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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第五章
161/398

孤独のグルメ⑩

 絶対に美味い納豆料理……そう言って但馬が出してきたのは、ついさっきみんなが食べたばかりの料理長の料理そのままだった。


 見た目には、変わったところは何もなく、せいぜい盛り付けが素人のそれであるのと、温めなおしていることで湯気が立ち上っているくらいのものだ。付け合せに納豆が出てくるというわけでもなく、したがってあの独特の臭いも全く無い。


 唖然として何も言わずに見守っていた料理長は、はっと我に返ると文句をつけた。そりゃあ、自分の料理をそのまま但馬の料理として出されたら溜まったものじゃない。


「やいやいやい、てめえ、一体どういう了見だい! こいつぁどいつもこいつも、俺が作った料理そのまんまじゃあねえか」


 料理長が文句を言う。これにはメイドもザビエルも同じことを思ったのか、口にはしないが眉を顰めて非難がましい目をしていた。しかし、但馬はそんな彼らの不信の目などどこ吹く風で、鼻歌交じりに料理を並べた。


 美食家は、そんな但馬の行動を窘めるつもりで言った。


「これは奇怪な……さてはオーナー、貴公は負けを認めるのが嫌で、料理長の作った同じ料理を出し、引き分けを認めさせようとしているのではあるまいか!?」

「まったくでいっ! 大体、おめえさんは俺らに美味しい納豆料理を食べさせると言って無かったか? 見たとこどこにも、あのくっさい納豆は見当たらないじゃねえか! おめえさん、やっぱり誰でも美味しく食べられる納豆料理なんか作れなくって、勝負を投げたんじゃねえか?」


 但馬はぎゃあすか文句を垂れる二人に対し、面倒くさそうに言い放った。


「そのどちらでもないよ。俺は確実に勝てる料理を作ってきた。そして、この料理には納豆がちゃんと使われている」

「なんだって!?」

「引き分け狙いなんてセコいことは、これっぽっちも考えちゃ居ないさ。大体、俺は絶対に美味い料理って言ったんだから、さっきの料理よりも美味しく無ければ負けだろ? いいからガタガタ言わずに食ってみろよ。一口でも食べてみたら分かるはずだ。確実にみんなこっちの方が美味いと言わざるを得ないってことがな」


 但馬は挑発や批判に怒るでもなく淡々と言った。その言葉は自信に満ち溢れていたが、なんだか回りくどくて不安に思った料理長は彼に尋ねた。


「妙に奥歯に物が挟まったような物言いだな。双方を食べ比べた審査員が、こっちの方が絶対に美味いって言わないかぎりは、俺の勝ちでいいんだな?」

「ああ、いいよ」

「おめえさん、まさか、買収してるんじゃねえだろうな」

「疑り深いなあ……しねえよ、そんなこと」

「……だったら文句ないが。しかしオーナーさんよ。こりゃあどう見ても同じ物だろう? 一体何を考えてやがる」

「食べてみりゃ分かるさ。さ、話はまとまった。料理が冷めないうちに審査員の人たちは召し上がれ」


 リーゼロッテ、ザビエル、美食家の三人は顔を見合わせた。今のやりとりを見ていても、但馬には明らかに自信の程が窺える。


 なんか怪しい、怪しすぎるぞ。もしかして変なものでも入れてるんじゃないか……と鼻をクンクン鳴らしてみるが、そこにあるのは先程食べたばかりの香ばしい料理の数々でしかなかった。


 美食家は、一体但馬が何をやろうとしてるのか見当もつかず、とにかく警戒しながらも、目についた料理から口に運んだ……しかし、そんな彼の警戒とは裏腹に、そこにあるのは予想通りと言うか、何というか……


「ううむ……やはり、同じ料理ではないか」


 ついさっき食べたものと同じであった。間違いない。何しろ、今食べたばかりなのだから。これは間違いなく同じものであると美食家は確信した。何故、こんなことをするのか分からず首を捻っていると……


「本当に?」

「むむん?」

「本当に同じ料理か? ちゃんと味わって食べてみろよ」

「しかし……どう考えても同じでは……」

「舌には自信があるんだろ?」


 そう言われては是非もなし。食通を名乗る以上、味の違いには敏感である。やすい挑発を受けるわけではないが、そうまで言うのならば、これらの料理がまったく同じ味であると証明してやろうと、美食家は二口、三口と食べ始め……そして違和感に気づいた。


 おかしい……確かにこれは料理長がさっき作って出してきたものに違いないのだが、どことなく味が違う気がする……


 見た目は全く同じだ。そして基本的な味付けも変わりない。全く一緒と言ってもいいくらいである。


 だが……明らかに先ほどの料理とこれは何かが違う。何がどう違うとは名状しがたい。例えるなら、そう……


「美味い……」


 のである。


 ニヤリと勝ち誇る但馬のドヤ顔が憎たらしい。だが、


「我は食通……美食家である。その我であるからこそ認めざるを得ない。この料理は……美味い。確かに美味い。先ほど食べたばかりなのだから、当然その美味さは知っている……だが、それとこれとはまた別物なのである。明らかにこちらの方が美味いのだ!」

「なんだって!?」


 言われた料理長が目を白黒させて慌てて彼の料理に手を伸ばした。普通、そんなことをされたら怒りそうなものだが、美食家も頭を抱えているせいか嫌がらない。


 料理長は、さっきよりも美味いと言われた自分の料理を、むしゃむしゃと咀嚼すると……初めは美食家と同じように、


「なんでえ、おどかしやがる。やっぱり同じじゃねえか」


 と言っていたが、それが二口、三口と進んでいくと……次第に無口になっていった。間違いない。これは、さっき料理長が自分で作ったもののはずである。味付けには覚えがある、何しろ自分で作ったものなのだから。


 だが……じっくり味わえば味わうほど分かってしまう。これは自分の作った料理とは違う、自分には真似できない旨味が食材から引き出されており……


 明らかにこっちの方が美味いのだ!


 この事実は他の審査員たちも共通のようで、一緒に同じものを食べていたザビエルも、リーゼロッテも、しきりに首を傾げながら全ての皿に手を付けては、また首を傾げていた。さっき同じものを食べたはずなのに、明らかにこちらの方が美味い。どうしてこんなに美味いんだ? 狐につままれたような気分だ。


「同じもののようで同じでない……何やら工夫が施されているのは分かりますが、これは一体」


 ザビエルがスープを口に運びながら言った。隣ではメイドがコクコクと頷きながら、あちこちの皿に一心不乱に箸を伸ばして、一口食べてはパアッと晴れやかに恍惚の表情を浮かべるのだった。


 本当に美味そうに食べるなと感心しつつ、


「リーゼロッテさん、これも食べてみて。みんなも良かったら。恐らく、カツオで出汁を取ったこれが一番違いが分かるはずだ……」


 但馬がそう言うと、マイケルが茶碗を乗せたお盆を運んできた。中央には湯気の立つだし汁の急須と、具材の盛られた皿が置かれており、その中には料理長が用意したマグロの竜田揚げや山菜の天ぷら、昆布の漬物などが、もはや隠すつもりもないといった感じにそのまま入っていた。これらを好きにご飯にのせて、だし汁をかけて食べなさいということである。


 リーゼロッテは差し出された茶碗を引ったくるように手に取ると、具材を上品に盛り付けて、最後にネギを散らした。


「出汁を入れたら食べる前に少しかき混ぜてね?」


 と言われた通り、彼女がお茶漬けをほんのすこしかき混ぜると、だし汁と具材の合わさった香りが辺り一杯に立ち込めて、得も言われぬ風味が漂ってくるのだった。それに食欲を刺激された美食家達が、我も我もと茶碗に具材を持っている中で、彼女はジュクジュクになった竜田揚げの衣に箸を突き立てそれを2つに割ると、大海原を想起させる潮の香りと、山菜のみずみずしくも芳醇な香りと共に、パクリと口の中へ放り込んだ。


 途端に口の中に広がる味の春風に、お花畑の花がパッと咲き誇るかのように、彼女の表情はとろけにとろけた。そして、みんなが彼女を見守っていることに気づくと、咀嚼する口元を隠しながらほっこりと会釈をし、また茶碗に口をつけてはニコニコと笑い、美味い美味いと呟いた。まるで夢を見ている少女のようなその可愛らしいふるまいに、その場に居た誰もが見惚れて思わず箸を止めるくらいである。


 美食家はハッと我に返ると、取り落としそうになっていた箸をしっかと握りしめ、彼女同様にかるくお茶漬けをかき混ぜた後、立ち上る香りを首をぶんぶん振リ回す勢いで堪能してから、いざ気合いをつけて茶漬けを掻っ込んだ。


 口の中でバチバチと様々な味がはじけ飛ぶようである。そしてそれを飲み込むと、美食家はまるで電気に打たれたかのような衝撃に全身を貫かれ、思わず叫ぶのであった。


「美味いいいいいいいーーーーー!!!!!」


 そして彼は背景に日本海っぽい絵を背負うと、


「我は思う……先ほど、料理長が出してきた料理は申し分の無い美味さであった。山海の滋味をふんだんに用いて、様々な料理法で目で鼻で舌で楽しませてくれた。どの料理も新鮮な食材の特徴をよく捉えて、決してそれそのものの持つ美味さを邪魔しないように工夫が施されていた。言うなればそう、自然を食う。自然そのものに抱かれながら、生命のみずみずしい活力を取り入れている、そんな気持ちにさせる実にあっぱれな料理であった。


 しかし……それと全く同じはずなのに、目の前にあるこの料理の数々は明らかに以前よりも複雑な風味を兼ね備えている。トロトロに溶けたスープの中には食材のもつ完全なうま味が凝縮し、一つ口に入れれば、舌に喉に胃に染みこむように馴染んでいく。体の奥底からメラメラと情念の炎が湧き上がり、食と呼ばれる本能を刺激するのである。もっと食え、もっと食えと。


 この違いは何だろう!? 例えるならそう、ワインのようだ! 料理長のものはまだ出来たばかりで、それは瑞々しくて爽やかであるが、若い。対するオーナーのものは、何年も熟成した重厚な旨味と渋みが味を強烈に引き立てているのである」

「なげーっての。要するに俺のほうが美味かったってことでいいんだな?」

「む……むぅ……我は美食家。故に味に嘘はつけん」


 認めたくないと言った感じにぷいっと横を向いたが、結果は言うまでもないのだろう。但馬は苦笑しながらリーゼロッテに目を向けると、彼女は茶碗にくっつけた口を離さずに、コクコクと首だけで同意した。


「ふーむ……不思議なものですなあ」


 ザビエルは厳かに言った。


「但馬殿の出した料理は、間違いなく料理長のものでしょう。しかし、その味には明らかな開きがある。きっと何かを加えているのでしょうが……それが何やら分かりません。砂糖なのか塩なのか、甘いような塩っぱいような、そのどちらでもないような。一言で言うのならば、そう……美味い」

「まあ、そうでしょうね。人によっては千差万別のようですし……それで、料理対決の方は俺の勝ちでいいんですかね」

「私は異存ないかと」


 その言葉が引き金となって、他の二人の審査員もコクコクとうなずいた。リーゼロッテは取り敢えず美味いものが食えれば良いと言った感じで、美食家の方は若干悔しそうではあるが認めざるをえない感じである。


 対して、料理長の方は納得がいかないようで、


「やいやいやい! 黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! 大体、この勝負はおかしいだろう? 料理対決のはずなのに、どっちも作ったのは俺じゃねえか。それに、確かオーナーは美味い納豆料理を作ると言ってた。こいつのどこにあれがあるってんだ」

「言われてみればそうですな……美味い料理に目が行って、つい忘れていました。但馬殿が初めに確認したルールでも、ご自身は納豆を用いるとはっきりおっしゃっていましたし……但馬殿、これでは片手落ちですぞ?」


 しかし、但馬は自信満々に首を振った。


「いいや、納豆はちゃんと使ってるぜ。っていうか、あんたたちはさっきからずっと、知らず知らずのうちに納豆の成分を食べ続けている……」

「な、なにィ!?」


 但馬がそう言うと美食家は、え? あのくっさい納豆食っちゃってたの? と言わんばかりに露骨に顔をしかめた。失礼なやつである。


「ザビエルさんが言った通り、実はこれは料理長が作ったものに、あるものを加えたものなんだ。だから最初はみんな同じものだと非難をした。ところが、みんなが食べて実感した通り、ほんのちょっぴりそれを加えただけで、料理は劇的に美味くなる」


 同じものを食べていても、それのある無しで劇的に味が変わるから、勝負事に持ちこんでしまえば、但馬は絶対に負けるはずがないと自信満々だったわけである。


「……それが、これだ」


 但馬は懐から一つの瓶を取り出した。それは一見してただの瓶であり、中には砂糖のような、塩のような、白くてちょっと茶褐色がかった粉が入っていた。一振りするだけで劇的に味が変わるなんて……まさか、麻薬!? と、みんなが恐々とする中で、但馬は言うのであった。


「これは納豆のネバネバをアルコールに溶かし、濃塩酸で加水分解した塩酸塩を、水酸化ナトリウムを使って中和洗浄し結晶化した物。納豆のうま味成分そのものを抽出し凝縮した、グルタミン酸のナトリウム塩」


 その瞬間、優雅にお茶漬けを食べていたリーゼロッテがブーッとごはん粒を吹き出した。


「その名もずばり化学調味料(あじのもと)だ!」


 説明しよう。グルタミン酸とは魔法の白い粉……もとい、人間の味覚のうちの一つ、うま味を感じる物質のことである。


 世界中でお馴染みの化学調味料『味の素』は、そのナトリウム塩、グルタミン酸ナトリウムのことなのだ。


 以前述べた通り、人間の味覚には甘味、塩味、酸味、苦味、うま味が存在し、それを口の中にある味蕾によって判別し、我々は食べ物の美味い不味いを感じている。


 ところで、これら5つの内、果たして全ての味を想像することが出来る人間は居るだろうか? 恐らく、誰もが甘味、塩味、酸味、苦味の4つは想像できても、うま味とはなんぞやと、うまく表現できないはずである。


 と言うのも、うま味自体に味はない。実際に味の素を買ってきて、その白い粉をペロッと舐めてみればわかるが、甘いんだか塩っぱいんだか人によっては千差万別、正解と呼べる味が存在しない。


 うま味物質はタンパク質や核酸に富んだ物質に多く含まれるそうで、うま味を感じる味蕾は、どうやらタンパク質を発見する探知機能のような役割を担っているらしい。従って、このうま味という成分は、それ単体では味として感じられないもののようである。


 これが何故『うま味』と呼ばれるようになったか、的確に理解できるのは味噌汁を作ったときだろう。実際に試してみればわかるが、出汁を入れずにお湯で溶いただけの味噌汁は、不味くて飲めたものじゃない。ところが、そんな味噌汁に味の素をパラパラと入れると、濃厚な味わいの美味しい味噌汁に早変わりする。


 うま味成分は、どうやら他の味を強力に引き立てる機能があるようだ。


 世界で初めてそのうま味成分を発見した日本の化学者、池田菊苗(きくなえ)は、この味噌汁などに使われる出汁に着目した。


 妻の買い物だったり幼少期からの疑問だったり諸説あるようだが、京都で生まれ育った池田少年は幼少期より昆布だしに慣れ親しんでいたお陰で、ある時、夕食の湯豆腐に出された昆布だしのうま味に疑問をもった。


 昆布だしは繊細な味でそれ単体だと気づきにくい。だが確かに存在し、他の食材と混ざると濃厚な味わいが生じて、味に関する何かが明らかに刺激されている。一体、これは何なのだろうか。


 池田は甘味、塩味、酸味、苦味の4つの基本味以外の味成分を『うま味』と名付け、この単離研究に着手した。そして、昆布のうま味成分であるグルタミン酸ナトリウムを発見し、それを抽出する方法を編み出し特許を取ったのだ。


 しかし、日本のように出汁を取る伝統的な文化がない欧米人には、このうま味成分と言うものは理解されず、彼の特許は初めはまったく相手にされなかった。ところが日本人は分かるから、それを鈴木製薬所(現味の素株式会社)が工業化し売り出したところ、後は知っての通り、世界に冠するベストセラーとなったのである。


 だが、先に述べた通り、殆どの人にとって『うま味』とは他の4味と違って表現の出来る味ではない。特に出汁を取る文化のない欧米人からは、長らく彼の言う『うま味』は理解されず、また世界的な大ヒットに対するやっかみや、化学的なその製造方法からも、これは毒物や発がん物質ではないかと、根も葉もない噂を立てられた。(と言うわけで、化学的な手法を嫌った現在の味の素は、サトウキビから醸造して作られるそうだ)


 それが覆ったのはまさに近年のことであり、21世紀にはいってようやく科学の進歩から、人間の味覚にはグルタミン酸受容体があることが判明し、以来、第五の味覚として定着することになったのだ。因みに、殆ど研究されなかったせいで、うま味に関する英語訳がなく、英語圏でも『UMAMI』として定着している。


「まあ、実際に舌で感じ取ってるわけだから、慣れてくると味があるんだけどね……表現が出来ないせいで誤解がされやすい。因みに俺は、昆布のうま味を甘く感じるんだけど、塩味が強いと言う人も居るだろう。実際はそのどちらでもなく、多分『快い』が正しい表現なんじゃないか」

「快いですか……? 味にそのような表現はありませんが」

「無いから仕方なくそう表現してるだけだけどね。


 実際のところ、味覚って何なんだろう。正直、これは主観的なものだから、他人の感じてる感覚については想像するしかない。同じものを食べていても好き嫌いがあるように、もしかしたら誰も彼もが同じように感じてるとは言い切れないだろう。


 ただ、そんな中で確実に言えることは、味覚ってのは、それが体にとって良いものか悪いものかを判断する、探知機能ってところだろうか。


 舌が塩味を感じると、塩分が入ってくるぞと体が身構え、甘味を感じると、エネルギーが来たぞと脳みそが喜ぶ。リンゴやレモンの酸味が酸っぱくても美味しく感じられるのは、呼吸による代謝に重要な成分だからだろう。苦いものが舌の上を通過したら、毒じゃないかと大騒ぎになり胃痙攣が起きそうになるが、以前食べたことのある栄養価の高いものであれば、記憶が拒絶反応を中和して美味しく食べられるって感じだ。


 体に良いものは美味いんだ。そう考えるとグルタミン酸の正体も分かってきて、実はこれは脳内神経伝達物質であり、また、同じくうま味と呼ばれる呈味性ヌクレオチドと結合してタンパク質の代謝を助けることが分かった。要するに考えたり、消化するのに役立ったり物質なもんだから、驚いたことにグルタミン酸受容体は舌だけでなく、胃の中にまで存在するんだ。


 俺がうま味は快いと言ったのはそのことで、消化を助ける物質が入ってきたぞということが脳に伝わると、脳は神経伝達物質を放出して体中に知らせるわけだ、『快い』と。つまり味蕾、味覚受容体ってのはそれが反応する物質を受け取って、脳が『快い』という状態を作り出すセンサーなわけで、味も一種の『快』情報であると判断できるだろう。


 こういった受容体はまだまだ他にも存在するかも知れない。


 例えば、今日食べたお茶漬けのおコゲも、実はこれは焦げてるわけではなくって、加熱によりメイラード反応というものが起こり、それによって茶褐色に変色しているだけなんだ。それが同じ加熱による炭化現象と色が似ているから勘違いされやすい。でも、実際に食べてみればわかるけど、この反応が起こった食品は間違いなく美味い。美味いって感じるってことは、もしかしたらどこかに受容体があるのかも知れないだろう?


 メイラード反応と言えば、例えば玉葱やにんにくなんかをフライパンでじっくり炒め続けると、やがて茶褐色になっていくが、こうしておいてから作ったスープやカレーは明らかに美味い。


 美味いカレーってのは出汁が効くのと同様に、全ての香辛料のうま味がそれによって引き出されて、一口入れた瞬間ブワーッと口の中いっぱいに香りが広がっていくんだけど、大抵、不味いカレーってのはこれが足りなくて乾いていると言うか、ガッカリな風味なんだよね……」

「社長……社長……社長!!!」

「カレーを作るときはもっと大胆に玉葱を炒めるべきなんだ。それこそ焦げてるんじゃないかってくらいに。でも本当に焦がしてしまうとその味でカレー全体が台無しになるから、そうならないように慎重に弱火で、時折鍋底に焦げ付かないように水を混ぜたりして十分に加熱していく。そうすれば誰にだって飴色の玉ねぎペーストが作れ、それで作ったカレーは得も言われぬ美味となる……


 ああ、カレー……ポークカレー、ビーフカレー、シーフードカレー。そう言えば納豆カレーも美味かったなあ……おっと、いかんいかん、よだれが。グリーンピースの乗ったライスカレーなんてのもいいな、片栗粉で無理矢理とろみをつけた、あのチープな味も捨てがたい。今度はカレーを作るか。ターメリック、クミンは見たことあるし、胡椒とチリペッパーもあったよな。後は細かい香辛料を足していって……」

「社長……おい、社長!」


 ……などとぽわぽわ記憶をたどっていたら、いきなりエリオスに耳元で怒鳴られた。


「わっ! なに!?」

「なにじゃない……周りをよく見ろ」


 言われて但馬が辺りを見回してみたら……料理を食べていた審査員達が、みんなぐったりとしていた。腹一杯でもう何も食べられないという感じ……だけではなく、もっと別の倦怠感を醸し出している。


 わあ、なんかいやな空気だなと思っていると、


「あのですね、社長……」


 リーゼロッテは、はぁ~……っと長い長い溜息を吐いてから、


「長い!」


 さっきまでまるで生まれたての子鹿のような綺麗な目をしてご飯を食べていたはずなのに、今は鬼女のように顔にシワを寄せて陰影を作りながら言い放った。ザビエル、料理長、美食家も実に気だるそうだ。


「なんて言いましょうか、社長のお話は大変興味深いのですが……非常に回りくどいかと。美味しい食事を取りながら聞くものではありませんよ。もう少し気楽に聞ける話題をチョイスしてほしいものです。気づいたら話が脱線しておりますし、どこで止めればいいのかみんな分からず、グッタリしてるではございませんか」


 リーゼロッテはプンプンしながら言う。


「みんなせっかくいい気分で会食をしていたはずなのに、気がつけばこの有様でございますよ。社長の話は……そう、飯が不味くなる!」

「それだああ!!!」


 彼女がそう言うと、それまでグッタリとしていた男たちも色めきだって同意した。


「それだ! おい、オーナー、飯ってなあ、場の空気まで含めてもてなすもんなんだ」

「左様。そして美食家とは食休みに反芻する生き物なのである。せっかく美味しいものを食べていたはずなのに、塩酸だ硫酸だと言われては、今ではもうその味を思い出せない」

「社長はもっと気を配るべきです」

「大体、おめえありゃあなんだよ。料理対決なのに、おまえさんが作ったのは料理じゃねえじゃねえか、あんなに粉にしちまってよ。こんなの調理じゃなくて化学の実験だ」

「いかにも、あれを料理というのは無理であろう。貴公が出した料理のほうが美味いことは確かであったが、実際に料理を作ったのはこの料理長であるし……」

「……大負けにまけても引き分けでございますね」


 但馬はギャンと吠えた。


「そんなのずるい! 負けそうになったからって卑怯だぞ! だって、散々文句つけてたじゃん。納豆は不味い不味いって、でも本当は美味かったでしょう? その美味さについてちゃんと説明しないと君ら分かってくれなかったでしょ? これ以上ない方法で、それを示したってわけじゃん。話が長くなるのも仕方ない」

「んなこたねえーな。食った、美味い、勝った、負けた、それでいいじゃねえか。おめえさんのは回りくどくて蛇足がすぎんだよ!」

「クックックック……」


 そんな具合に但馬達がワイワイやり取りしていたら、ずっと沈黙を守っていたザビエルが、堪えきれないといった感じに吹き出した。


「ハッハッハッハ! これは愉快。なるほど、わかりました。確かにこう言う雰囲気を含めて美食ですな。心の持ち方一つで、料理は美味くも不味くもなる。今日はそれを教えられました」


 愉快そうに笑うザビエルを見て、喧々諤々のやり取りをしていた4人は毒気が抜かれたように大人しくなった。確かに彼の言うとおりだ。怒るとお腹が減るのだ。喧嘩しても始まらない。


「ザビエル様。あなたはどちらに軍配を上げますか」


 そんな彼に、リーゼロッテは尋ねた。彼女はザビエルをうがった目で見ていたが、同じ食卓を囲んだ今は、もうそんな感情はかけらもなかった。


 ザビエルは彼女にそう問われ、口を開きかけたと思ったら、しばし黙考し……それから実に申し訳無さそうに苦笑いしてから……


「いやはや、つい先程食べたばかりだと言うのに、どちらがどうかはもう忘れてしまいました。覚えているのは、双方ともに甲乙つけがたい、実に素晴らしいお味だったかと」

「そりゃそうだな、両方共俺が作ったんだ」

「それより今は、食後に一杯つけたい気分ですな」

「むふん? それは実に良い提案である。それに今日は気分が良いし、こうして食卓を囲んだのも何かの縁である。我が奢ろうではないか」

「そうだな。ワインって気分でもねえし、今日は上で採れたミードでも出そうか」

「こう言う海鮮料理に合うのはやっぱ米酒だよなあ……今度作ってみようか。酵母とかってカンディアで手に入る?」


 そんな具合に勝負はなし崩しとなり、そのまま食卓は宴会へと突入した。うまい食事と酒に囲まれ上機嫌になった但馬と料理人達の間に、もはやわだかまりはなく、美食を求めてはるばる海を渡ってきた食通も、実に満足そうな笑顔であった。


 みんなで囲む食卓は、何を食べても美味い。なんやかんや言っても結局はこれに尽きるのだろう。


************************


 その後、納豆の美味さはじわじわと普及していった。それは一度、美味いということを理解した料理人たちの間から始まり、徐々に怖いもの見たさの一般人にも広まっていった。


 何も知らずに外からやってくる人々は、糸を引く納豆を食べるハリチの人間はゲテモノ食いと蔑んだが、一度納豆の美味さを知ってしまえば、そんなのもうどうでもいいのだ。


 ハリチの海に山に街頭に、納豆をかき混ぜるぐちゃぐちゃという音が鳴り響く。納豆の力を信じて良かった。但馬はもう独りじゃない。納豆は日本が世界に誇る発酵食品なのだ。


 まあ、それはそれとして……


 結局、納豆が本当に美味かったと言うことは、但馬の味覚が狂っているわけでもなく、従ってザビエルは何一つとして嘘は言っては居なかったわけである。


 すると、かつての勇者が毒をばら撒いたというのは、とても信じられない、信じたくない事実であるが……結論から言ってしまえば、それは本当の事だった。


 一体、その昔ロンバルディアの地で何があったのだろうか? その疑問に答えたのは、ザビエルがリディアから国へと戻る前日、その張本人の口からだった。


 体に良いものは美味い。しかし、時には毒にもなりうる。それは、そんな特殊な出来事だったのである。


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[一言] 納豆許すまじby西日本人 30過ぎまで納豆食ったことなかったです それ以後も食ってないです 東夷の食い物を勝手に日本人のソウルフードにしてもらっては困りますう
[気になる点] いや、そうはならんでしょ この話はくどすぎかな
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