孤独のグルメ⑪
朝もやの中、山の中腹にある牧場から多数の馬が降りてきた。亜人騎兵の訓練と、馬の調教を兼ねて競馬場へと赴く馬群であった。ザビエル神父が道の端によってそれとすれ違うと、馬上の亜人達がじろりと彼のことを見て通り過ぎていったが、特に何か言われることもなかった。
ハイキングコースを兼ねたその馬道をてくてくと登り続けること数時間、ようやく中腹に差し掛かると、一転して開けた野原に出た。リフトを使えば数十分で着くらしく、更に大きなケーブルカーを今建設している最中らしい。もしもそれが出来れば10分だと、首都から働きに来ていた土木作業員が言っていた。
そのケーブルカーの駅らしき建物から暫く行くと放牧場があり、その埒の中ではまだ生まれたばかりで乳離れしていない親子の馬が、あちらこちらで優雅に牧草を食べたりかけっこをしたりしていた。
そんな牧場のあちらこちらには白い花が咲き乱れ、噂通りにミツバチがぶんぶん飛び交っている。そのミツバチの行動を眺めていると、放牧場からほど近い雑木林のそばに少し毛色の違う建物が見えた。恐らくそこが養蜂場であろうと踏んだ神父が向かって行くと、それに気づいたらしき牧童が、カッポカッポと馬に乗って近寄ってきた。自分の行動が見咎められたのだろうと思い、ザビエルは彼がやってくるのをその場でじっと待つと、聖職者らしい柔和な笑顔を崩さずに言った。
「失礼、珍しい物が見れると聞いて来たのですが。養蜂場の見学は出来ませんでしたか」
「ザビエルさんっすか?」
「……いかにも」
「社長があんたが来たら案内してやってって言ってたんで」
牧童はひらりと馬から降りると先に立って歩き出した。どうやら、ザビエルの行動は筒抜けであるらしい。
若く見えるので牧童だと思っていた彼は、この放牧場を管理する牧場長のようだった。リディアという国はこういった若い人材の抜擢が多い。いい意味で自由であるから人が集まり、経済が潤っているのだろう。これがエトルリアでは世代交代が全く上手くいかず、中央に行けば行くほど閉塞している。
全く未知の養蜂箱を見せられ驚いていると、さらに驚いたことにその使い方まで親切丁寧に教えてくれた。真似されたら困るだろうと思っていると、それが顔に出ていたのだろうか、但馬に教えてもいいと言われたらしい。彼にとってはこの程度、大したことでもないと言うわけか……ザビエルは礼を言って養蜂場を出た。
ヴィクトリア峰の中腹は、下から見上げたのと違ってかなり広く、放牧場の他にも棚田があり、それがまだまだ開発途中と言わんばかりに離宮を中心に広がっていた。つい最近、収穫を終えてしまったのだろうか、残念ながらその実りも水田も見られなかったが、これだけの規模があれば、もう麓の人口を十分に賄える分はあるだろう。
イオニア海と外洋を同時に臨めるその景色はどこまでも青く続いており、海にも国にも境界線がないということを実感させた。ここからでは見えないが、この青い海の向こう側にエトルリア大陸はあり、もう間もなく、故郷のロンバルディアの山々が白く色づき始める頃だろう。
そんなことを考えながら棚田を見ていると、周囲に人の気配が集まりだした。どうやら領主の登場のようである。
「やあ、どうも、ザビエルさん。こんなところで奇遇ですね」
「やあ、これはこれは但馬殿。なに、そろそろお暇しようかと思いましてね、帰る前に一度この景色を見てみたかった」
草原に風が吹き抜ける。ビューっと、まるで木枯らしみたいな涼しいが吹き抜けていった。不思議な感覚だがここは赤道近くの熱帯で、こんなに涼しくても山の麓に降りれば汗ばむような陽気なのである。
常春の国には楽園のような花畑が広がり、動物と作物でいっぱいに満たされて、大勢の人々を養っている。但馬の作り上げた領地はそんな、彼らにしてみれば夢の様な国だった。
「せっかく知り合えたのに残念ですね。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうしたいところですが……生憎とそうもいかないようです。と言うか、あなたはもうおわかりなのでしょう?」
言われて但馬は、う~ん……っと難しい顔をしてから、
「ええ、まあ……ほんの少し調べさせていただきましたから」
その言葉を聞いてザビエルはニコニコと笑うと、
「正体のバレた間者はもう役に立ちませんからな」
と言って、愉快そうに笑った。ザビエルは、現在、アナトリアが秋波を送っているロンバルディアの間者だったのだ。
アナスタシアにちょっかいをかけてきたのも、但馬に近づくための方便であり、但馬はアナスタシアから、ザビエルが言うことは何もかも都合が良すぎると言われて不審に思うようになり、改めて中央に問い合わせてその正体に気づいた。
ザビエルは聖職者であると同時に、元ロンバルディアの宮廷料理人で、方伯の信頼が篤い人物だったのだ。
ロンバルディア方伯は、よほどアナトリアと国交を結ぶことに慎重なのだろう。但馬は詳しいことを知らないが、外交面で相当のリスクを背負うことになるようだ。そこで方伯が個人的にも信頼しているザビエルにお鉢が回ってきた。目的はアナトリアの視察と、但馬波瑠の監視だった。
「海が綺麗でしょう。田んぼの方は休耕田になっちゃってて、ちょっと見栄えが悪いけど。季節さえ合えば水田が空を映して凄く綺麗なんだ」
「知っています。我が国も水田があちこちにあります故」
「ふーん……米を主食にしてる国ってあったんだな……」
「いいえ」
ザビエルが頭を振った。
「残念ながら、我が国で米食は根付きませんでした。味噌、酒を作る材料、後は家畜の餌としてしか考えられておりません」
「そりゃまたどうして……」
「毒だと思われてるからですよ」
南北エトルリア大陸には5つの国がある。北エトルリアのシルミウムとトリエル。南の皇国とアスタクス。ロンバルディアは南エトルリアの北西部に位置する山国で、食料資源に乏しく、南北大陸の内海に面した皇国や肥沃な大地のアスタクスに比べて、かなり国力が劣っていた。
元々が流刑地であるロンバルディアは国民性が荒っぽく、特に隣国のアスタクスと仲が悪かった。圧倒的に国力に劣るために、本格的な戦争になれば弱いが、ただ地の利を活かし守りに徹すれば互角に渡り合える力はあった。
土地が貧しいため、作物は余り育たず、大昔は狩猟を糧に国を維持してきたが、近年の人口増から食料が常に不足しがちで、アスタクス領に度々襲撃をかけては、野盗さながらその収穫を強奪した。
当然、アスタクスがそれを見逃すわけもなく、従ってしょっちゅう戦争をしていたわけだが、現実には隣国との交易が無ければ国が成り立たないという依存関係にあり、戦争が本格化してしまうと、困るのはロンバルディアの方という負い目があった。
自業自得といえばそれまでだが、結局最後はロンバルディアが頭を下げるしかない。だがアスタクスは大陸でも最大の国力を誇り、皇国に多大な影響力を持つ国であるため選民思想が強く、尊大な態度を取ることが多い。そのため、度々深刻な事態に陥りかけるが、そのたびに皇国がバランサーとして出てきて事なきを得ると言うことを繰り返した。
そんな大陸事情がある中、ある時、そのアスタクスがリディアに手を出したばっかりに、勇者勢力に攻め込まれるという事態に陥った。ガッリア大陸から渡ってきた勇者は、屈強な亜人兵を率いて、奴隷解放を理由に大陸中で暴れまくった。少数勢力に過ぎない勇者であったが、そんな彼に討伐隊をいくら差し向けても打つ手がなく、アスタクスはいたずらに兵力をなくしていき、そして働き手を欠いた大陸屈指の穀倉地帯は大不作に見舞われることになった。
「当時の私はまだ10に満たず、生まれ育ったロンバルディア南部の山の中におり、貧しい土地のなかで、両親と11人の兄弟とで極貧生活を送ってました。父は狩猟を生業として土地の者をまとめる豪族……と言えば聞こえは良いですが、要するに山賊の頭目だったのです。
勇者が低地帯で活動し始めやがて飢饉が訪れますと、我々の集落もその煽りを受けました。交易品は軒並み高騰し、隣国から奪おうにも奪う麦もない。私は子供でしたから詳しいことは存じませんが、大人たちは集まって対策を講じることに躍起になりました。
そんなとき、隣国アスタクスから傭兵の依頼が舞い込んだようです。ロンバルディアには交易をしたくてもそれが出来る特産品がない故、その兵力を貸すことで対価を得ることもありました。体の良い言い方をすればそうなりますが、要するに隣国から援助を受けていたわけです。尤も、そうして戦う相手もまた我が国の野盗だったのですが。
ともあれ、勇者に太刀打ち出来なくなったアスタクスは、ロンバルディアにも兵を出すように要請してきたのです。関係ないと突っぱねたいところですが、既にこちらも困っている。それに傭兵に行けば食うには困りませんし、結局はみんな渋々要請に応じました。
私の家も父のほか、私を除く男兄弟はみんな戦場へ参りました。残ったのは私と母とまだ乳飲み子の妹の3人です。そして不幸にも、いえ言うまでもなく分かるでしょうが、私達を残したまま、父も兄弟も帰らぬ人となりました。
父の死が告げられて暫くすると、母は妹を連れて夜逃げしました。元々、私と母とは血がつながっていませんでした。彼女は父が気まぐれに隣国から略奪してきた戦利品だったのです。
故にあっさりと捨てられた私は頭目の息子という立場ではありましたが、既にその父は居らず、働き手でない子供はただのお荷物ですから、やがて村からも追い出され、途方に暮れる日々を送っておりました。捨てる神あれば拾う神あり、親切な人に助けられもしましたが、この飢饉では長くはもたず、流れ流れ結局は、私は誰からも相手にされない子供達の集まる孤児院へと流れ着いたのです」
棚田の見える丘の上で、ザビエルは無表情のまま淡々と語った。その顔には深い年輪が刻まれており、彼の激動の人生を物語っているようだった。彼は一旦話を止めると、尋ねた。
「ところで、但馬殿はロンバルディアの国旗をご存知ですか?」
「いいえ、生憎と……歴史には疎いもんで」
「剣を掴むコンドルです。ロンバルディアやエトルリア北部にはコンドルが生息しており、これが国の象徴となりました。コンドルは全てを喰らい尽くす獰猛な猛禽類として、剣はその力の象徴として、荒くれ者の多い我が国にはピッタリの国旗ではないでしょうか……」
「ザビエルさんは、その国旗を嫌いなようですね」
すると彼は薄く笑った。いつもの聖職者然とした笑みではなく、多分これが彼の本当の笑顔なのだろう。どこか諦観を感じさせる、日本人特有のアルカイックスマイルにも似たような笑みだった。
「国旗にまで使われているくせに、我が国でコンドルを好むものなどおりません。コンドルは知っての通りその大きな体とは裏腹に、狩りはせず死肉漁りに特化した動物です。生きた獲物は一切食べず、死体の臭いを嗅ぎつけると数十キロ先からでも飛んで来て、肉の一片も残さず綺麗に平らげる。
余りにも綺麗に平らげるから虫がつかず、骨だけが綺麗に残るから、かつて鳥葬という習慣があったくらいでした。巨体を維持するために大型の死体を好み、一度に何キロも詰め込むから、時に飛べなくなることすらあるそうです。それほど、あの鳥は死肉に飢えているのです。
その死を嗅ぎ分ける能力はもはや人知を超え、もうじき死にそうな動物が分かるのでしょうか、そう言った家の周りにはコンドルがうろつくものですから、死の象徴として忌み嫌われています。死肉がいつ手に入るか分からないコンドルは無駄な動きは極力避け、下手に飛び回らずじっと獲物が死ぬのを待っているのです。
想像してみてください。もう間もなく誰かが死にそうだってとき、家族が悲嘆に暮れる中でふと窓から外を見上げてみれば、あの巨体が微動だにせずジーっと家の中を覗き込んでいるのです。早く死なないかと待ちわびているのです。
親を失い、村を追い出され、巡り巡って私がたどり着いたのも、そんなコンドルが、じっと見守る建物でした。
ロンバルディアでは珍しく慈善事業を行っていたその孤児院は、多くの孤児を受け入れていましたけれども、大飢饉の末期にあって飢餓状態でした。
我が国は元々、与えるよりも奪うことを是とする国柄でしたから、勇者との戦争により、親を失った子供達が続々と集まってくる中、誰もこれを援助しようなどという者など居りません。修道長においてもこの大飢饉では自分が生きるのに必死で、恵まれない子供達を引き取ったところで、与える食料もなく自らも飢える始末でした。
食事は3日に一度、食べられれば良いほうで、私は空腹で夜に眠れなくなるということを生まれて初めて経験しました。苦しくて苦しくて、気が狂いそうになる。しかし泣き叫ぶ元気などはない。逃げたくても、もうこれより先がない。気が付くと周りはみんなそんな子供達ばかりで、それをコンドルがじっと見守っているわけです。
私の居た部屋は、とにかく臭いのない部屋でした。誰も風呂にも入らず服も着替えないのに、何の臭いもしないのです。食べるものがないですから油や肉の臭みなどが出るわけがないんです。乾いてさっぱりして、ついでに何の音もしない。それだけの不幸な子供達が集まっているというのに、建物はしんと静まり返って居りました。泣きたくても無くほどの元気もなく、そして私たちはその中で自分の運命を、薄々感づいていたわけです。
時折、外でコンドルが騒ぎ出すと、ああ誰か死んだなと思いました。暫くすると大人たちがやってきて、サッと誰かを連れ去っていきます。どこの誰かも分かりません。関心もありません。放っておくとコンドルについばまれますから、急いで火葬するわけです。お別れの言葉もありません。死ねばもうただの肉ですから、それが食べ物に見えるのは何もコンドルだけではないのです。
そうなるともう、まともではないですから、目を開けているのも辛いのです。今日明日にもこの子は死ぬ。いずれ私もこうなるのだろう。それを怖いと思う気持ちがあれば良いのですが、もうそんな気力さえもなく、悲しむことも、泣き出すことも、死ぬ元気さえもない。この期に及んで私は死ぬってのにも、相当なエネルギーが必要なんだと痛感したわけです。
建物はしんと静まり返り、年端もいかない子供達がすし詰めされてるわけですけども、誰一人泣き出すこともなく、ただじっと耐えている。そして見上げれば窓の外にはコンドルが、じっと私達を見つめているわけです。すると突然、ギャアギャアとそいつらが騒ぎ出して、ああ、また誰か死んだと分かるわけです」
淡々と語る彼の一言一言に、但馬は何も返す言葉がなくただ聞き入っていた。
「そんな時、孤児院へ勇者様がやってまいりました」
どうやら、勇者は自分がエトルリアを荒らしまわる弊害にようやく気づいたらしい。亜人奴隷の自由の代わりに、穀倉地帯の労働力が失われ、あちこちで飢饉が発生していた。
特に亜人奴隷の多いアスタクスを中心に活動していた彼は気付かなかったが、裕福な低地帯とは違い、その周辺の山の中は酷い有様だったのだ。
勇者はそれに気づくと大慌てで貧困に苦しむ各地を周り、義賊らしく食料や資金を援助して回った。人間おかしなもので苦しんでる最中に手を差し伸べられると、その相手が原因であっても親近感を抱くらしい。そのお陰でエトルリア人の勇者への印象は、恐怖と憧憬とが綯い交ぜとなった、なんとも形容し難い心境を形成しているそうである。
ともあれ、そんなこんなで飢饉を引き起こしてしまった勇者は、各地を周ってなんとかそれを食い止めようと足掻いていたようである。特に最も被害を受けたロンバルディア地方には、彼自身が直接入り、現地を見て回ったようだった。
その中の一つに、ザビエルの孤児院があった。
「勇者様は大量の食料と共に私達の孤児院へとやって来ました。そして戦争を引き起こし、巡り巡って私達の親を殺したのは自分であると悔い、謝罪した。私はよく分かりませんでしたが、当時の彼は雲の上の存在で、とてもえらい人なのだという認識でしたから、そんな人が自分たちなんかに素直に謝るということが不思議であり、とても尊いものだと感じました。
しかし如何せん、私たちはお腹が空いておりましたから、広間に置かれた大きな鍋に、グツグツと煮られた食べ物のことしか目につきません。沢山あるから慌てるなと言う、彼の従者の言葉には耳を貸さずに、あれを食べて良いと言われた私たちは、まだグツグツ煮立てられている鍋に殺到しました。
私たちは餓鬼のように貪りつきました。もう、これを逃したら次はないと言うつもりでおりましたから、それはもう必死です。熱い食べ物など、もう何日も、何十日も、いいえ、それ以上食べておりませんでしたから、みんな熱いという感覚すら忘れていたのか、唇がベロリとめくれて火傷するのも構わずに、熱い米を貪り食った。
その時のことはよく覚えております。何しろただの米ですし。おまけに熱くて何の味もしなかったはずですが、それが喉元を通じて食道を通り、胃にボトボトと落ちていくその感覚が、なんとも美味なるものでありました。全身から活力がみなぎるような、今自分の中に霊が入り込んでいったような、私は今生まれ変わったのだと分かるような、そんな神秘的な味さえする。だけど、それをどう表現していいか、幼い私は言葉を持ちませんでした。ただひとつ言えることは、こんなに美味いものを食べたのは初めてだということだけだったのです。
しかし、誰もが夢中になって、我先にとそれに貪りついている時でした。子供達の数人が急に悶え苦しみだした。私たちは初めは急いで食べるものだから、喉でも詰まらせたのだろうと思いました。しかし、そうこうしているうちに一人、また一人と、同じように苦しみだす子供が増えてくる。
私は何が起きているのか分かりませんでした。気がついたら隣で一緒に食べていた子供がお椀を取り落とし、バタリバタリと倒れていく。私もなんだか気分が悪くなってきて、目眩と力が抜けるような倦怠感と同時に、猛烈な痛みが体の中で暴れまわるのです。
頭がガンガンとして、耳がキンキンと鳴る中、私は体を横たえました。毒だ、それには毒が盛られているのだ、食べてはいけないと、誰かの声が聞こえてきました。それを最後に、私は意識を手放したのです」
それは本当に唐突に起きた出来事らしく、気づいた時にはもう多くの命が失われていた。大人たちもただ黙って見ていたわけもなく、すぐにヒーラーが呼ばれて、まだ息のある子供を助けようと回復魔法をかけ続けた。
だが、それは全く効かなかった。ヒール魔法を受けながら、子供達が次々と死んでいく様は、まるで地獄絵図のようだった。
但馬はこの時に何が起きたのか、薄々感づいていた。だがザビエルの言葉を遮ることも憚られ、黙ってそれを聞いていた。彼自身が勇者のことをどう思っているのかわからないのだ。勇者が悪いと思っているのなら、それはそれでいいのではないか。
ともあれ、ヒールが効かないという事実は、この世界の人間に非常な衝撃を与えた。ヒールは神の奇跡であり、万能の力と思っているのだから、フリジアのペスト騒動と同じ未知の恐怖が人々を襲うと、みんな激しく動揺し、その原因を勇者に求めた。
「私が死の淵から生還したとき、勇者様が悪者にされていました。彼は山奥の孤児院にやって来て、放っておけばもう助からないであろう子供達を見るに見かねて、いっそ毒殺したのだと。ヒールが効かなかったのは、勇者が神に対する悪魔の力を使うからだと言われました。
エトルリアで大暴れしていた勇者様は非常に憎まれてもいましたので、一度そういう噂が立ちますと、誰もがそうと信じてしまう。一人で軍に匹敵するという勇者様の力は、あまりに強大で化け物じみておりましたから、そう言われてしまうと確かにそんな気もするのです。
そして悪魔と呼ばれた彼は一言も言い訳せず、ロンバルディアから逃げるように去っていきました」
そんな過去があったから、ロンバルディアは勇者にゆかりのあるアナトリアとの国交を拒んでいたわけだ。彼の国にとって、今でも勇者は憎むべき悪魔であり、それに感謝を捧げるような国は異端というよりもはや異教徒だ。とても信用のおける相手ではない。
特に、そんな背景があるにも関わらず、勇者の名前を名乗って調子に乗っている大臣までもいるわけだから、警戒するなと言う方が無理であろう。
だが、ザビエルはそこまで語ると、ふっと表情を和らげた。
「当時の私もそんな噂を信じきっておりました。何しろ勇者様に食べさせて貰ったお米を食べようとすると、私たちはそのトラウマから拒絶反応が出ますから、それが本当に毒だと思い込んでいたのです」
「……ザビエルさんは、勇者を恨んでないんですか?」
「それは私の話を聞いた後で、あなたご自身で判断してください……
ともあれ後に残された私たちは、勇者の愚行の被害者という格好のサンプルでしたから、彼を恨む貴族たちに利用され各地を周り、見世物のように扱われました。
当時の状況を細かに語り、米は毒であるから決して食べるなと、中にはそれを実演してまで伝えようとするものも居ました。だから、ロンバルディアで米を食べるものは殆ど居ない。
しかし、私はどうしても忘れられなかったのです……あの時食べた、お米の味が。
どん底の中で食べた、あの生命を凝縮したような味が。あれは本当に毒だったのか、否、仮に毒であったとしても、もう一度あれを味わうことが出来るのならば、死んでも良いからもう一度味わってみたい……いつしか私はそのことばかり考えるようになりました」
貴族たちの見世物にされることによってそれなりの地位を得たザビエルは、後援者を得て勉強を重ね、やがて独立を果たした。教会に入ると若いながらも敬虔な聖職者として各地を周り、説法をする傍ら、土地の様々な料理を食べて歩いたそうである。
だが、あの時食べた米の味にはどうしても辿りつけない。満足の出来ない彼はいつしか自分で料理を作るようになり、各地の孤児院を回って子供達に施したり、評判を聞いた貴族に請われて振舞っているしているうちに『食聖』と呼ばれるまでとなり、ついに故郷の宮廷料理長に登りつめた。
宮廷料理人と言うものはただ美味い物を作ればいいというわけでなく、何しろ王の食事の番であるから、下手なものを食べさせてはならない。料理の腕前はもちろんのこと、毒の知識も必須であるし、その人格にまで累が及ぶ。
伊尹、易牙、タイユヴァン。政権や歴史に影響を与えた料理人と言うものは古今東西に存在する。母親が料理しない家庭では、子供は食事を与えてくれる人に懐くという。やはり人間も動物だから、幼少時に食べ物を与えてくれた相手に情が移るのだろう。
商の湯王は悪政を続ける夏王朝の桀を討つべきか悩んでいた。宰相として補佐を務めた宮廷料理人の伊尹は、そんな湯王の尻を叩くべく、古今東西の食材を用いて湯王を歓待したあと、満足している彼に言った。
世界は広く、これより美味い食べ物はいくらでもある。遠き西方天竺には桃源郷が存在し、あらゆる食材が手に入ると言う。それを食べずして死ぬのはもったいない。夏王朝を滅ぼせば、天竺への道が繋がり、天下のあらゆる食べ物が食べられますよ……そう言われた湯王は、どうしてもそれが食べたくなり、ついに兵を挙げたと言う……
ザビエルも宮廷料理人としてメキメキ頭角を現すと、ロンバルディア方伯に見出され、以来三代に渡って料理長を務め、国政にも参与するようになった。その一環として、今回、こうしてお忍びでリディアの国情を探りに来たわけである。
さて、そんなザビエルは国政に携わるようになると、一つの疑問が生じた。かつて自分を殺そうとした米は毒であると国中で触れ回っているくせに、その出来事以来、国ではあちこちに棚田が設けられ、そこで上がる収穫でもって酒や保存食を作る技術が広まっていたのである。
「後で知った話ですが、コメ自体も家畜の飼料として利用され、アスタクスとの取引に使われていたようです。しかし、これはおかしいでしょう。人間と家畜は違いますが、大抵の場合、同じ毒を食べたら同じように死ぬはずです。それに味噌や酒などは、発酵して毒が変質しているからだと言うのですが、それも都合が良すぎる。そして私はついに、貧しい農村の一部では、普通に米を食べる者が居ることを知ったのです」
ザビエルはそう言うと、じっと目を瞑ってから、
「つまり、米自体は毒では無かったのですね。それを知った私は、今度は勇者様の鍋に誰かが毒を盛ったのではと考え始めた。彼は方々で恨まれていましたから、その可能性は否定出来ない。ですが、それも違いました、彼はそんなこと先刻承知で警戒を怠らなかったそうですから、あの時、毒物を入れるために近づいた者は居なかった。それじゃあ、何故私たちはあんなに苦しみ悶え、多くの子供達が死んでいったのでしょうか……」
彼は目を開けると、じっと但馬の目を見ていった。
「あなたはその理由がわかりますか」
但馬は何度も頷いた。
「恐らくは……」
彼らが見舞われた現象は、リフィーディング症候群である。
鳥取の飢え殺しという言葉を聞いたことがあるだろうか。羽柴秀吉が鳥取城に篭もる吉川経家を籠城戦で破った出来事である。秀吉は経家の篭もる鳥取城の周囲の村々を襲うと、村人が鳥取城に逃げ込むように追い立てた。鳥取城を守る吉川経家はこれを見捨てられず、兵糧が不足することを分かっていても受け入れる。
その結果、当初は半年は持つはずの兵糧が一ヶ月で尽き、城は飢餓に見舞われた。しかし、秀吉は降伏しようとする人を許さず、飛び出してくる人を無情にも撃ち殺した。そのせいで誰も逃げ出すことも出来ず、撃たれて死ぬか、飢えて死ぬかの二択に迫られ、城内は地獄絵図と化した。記録ではこの際に人肉食が行われたと言われており、その凄惨さが窺える。
この逸話には更に悲惨な落ちがあり、結局、城を守る吉川経家の切腹により、鳥取城は開城を許されるのだが……フラフラになって出てきた城兵に飯が振る舞われると、あまりの空腹にそれを貪り食った城兵の半分が、胃痙攣などを起こして死んでしまったのだと言う。以来、秀吉軍の兵法には、籠城後の兵士に飯を急に食べさせるなという注意書きが増えたと言われている。
この事実が示す通り、極端な飢餓状態に置かれた人間が主に炭水化物を取ろうとすると、体が消化吸収についていけず、その正常な消化活動によって身体に失調を起こし、死に至る。
人間は炭水化物を取り込むと、肝臓がインスリンを分泌し、グリコーゲンと言う物質に変化させて、エネルギー源として蓄積する。肝臓はそれを一日かけて消化吸収するわけだが、食べ物がなくてグリコーゲンが欠乏するとどうなるのだろうか? 今度は体に蓄えていたタンパク質や脂肪分を、肝臓はケトン体と呼ばれる物質に変えてエネルギーにするのだ。
人間は飢餓状態に陥るとこのようにしてタンパク質や脂肪分を変化させて環境に適応し、理論上では40日間もの生存が可能であるとされている。だが実際にはそんなに生きながらえる人間は居ないということを、誰もが経験上知っているだろう。
と言うのも、飢餓状態で欠乏するのは何も炭水化物だけではなくて、他のビタミンやミネラルだって不足する。特にリンの欠乏はエネルギー生産の低下に直結するので、飢餓状態が続くと、やがてケトン体が無くなる前に他の栄養欠乏症で死に至る。
さて、そんな状態に置かれた人間が、突然炭水化物を摂取したらどうなるか。
体内に入ってきた炭水化物はいつものように肝臓に運ばれ、インスリン分泌によりグリコーゲンに変化させようとする。ところが、この際に大量のリンを消費するので、極端なリン欠乏症が起こるのだ。
同時に、食べ物が入ってきたことで体が正常な消化活動を開始し、リン、カリウム、マグネシウムなどのミネラルが体内を移動し始めるが、長い飢餓状態のためにビタミンやミネラルが不足しているから、正常に活動することが出来ず、様々な栄養欠乏症を同時併発する。その結果、あっと言う間に手の施しようが無くなり、絶命してしまう。
極端な飢餓状態に陥った人には、まずはビタミンやミネラルを注射し、それからゆっくりと食べ慣らしていかなくてはならないというわけだ。因みに、この現象が世に知られるようになったのは、近年、過剰なダイエットにより、謎の栄養失調症を起こす人間が出てきたことによるものだと言うから、何とも救われない気持ちになる。
「つまり、勇者は本当にザビエルさん達を助けようとして来たんだと思いますよ。でも、彼はここまでみんなが弱ってるとは気づかなかった」
「はい……私もそう思います。私はこの経験があって、大陸中の孤児たちを見舞う機会が増えました。そんな中には、かつての私のように飢餓に見舞われてる子供もおり、伝聞では謎の死を遂げる者もいたのですよ」
そこで彼は勇者のせいにされていたかつての出来事も調べるようになったらしい。ウルフに寄付金を出させるほどのしつこさで、彼が過去を調べあげたところ、どうやら勇者勢力がこれ以上大きくなることを嫌った、中央の貴族連中の影が見え隠れしていたそうである。ザビエルはそんな彼らに利用されていたのだ。
水田による稲作や味噌、酒のような発酵食品を勧めたのも、やはり勇者のようだった。彼はロンバルディアの土地や乏しい食糧資源を見て、恐らく水田による稲作が向いているだろうと考え、かの地にそれを広めたようだ。山がちなせいで土地が狭い代わりに、山から流れるミネラル豊富な河川により、水田であれば肥料のことを考えずにすむからだ。
酒や味噌は保存が効くし、上手くすれば隣国との交易にも使える。問題は、それが毒だと言う噂が立ってしまったお陰で、食料としては余り普及しなかったことであるが、それも彼がよく考えた上でそうしたことなのだろう。
ザビエルが言った。
「アナスタシア様に言ったことは本当です。私は、世のため、人のために貢献した方は例外なく表彰されるべきだと思っています。勇者様も戦争を起こしたという負い目があったのでしょうが、その後、我が国は以前のような略奪を生業とした生活を脱し、変わろうとしています。それは間違いなく勇者様のお陰でしょうから、時間はかかっても、少しずつ我が国の人々にも知って行ってもらいたいのです」
「なるほど……」
「しかし、勇者様はどうして自分のせいでないのに、一言も反論すること無く去っていったのでしょうか。彼が間違いを正していれば、誤解を招くこともなく、その後の展開もまた違ったでしょうに……」
「それを証明するには、また誰かを飢えさせねばならなかったからじゃないですかね」
リフィーディング症候群は、意外にもつい最近まで知られて居なかった現象だ。古今東西、飢えによるこのような悲劇は枚挙に暇がなかったろうが、改めて飢餓についてまともに研究した者が居なかったのは、不思議な話である。
だがまあ、恐らくは、人間がそこまで飢えるような状態を放っておいて、研究もくそもなかったからだろう。
「そんなことするくらいなら、自分が悪いってことにしといた方が良いじゃないですか」
「……ままならないものですな。本当は良い行いをした人が、名乗り出れないなんてことは」
ピューッと風が吹き抜けた。麓は夏だが、ここは秋の空気である。仔馬が一頭、埒を飛び越え逃げ出したらしく、ピョンピョン飛び跳ねながら但馬たちの方へとやって来た。その無垢な目がじっと但馬を見つめていた。
「今更、あなたが何者かとは問いません。ですが、エトルリアにおいて、その名で活動するには色々なリスクが付き物です」
「はい」
「勇者様は晩年、国を興しましたが、それまでは流浪の生活を送っておりました。故に、実は彼はセレスティアやリディアよりも、ずっとエトルリアに因縁が深い。彼を支援したものも、彼を憎むものも、あちらの大陸のほうが多いでしょう」
言われてみれば、確かにそうだろう。奴隷解放を行っていたのは全部エトルリアでの出来事だったのだし、リーゼロッテを預けたくらいだから、皇国の中央にも顔が利くようだ……
「あなたが現れてから、その界隈がにわかに騒がしくなりました。もしかしたら、私の他にも接触を図る者や、何か陰謀が動き出すかも知れません。国政に携わる身であるならば、あなた個人の失敗が、国の一大事になりえます故。ゆめゆめお忘れなきように」
そう言うとザビエルは聖職者らしく、ロザリオを握って十字を切った。それからわざとらしくため息を吐くと……
「それにしても、これから国に帰ろうにも、とんでもなく時間がかかります故。一番搾りの季節には間に合いませんなあ」
「そういや、酒作ってるんですっけ……」
かつて飲んだ日本酒の美味さが脳裏を過る。この間食べた料理も日本酒があればもっと楽しくやれただろう。但馬はジュルジュルとよだれを啜った。
「ハリチ港から一直線に向かえば、1週間もかからないですよ」
「まったく、国交がないことが悔やまれますなあ……」
「沖に停泊させて、小舟でこっそり密入国するのはどうですか? ザビエルさんなら見つかっても顔パスでしょう?」
「ふーむ……タダですか?」
「タダです」
「……実は、頂いたお給金で買いだめた鰹節が大量にありまして、どうやって持ち帰ろうか困っていたところです。一緒に乗せてって貰えませんか」
「それくらいお安い御用です、他にも色々乗せましょう。そうだ! ハチミツもあるから、これも乗せて、梅干しを作りましょう。きっとロンバルディアの人なら気に入ってくれると思いますよ」
「梅干しですか? それでしたら、既に我が国にございますよ」
「マジで!? 梅酒は? 梅酒!」
そんな具合に、海を挟んだ隣国の首脳同士は、いつの間にか密輸の算段を喜々として語り合っていた。同じ鍋を囲めば皆兄弟というが、遠巻きにそれを見ていたエリオスからは、まるで旧知の悪友の再会のように見えたという。
納豆の糸が結んだ縁であるのだから、これも臭い仲と言うのだろうか。