西海会社 - West sea company ⑦
オットー・リリエンタール、ライト兄弟、リンドバーグ。有名な飛行家には欧州人の名前が並ぶが、伝記に残っている世界最古の飛行家は、実はイスラム世界の科学者であった。
紀元875年、その頃のヨーロッパは中世入りし、正に暗黒時代であった。対するイスラム世界は繁栄の極みにあり、イベリア半島のコルドバは後ウマイヤ朝の支配下に置かれ、繁栄の途をたどっていた。コルドバは世界中から学者が集まってくるという学問の街として栄えていた。
アッバース・イブン・フィルナスはそんな中でもとびきり優秀な発明家で、透明ガラスの製法を考案しレンズを作ったりして名を残している。もし彼がメディチ家にいれば、ルネッサンスの代表的な科学者として、もっと世に知られているはずだろう。そんな彼には空にまつわる逸話があり、世界で初めてグライダーによる飛行に成功したとされていることである。
彼に先立つこと紀元852年。アーメン・フィルマンという男が、鳥のように羽ばたく機械を作ってコルドバの塔から飛び降りたと言う記録がある。その無謀な試みは当然のごとく失敗した。彼はモスクから飛び降りると、すぐに失速して落下……材料の布がたまたまパラシュートのようになって助かったと言われている。
この実験に影響を受けたイブン・フィルナスは、それから20年以上経った875年、木枠と布で鳥の羽を模したハンググライダーを製作し、山から滑空して10分間もの間、空を飛ぶことに成功したと言われている。
だが、彼の作ったハンググライダーは尾翼がなかったせいかバランスが悪く、着陸に失敗。この時に臀部を強打した彼は、死ぬまで腰痛に悩まされたと言う。
彼らのように、黎明期の飛行家はみんな鳥の真似をすることで空を飛ぶことを実現しようとした。かのガリレオ・ガリレイも羽ばたく鳥のような形をした飛行機の設計図を残している。人類は数々の失敗を繰り返しながらも、やがて鳥の飛翔について研究していたリリエンタールの手によってその試みは結実し、最初期のハンググライダーが誕生した。
そんな経緯があってか、初期のハンググライダーは、現在のような三角形ではなく、鳥の羽を模したような形をしている。飛びはすれどもバランスは悪く、リリエンタールも最期は墜落時の事故によって死亡している。
その後、リリエンタールに触発されたライト兄弟によって、動力を搭載した飛行機が作られた。だが、はじめから飛行機は兵器と見做され、折しも世界が大戦へと向かう機運の中で、ハンググライダーのような技術は一旦は廃れてしまう。
しかし、その世界大戦が終わった1948年のこと。NASAの風洞部門で働いていたフランシス・ロガロが、現在のハンググライダーの元となるロガロ翼 (フレキシブル・ウィング)を発明すると、ハンググライダーはメジャーなスポーツとして一躍世界中に広まっていくこととなる。
当時、NASAの風洞部門で働いていたロガロは、飛行機の翼の構造として、鳥ではなく、凧を参考にして実にシンプルな形の翼を考案した。
彼は欧州では一般的な菱型(タコ型)の凧が空を飛んでいる際、受けている風の影響を調べてみたところ、驚いたことに上部の限られた部分だけであることに気がついた。残りは重りとして、バランスを取るためだけにあったのである。
そこで彼は、凧の上部を三角形に切り取り、バランスを取るための尻尾をぶら下げて、扇風機を使って実験してみた。すると、その三角形の凧は非常に安定して飛ぶことが判明したのである。
当時、NASAはパラシュートに代わる帰還用カプセルの無人回収法のコンペをしており、彼は自分の考案した翼の特許を取ると、喜々としてその売り込みを始めた。残念ながらコンペは失敗に終わったのだが、売り込みの一環で玩具にして売りだすと、これが爆発的なヒットとなった。いわゆるゲイラカイトと呼ばれるもののことである。
更に、構造がシンプルで安定して空を飛べるため、グライダーのメーカーがこぞってロガロ翼を模倣し商品化すると、ハンググライダーはスカイスポーツの定番として世界中に広まった。
因みに、養蜂の時のように簡単な特許の宿命か、ロガロ翼も著しく特許侵害をされた。だが当の本人はハンググライダーの大会に呼ばれると、いつも喜んで参加していたらしい。目的がNASAへの売り込みだったのもあったろうが、やはり純粋にこう言う仕事が好きだったのだろう。
さて、リディア……と言うか、この世界には凧というものが存在しない。紙が貴重品だったせいか、そう言ったものを作って飛ばそうという発想が無かったのだろう。だから、但馬がまずは翼の設計のために凧を作って飛ばしてみせると、アナスタシアのみならず、エリオスやその部下たち、道行く人々までもがなんだなんだ? と興味を示した。
とくにリオンのテンションはうなぎ登りで、彼は凧揚げを始めるや狂ったようにキャアキャア大喜びし、すげえすげえと連発していた。メディアに連れていった際に、亜人の子供達と会わせてみたのであるが、やはり子供同士は打ち解けるのが早いというか、あっという間に変な言葉を覚えて帰ってきた。リオンはいままで大人しすぎたから丁度いいくらいだが、ローデポリスに帰ったらお袋さん辺りに怒られないかちょっと不安ではある。
ともあれ、但馬は凧揚げをしながらそれをポカンと見上げているアナスタシアに、
「凧は風に吹かれて上空に上がっていくんだけど、こうやって糸で下に引っ張ることによって、クルクル回転しちゃわないようにバランスを取ってるわけ。で……人間が乗れちゃうくらいの大きな凧を作って、糸の代わりに人間がぶら下がれば空を飛べるでしょう?」
「無理無理無理!」
アナスタシアはブルンブルンと頭を振った。
「あんなの絶対落っこちちゃうよ! あれは軽いから浮かんでられるだけじゃないの」
「いや、ちゃんと重さはあったでしょう? アドバルーンみたいに空気より軽いガスで浮いてるわけじゃないんだ」
「でも人間は重いから、風になんて乗れっこないよ」
「いやいや、風の力を侮っちゃ駄目だよ。あんなに大きな船だって、風の力で進んでいるじゃない」
「そうだけど……あれはゆっくりじゃない。あんなゆっくりじゃ、落ちちゃうよ?」
「それなら人間が速く飛べばいいだけなんだから」
「とても信じられないよ」
空を飛びたい……
そう言うアナスタシアのために、但馬は最も簡単な方法としてハンググライダーを提案した。しかし、こうして凧を作って飛ばしてみても、彼女には想像がつかないらしくて、こんな具合に無理だと言われていた。
ぶっちゃけ、彼女は但馬が空を飛んだことがあると言った時、それは魔法の力で飛んだのだと思っていたようだ。もしくは、アドバルーンのようなガス気球を使うのかと思いきや、こんな突拍子もない方法を持ち出してきたので、面食らっているようである。
「まあ、そこまで嫌がるなら無理にとは言わないけど。ちゃんとこの方法で飛べるんだけどなあ……」
「……先生が言うなら本当なのかも知れないけど」
「だからホントのはずだって。多分、競技人口数万人とか居たはずだぞ。サラリーマンが週末のレジャーとして楽しんでたはずだ。事故も殆ど無かったし、離着陸の練習さえ積んでおけば、かなり安全のはずなんだけど……」
「……はずって連呼してるけど、先生はこれで飛んでたんじゃないの??」
「……てへっ」
但馬がテヘペロすると、アナスタシアはジト目で非難がましく但馬を睨んだ。
「ほら! やっぱり嘘だったんじゃない」
「いやいやいやいや、嘘じゃないって。ハング自体はやったことないけど、グライダーは普通に操縦したことあるんだよ」
毎年、琵琶湖で跳んでるようなやつである。但馬は元々宇宙飛行士なので、飛行機のライセンス自体は持っていた。ただ、グライダーと飛行機とハンググライダーは、どれも似てるようでちょっとずつ違う。
「……グライダー?」
「えーっと、風防のついた翼がもっとずーっと大きいやつだけど……いや、多分、アーニャちゃん、そっち見たらもっと無理だって言うと思うよ」
ハンググライダーと違い、機体自体が重いから必然的に離着陸時の速度が速くなるのだ。それに、プラスチック材料がないので、作るとしたら木材や鋼材に布を使うのだろうから、強度にも不安が残るだろう。ぶっちゃけ、かなり危険である。
一応、アドバルーンを飛ばしていた関係でガス気球と言うものが既にあるので、一度それで上空に上がって森を偵察したことがあるが、あれは飛んでるというよりも浮いてると言ったほうが正しい。風まかせで、もちろん操縦は出来ない。まあ、本人が良いというのなら、それでもいいのだが……
「うーん……アドバルーンにぶら下がるのはちょっと違うと思うよ」
「だよね。だったら、やっぱり一番のオススメはこれなんだけど」
「……本当に大丈夫なの?」
「多分。どっちにしろ、最初は離着陸の練習を沢山しなきゃだから、いきなり空高くまで飛んだりしないよ。だから試しにちょっとやってみて、無理そうだったらやめればいいさ。やってりゃそのうち慣れるだろう」
「そっかあ……だったら」
アナスタシアはギュッと拳を握ると、覚悟を決めたといった感じに頷いた。但馬はそれを苦笑しながら見つめ、
「それじゃ、作ってみよう。翼は10メートルくらいあればいいかな……骨材に鉄を使ったら、重量はどのくらいになっちゃうんだろう。木材か、竹の方が良いかな……アルミがあれば最高なんだが……」
そんなことを呟きながら、二人は肩を寄せあって遥か上空の凧を見上げていた。凧揚げのために高原まで登ってきたのだが、海が近いだけあって、上空にはかなりの風が吹いているようだった。多分、グライダーを飛ばすにも最適な環境だと思う。
リオンは凧を揚げてる内に慣れてきたのだろう、糸を手繰って上手いこと操縦出来るようになっていた。穏やかな陽気の中、あっちでフラフラ、こっちでクルクル回転する凧を見ていると、このまま時が止まってしまえば良いのにとつくづく思った。
考えなきゃいけないことはたくさんあるのに……
但馬の肩に寄りかかって空を見上げるアナスタシアの横顔を盗み見る。ランの言葉を思い出すと、彼女とも一度話し合わなければいけないと思うのだが……思うだけで、中々言い出せずに居た。
「あ、社長! しゃーちょー!!」
そんなことを考えていたら、遠くからリーゼロッテの声が聞こえてきた。下からリフトを使って登ってきたようだ。このあいだの一件があっても、彼女はそれまでと特に変わらず、一人であっちこっちフラフラする毎日だった。大抵、競馬場の辺りをうろついてるようだが、大方、人目を忍んで但馬に貰った聖遺物を弄ってるのだろう。
そんなわけだから、わざわざこんなとこまで上がってくるのは珍しい。一体どうしたのだろうかと尋ねたら、
「たった今、連絡があって、ブリジット様が近いうちにこちらへと戻られるそうで、社長のご都合を聞きたいとおっしゃっておりました」
アナスタシアが但馬から離れ、寄りかかっていた肩がパッと軽くなった。風が吹き付け、ほんのり冷たく感じられる。
「え? ブリジット?? こっちに来る予定は聞いてないけど。何かあったの?」
但馬は振り返らず、メイドの方へと歩いて行った。
「はい。それより少し前に、ブリタニアからの連絡船がハリチ港へ帰還いたしまして、どうやら、探検航海を終えた船団が、数日中にもこちらへ戻られるそうなのです」
「おお! どう? 新大陸は見つかったの?? 他になにか言ってなかった?」
「それも含めて、探検船団の提督が報告に参るということでした」
「じれったいなあ」
まあ、提督の名誉もあるだろう。報告を他人に任せては、どうして自ら船に乗らねばならないのか分からない。但馬のようにハリチで待ってりゃ良いのだ。だからじれったくても、ここは船団が返ってくるのを、ちゃんと待たねばなるまい。
「ブリジット様もそんなご様子で。報告を早く聞きたいから、首都で待つより、こっちに出向いた方が良いだろうとおっしゃってました」
メイドはそれを伝えると、今度は離宮の侍従たちに報告するからと言って去っていった。
その晩、電話でブリジットと西海会社の今後の方針を話し合いつつ、取り敢えず今は報告を待つよりほか無いとヤキモキしながら船団の到着を待った。
それから約1週間後、船団は一隻も欠けること無く、無事ハリチ港へと帰還した。
散々もったいぶったくせに船体はどれも綺麗で傷んだ様子は見当たらず、まるで苦労した感じがしないその姿に、あまり良い報告は聞けないのではないかと不安になった。だが、そんなのはまったく杞憂だった。
新大陸発見。探検船団の持ち帰った第一報は、まずはその5文字だったのである。