七つまでは神のうち④
病気の子を助けたアナスタシアに、孤児院の子どもたちはすぐに打ち解けた。最初はジュリアを取られるんじゃないかと警戒していた子も、ガラリと態度を変えて懐いてきた。安全で頼りになる人だと言うことが分かったのだろう。
アナスタシアは病気だった子供に魔法が効いたことから見て、何かの感染症かも知れないことを危惧し、すぐにジュリアに頼んで施設の子供達を集め、予防的に自分の抗生魔法を施した。
ヒールと違って身体に即影響のある魔法ではないから、子どもたちは何をされてるのか分からず首を捻っていたが、魔法特有の緑色のオーラに全身を包まれた彼らは、未知なる体験に喜んで、キャアキャアと楽しげな声を上げた。
「もし、病気が誰かに伝染っていたとしても、これで発症することはないと思うよ。でも、万が一があるかも知れないから、全部屋を綺麗に掃除して空気を入れ替えて。あとはネズミが住み着かないように清潔にして」
アナスタシアはフリジアで但馬が施した対応を思い出して言った。あの時、但馬は大小便垂れ流しの路地裏を清掃し、すべての家々に水拭きをするように指示し、とにかく清潔を徹底した。病原菌は動物の体外でもある程度潜伏出来るが、綺麗な場所では生きていけないのだ。
目には見えない病原菌について言及しても、ジュリアはさっぱりと言った感じに首をひねっていたが、
「すご~いわあ~。あなた、本当にえら~いお医者さんになったのね~」
アナスタシアの手際を見て、自分のことのように喜ぶ姿を見て、彼女は嬉しいやらこそばゆいやら、なんとも言えぬ思いがした。
フリジアであれだけ感謝されても、それほど嬉しいとは思わなかった。緊急時で当たり前の使命感のようなものがあったからだろう。対して、今日のこれはジュリアの役に立ててとても嬉しかった。
「でも、本当に助かったわ~。あなたが来てくれなかったら今頃は……」
子供の容態が安定し、人心地ついたのだろうか、それまで楽観的な物言いに終始していたジュリアがポツリと愚痴るようにつぶやいた。顔にこそ出さなかったが、実は今回の件は彼女なりに相当覚悟をしていたようだ。子供は、体力も免疫力もないから病気に罹りやすく、深刻にもなりやすい。
はしかや、おたふく風邪、水ぼうそう。赤ん坊や体の小さな子供がかかると長期化し合併症を起こして死に至る場合も有り得る。
実際、医療技術が整った現代では考えられないが、長寿大国と呼ばれる日本の平均寿命でさえ50歳を越えたのは、ようやく第二次大戦後のことだった。
と言っても、当時の日本人がみんな50歳くらいで死んでいたわけではない。
平均寿命とは言い換えると出生直後からの平均余命のことであり、例えば明治時代の平均寿命、つまり0歳時平均余命は40年くらいだったが、同時に20歳時平均余命も40年くらいあった。
要するに、成人まで生き残れば大抵の人は60過ぎまで生きられるが、成人するまでに死ぬ人間の方が圧倒的に多かったから、平均寿命が低かったわけである。戦後、それが劇的に改善されたのは、ペニシリンなどの抗生物質が登場し、医療技術が上がり子供の生存率が格段に上がったからだ。
かつての人類は5歳まで生きられるかが生命の分水嶺だった。七五三なんて文化もそれを意識していたのだろう。数えで7つを過ぎれば、まあ大体の子供は天寿を全うできるが、残念ながらそれまでに死ぬ子供が圧倒的に多かった。だから子供が7つまで生きられたそのお祝いを、徳川綱吉が始めたのが切っ掛けであるらしい。
7つまでは神の内と言う言葉もある。これは7つまでの子供は存在が曖昧で、この世とあの世の中間に、つまり半分は神様の元にいるという考えである。だからもし仮に、それまでに死んでしまっても、神様の元へ帰るのだから大丈夫だよと、子供を亡くした母親を慰める言葉であった。
実は、ジュリアの孤児院もこれが原因で出来たものだった。
新しく出来たこの街には移民が多いのだが、工場で働く移民の子供たちが病気に罹り、手に負えなくなると、ジュリアの孤児院に捨てていった。
移民は工場で働く代わりに、彼らの子供の面倒も見てもらってるのだが、そう言った子供たちが集まる寄宿舎は狭く、一人の子供が病気に罹るとたちまち周囲に感染する危険性がある。そのため、すぐに隔離部屋に移されるが、回復の見込みが無いとそこすら追い出されてしまう。
そうなると貧乏な移民にはお手上げだ。ジュリアはお金を持っていて善人だから、もしかしたら助けてくれるかも知れないと思ったのだろう。
「そんな……酷い。どうして断らなかったの!?」
「もちろん、断ったわよ~。ふざけんじゃないわよ~! って……でもね~……」
一度、子供を捨てに来た工場の男をふん縛って、文句を言ったことがあった。しかし、それなら放置すればいいと言われてしまうと、何も言い返せなくなったそうだ。どうせ助からないから捨てに来たので、ほっといたら死ぬから黙って見殺しにすればいい。
結局、見るに見かねてジュリアが面倒を見て、それが噂になると、次から次へと子供が預けられていった。街の工場はどこもかしこも似たような状況なのだ。
「先生の作ったお薬は? あれがあれば、もっと多くの人が助かるはずなのに」
「とっても高いのよ~」
ペニシリンはハリチの工場で培養しているのだが、何しろテレビで聞きかじった方法で作ってるので失敗も多ければ圧倒的に数が少ない。しかも戦争中だから、優先的に軍隊に支給される。
アスピリンはまだ数があるが、これはただの痛み止めだから対症療法にしかならない。病気によって症状は様々だし、免疫力の低い子供には意味が無いことも多かった。
「分かった」
アナスタシアが立ち上がる。ジュリアはいきなりそう言い出した彼女に対し、
「何が分かったの~?」
「このままじゃいけないよ。私がみんなのことを診るから、街を案内して」
ジュリアは目を丸くした。そして、すぐに首を振ると、
「無償で見てあげるって言うの~? 駄目よ。それじゃあ、あなたが損をするだけだわ。お医者さんって、善意の人助けじゃないのよ~?」
しかし、アナスタシアは首をふると言った。
「私は医者じゃない。医学の知識もないし、お薬を作ってあげることもできない……でも、人には真似できない魔法がある。それに医者って命を助けるための仕事であって、お金儲けのためじゃないんじゃない」
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そしてアナスタシアは、ジュリアと孤児院の子供たちに案内されて街の工場を見て回った。
炭鉱街に出来た工場は、どれもみんな移民の安い労働力をあてにした寄宿舎付きの建物で、移民たちはそこで朝から晩まで働いているようだった。彼らの子供たちも同じ場所で暮らしていたが、家族に一部屋が与えられるわけではなく、子供は子供だけで一箇所にまとめられて生活しているのが普通だった。
多分、そうした方が省スペースだからだろう。アナスタシアが訪れた子供たちの寄宿舎は、どこもかしこも寄宿舎とは名ばかりの場所で、大抵は天井裏や床下に作った地下室や、倉庫のような場所を改造して作られており、大人は屈まないと天井に頭をぶつけてしまいそうな場所だった。ジュリアに至っては入り口すら通れないのだ。
一面壁に覆われていて窓がなく、電気もないから真っ暗で、誰も片付けないから、酷い悪臭がした。
アナスタシアはあまりの惨状に目眩がしたが、そんなことを言ってる場合ではないから、すぐに子供たちを集めると、魔法をかけて部屋の片付けをするように指示した。
しかし、子供たちは何をされてるのかも分からず、ただポカンと口を半開きにして立ってるだけで、全く動く気配がない。見たところ、小さすぎて理解できない感じだった。もう少し年長者が一緒に暮らしてないと、これでは大変ではないか? と思っていたら、
「あのね、もうちょっと大きくなったら、工場でお手伝いしないと駄目なの」
ジュリアの孤児院の子供が教えてくれて面食らった。大体、6~7才になったら、もう働かないといけないそうなのだ。そうじゃないとご飯を食べさせて貰えないのだ。
こんなところに子供を置き去りにするなんて……あまりの酷さに憤りを感じたが、ここには怒りをぶつけるべき親が居ない。どうしようもないので、とにかく、他に病気の子供や何かはいないのか? と尋ねたら、彼らは次に病人の隔離施設に連れて行ってくれた。
連れてこられて、彼女はまた言葉を失った。隔離施設は本当に隔離施設で、狭い部屋に干し草のベッドみたいなものが置かれてるだけで、後は何もない。子供も大人も一緒くたに集められ、今にも死にそうな病人たちがそこに寝そべって苦しみに耐えているだけで、誰も看病するものが居なかったのである。
アナスタシアはすぐ彼らに駆け寄ると、自分の魔法でもってそれを癒やした。病人たちは、突然、自分たちの体が軽くなって気分が良くなり、もしやお迎えがきたのだろうかと思うくらい劇的に改善したものだから、その奇跡に喜び感謝の意を唱えた。
褒め称える声に彼女は謙遜しながら、それにしてもどんな生活をしていたらこうなるのか? と尋ねた。彼らは、病気に罹ってからは水とパンを与えられて寝るだけで何もしなかったそうで、薬もないので完全に体力任せだったようである。そのせいか、大人であっても危険な状態になる者も多く居た。
アナスタシアは頭を抱えながらも、サンダース元軍医が口を酸っぱくして言っていたように、青い野菜を食べなさいと彼らに説いたのだが、それじゃ仕事の時に力が出ないし、第一そんなものはどこにも無いから食べられないと言う。
食事を自分たちで用意するような暇はなく、工場から支給される物を食べるしかないそうだ。
「どうしてそんな生活を続けてるの? もっと他にも仕事があるでしょうに……」
「子供がいるから、ここから離れられないんです」
一人の母親らしき女性が言った。
さっき、子供をあんな場所に閉じ込めて酷い親だと思ったばかりなのだが……どうやらそれは訂正しなければならないようだった。
彼らは朝から晩まで働き通しで、子供の面倒など見ている余裕がないのだ。その子供の面倒を見てくれて、食べ物ももらえるから、ここから出て行くことが出来ないだけなのだ。
「仕事をちゃんとしないと、工場の監督者に殴られるんだ。だからみんな必死さ。工場にはノルマがあって、それを達成するまで仕事は終わらない。俺たちは毎日6時に起きて働き出し、仕事が終わるのは22時過ぎさ」
子供たちも例外ではなかった。ある程度年を取って、物事の分別がつくようになったら、すぐに働かされた。大人のようには働けなくても、ゴミ拾いをしたり、機械の隙間に入ったり、雑用なら出来る。
そして、出来なきゃ殴られる。
アナスタシアはなんだかモヤモヤしたものが胸の内に溜まっていくのを感じた。だが、それを上手く表現することが出来ず、ただ泣きそうな気持ちを抱えながら、次の工場へと向かった。
この街には、こんな工場が至る所にあるのだ……いや、この街だけじゃない。きっと、国中のあらゆる工場が似たようなものだろう。
彼女はそうした工場を次から次へと訪ねて周り、そこで住み込みで働く人々や子供たちを治療して回った。中には先ほどの労働者の言葉を裏付けるかのように、青あざをつけた子供がいて、アナスタシアは悲しくて泣きそうになりながらそれを治療した。
そして何も問題の無い人々にも、予防の意味を込めて魔法をかけ、次から次へと訪ね歩いていると、そのうち街中の噂になった。
すると今度は向こうから訪ねてくるようになり、移動の手間が省けるようになった。アナスタシアが街の広場で治療を始めると、そこには瞬く間に人々が集まり、さながら野戦病院のようになっていった。
とにもかくにも、彼女は訪れる人々を癒やして周り、普段の食生活と清潔を説いた。
集まってきた移民労働者たちは、病原菌のなどというものを信じられず、最初は首を捻っていたが、たったいま彼女の奇跡を目の当たりにしたばかりだから最終的にはそれを信じ、今後はそうすると約束してくれた。
しかし、彼女がそれにほっとするのも束の間……
「おいこら! どけどけどけっ!」
町の広場に顔を真っ赤にした屈強な男が踊り込んできて人々を蹴散らした。そして、彼はその中心にいたアナスタシアをじろりと睨みつけ、
「おまえが労働者共に勝手に治療をしているって医者か? 勝手なことすんじゃねえ!!」
と怒鳴りつけた。
まさか、金を取ってるわけでもない慈善事業に、そんな難癖をつけられるとは思わず、彼女は面食らった。
「どうして駄目なの?」
「おめえがこんなこと始めたせいで、労働者どもが仕事をさぼってこんなとこまで来てるんじゃねえか! やるんなら仕事が終わってからにしろ」
「それはいつ終わるの?」
「知るかボケェ!」
工場の監督者らしき男は吐き捨てるように言った。
「それに、おまえがこんなことをしたら、労働者どもが薬を買わなくなるだろうが」
移民労働者はお金がないから薬を買えない。だが、中にはそれでも子供を助けたい一心で買うものも居る。彼らはそう言う人間相手に商売する金貸しでもあったのだ。
アナスタシアは胸が苦しくて張り裂けそうになった。
もちろん、こんな理不尽など到底受け入れられない。彼女は断固拒否すると、治療を続けると宣言した。
しかし、これでは男は治まらない。
「なんだと、このやろう!」
彼はそう言って、彼女に殴りかかろうとしたが……
彼女はひらりと身を翻すと、男の踏み込んできた足を刈ってすっ転ばした。
華奢なアナスタシアを見て、彼はちょっと脅せば震え上がると思っていただろう。しかし、現実には彼女はとても強くて、地面に叩きつけられた男は目をパチクリさせて唖然として周りを見渡した。
途端に周囲からゲラゲラと笑い声が湧き上がる。どうやら男は相当嫌われているらしい。当たり前だ。
「てめえら! 何ニヤニヤしてやがんだっ!!」
しかし、男がそう一喝すると、笑っていた人々は真っ青になってピタリと口を閉ざした。いつもいつも殴られてる相手に、恐怖が植え付けられているのだろう。
それでも気持ちが治まらない男はアナスタシアを睨みつけると、
「このアマ、大人しくしてたらつけ上がりやがって」
と、今しがた自分のした行いをすっかり忘れたトリアタマで、再度踊り掛かって来た。しかし、それも難なく彼女が捌いてしまったものだから、いよいよ男は怒りの行き場を失った。彼は顔を真っ赤にしたまま、懐にしまっていた笛をピィ~っと吹き出した。
なにをしてるんだろう?
男の行動を黙って見ていたアナスタシアは、しかし、次の瞬間に舌打ちした。気がつけばバタバタと足音を立てて、街のあちこちから男の仲間が駆けつけてきたのだ。
「きゃ~! ナースチャ、ここは退きましょう!」
多勢に無勢……おまけに、今はジュリアと孤児院の子供たちという足手まといも居る。彼女は仕方なく、
「……分かった。今日の治療はもうやめる」
と言って広場から退散しようとしたが……
「何言ってやがるっ! もうそんなのどうだって良いんだ、こんちきしょうめ!」
二度も恥をかかされた男はもう聞く耳を持たないようだった。
「きゃ~!!!」
ジュリアが再度悲鳴を上げて、ドスンドスンと子供を抱えて広場から逃げていった。
それに驚いて、広場に居た人々も四方八方へと散らばっていった。アナスタシアもそれに乗じて逃げようとしたが……そうは問屋がおろさない。彼女は残った屈強な男たちに囲まれて壁際に追いつめられた。絶体絶命である。
どうする?
いや、どうもうこうもないだろう。彼女は周囲を見渡した。得意の細剣は無いが、何か適当な得物さえあれば、こんな奴らに遅れを取るわけはない。
自分は、あの皇帝ブリジットの一番弟子なのだ。
彼女よりも強い人間が、そこらにゴロゴロ転がってるわけがないのだ。
だから、どうにか隙を突いて、武器になるようなものを探さねば……彼女は姿勢を低くして、男たちが飛びかかってくる隙を窺った。
しかし、その必要は無くなった。
「ギャッ!!」
アナスタシアがじっと相手の動きを探っていると、突然ガツンッ! っと音がして、彼女を取り囲んでいた男の一人ががっくりと膝から崩れ落ちた。
何事か?
見れば、背後には角材を持った労働者の男が肩で息をしながら立っている。
「てめえ! なにしやがるっ!!」
いきなり背後から襲われた屈強な男たちが、その労働者を取り囲んだ。
「ひぃ~!」
取り囲まれた男が情けない声を上げる……しかし、ガツンッ!! っと、また音がして、また別の男が一人、地面にドッと倒れこむのであった。
「……お、おめえら……」
気がつけば、さっきまで広場に居た工場労働者たちが、屈強な男たちを逆に取り囲んでいた。彼らはみんな血走った目をしており、
「おま、おま、おまえたちにはもう勘弁ならねえ……いつもいつも、俺達をこき使いやがって……俺達は機械じゃねえっっ!!!」
そう言うと、持っていた角材や棍棒、バールのようなもので、屈強な男たちを袋叩きにするのだった。
「うわぎゃあああああ!」「やめ、やめ、やめちくり~!」「勘弁を!」
男たちが情けない声を上げるが、
「うるせえ、このやろう!」「いつも威張りくさりやがって」「おめえら人間じゃねえ!」
労働者たちが日頃の鬱憤を晴らすかのように男たちを打ち据える。
「わっ! わっ! もういいから、みんなやめて!」
アナスタシアは仰天して彼らを止めようとした。しかし、激高した民衆は収まらない。彼女がどんなに必死になって止めても、移民労働者たちは監督者たちを殴ることをやめなかった。
血だらけで、手足が折れ曲がり、意識を失った男たちに、アナスタシアは必死でヒールをかけていた。まるであべこべである。
周囲では勝どきをあげる労働者たちの群れが居た。彼らは一様に目をギラギラと血走らせて、
「もう、我慢ならん!」「工場なんかがあるから悪いんだ!」「みんな、やっちまおうぜ!」
口々に叫ぶと、一かたまりになった怒りの奔流が、街の工場を次から次へと襲撃しはじめるのであった。
子供たちを抱きしめて、ジュリアがブルブルと震えている。
アナスタシアは監督者たちの治療を終えると、彼ら広場の影に隠し、震えるジュリアの手を引きながら孤児院へと向かった。
とんでもないことになった。自分のせいかも知れない。だから止めなきゃ……
でも、どうやって止めれば良いんだろうか? いや……
「本当に止めたほうが良いのかな?」
彼女の中に様々な葛藤が渦巻いていた。
労働者たちは殴られたから殴り返したのだ、この暴力の連鎖に、どう決着を付けて良いのか……
彼女は、いや、この国はまだそれを知らなかった。





