孤独のグルメ⑦
味噌が食えるかも知れない。その響きはもの凄い破壊力を持って但馬に襲いかかってきた。例えるなら4トントラックに押しつぶされてズタズタに引き裂かれるくらいのものである。
日本人にとって、米、味噌、醤油はソウルフードと言って過言でなく、それぞれの持つ吸引力には抗いがたい。ここは一つ、長いこと海外にでも行ってて日本食が食えなくて、その味も匂いも忘れてしまった頃に、ふと同じようなことを言われたと想像してもらいたい。そんな時、え!? 味噌食えんの? となったら、その衝撃は暴力的な威力を持って日本人の脳に突き刺さることだろう。
しかし、その条件がアナスタシアの説得というのは正直なところきつかった。何というか、年頃の女の子にお父さんと自分の洋服をどうして別々に洗濯するの? と聞くくらいきつかった。果たして、4トントラックにぺちゃんこにされるのと、娘にお父さんは汚いからと言われることと、どちらのほうが自分にとってより苦しいだろうかと考え、但馬はその想像だけで死ねるくらいの苦痛を感じた。
だから他の条件じゃ駄目かなと、但馬が日和ったところで誰が責められようものか。
「……そうですな。女の子に嫌われるのは男として嫌なものでしょう。私はもう手遅れなほど嫌われております故、気になりませんが」
「うっ……すみません」
「しかし、他の条件と申されましても、思いつくものは何もございませんし……」
「お金や商品じゃ駄目なんですかね。聞くところによると、修道院で孤児の世話をなさってるそうですし、そちらへの援助という形では」
何しろ、但馬は唸るほどの金持ちだ。もしも味噌が食えるというのなら、金に糸目をつけるつもりはない。ザビエルは孤児院経営のために、ウルフにまで資金援助を願い出たというくらい金に困ってるようだし、金で解決できるならそれほど安いものはないだろう。
だが、そんな但馬の気持ちはどうやら見透かされていたようだった。
「なるほど、良い心がけです。ですが……お気持ちは大変嬉しいのですが、孤児院への援助というものはただ金を貰えればいいと言うものではないのです……いくら莫大なお金を頂けたところで、継続的な支援が受けられなければ早晩行き詰まってしまいますし、恵まれない子供達がこれから増えるのか減るのか、先行きは誰にも分かりますまい。必要なのは、援助を必要とする子供達がいることを自覚し、そのことについて危機意識を持ち、世の中を変えようという意志を持つ人々が増えることなのですよ。私はそうした人々が増えることを願って、啓蒙活動を行っているに過ぎず、それは経営とはまた別物なのです」
そんな具合に、但馬はザビエルにやんわり窘められてしまい、己の醜さを恥じた。確かにお金があれば、一時的に多くの人が救われるだろうが、根本的な解決にはならないだろう。同じく恵まれない子供達に募金するにしても、協会大使と親善大使くらい違う。
しかしザビエルはそう言ったあと、何も飯の最中に説教することもないかと思い直したのか、パッと愛好を崩して言った。
「おっと、いやいや、私も些か意地悪が過ぎましたな。言うだけならタダのくせに、子供達に援助をしようと申し出てくださる方に失礼でした。良いでしょう。でしたら私が一筆啓上いたしますので、それを文にして国へご送付ください」
「え? いいんですか?」
「はい、その代わり、あまり期待はしないでくださいよ」
つまり、紹介はしてやるから、交渉はそっちで勝手にやれということだろう。外交筋を通した国同士の交渉も上手く行っていない中、そんな程度でも渡りをつけてくれるだけで有り難い。
但馬は感謝すると共に、ただより高いものはないという言葉を思い出して、
「ありがとうございます。俺はお金しか出せませんが、あなたの活動が実を結ぶことを願ってますよ」
と、自分は金を出すんだからねということに念を押しておいた。
「それより、ザビエルさん、ずっとこの辺で寝泊まりしてるんですか? そういやあ、この街はろくな宿泊所がないですからねえ……」
現代なら日雇いのバイトなどで食いつなぐことも出来れば、飯場なんてものもあるが、少なくとも但馬の領地にそんなものは無かった。第一、ザビエルは外国人なので、自分が作った法律のせいで、国内での活動に制限がかけられているはずだ。
それじゃさぞかし不自由してるだろうと思っていたら、
「なに、子供の頃はこんなものでした故、慣れておりますよ。いや、あの頃と比べたら、この国は夜冷えることもありませんし、危険な動物もおりません。食べられる草も沢山生えている。天国みたいなとこですな」
ザビエルはそう言って快活に笑った。実際、結構楽しんでいるようにも見受けられる。なら放っておいても良いかなと思えるのだが、えらい聖職者だろうにそれはなかろう。但馬は言った。
「なら、せめて屋根のあるところで寝てください。そうだな……そう言えば、ザビエルさん、鍋を片手に旅をしているくらいですから、料理の方は結構出来るんですか?」
「……む? ええ、包丁を使う程度でしたら」
「でしたら、港の方のレストランで調理師をしてみてはどうでしょうか。住み込みで働いている者もおりますし、外国人であっても技術者であるなら問題ないんで……そういや、納豆の美味さも分かるんですよね」
「納豆……ああ! あの糸を引く豆ですか。あれは珍味でしたな」
この国において、納豆の良し悪しが分かる人間は貴重だ。
「実は、あれを商品化しようとしてるんですが、どうにも味が分かるものが居なくて難儀してるんです。良かったら助言を頂けませんかね。俺と一緒に同じ物を食べて、それに甲乙をつけてくれるだけで良いんですが」
「ほう……あれを商品化……それは面白いですな。良いでしょう。私で良ければ力になります」
こうして但馬はザビエルを雇い入れることにした。
正直、納豆の商品化はもう無理じゃないかと半ば諦めているところだったが、彼に寝床を提供する口実もあり、もう少しばかり続けることにした。もし、味噌が手に入るなら、醤油も作れるかもしれない。やっぱり納豆といえば醤油であるし、そこまで条件が揃えばみんなも納豆の美味しさに気づいてくれるかもしれないじゃないか。
但馬の夢は膨らんだ。
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しかし、アナスタシアの怒りは有頂天だった。
「先生、どうしてあんな人の世話してるの!」
ルンルン気分で家に帰るなり怒鳴られて、但馬はシュンと萎縮した。アナスタシアは美人だから怒るととっても怖いのである。普段、多方面から怒られ慣れている但馬であってもこれには参った。
だって、味噌なんだもん……流石に食べ物に釣られたとは言えず、
「いやその……えらい神父さんにいつまでも野宿させとくわけにはいかず」
「あの人が私に嫌がらせを続けていることは知ってるでしょう? あまりにもしつこいから、今じゃ日常生活にも支障をきたしているというのに……先生があんなことするなんて、思っても見なかった」
うわ、やっぱ怒るよな……もしかして、そうなるかもとは思っていたが、
「それでも、アーニャちゃんを説得してくれって言われたけど、それは断ったんだよ?」
「……あの人、そんなことまで先生に頼んでるわけ?」
アナスタシアの瞳が怪しく光った。あ、やばい、藪蛇だと思ったが、後の祭りである。但馬はオロオロとして、なんとか話題を変えようとしたが、
「いい? 先生……あの人は最初から何か少しおかしいと思うの」
アナスタシアが粛々と説教モードにはいってしまったので、仕方なく正座して黙って頭を垂れていた。反論や言い訳をしようにも、目がつり上がって正視出来ないほど怖い顔をしているので、地面を見つめているくらいしか出来ることがない。
そんな感じでクドクドクドクドお説教を食らうこと小一時間、そろそろご飯にしようと呼びに来たリーゼロッテが、話しかけるタイミングを探ってうろちょろし始めたころ、ようやく彼女の怒りは収まってきたようで、はぁ~……っと、盛大なため息混じりに、
「それで、お仕事ってのは何をしてるの? あの人が昼間働くなら、私もその間お仕事に戻れそうなのかな……」
「ん、ああ、納豆の開発を」
「納豆……?」
アナスタシアは首を捻った。そう言えば、彼女は納豆開発の経緯を知らない。但馬が納豆菌の培養をしに研究所へ行った時に、丁度ザビエルがやってきて、彼女は突き飛ばしてプリプリ怒ってどこかに行ってしまったのだ。
カクカクシカジカと説明する。
「あの変な食べ物……姫様もエリオスさんもあり得ないって言ってたけど」
「舌の肥えていない原始人には分からない味なのです」
「……私もわからないんだけど」
但馬は目を逸らした。そんな彼の顔をじっと見つめ、アナスタシアは眉を顰めた。
「先生の言ってることが嘘だなんて思ってないよ。でも、なんか……変じゃない?」
「何が? 本当に美味しいんだよ?」
「だからそれ。あの納豆っていうのを美味しいって言ってるのって、先生とあの人だけなんでしょう? 都合が良すぎるんじゃないかな……」
まあ、確かに。怪しいと言えば怪しいかも知れないが、但馬はそうなっても不思議じゃないと考えていた。何故なら、
「あの人の故郷って味噌があるんだって。他にも外洋に面した村では、漁業もやってるようだし、魚のアラで出汁を取ったり、昆布の旨味もしってるようなんだ……だから、俺の故郷と同じような味覚を持っててもおかしくないんだよ」
「……味噌?」
「え? ……ああ、味噌ってのは」
味噌に釣られて色々と口約束をしてきたことを伏せながら但馬が説明をすると、アナスタシアは益々不信感を強めたようで、
「どうして、そんなにタイミングよく、次から次へと先生の気を引くようなものが出てくるの?」
「……え?」
「あの人は絶対におかしい。私はおかしいと思うよ」
アナスタシアはプンプンと怒りを振りまくと、自分の部屋へと帰っていった。彼女は相当不信感を募らせているようである。
実際、彼のせいでアナスタシアが日常生活に支障を来していると言うのは本当だった。元々、彼女はエリオスの下について但馬の護衛をしていたのだが、ザビエルが出没し始めてからは、彼のせいで隠密行動が出来なくなり護衛から外されていた。
代わりに、毎日職場を変えて、工場やホテルなどの見学をさせていたのだが……
そう言えば、今日は港の缶詰工場に居たはずだ。ザビエルがあら汁を作っていたところを見ると、行ったんだろうなあ……
「確かにちょっとおかしい……かな?」
味噌に釣られて修道院の援助をするとザビエルと約束を交わしたわけだが、やっぱりちょっと早まっただろうか。言われてみれば、確かに何から何まで都合が良すぎる。彼は納豆の味が分かり、魚介の旨味を引き出す術を心得ており、そして味噌を知っている……
戦災孤児のことを思うと、自分も全く関係がないわけではないから、援助自体は機会があるならやってもいいとは思う。だが、それをザビエルを通じてやることも、アナスタシアに嫌われてまでやることでもないとも思う。
「でも、彼が言うことが本当なら、味噌が食えるかも知れんと思うと……うーん」
本当に味噌はあるのか、ただ但馬の気を引こうとして彼が嘘をついてるのだろうか……但馬がアナスタシアの出て行ったドアを見つめながら悩んでいると、それを見ていたリーゼロッテが珍しく口を挟んだ。
「私も、あの男は怪しいと思います」
リーゼロッテは基本的に亜人傭兵と共にハリチに年中滞在しており、但馬が居ない間の留守番として別邸に住んでいた。
それで但馬が領地に戻ると一緒に行動をするわけだが、普段の彼女は何というか、使用人然としてると言うか、あんまり仕事に首を突っ込まないし、口も挾まない。
その彼女まで難色を示すのだから、あの神父はよっぽど嫌われてるのだなと但馬は少々驚いた。やはりハゲだからだろうか。
「………ハゲも嫌でございますが、それ以前に、あの男の言動は信用ならないかと」
「どうして?」
すると彼女はことさらにムスッとした顔をしながら言った。
「父が無辜の民を毒殺したと言う、彼の主張です。あれは信じられませんし、到底受け入れられませんから」
「ああ……」
忘れてしまいそうになるが、リーゼロッテはかつての勇者の娘なのだ。その勇者と彼女は聞くところによると、彼女の存在を世間から隠すために殆ど一緒に暮らしたことはなかったようだし、最後はエトルリア皇国に預けられてリリィと共にいたわけだが、彼女自身は意外にもそんな父親のことを尊敬しているようだった。だから、ザビエルの言う誹謗中傷が許せないのだ。
「伝聞ならば、何かの間違いで済むかも知れませんが。しかし、彼は自分こそが被害者であると言っていたそうではありませんか……そんなこと、とても信じられません。ただの中傷でこんな根も葉もない噂を流すのは、聖職者にはあるまじき行いかと」
「なるほど。しかし、根も葉もない噂ね……それはどうだろうか」
「……社長は彼が言うことが真実であると? 父はあなたと同じ人格を持っていたのですよね?」
但馬はギロリと睨まれた。彼女の言うとおり、但馬とかつての勇者は元の記憶を一つにする同一人物だ。ただ、スタート地点が同じなだけで、その後の人生は違うので、結局は別人であるわけだが、根っこの部分はそう変わりがないはずだ。彼も但馬同様、やっぱり現代人らしい道徳観や価値観を持っていたはずで、だから彼は亜人奴隷を解放しようと考えたのだろう。
但馬は亜人が奴隷として扱われていた時代を知らないからなんとも言えないが、もしも彼と同じ体験をしたら、彼のように行動しなかったとは言いきれないはずだ。いくら安っぽい正義感と言われても、勧善懲悪お涙頂戴モノを見て育ってきた現代人は、虐げられている人間を見ると目を背けたくなる。そして、もし助けられるのであれば助けたくなるのが人情だ。
だから、勇者に対する誹謗中傷に関しても、自分に置き換えて、そんなこと絶対しないよと言えるはずなのであるが……
「毒をばら撒くと言えば、ぶっちゃけ、俺も毒をばら撒いてると言えなくもないんで……頭から否定は出来ないんだ」
「……え?」
リーゼロッテは但馬の言葉にショックを受けたかのように固まった。
但馬が言っているのは公害のことだ。例えば、火力発電所では石炭を燃やして有害な煤を撒き散らしているのだが、現状は規模も小さいため、それは殆ど無対策だった。電解に使う廃液も、可能なかぎり中和しているが、それも完全ではない。メディアの金山に至っては、実は既に相当の毒物をばらまいていると言えた。貴金属精錬には、青酸ソーダが付き物なのだ。
幸い、様々な公害病の原因は知っているので、そうならないように気をつけてはいるのだが、このまま産業が発展していけば但馬のコントロールから離れて、誰か別の人が知らずに毒をばら撒いてしまう可能性だってありうる。いつまでもそのままと言うわけにもいかないかも知れないだろう。
また、毒とは人体に影響のある毒物だけとも限らない。例えば、但馬の提供するサービスは人を堕落させる可能性も持つわけだから、比喩的に言えば毒と呼べるかも知れない。そんなことまで考えてしまうと、キリがないのだ。
「勇者が何かやらかしたって可能性は否定出来ない。だから、何があったのかわからない限りは、嘘だとは言い切れないと思うんだ」
但馬がそう言うと、リーゼロッテは忌々しそうに唇を噛んだ。
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納豆、味噌、毒物問題……そんな様々な理由があって、ザビエルを港のレストランで働かせ、アナスタシアをストーキングするための場所と資金を提供しつつ、家人に嫌がられながらも但馬は彼と付き合っていた。
ザビエルは怪しい。確かに色々な前提条件を踏まえると、こんなに不審な人物は居ない。
だが、実際に付き合ってみると彼は聖職者らしい聖人君子で、これといって悪い部分が見当たらない。人格的には、かなりの好人物といえた。ただし、宗教家的な頑固さなのか、一度こうと決めたら絶対に譲らない性格のようで、それがアナスタシアにとっては悪い方に出ていた。
アナスタシアとザビエルの対立、そしてメイドの白眼視もあって、幸か不幸か期せずして間に入ってしまった但馬は、とにかく肩身が狭かった。
そんなこんなでザビエルがハリチに出没するようになってから数日……ある時、工場で鰹節の試作品が出来たというので、但馬は港へとやって来た。
漁港らしく新鮮な魚を使った料亭やレストランが立ち並ぶ一角を抜け、新しく作ったカツオの燻煙所にやってくると、従業員がニコニコとしながら出迎えてくれた。彼らはどうやら既にその出来を確かめた後のようで、その自信の程が顔に現れているようだった。
これだけ晴れやかな顔をしているのならば問題はあるまいと思いつつも、もちろん自分でもその自慢の味を確かめるためにワクワクしながら一本のカッチカッチの鰹節を受け取ると、一緒に差し出されたカンナのような削り器でシャッシャッとおろした。
本来なら出汁を取るために薄くした方がいいのだが、今は味を見るために少し肉厚に削り、香り立つ風味を感じながら口の中に放り込んでくちゃくちゃと噛み続けていると、唾液と交わったそれから得も言われぬうま味がじわ~っと滲み出して口の中いっぱいに広がった。塩のしょっぱさと熟成されたうま味がからみ合って出来る甘いような味とで、ジーンと体の奥底から活力が湧き出してくるような爽快感を感じる。
美味い……
これはただ、燻煙しただけで出せる味じゃない。間違いなく、微生物の力を借りた、発酵の織りなす技である。あとは日本酒の熱燗でもあれば最高なのだが……一緒にそれを食べに来たメイドが、但馬の隣で恍惚の表情を浮かべている。彼女もこの製法で作られたカツオの燻製の味がそれまでとは段違いであると感じているようだ。
「うーん、美味い……これだけの味が出せれば上々ですよ。みなさん、ご苦労様でした」
但馬がお礼を述べると従業員たちは照れくさそうに笑った。但馬は鰹節一本と削り器を借りると、それを持ってすぐ近くにあるザビエルがいるはずのレストランに向かうことにした。あとは納豆のことかと思ったリーゼロッテは、興味なさそうにしていたが、
「リーゼロッテさん、せっかくだから厨房借りて出汁取ってみようぜ。魚のクズ肉や海苔も貰ってお茶漬けにしよう」
「お茶漬け……?」
「ご飯に色々乗っけて、それにだし汁ぶっかけて食べるんだ……美味いぞう」
昆布だしだけでも美味しいのに、そこにこの鰹節が加わったらどうなるんだろう……但馬に言われてぽわわーっと料理を思い浮かべた彼女がジュルジュルとヨダレをすすった。ところで、お茶漬けというのに滅多なことではお茶をぶっかけないのは何故なんだろう……
「あ! 先生いらっしゃい」
ともあれ、但馬とリーゼロッテが連れ立って厨房にやって来ると、従業員たちがすぐさま狭い厨房の中に席を作って招いてくれた。従業員の中にはマイケルがいて、但馬を見つけると嬉しそうに声をかけてきた。
アナスタシアがザビエル絡みで行動を共に出来なくなってからは、彼らも但馬付きではなく、別々に他の職場で新人研修を行っていた。二人とも初めはホテルにいたのだが、マイケルは料理の方に適性があったようなので、こっちに来ている。
港に併設したレストランは流石に漁港だけあって新鮮な魚料理を出すと評判で、ここハリチであっても客が途切れない人気商店であった。街の住人はもちろん、バカンスに来た貴族も必ずここへ訪れる。
オーナーであるとはいえ、そんな人気店の厨房に邪魔しては肩身が狭いが、店に行けば行ったでまた面倒だろうからと、厚意に甘えていた。
但馬がやって来るとシェフが厨房の片隅で作業をしていたザビエルを呼んだ。初めは嫌がられていたが、数日もしないうちに馴染んだようである。やはり、彼の舌は間違いないらしく、ただのアルバイトのはずが、今ではそれなりに仕事を任されているようだった。
もういっそ就職しちゃえYO! などと冗談で言われていたが、これでもエトルリアに帰れば偉い神父さんなのである。
「おや、あなたでしたか。新作の納豆の品評会ですかな。ご飯を用意しましょう」
やってきたザビエルがそう言うと、厨房のコックたちが一斉に顔を背けた。ぶっちゃけ、料理長などは迷惑そうな顔を隠そうともしない。この店でも但馬は納豆を広めようとしたのだが、その評判は芳しくなかったのだ。
ちぇっ……っと、但馬は舌打ちすると、納豆の方ではなく、鰹節の方をテーブルの上に置いた。
「仕事中にすみませんね、味見をしてもらったらすぐに出ていきますんで。あとそれから、今日は隣で作ってた鰹節が出来上がったんで、こいつを使って出汁を取ろうかと思って」
「鰹節……ですか? ああ、あのカビの生えた燻製ですか。あれは出汁を取るための物だったのですね」
「まあね。昆布と一緒に出汁を取ると美味しいんだ」
鍋に水を入れて乾燥した昆布を投入して火を点けると、但馬は削り器で鰹節を削り初めた。今度はさっきとは違い、向こう側が透けるくらいに思いっきり薄く削ると、その匂いにつられてか、手の空いたコックたちもちょくちょく覗きにやってきた。
但馬の雇っている従業員は大抵の場合、貴族でもある但馬に遠慮して近づいてこようとしないが、この職場は違った。ブリジットの離宮でもそうだったが料理人と言うものはやはり好奇心が旺盛でないと務まらないのか、目新しい物を見ると必ずつまみ食いをしたがる。
今回もそれと同じで、鰹節の味を確かめたがるのでつまみ食いを許していたら、いつまでも必要量削り節がたまらなくて難儀した。そんな彼らであったが、納豆に関しては他の人達と同様に食べることを嫌がった。どうしたらこの人達に食べてもらえるのだろうかと頭を悩ませるが、未だにいい手は思い浮かばない。
そうしているうちに鍋が煮立ってきたので火を弱めて、沸騰しないように暫く煮込み、昆布を取り出してからおもむろに用意していた削り節を投入する。
すると……ふわ~っとした香りが厨房の中に広がっていき、その香しい匂いにその場に居たみんなが恍惚の表情を浮かべるのだった。これだよこれ、初めて嗅ぐ匂いなのに、それが美味いことがありありと分かる。それに比べて納豆は……みんなそんな顔をしていた。
投入した鰹節を十分に煮立てて火を止めると、暫くそのまま放置すべく、但馬はご飯をよそって席に戻ってきた。ここに来た理由の一つはこれで、いつでも炊きたてのご飯が手に入るというのも大きかった。
但馬はご飯をよそうと、厨房で余った食材を失敬し、適当にご飯の上に乗せてまた鰹節を削り、その上から出汁をじゅわわわ~っとかけると、新鮮な食材がくたーっとなると同時に、得も言われぬ香ばしい香りが立ち込めた。もう我慢出来ないとばかりに、ヨダレをジュルジュルさせているメイドに苦笑しながら手渡すと、彼女は嬉しそうに鼻をひくひくさせてから、箸を器用に使って一心不乱に茶碗の中身をかっこんだ。
その幸せそうな顔を見て、厨房の料理人達が羨ましそうに眺めていた。しかし、但馬はザビエルを呼ぶと、今日ここへ来る前に工房で用意しておいた納豆のサンプルを取り出した。メイドがお茶漬けを食べてる間に、自分はさっさと仕事を済ませてしまおうと、それを小皿にとってクッチャクッチャとかき混ぜた。糸を引くそれを見て、コックたちが我に返ったと言わんばかりに一斉に持ち場へと帰っていく。そんなに嫌かね、この臭い……
呼ばれたザビエルはいつもの厳かな表情で茶碗を受け取ると、手慣れた素振りで納豆をかき混ぜた。アナスタシアに言われてから、もしかして美味いふりをしてるんじゃないかと思ってよく見ていたのだが、そんな素振りは見当たらない。
まあ、あんまり人を疑っていても飯が不味くなるだけだし、それはおいおい考えていこう……と、嫌な考えを振り払うように頭をブルブル振るった。そして、お茶碗を片手にそれじゃあ納豆の試食を始めようかと、手を合わせた時だった。
「このあらいを作ったのは誰だあっ!!」
ドカンと盛大な音を当てて厨房のドアが蹴破られ、もの凄い剣幕でピザデブが乱入してきたのである。
なんじゃこりゃあ……
今まさに納豆を口に運ぼうとしていた但馬は余りの出来事にボトッとご飯を取り落とし、ぎゃあと叫ぶと、3秒ルールを適用すべきか悩みに悩んだ。
と言うか、どこの雄山だ?
あまりの出来事に唖然としながら但馬が目を向けると、ハアハアとデブ特有の汗をかきながら、プルプルと小刻みに震えるピザデブにロックオンされた。
厨房の中で、明らかにコックっぽくない但馬に用があるとは思えないのだが、逆に明らかにコックっぽくないのが問題だったのかも知れない。デブは但馬を責任者と見たのだろうか、ずんずんとその汗で透けて見える巨乳を揺らして近づいてくるのだった。
どうしよう。割りと怖い。





