孤独のグルメ⑧
「このあらいを作ったのは誰だあっ!!」
どすこいどすこいと四股を踏んではピザデブがにじり寄ってきた。既に但馬とリーゼロッテが居た上に、その剣幕に驚いたエリオスたちまでもが突入してきたお陰で、厨房はあっと言う間に人口過密状態になった。
そのせいでバランスを崩した料理人達が押し合いへし合い辺りかまわず掴まると、この騒動中でも客のために料理をしていた者たちに飛び火して、厨房はさながら地獄絵図と化した。食材が飛ぶわ皿がバリバリ割られるわ、食器が転がる耳をつんざくようなけたたましい音がゴワンゴワンと襲ってきて、そして怒った料理人たちが一斉に包丁を振りかざすものだから、よもや修羅の国にでも迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。一触即発の空気である。
但馬に掴みかかろうとしていたピザデブは、彼に到達するまえにエリオスにうっちゃられると、ビチャっと汗が飛び散った。その瞬間、メイドがもの凄い勢いで飛び上がり、器用にバック宙で避難をし、それに驚いた料理人たちがまた食器や皿を取り落としては、またパリンパリンと盛大なオーケストラがあちらこちらで演奏されるのであった。
因みに、銀製の食器はともかく、ガラス製のものは全部木っ端微塵に吹き飛んだ。量産は出来ないので、結構な被害である。
おいこらピザデブ、流石に洒落にならないぞと、声にならない声を発しながら料理長がキッと睨みつけるも、
「こ……このあらいを……作ったのは誰だ」
エリオスに乱暴に床に押さえつけられ顔を青黒くさせながらも、未だに料理を取り落とすことなくキープしていたデブは再度そう言った。この状態で未だに料理をこぼさないとは……文句を言おうとしていた但馬も、その気迫にはたじろいだ。
「あ、あんたは一体……」
但馬がそう尋ねると、ピザデブは息も絶え絶え、
「我は食通! 美食家である!」
……雄山の化身か。自ら美食家であることを宣言する者など初めて見た。但馬が引きつった笑みを浮かべていると、
「その刺し身を用意したのは、お、お、俺ですが……」
するとその剣幕に押されたのか、マイケルがおずおずと進み出た。どうやら、美食家の持ってる皿を用意したのは彼らしい。と、その途端に、息も絶え絶えだった美食家が元気を取り戻し、顔を真っ赤にしながら、
「むほうぅうむむむ! 貴様ァ! 貴様は料理人失格である、即刻この厨房から出て行けええええ!!!」
などと、勝手なことをほざきやがった。
何者か知らないが、ここはおまえんちじゃないぞ……研修中であるマイケルが何か失敗をしたのだろうか? 但馬は余りの剣幕に恐れをなし、どうすべきか戸惑っていると、
「おうおうおう! お客さんよう! 美食家だかなんだか知らねえが、うちの料理に難癖つけるためにこんな真似したってえのかい?」
別の料理人が顔を真っ赤にして飛び出してきては、包丁をブンブン振り回すものだから、そんな彼らを中心にしてぽっかりと人垣に穴が空いた。押しつぶされてギュウギュウである。
「誰だ貴様は」
「俺はこのレストランの料理長だ。文句があるってんなら表ぇ~出なあ! 俺が相手してやらあ! べらんめいっ!」
「料理長だと、ならば話は早い! 貴様はこれを食べてみても、そんなことを言えるのかな!?」
「なんだとう……」
ピザデブは床に羽交い締めにされながらも懸命に腕を伸ばし、持っていた刺し身の皿を差し出した。頭に血が上っていた料理長はそれを見て、何か思い当たることがあったのだろうか、眉毛を寄せてムムムッと唸ると、刺し身を一切れつまんでペロリと食べた。
「おい、これを作ったのはおめえだな?」
そして今度は難しい顔を見せたかと思うと、突然、マイケルに向かって一段低いトーンで凄むのだった。彼はびくりと体を震わすと、思わず江戸っ子みたいに返事した。
「へ、へい。あっしでやんすが……」
「こんの、バカタレがああああああ!!!!」
「ふごむふぅああああ!」
包丁の柄でゲシッと脳天をかち割られ、マイケルがもんどり打って倒れた。料理長は尚も彼に掴みかからんばかりの勢いで腕を振り上げたが、それを他の料理人達が羽交い締めにして抑えた。
「おめえ、あれにだけは手を出すなと言ったのに、約束を破りやがったな!」
「す、すんません、親方~!」
「すまんですんだら料理人が務まるかあ! 破門だ破門! おめえは金輪際、この敷居をまたぐんじゃねえ!」
「そんなっ!? 俺はこれからどうしたらっ!」
唐突な方針転換に唖然とする。但馬ははっと気を取り直すと、一体、マイケルが何をやってしまったのかと尋ねた。
「いやいやいやいや、ちょっとちょっと、待ちなさいよ。料理長さんがここの責任者なのは分かるけど、俺がオーナーなんだから、そんな勝手されたら困るんですけど」
「いっくらオーナーの頼みでも、こいつは破門でさあ、破門」
「せめて理由を教えて下さい。あいつ、一体何やっちゃったんです?」
「うっ……それは、その……」
すると料理長は、一瞬だけぐいっと目を吊り上げて何かを言おうとしたが言葉が出ず、但馬の顔を凝視したかと思えば固まって、最後にはバツが悪そうな顔をして俯いた。そして、聞き取れない言葉を何か口の中でぶつぶつ言っている。
「それはその……ごにょごにょ……だからでえ」
「ええ? なんだって? よく聞き取れないんですが」
なんだか手を出しちゃいけないものに手を出したそうだが……思い当たるフシがなくって首をひねる以外に何も出来ない。料理人が手を出しちゃいけないものといえば、タバコか、酒か、あとはなんだろう、まさか……麻薬!?
但馬はブルブルと首を振って、まわりの料理人たちを見た。すると、彼らもバツが悪そうな顔をしてさっと顔を背ける。いよいよもって嫌な予感がする。マイケルは一体何をやってしまったんだ?
「その理由は我が言おう」
すると、床に這いつくばっていたピザデブがしゃしゃり出てきた。
「我は食通。天下の美食家としてエトルリアの大地をあまねく旅し美食の真髄を極めたもの」
「いや、名乗りとかいいから、理由があるなら、さっさと言え」
「うむ。我は美食家、あらゆる美食を求めてさすらっているうちに、この地の評判を聞き及び、最高の料理を出すとされるこのレストランにまでたどり着いた。ハリチの新鮮な海の幸は期待以上で、その中でも最高とされるこのレストラン、当然期待はいやが上にも高まろうもの……思えばリディアへ辿り着く前、フリジアのロレンツォパーラーで食したハニートーストに始まり、ローデポリスのパフェ、アイスクリーム……」
「長い! 長いから!」
「うむ。とにかくハリチへやって来た我はこのレストランで期待に胸を踊らせて最高の一品を出すようにと頼んだのである。しかし、そうして出てきたこの刺し身たるや、筆舌に尽くしがたい失態を犯していたのである。よもやこのような失態を犯すような店がこれを最高の味と言い張るとはなんたる傲慢、なんたる不遜。我は怒りに我を忘れ……」
「分かったぞ。まったく分からんということが分かったぞ。とにかく、この皿の刺身がなんかまずいのね?」
但馬は呆れ果てると、ため息混じりに彼の掲げ持つ皿をひょいと取り上げた。すると、「あっ」と料理長が声を上げ、次に料理人たちが次々と目を逸らした。なんだろうか? この嫌な感じは……
そう思いつつ、但馬は皿から刺し身を一切れつまむと、クンクンと匂いを嗅いだ。すると、
「……ん? なんか、少しアンモニア臭がするような……」
「その通り! リディア随一の新鮮魚料理と銘打っておきながら、腐った魚を出すなどとは言語道断……我は怒りに駆られ、そのままシェフを呼ぼうとした。しかし、我も美食家の端くれ。何かの間違いではないのかと、改めてこれを確かめてみたところ……これは腐っているのではなく、何か別の食品の匂いが移っているのではないか。こんなものを出すような店が、一流あってはならないのである!」
「う……確かに。でも、一体なんの匂いだろう」
但馬は改めてクンクンとその匂いを嗅いだ。すると、どうも記憶の中に引っかかっていると言うか、何だか最近よく嗅いでいるような気がしなくもない……なんだっけ、これ? と首をひねっていると、
「し……仕方なかったんや!」
マイケルがボロボロと涙を流しながら唐突に叫んだ。
「先生が……先生が、あんまりにも美味しい美味しいっていうものだから、きっと慣れれば美味しくなるんだと信じて、何度も何度もチャレンジしたんだ!」
「マイケル……まさか、おまえ……」
彼を取り巻いていた料理人達がどよめく。
「料理人に匂いがつくのはご法度。料理長にも止められていたのに、それでも先生が可哀想だと思ってこっそりと、休憩時間を使ってあのネバネバをかき混ぜては、鼻を摘んで必死に味わってみたのです……お、俺は……」
マイケルはブルブルと体をうち震わせ、
「俺は、納豆に手を出してしまったのです!」
そして号泣した。咽び泣く彼を抱きしめるように、料理長がその頭をポカリとやると、
「おまえ、あれにだけは手を出すなと言われていたのに……」
「分かってました! でも、せめて俺だけは先生の味方になってあげたくて……でも無理だった。あんなの、人間が食べるものじゃない! ちゃんと料理長の言うとおりにしておけば良かった……すみません。すみませんでしたぁ!」
「馬鹿野郎っ! あめえだけが悪いんじゃねえ。気づかなかった俺も悪いんでえ!」
二人の美しい師弟愛にその場に居た料理人達が泣き崩れた。彼らがお互いに抱き合いながら咽び泣くと、取り残されていた美食家が言った。
「むふん、むふん。どうやら貴様たちにも理由があったようである。一体、どうしてこのような事態に陥ってしまったのか、話してはもらえぬか」
「へえ……実はカクカクシカジカで、このところオーナーが納豆なるくっさい食品を持ち込んで、この場でくちゃくちゃとかき混ぜて、酷い臭いを撒き散らし……」
「なんと、それではこの男が悪いのではあるまいか。自分の店であるからと、傍若無人に振る舞い、料理人たちに苦痛を強いるなど言語道断」
「まったくでさあ」
あまりのことに放心状態であった但馬は、はっと我に返るとクラクラと目眩を堪えながら言った。
「いやいや、ちょっと待ちなさい、君たち。するってえと何かい? 全部俺のせいだと……? 俺がここに納豆を持ち込んだせいだと……?」
料理人たちは一斉に但馬から目を逸らした。それが答えのようである。
「むふん! 何やら知らぬが、その通りである。このオーナーのせいでこのような事態になっているようであるな。それにしても酷い臭いである。一体全体、その納豆なるものは何なのか」
「これでございます」
美食家が首をひねっていると、さっきまで身を隠していたリーゼロッテが、どこからとも無く納豆ご飯を持って現れた。慎ましやかな顔をしてるが、多分腹の中は面白がってるに違いない。
美食家はその糸を引く豆をまぜまぜされた白米を見るや……
「え……なにこれ、糸引いてるよ?」
それまでの尊大な態度はどこへやら、素で言った。
「くっさっ……くっさあああ!! 腐ってるよ、これ!?」
「いやいやいや、腐ってるわけじゃないからね。それに見た目だけで判断するなよ、美味しいんだから」
「美味しい!?」
すると美食家は目を丸くして驚愕の表情を見せた。
「こんな見た目明らかに腐っているものが美味しいもののわけがない。このような者がオーナーだったとは……むほほむほほ、この国のレベルが知れる」
「だから、見た目だけで判断するなって、食ってから物を言え。美食家なんだろう?」
「むぅ……そう言われると弱いのである。良いだろう、では一口だけ……ぶううぅぅぅっっ!!!!!」
そう言われた美食家は、素直に納豆ご飯を一口含むなり、ぶほっと盛大に吹き出した。辺りにごはん粒が飛び散っては、将棋倒しのように料理人たちが尻もちをつく。
ドドドドッと人波に押し寄せられながら、但馬は言った。
「てめえ! 何をする!」
「何をするとはこっちのセリフだああああああ!!! 見た目も臭いもそうなら、味も思いっきり腐っているではないかっ!!!」
「いや、もっとよく噛んで、ちゃんと味わえよ、そんなことないから」
「笑止千万! 二度も同じ手に引っかかる我ではない。これではっきりしたのである。この男はこの店のオーナーであることを利用して、料理人たちに苦痛を強いた挙句に、その彼らの作る料理を台無しにしたのである。厨房から出て行くのは、オーナーの方であったか」
「なんだとうーっ!? この味が分からないくせに、美食家を名乗る方が笑止千万だろうがッ!!」
ギリギリと奥歯を噛み締めながら但馬が尚も反抗しようとすると、見かねたエリオスに止められた。
「もうやめないか、社長……これ以上はこの職場に迷惑がかかる」
「しかしエリオスさん、納豆の美味さを分からないような奴なんかに、これ以上なめられるわけにはいかないんだ」
「そうは言っても社長……俺もあれが美味いとは全く思えんのだ」
「嫌がって食べないからだろ。慣れれば絶対に美味しいはずなんだから」
エリオスのみならず、料理長も但馬を窘めるように言った。
「オーナーさんよ。今まではあんたの立場も考えて黙っていたが……俺も美味いとは思えねえな。あんたは食ってりゃそのうち美味くなると言うが、そんなことをする以前に臭いがもうアウトだ。悪いんだけどよう、金輪際、厨房にあれを近づけねえでくんねえか?」
「え~……」
お、おかしい……美味いはずなのだが、ここまで不評だと但馬も自信がなくなってきた。
言われてみると、確かに但馬の作る納豆は臭いがきつい。かつて食べていた商品とはぜんぜん違う。もしかしたら味の方も、但馬が思ってるほど美味しくないのではなかろうか?
自分はかつての納豆の記憶があるから、その記憶が味を補完してくれてるだけで、実は自分以外の者たちが言うとおり、これは不味いか、もしくは、不味いとまでは言わないまでも美味い部類には入らないのかも知れない。
分からない……
自分は美味いような気がするのだが、ここまで否定されるとわからなくなってくる……
何かきっかけさえあれば分かりそうなものなのだが、基準がなさ過ぎて判断に困る……
孤立無援の但馬が動揺しながら周囲を見渡すと、端っこの方で騒動に巻き込まれないようにしていたのだろう、一人だけどこ吹く風で、淡々と注文を片付けていたザビエルが見えた……って言うか、料理長以下全員持ち場を離れて何やってんだ? そろそろフロアからクレームが来るぞ。
ともあれ、納豆が美味いと言い切ったのは、今のところ彼だけだ。そのザビエルは、アナスタシアにエトルリアの協会からの表彰を受けるようにと、彼女の尻を追い掛け回している。だから、もしかしたら、彼女の保護者である但馬によく見られたいと思って、美味くもないのに美味いと言ってる可能性はある。
そんな彼はこの騒動の中でも相変わらず平静を保ち、涼しい顔で包丁を振るい、味を見ては、次から次へと料理を仕上げていった。もしも味覚がおかしいのであれば、この職場から厄介払いされてるはずだ……だから多分それはないのだろう。
ならば……
「ああ、そうかいそうかい、良く分かったよ」
但馬は口を尖らせて独りごちると、フンっと鼻を鳴らした。そして料理人たちをぐるりと睨めつけると、オーナー相手に言い過ぎたかなと、今更ほんのちょっぴり後悔してるっぽい彼らに宣言した。
「あんたら美食家や料理人までもが納豆が不味いって言うのなら……俺の味覚とあんたらの味覚、どちらが正しいか白黒つけようじゃねえか」
ザビエルの味覚がおかしいのか、それともアナスタシアの言うとおり、彼が嘘を言ってるのだろうか……確かめねばなるまい。
「ただ、俺はあんたらが何が美味いって思ってるのか、基準がわからない。だから、あんたらが美味いって思うものを俺に味わわせてくれよ……そうだな、料理長さん」
「な、なんでえ!」
「まずはあんたが一番自信のある料理を作り、みんなにそれが美味いと言わせてくれ」
他にも、ザビエルは勇者が毒をばら撒いたと言っていた。
これもリーゼロッテが言うとおり、但馬を動揺させたり、注意を引こうとして言ってるのかも知れない……少なくとも、彼女は父親がそんなことをしたとは聞いてないようだし、エリオスも根も葉もない噂だと言っていた。
「そしたら、俺はそれよりも、もっと美味い料理をあんたたちに食わせてやる。そして、自分たちの味覚が全然お子ちゃまだったってことを思い知らせてやるよ」
この際だから、ザビエルが嘘つきでない証拠を、但馬自身が確かめてみようか。彼はそう考えた。
「一週間後、ここへ来てください」
それには、ここまで大不評な納豆が、美味であることを証明すればいい。
「この俺が、誰が食べても絶対に美味いと言う、究極の納豆料理ってものを味わわせてやるぜ!」
こいつらに、納豆が美味いと言わせてやるのだ。





