。