七つまでは神のうち⑦
アナスタシアは出て行った。ジュリアはオロオロして役に立たない。
せめて子供だけでも助命してもらおうと嘆願した労働者たちは、この若い宰相の頑なな姿勢に失望すると、涙を拭って立ち上がり、
「それじゃあ、交渉は決裂だ! 兵隊を突入させるなら好きにしろ。俺たちは間違っていない。だから最後まで戦うぞ!」
と戦う姿勢を見せたが、
「……あなたがたの子供たちは外に居るんですね? 外の、子供用の、宿舎に」
但馬が眉一つ動かさず冷徹にそう言い放つと、彼らは息を呑み込み絶句したあと、顔を真っ青にして項垂れた。
「悪魔め……ひとでなし」
但馬は踵を返すと、部屋から出ていこうとした。すると、パンっと音がして、ふくらはぎに軽い痛みが走った。
「コラッ!」
足元を見ると、ジュリアにひっついていた子供が但馬の足を蹴り飛ばしており、目が合うとピューッとまたジュリアのスカートに戻っていった。ジュリアが真っ青になって、ごめんなさいと平謝りしていたが、返事をする気力もなかった。
建物から出ると、エリオスとクロノアが駆け寄ってきた。
「宰相閣下! ご無事で何よりです」
クロノアがホッとした顔をして但馬の無事を労う。対してエリオスは自分が来た道を振り返りながら、
「さっき、アナスタシアが駆けていったが、中で何があった?」
「……ちょっと意見の食い違いがあってね」
但馬は渋面を作った。
「話は聞いてきたが、平行線だった。多分、もう彼らは抵抗することはないと思うが、手荒な真似はしないであげて。自分から出てくるまで、根気よく外から呼びかけてくれ。彼らにも心の準備が必要だろう。あと、子供用の宿舎があるみたいで、そこに子供が潜んでいるようだ。くれぐれも怯えさせないように保護……いや、確保……」
それとも、拘束だろうか? 拘禁? ……但馬はブルブルと頭を振ると、
「なんでもいいから、とにかく一箇所にまとめておいてくれ」
「宿舎……? どの建物だろうか?」
「分からない……そういや、工場主が居たっけ。彼に聞いてみよう」
但馬たちが戻ってきても、そのあまりの被害の大きさに、未だに工場主はオイオイと涙を流していた。その周りを彼が雇った工場の監督者たちが取り巻いていたが、
「おい、あんたが兵隊たちの親玉か? 調度良かった、いくら言っても兵隊は言うこと聞きゃしねえ。あの暴漢どもをさっさと捕まえてくれ! たまたまヒーラーが居たから助かったが、俺たち下手すりゃ死んでたとこだったんだぞ! くそがいい気になりやがって……ちくしょうめっ!!!」
「……エリオスさん、こいつら拘束するように指示出して」
「なっ! てめえ! なんのつもりだっ!」
暴動を起こした労働者たちでなく、自分たちを拘束しろと言われた男たちが但馬に掴みかかろうと飛びかかってきた。が、言うまでもなく、前後左右から兵士が飛んできて、但馬に到達する前にボコボコにされていた。
「日常的に虐待があったらしい。首都の憲兵隊につきだしてくれ、事情聴取の必要があるから」
「心得ました」
「それからクロノア」
「はっ!」
「君も首都に戻って、君の部下を使って各地の工場の労働状況をこっそり視察してくれないか」
「……首都近郊だけで、100ヶ所以上ありますが」
「ランダム抽出で10ヶ所くらいでかまわない。ここと同じように、移民労働者に対する虐待があるようなら、監督者を逮捕し操業をストップさせてくれ。宰相権限でだ」
但馬がそう言うと、クロノアは少し難しい顔をしてから、声を潜めて言った。
「閣下……今、そのような対応をしては、不必要に恨みを買いませんか? 工場主は大体が貴族……これから始まる議会運営に支障が出るかも知れません」
「かもね。でも、ここで暴動が起こってしまった限り、その噂は首都まで聞こえてくるだろう。似たような状況の工場があれば、近いうちにここと同じようなことが起こってしまう。そうならないように先手を打たないといけない」
「それならそれで、別に構わないではありませんか。痛い目を見たほうが、悪徳工場主も悔い改めるというものでしょう? あなたの経歴に傷を付ける必要はない」
「俺だけの問題じゃないんだ。悪徳でも何でも、工場がストップしちゃうのがまずいんだよ」
工場が止まると再稼働するまで、その分の生産力が落ちる。そこで働いている従業員の仕事が無くなり、そこで作ってる商品の流通も滞れば、小売店の仕事も無くなる。
1~2ヶ所なら大した被害ではないが、今回のたった一度の騒動でも、打ち壊された工場は10軒くらい。この騒動に触発されて、各地で暴動が起こるようになってしまったら、どれだけの被害が出るか予想が立たない。その間、国は経済が滞って流通が止まり、収益を失うだろう、戦争中なのにだ。
そして仕事が無くなり暇になった市民は集まり始める。労働者が立ち上がることで組合のようなものが出来てしまうと、国民国家について考え始めるものが出てくるかも知れない。幸か不幸か、この国は但馬と勇者の影響で、民主主義的な仕組みが根付きつつある。
最終的にそうなるのは良い。だが、ブリジットに権力を集中させようとしている現在、そんな考えが広まってしまったら、そっちの方が圧倒的にまずかった。
クロノアは但馬の言ってる意味をいまいち理解出来ずに首をかしげていた。
それも仕方ないことだろう。国中がストライキに入ったり、市民革命のような出来事が、この世界ではまだ起こったことがないのだ。だが、いずれそう言う動きが必ず起こる。
「私は反対ですが……しかし、閣下がそうおっしゃるのでしたら」
彼はそう言うと、護送される監督者たちと一緒に駅の方へと歩いて行った。調査結果だけなら、数日中にも報告があるだろう。但馬はクロノアを見送ると、工場を取り囲む近衛兵たちの後ろで、どすんと椅子に座った。
「それで、これからどうするつもりだ?」
クロノアが去って行くと、今度はエリオスが近づいてきて、同じように声を潜めて問うてきた。
「どうもしないよ。彼らが出てくるのを待って、逮捕したら俺達もローデポリスに戻る。暴動を起こした移民労働者たちは、可哀想だが国外退去処分だ」
「だから、その後だ」
「……え?」
「見せしめに国外追放にするんだろう? それは分かる。その後、どうするんだ」
但馬は彼の横でじっと見下ろしてくる巨漢を見上げて言った。
「だから、どうもしないよ、それでおしまいだ」
「なんだと? ……君らしくないな。いつもなら、見せしめにしたあと、こっそりと助け舟を出すじゃないか」
但馬はポカンと口を半開いて、エリオスの顔をまじまじと見た。彼は、但馬があまりにもあっけにとられたような顔をしているので、そんなに意外なことを言ってしまったのだろうかと、逆に心配になったらしく、
「い、いや……そうでもなかったか? ああ、犯罪を厳格に処罰するのは当然のことだ。君の判断に間違ったところは何もない。だから気にするな」
と、しどろもどろに弁明を始めた。但馬は、
「そう……だな」
と呟くと、眉を顰めて目をつぶり、腕を組んだ。確かに、こんなふざけた話、自分なら憤りを感じて、権力者をコケにする側に回るのが常だった。そのコケにされる側が、今の自分なのだ。
頭の中で、キンキンとしたアナスタシアの声がリフレインしていた。
どうして、アナスタシアを助けたのか。
どうして、そんなにお金を貯めこんでるのか。
「本当にな……」
その後、泣き崩れる工場主から宿舎の場所を聞いて子供を保護し、他の被害にあった工場の様子を視察して回っているうちに、ようやく観念した労働者たちが、ジュリアに先導されるように投降してきて、事件は一応の幕を下ろした。
但馬が去った後も、彼女は落ち着くまで彼らの話を聞いてあげていたらしい。その甲斐があってか、大人しくなった彼らはもう抵抗することが無く、憲兵隊に連れられて、首都へ向かう列車に乗って街を去っていった。
この後、憲兵隊詰め所で取り調べを受けた後、2~3日中にも簡易裁判が行われて、彼らの子供たちとともに国外退去処分になるだろう。
だが……
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但馬は事件に一応の片が付くと、近衛兵を現場に残し、少数を連れてエリオスと町外れの雑木林にやってきた。憲兵隊に聞いたジュリアの孤児院に居るであろう、アナスタシアを迎えに来たのだ。
孤児院は雑木林の中にあるからか、近くに来るまで人の気配も感じられずひっそりとしていたが、建物が見えてくると中から子供たちの元気な声が聞こえてきた。思った以上に後片付けに手間取ったせいで、外はすっかり暗くなっていたが、ここには電気が通ってないらしく、昔ながらの柔らかいランプの明かりが窓から優しく漏れ出していた。
玄関の扉をノックすると、来客だから静かになさいと言うジュリアの声が聞こえてきたが、キャアキャアと騒がしい声は全く衰えることがなかった。だが、彼女が玄関の扉を開いて目をパチクリさせながら、
「あら~! 社長さん……いいえ、今は宰相さんだったわね~。こんな辺鄙なとこまで、わざわざお越しくださいまして。いったい何のようかしら~」
いつもの彼女らしいセリフだったが、どこかイントネーションに棘があった。本当に久しぶりの再会なのに、もはやまったく嬉しくない、そんな感じである。部屋の中にいた子供たちは但馬の姿を見るなり、しんと静まり返ったあと、バタバタと階段を駆け上がって家の奥へと逃げていった。たった一日で、嫌われたものである。
「今日は変なことに巻き込んじゃって、悪かったね」
「そうね~……お姉さん、な~んの役にも立たなかったけど」
「いや、ジュリアさんが居てくれて助かったよ。ところでアーニャちゃんは居る? 迎えに来たんだけど」
但馬がそう尋ねると、ジュリアはソワソワしだした。根本的に嘘がつけない性格なのだろう、彼女はあっちこっちに目を高速移動させながら、しどろもどろに言った。
「ア、アーニャちゃんは居ないわー。そう言う知り合いは、おねいさんの友達には居ませんー」
「アナスタシアのことだけど」
「!!! ……ナ、ナースチャなら、も、もう一人でおうちに帰っちゃったわよ。来るときも一人だったもん、一人で帰っちゃってもおかしくないわよ」
バタバタバタと2階から子供が走り回る音が聞こえた。子供たちは階段の上付近で止まると、しぃ~……っと、口に指を当てるジェスチャーをした。どうやら、こっそりこちらの様子を窺っているつもりらしい。
アナスタシアも一緒だろうか? きっと、但馬が来ても居ないと言ってくれと、ジュリアに頼んでいるのだろう。可哀想なくらい挙動不審な彼女を見ながら、但馬はポリポリと頭を掻いた。
「そうか……じゃあ、行き違いになっちゃったんだろう。夜遅くにお邪魔したね。もし、アーニャちゃんに会ったら、俺が探してたって伝えてくれ」
「えっ!? そ、そうね。そうするわ~」
但馬は踵を返すと施設から離れていった。周囲を警戒していたエリオスが、もう良いのか? と言った顔をしながら近づいてくる。今はまだ、彼女も但馬には会いたくないのだろう。それでも無理やり連れだそうとしたら、無用な反感を買うだけだ。出直した方がいい。
しかし、彼が雑木林に差し掛かったところで、
「ちょっとまって!」
背後から声がかかった。振り返るとジュリアが眉毛をハの字に曲げ、浜田雅功のような顔をしながら、但馬たちを手招きした。
「せっかく数年ぶりに再会したんだから、お茶の一杯くらいはごちそうさせて~?」
但馬とエリオスは顔を見合わせた。
孤児院の中はどこもかしこも、子供が使いやすいようにという配慮からか、小さく作られていた。キッチンも食卓も、体の大きな彼女にはサイズがあっていなかったが、それを苦にするような素振りは一切見せなかった。
本当なら、宰相である但馬は分刻みのスケジュールがあり、さっさと帰ったほうが良いのであるが、今はもうそんなことを言うのは無粋であろう。
但馬とエリオスは腰が曲がりそうなくらい小さな椅子に腰掛けると、差し出されたお茶を揃ってズズズッと啜った。
「それにしても本当に懐かしいね。最後に会ったのは水車小屋だったかな」
「その節はお世話になったわあ~。お姉さん、あれからいろいろあって、こんなになっちゃったけど~」
「孤児院はいつから?」
「もう2年になるかしらねえ~」
宅地造成で水車小屋を追い出されてから各地を放浪し、昔の仲間の子供を引き取り、この地で寺子屋を作ろうとしたら、いつの間にか孤児院になっていた。今日の騒動を起こしたような連中が、病気で働けなくなったり、逆に病気になった子供が手に負えなくて、ジュリアの孤児院に捨てていったのだ。
はっきりいってジュリアはとばっちりだったが、人のいい彼女は全部引き受けて面倒を見ていたらしい。但馬は彼女の話を聞いてため息を吐いた。国がどんどん大きくなり、国民の生活ぶりが良くなっていく影で、そのしわ寄せが移民労働者やジュリアのような底辺に押し付けられていたのだ。
「それで、宰相さん。さっきの話なんだけどね~? お姉さん、ちょっと考えたのよ~……移民さ~んの子供だから、引き取っちゃ駄目なのよね~? だったら、お姉さんの子供にしちゃえば良いんじゃないかしら~。お姉さんが、みんなのことが大好きで、養子にしたかったってことなのよ~」
なのに、ジュリアはまだ苦労を背負い込もうと言うのだ。私財を投げ打ってまで。ただ純粋に厚意だけで。彼女がそこまでする理由はないだろうに……但馬は彼女に頭が上がらない思いだった。
「宰相さんも~、ナースチャを養子にしたんでしょう~? あの子を引き取ろうって思った気持ちを思い出してくれれば、お姉さんの気持ちも分かってもらえないかしら~」
但馬は目をつぶると首を横に振った。
「駄目だ、それは出来ない」
「どうしてそんなに意地悪するの~?」
「養子にしたって同じことなんだよ。それを許したら、今度はリベートを受け取って養子縁組をするというビジネスが生まれてしまう。もし金持ちが人身売買でも始めちゃったら、目も当てられない」
ジュリアは目を丸くして、呆気にとられたといった感じにつぶやいた。もはや、いつものネットリとした口調ではなかった。
「宰相さん、凄いわね……お姉さん、そんな悪どいこと、思いつきもしなかったわ。どうしてそこまで、他人のことを悪く思えるの?」
「元々、俺は詐欺でのし上がってきた身だからね」
冗談はさておき、但馬の生きていた現代では、そういうビジネスが実際にあったからだ。金持ちの道楽やロリコンが性搾取目的で買うのはマシな方で、臓器目的に売られる子供なんてのも居たくらいだ。
「でも、これじゃあ、あんまりにも可哀想じゃない……」
「可哀想だね。俺もそう思う」
「だったら……」
但馬はジュリアの声にかぶせるように続けた。
「俺はこの国の宰相だから、国民全てに対して平等に振る舞う義務がある。だから俺は、強い人も弱い人も、等しく扱うことしか出来ない。それがどんなに尊いことだとしても、可哀想だからってルールを曲げてしまったら、いつかそこに不正が生まれてしまうだろう。そうなったら、もっと弱い人が傷つくだけだ」
但馬はブリジットの宰相で、この国の最高権力者なのだ。やろうと思えばいくらでもルールを捻じ曲げる事が出来てしまう。例え誰かにズルだと言われても、その鼻っ柱をへし折り、強引に推し進めることが出来てしまう。初めは些細なことであっても、そんなことを続けていたら、いつか自分が自分ではなくなってしまうかも知れない。
「だから、ルールは厳格に守るしかない。今回、彼らは犯罪を犯して国外退去処分を下されるのだから、彼らが国内に連れ込んだ子供も一緒に退去処分にするしかない」
辿り着いた先で彼らに仕事がなく、子供がただ死にに行くのだとしても。
「ただ……」
突き刺さる視線を努めて見ないようにしながら、但馬は自分の懐から小切手帳を取り出すと、食卓の上に乗せた。それを見たジュリアは、今までに見せたことのないような険しい表情をしていた。
彼女は言った。
「それは……なんのつもり?」
「彼らは犯罪者だからね、一般客船ではなくて護送船で国外追放される身だ。ところで、もしかしたらその護送船が嵐にでも遭って、難破する可能性も否定出来ない。それが近いうちにこの付近の浜辺に流れ着く可能性だって、あるかも知れない」
但馬はそう言いながら、小切手に数字を書き込んでいった。それがあまりにも莫大な額であったから、初めは真っ赤だったジュリアの顔は、徐々に能面のように真っ白になっていった。
「一度国外に退去さえすれば、そうすりゃ彼らはただの嵐に遭遇した不幸な遭難者だ。迎えが来るまで保護しておいてくれないか」
「あなた、いま自分が言ったことを覚えてる? それって詭弁じゃないの?」
「ルールは破ってない」
辛うじて……ではあるが。但馬はそう言いながら、小切手帳から一枚破り取った。
「なんのために金を貯めこんでるんだって……アーニャちゃんに言われて気づいたよ。俺が金を貯めこんでるせいで、こうして貧富の格差が生まれて、誰かが犠牲になっているってことに。国の隅々まで目が行き届かなかった」
「こんなに受け取れないわ」
「その金を、誰かのために、使う覚悟があるんだろう?」
但馬は強引に話を打ち切ると、席を立ち上がり、冷徹な視線でジュリアのことを見下ろした。彼女は椅子に座ったままその目をじっと見上げたが、彼のその氷のような瞳には、どんな顔も映しだされてはいなかった。
「銀十字修道会ってのがロンバルディアにある。困ったことがあったらそこを頼ってくれ。本当は彼に任せようと思ったんだけど……あなたのことは信用しているから」
そう呟くと、但馬はエリオスを連れて去っていった。
ジュリアはその後姿を座って見送るだけで、別れの言葉も、労いの言葉も、御礼の言葉も、何の言葉もでなかった。彼のことを少しでも非難した自分が、今は何かとても小さなもののように感じられた。
今、目の前に莫大な額のお金がある。
自分の孤児院など、100軒建ててもまだ使い切れないほど余るだろう。1000人……いや、2000人は孤児が救われるだろう。いや、これだけあれば、死ぬまで王様のような暮らしが出来るはずだ。子供たちに裕福な暮らしをさせてやることも出来る。もう働かなくても良いんだ。つらい思いをしなくて済むんだ……
ジュリアは今すぐこれを持って逃げ出したい衝動に駆られた。でも、これは一銭も自分のためにつかってはいけないお金なのだ。
「……あの子はいつも、こんな気持ちと戦っているのね」
アナスタシアを助けるために、格好わるいくらい青臭いセリフを叫び、全財産を投げ打った彼は、今日は泣き崩れる労働者の前で、眉一つ動かすことがなかった。
ジュリアは震える手で小切手を手に取ると、エプロンのポケットに大事にしまった。お金を換金した後、どうしたらいいんだろう? 銀行に預ける? こんな大金、持ったことがないからどうしていいか分からなかった。
「困ったわあ~……困ったわあ~……」
ドスドスと足音を立てながら食卓の周りをうろちょろしていたら、そう言えば二階の様子がおとなしいことに気づいた。大人が怖い話をしていたから、子供たちは疲れて眠ってしまったのだろうか?
ジュリアが狭い階段を身をよじりながら階上に上がっていくと……
二階に上がってすぐの踊り場に、アナスタシアが膝に顔を埋めて座り込んでいた。二つ結びの髪の毛が地面に落ちて、埃を吸い寄せていた。顔は見えない。でも、どんな表情をしているのかは、すぐに想像がついた。
子供たちはそんな彼女の周りでシュンとしょげかえっていた。何人もの子供たちが、彼女に寄り添うようにピッタリとくっつきながら、悲しげな表情で寝息を立てていた。年長の男の子がその空気に中てられて、階段付近を腕組みしながらぐるぐる回っていた。
「ナースチャ……」
ジュリアが声をかけると、彼女は衣擦れの音を立て、膝に顔を埋めたまま、ゆっくりと左右に首を振った。
「信じきれなかった」
彼がそんな人でないことは分かっていたはずだ。口ではあんなこと言っておきながら、結局最後は助けてくれる。他の誰でもない、自分が一番信じなきゃいけないはずだった。
なのに……
アナスタシアは、ギューっと苦しくなるくらい自分の膝を抱きしめると、もっと小さく丸まった。そんな彼女よりも、もっと小さな女の子がヨチヨチ歩いてきて、彼女の頭を一生懸命に撫で回していた。





