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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第五章
171/398

NEW GAME! ⑨

 ピョンとひとっ飛びに敷地の塀を飛び越えると、たまたま家の周囲を警戒していた警備員が驚いて腰を抜かしていた。彼は必死に腰に差した警棒を引き抜こうとしていたが、その途中で相手が但馬だと気づくと、また目を丸くして驚いていた。


「警備ご苦労様」


 悪いことしたなと苦笑いしつつ、その場を後にする。


 ジョギング程度のつもりで駆け出したのに、景色がすごい勢いで背後に遠ざかっていく。殆ど全力疾走のようなスピードに、慌てて力をセーブすると、但馬は盛大に溜息を吐いた。


 本当に、自分はどうかしてしまったらしい。物語の主人公みたいに、神から授けられたもの凄い力で、世界の危機を救う勇者に選ばれたようなのだ……馬鹿馬鹿しい。


 大体、なんでこのタイミングなのだ?


 何の力も持たないただの異邦人だった頃ならともかくとして、今や自分は三カ国を統べる帝国の大臣で、世界でも有数の大金持ちで、領地と領民を抱える貴族になった。その国は電気と電話が普及していて、快適なエアコン完備のコンクリの建物が立ち並び、近代農法のお陰で飢えを知らず、もうじき鉄道まで走らせようとしてるところだ。外敵と戦うために魔法なんて使わなくっても、数万丁の小銃と野戦砲がある。大体、戦争は軍人の領分だ、自分はお呼びじゃないのだ。


 こんな状況でこんな力を得たところで、何の役にも立たないだろう。せいぜい、闇にまぎれてヒーローごっこをするくらいしかない。なんなら、どこぞのご隠居よろしく諸国を漫遊してみせようか。


 しかし、だからといって、こんなの忘れてしまって、何事も無かったかのように日常生活に戻ろうと思ってもそうはいかないだろう。あのメッセージウィンドウに並んだ文字列。あれだけ取ってみても、何者かの意志が介在している臭いがプンプンしているのだ。その何者かが何をさせようとしていたのか……それが分からなくっては、おちおち眠っても居られないだろう。


「ええい、くそっ……」


 取り敢えず、一旦、メイドに会って聖遺物についての意見を貰おう。全ての聖遺物を扱うことが出来る彼女なら、この矛槍を握ってみたら何か分かるかもしれない……分かるよな? 分かって欲しい……出来れば分かってくれ。


 そんなこんなで小走りに競馬場へと向かっているところだった。


「むむっ……?」


 競馬場へ向かう道路に差し掛かったところで、ずっと追っかけてきたメイドの気配が、競馬場とは別の方角から漂ってくることに気がついた。当たり前のように気がついてしまった。普通、こんなの分かるわけないのに……頭痛が痛い。


 ともあれ、てっきり競馬場に遊びに来てるのだと思ったのに別の方から気配がするので、どうしたんだろう? とそちらの方角を眺めて見たら、そこは宅地造成から外れた領地の端っこで、あるのは雑木林くらいものだった。要するになんにもないのである。


 エルフが来ないことが分かっているから、街の境界には高木を植えているのであるが、地元の人達は嫌がって近づかないような場所である。あのメイドは、そんな場所で何をやってるのだろうか?


 まさかノミ行為……


「おや? 但馬じゃないか。いつ戻ったんだい?」

「うひっ!?」


 わなわな戦慄きながら雑木林の方角を眺めていたら、側面からいきなり声を掛けられて、思わず変な声が出た。


 見れば競馬場の方からランがえっちらおっちら歩いて来た。


 エリオスとの子供が出来てから、ハリチで暮らしている彼女であったが、今ではすっかりお腹も大きく目立ってきていた。それでもたまに議会のためにコルフまで行ったり来たりしていたのだが、流石にそろそろ臨月も近いので、ついに議会のお爺ちゃんがたも折れて休ませて貰えることになったらしい。


 ケチな話だが、この世界では女性議員どころか働く女性、それも妊婦なんてものが殆ど居ないから仕方ないことかも知れない。


「や、やあ、ランさん。ついさっき帰ったばっかりなんだけど……だいぶお腹も目立ってきたねえ。競馬場から出てきたの? う~ん……やるなとは言わないけど、お腹の子に悪影響なんじゃ……」

「馬鹿。ただの散歩だよ。賭け事なんかやりゃしないよ。私はあまり運が良くないからねえ。いつも貧乏クジばっかりさ。そんなのやったら、心臓に悪すぎてうっかり流れちまうよ」

「流さないでね!? お願いだから流さないで!」


 ランはゲラゲラと笑った。


「馬を見に来ただけさ。家畜が好きなんでね。うちの国は山だろ? 荷物を運ぶのも大変だから、みんなロバ飼ってるんだ。後はヤギに羊だろ。家鴨や鶏なんかも、みんな小さい時から家畜と共に暮らしていたんだ。馬はいいねえ……ここの馬は大型なのに気立てが良くて好きだ」

「へえ」


 家畜と言ってるが、要するに動物が好きなのだろう。結構意外だ。まあ、見た目が怖いだけで、タチアナの面倒を見たり、アナスタシアの話し相手になってくれてたりと、ランは意外と気さくな性格をしている。


 意外といえばエリオスの方で、さも強い子を生むために妥協したのだ的に言っていたくせに、ハリチにいる間はいつもランのことを気にかけてあれこれと世話を焼いていた。それを指摘すると恥ずかしいのか、からかうなと言ってポンポン叩いてくる。ツンデレか。


 まあ、子供が好きなのは確かのようで、地味にリオンも懐いているし、案外良いお父さんになるのかも知れない。それにしても、二人共もう少し見た目がマイルドなら良かったのに……山賊夫婦と言っても差し支えない容貌なのは気の毒でしかない。そんなことを言ってたら、


「ほっとけ! 大体、そんなこと言ったら、おまえも大概じゃないか」

「なにが?」

「おまえも気を使ってずっとハリチに居るんだろ。本当は大臣なんだから首都に居たほうが何かと都合がいいくせに、エリオスのことを気遣って、ずっとここにいる」

「別にそういうわけでもないよ。領地経営だって大事だから」

「本当かねえ……それともアナスタシアのことか? 首都に居ると、お姫さんとばったり鉢合わせも多いしね」


 やることがないからオバサン化でもしてるのだろうか。但馬は適当にはぐらかすように話題を変えた。そう言えば、ランには以前から聞いてみたかったことがあるのだ。


「そういや、話は変わるんだけどさ、ランさんってティレニア出身だろ? ティレニアってどういう国なの?」

「……ん?」


 ランは但馬が露骨に話題を変えやがったとニヤニヤしていたが、話が故郷のことだと気づくと、少し考えこむような素振りを見せた。


「ふん……アナトリアとティレニアは国交がないからね。おいそれと国情を、その国の大臣に漏らすなんてことは出来ないんだけど」

「いや、無理にとは言わないよ」

「冗談さ。少しくらいなら構わない。寧ろ、いつ聞かれるのかと思ってたんだけどね」


 するとランは話が長くなると思ったのだろうか、腰をトントンと叩いてから、よっこらしょっと道路脇の芝生に腰掛けようとした。慌てて但馬が手を貸すと、彼女は礼を言ってから、


「ありがとう。なんだ? おまえ、少し感じが変わったか?」


 以前の但馬だったら、ランの体重を支えるのも一苦労だったろう。


「みんなにそう言われるよ」

「ふーん……」


 彼女は芝生に腰を下ろすと、ふ~っとため息を吐いた。ハリチに限らず、この世界ではベンチというものを見かけたことがないが、気がついた時にでも設置しておこう。


「それで、ティレニアのことだったな? ……と言っても、私はコルフ育ちだから、国のことと言っても、それほど詳しいってわけじゃないぞ」

「そうなの? まあ、俺は何も知らないから、ほんの触り程度でいいんだ。首都の場所とか人口とか、皇帝がどんな人なのかとか」

「なんだ、そんなことも知らないのか……天上人のことを私ら庶民が語るのはご法度なんだ。だからここだけにしてくれよ? 首都はサウスポールと言って、タイタニア山の上にある。コルフのすぐ側にでっかい山があるだろう? あれさ。とにかく不便な場所だから、首都と言ってもただ王宮があるくらいのところだ、城下町らしい城下町もない」

「サウスポール!?」


 って、まんま南極って意味だったはずだ……名前をつけた人物のお里が知れる。案の定、建国以来そのままらしいその名前は、


「皇帝たるリリィ様が名付けたそうだよ。人類の最前線、南の端っこって意味だろうけど……なんだい、なにか気になることでも?」

「いや。リリィ様ってのは、聖女リリィのことか。初代皇帝って扱いなんだ」


 聖女リリィが名付けたとなると、やはりこの伝説の御仁は、かつての古代文明に縁を持つ人物で間違いないようだ。但馬と同様、いきなりこの世界に亜人として産み落とされたのか、それとも、このリリィこそが但馬を誘導してる何者なのか……


 その可能性は否定出来ないが、今のところ確かめようもない。ただ、相手は女性のようだから、但馬や勇者とは別口でこの世界に紛れ込んでいたようである……


 本当に別人だろうな? 但馬が女装してたとか言うオチは願い下げだぞ。


 そんなことを考えていると、ランは呆れた素振りで続けた。


「なんだ、本当にそんなことすら知らないんだな……おかしなやつだね」


 何であろうか。何かまずいことでも言ったのだろうか……


「リリィ様は初代皇帝ってだけじゃなくって、現皇帝でもあるんだよ」

「どゆこと? 皇帝は代々、リリィを名乗るってこと?」

「そうじゃなくって、1千年前から聖女リリィ様がずっと我が国を統治しておられるってことさ」

「そんな馬鹿な」


 但馬が即答すると、ランは少しムッとした顔をしてみせたが、すぐにいつもの暗殺者面に戻ると、


「まあ、信じられないのは仕方ないけどね。正直なところ、私だって実物を見たことがあるわけでもないし、他国の連中が嘘だと思う気持ちも分かるさ」


 少しへそを曲げた感じだ。まずいことを言ってしまったようだ。


「いやいや……ランさんが、そう言うんならそうなんだろう。否定はしないよ」


 そう言えば、ティレニアは宗教国家だと聞いていた。てっきり、キリスト教的な意味でだと思っていたが、考えてもみればこの世界には現在キリスト教しか存在しないのだし、それを宗教国家と言うのは少し変だ。


 宗教ってのは要はこういうことなんだろう。


 エトルリア皇女のリリィのことを、エトルリア聖教が聖女の生まれ変わりとして扱うことをティレニアが非難しているそうだが、それもこれが理由だろう。ティレニアにしてみれば、聖女リリィはまだ健在なのだから、その生まれ変わりなんてものを出してきたら冒涜になる。


「ティレニアはリリィ様が建国し、皇居に座して以来1千年間、その体制は全く変わってないのさ。天上人たるリリィ様のお声を聞くことが出来るのは、巫女様と呼ばれる特別な存在だけであり、その巫女様をお世話するために五摂家(ごせっけ)が存在し、彼らが持ち回りで(まつりごと)を執り行っている」


 巫女とか五摂家とか、また聞き慣れぬ言葉が出てきたが、一先ずそれは置いておいて……


「聖女リリィはガッリアの森に消えていったって聞いたけど?」

「それはエトルリアが言ってることさ。我々は生きていると信じてるのだがね」


 ランはそう言うが……正直、それを信じろというのは無理がある。それが顔に出ていたのだろう、彼女はニヤリと笑うと、


「まあ、信じろと言って、いきなり信じられる話ではないだろうね、私だって見たことないんだから。ホントのところ、国内でもそう言った動きはあるのさ。ただ、おおっぴらにそれを口にすると、五摂家から刺客が送られて、拘束、監禁される。それを嫌って国を捨てる者もいる。恐らく、リディアにも相当数そういうのが居るんじゃないか」

「そりゃあ……ひどい」


 ティレニアは、この五摂家によって専横されている宗教国家と言うわけだ。


 聖女リリィの伝説は、今の文明の根幹に関わるところだから知らない人は居ないだろうし、そのリリィが実は生きていてティレニアを統治してると言われたら、信心深い人ならその恩に報いようと馳せ参じることもあるだろう。彼らはその気持を利用しているとも考えられる……


 ただ、気になる点はもう1つあった。


 五摂家がそのまま皇帝リリィと対話すればいいのに、その間に巫女と言う謎の人物を挟む必要はないだろう。なんでこんなのが居るのか。疑いだしたら切りが無いのだが、


「その巫女ってのは、やっぱりその五摂家の血筋か何かなの?」

「いいや。巫女様は……」


 ランは言い淀むと、じいっと但馬の顔を見つめてきた。彼女のその鋭い眼光で睨まれると、怖いと言えば怖いのであるが、その真剣な眼差しは茶化してはいけないような気がした。相当言いづらいことなのだろうか? だったら無理に言わなくても良いと言おうとしたら、


「実は、もしもおまえにそれを問われたら、話しておこうと思ってたんだけどさ……」

「なに? ……なんか俺、まずいことでも聞いたかな?」

「いいや、まずいと言えばそれを聞くこと自体がまずい。実は、リリィ様同様、巫女様のことも誰も見たことがないんだ。巫女様は皇居の中で生まれ、皇居の中でだけ暮らすことが許された、皇帝であるリリィ様の言葉を五摂家に伝えるのが役目だとされてる」


 そりゃあまた胡散臭い……そんな態度が露骨に顔に出ていたのだろうか、ランは苦笑しながら続けた。


「そういうわけで、巫女様に関して口にするのはティレニア人であっても憚られる。あと、その存在を疑うような言動をしたら、また同じように五摂家に目をつけられるって寸法さ。ま、禁忌なんだ」


 想像以上に面倒くさい国のようである。妊婦に負担をかけるのも悪いし、この辺で切り上げておこうかなと思ったのだが……ランはそのまま話を続けた。


「だから、これは本当にここだけの話しにしてくれよ?」

「うん」

「みんなは巫女様の存在を疑問に思ってるようだけど……でも私は、本当に巫女様は居るんじゃないかと思ってるんだ。今はね」

「……あ、そうなの?」


 話の流れから否定されるのだと思ったらその逆だった。それじゃ彼女は何をそんなに歯切れが悪いんだろうかと思って聞いていると、その理由はすぐに分かった。


「ああ。元々は信じていなかったんだけどね……今まで色々あって考えが変わった」

「そりゃまた、なんで?」

「……まず、皇居と言っているが、これが何のことかと言えば、アナトリアやエトルリアで言うところの世界樹のことなんだ」

「え? 世界樹……? じゃあ、皇帝リリィは世界樹の中で暮らしてるっての?」


 まさかここでその単語が出てくるとは思わず、但馬は目を丸くした。世界樹自体は、ティレニアにもあるだろうと思っていたが、まさかそれが国の中枢も中枢、皇帝の居城にされてるとは思わなかった。まあ、皇帝が本当に居ればの話だが。


 そう考えると五摂家とは、皇帝リリィの代弁者というよりも、ティレニアの世界樹を守護する家系と言うわけだ。その構図はエトルリアの皇家と何ら変わらない。その家系がいつしか実権を握るようになったのだ。


 双方ともに建国の祖が聖女リリィだと言ってるだけあって、スタートは似てるのだ。


「そう。皇帝たる聖女リリィが世界樹の中で暮らしていて、その世話を巫女様がする。さらにその巫女様の世話を五摂家がするってわけさ。なんでこんなことになるのか、エトルリアの皇女リリィのことを知ってるおまえなら分かるだろう?」

「……世界樹の中に入れるのも、その恩恵を受けられるのも、ごく一部の限られた人間だからか」


 但馬はメディアの世界樹しか知らないが、そこは古代のテクノロジーの粋を極めた科学施設だ。メディアではそこで亜人を生み出し、エトルリアは聖遺物の製造工場になってるようだ。で、もちろんそういう施設だからか、セキュリティが存在し、メディアのそれは何者かによって爆破されていたから誰でも入れるが、エトルリアの方は限られた人間が、限られた用途でしか中に入ることが許されない。


 ただし、唯一の例外がリリィだ。


「エトルリアに皇女リリィが居るように、ティレニアにもそう言う存在が居てもおかしくないだろう? この大事な存在を、他の誰かに利用されないように五摂家が隠してる。それが巫女様だって考えれば、しっくりくる」

「なるほどなあ……」

「事実、五摂家は巫女様の世話役を兼ねていて、巫女様が代替わりするたびにその役が入れ替わることになっていた。ここ何十年かは変わらないんだが、大昔は頻繁に巫女様も、世話役も変わっていたらしい」

「ふーん……」


 ランは何かを言いたそうに、但馬の顔をちらりと見てから言った。


「でだ、ここ数年……いや、数十年で代替わりしたのは大体今から20年ほど前のことなんだが、どうもその時に色々とあったらしくて、そのせいで五摂家のうち、世話役だったシホウという家が没落した」


 唐突な話である。何かとんでもないミスでも犯したのだろうか?


「五摂家っていうくらいだから、5つしかないんだろうに、没落しちゃったの?」

「そうだ……千年前から連綿と続く御役目にいきなり終止符が打たれたわけで、遥か雲の上のこととはいえ、みんな何があったのか不安に思った。漏れ聞こえてくるのは、どうもその五摂家の者が巫女様を連れて逃げたって話だったんだが、本当にそんなのがいるのかどうかも分からないだろう? 誰も信じなくって、結局、その時に何があったのか分からず終いだった」


 しかし……ランは考えなおしたようだ。


「私はこれ、本当なんじゃないかって思うようになってね」

「本当って……巫女を連れて逃げたって話?」

「ああ……ところで、うちの国だと男性名詞と女性名詞ってのがあってね。家名であっても、男性と女性で発音が変わるんだ」

「へえ……ラ・ニーニャとエル・ニーニョみたいなものか……ん?」


 なんでこんなに唐突に話を変えるんだ? 但馬はなんだか嫌な予感がした。


「シホウ家の女性名は、シホワだ」


 ついさっき、彼女のステータスを確認したばかりだ。


「ただの偶然だと思ったんだけどね……」


 アナスタシア・シホワ……


「大体、逃避行してる人間が、本名を名乗るってのもおかしいから、機会をみてアナスタシア本人にも確かめてみたんだよ。おまえはどういう家系なのか。父親や母親は、なんて名乗っていたのかって。そうしたら、あの子は知らないって言ってね。自分にはファミリーネームなんて無いって」


 ランはじっと但馬の目を見つめていった。


「どうして、おまえは彼女がアナスタシア・シホワだって分かったんだい?」


 但馬は返す言葉がなかった。思えば、アナスタシア本人に、苗字を確認したことはない。じゃあなんで知ってるのかと言えば、但馬には鑑定魔法があって個人データが見えるから、それを記憶していただけなのだ。それを、以前、フリジアで別れるときにランに伝えてしまった……彼女はその時、少し不審そうな顔をしていた。


「いや、そんなのはもうどうでもいいさ。フリジアで別れ際に、おまえから彼女のフルネームを聞いて、ちょっと気になったもんでね。シホウ家の男が巫女様を連れて逃げたと言うのがおよそ20年前。その後、逃げた先で子供を作ったなら、丁度アナスタシアと同年代なんじゃないか」

「それ……誰か他の人に言った?」


 ランは安心しろと言いたげに、静かに首を振った。


「いいや。シホウ家の者に聞いてみるのが手っ取り早いんだろうが……やめといた」


 そしてじっと但馬の目を見つめながら、


「正直、今更あの子のことが分かったところでさ、今よりもあの子が幸せになれるとは思えなかったんだ。辛いこともあっただろうが、おまえと居たこの数年間は、あの子にとって本当に素敵な時間だったと思う。だから、気にはなったけど下手に首を突っ込むのはよそうと思ってさ。大体、ただの偶然なのかも知れないんだし」


 ただの偶然……彼女はそう強調してはいるが、何か確信めいたものを持っているように感じられた。もしかしたら、本当ははっきりそうであると確かめたのか、もしくは、高貴な家だから、同じ名を持つ者が一族の他に居ないとか。そういうこともあり得る。


「とにかく、そういう事だから、一応、おまえには話しておこうと思ってね。私は今日、この時をもってこのことは忘れるから、あとはおまえの好きにしな。あの子の家族のことを調べてみるもよし、黙ってこのままでいるもよし。ただ……」


 ランは一旦話を区切ったかと思うと、そのまま長い長い沈黙を続け、その間に但馬が何も言ってこないことを確かめてから、諭すようにゆっくりと口を開いた。


「おまえはもうあの姫さんを選んだんだろ。なら、あの子に家族のことを話してみるのもいいんじゃないかって思うよ。あの子がこれからどうしてくのか分からないけど、おまえと姫さんが結婚して、あの子だけが取り残されたら……可哀想だろ?」


 ランはよっこらしょっと立ち上がると、腰をトントンと叩いて言った。


「ティレニアに何か用があったら、いつでも私に相談してくれよ。これでも、議員の端くれなんでね」


 そう言って彼女はがに股でヨチヨチと歩き去っていった。妊婦が一人で立ち上がるのに苦労していると言うのに、但馬は手を貸すこともせず、ただ黙り込んでいた。


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