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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第五章
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孤独のグルメ⑤

 ハリチ支社の最上階にある自分の工房の中で、但馬はぼんやりと考え事をしていた。乱雑に物や書類が積まれた机の上には、ここ最近研究中の納豆菌を培養したシャーレがいくつも置かれており、その一つ一つに番号を振って、一番美味い納豆を作る菌を決めるつもりだった。


 納豆制作は、その需要はともかくとして、かなり順調に進んでいた。


 納豆自体をもう何度も作っていたから慣れていたのもある。更に人を使って温度管理を徹底し、稲わらも思い切って強く煮立てて、そうしたらかなり出来の良い納豆がチラホラと出てきた。そうして出来た美味い納豆菌の培養は、研究員たちの練習になるからか、思ったよりも好意的に受け止められており、お願いすると喜んでやってくれたので、但馬がやるよりも良いのでそうしていた。ただ、味を確かめるためにパクパクと納豆を食べ始めると、みんな居なくなる。


 見慣れてきたエリオスは、見てるだけなら文句も言わなくなったが、一緒に食べようとまではせず、このままではせっかく作っても商品にはなりそうもないし、但馬一人の嗜好品にそこまで力を入れるのもどうかと思うので、このまま開発を続けるべきか悩みどころであった。


 嗅覚(きゅうかく)味覚(みかく)の神経伝達はプロセスが非常に似ている。嗅覚なら鼻に、味覚なら主に舌の上に、共に受容体と呼ばれる、特定の化学物質に触れると脳に情報を伝達する、細かい器官がびっしりと並んでいる。ただ、その違いは味覚が水に(唾液に)溶けた化学物質に接触しなければ分からないのに対し、嗅覚はそんな必要はなくて、空気中でほんのちょっぴりでもそれが発する化学物質に触れればよく、風にのってやって来る遠くにある煙の匂いなどにも敏感に反応する。


 この、物に直接触れる必要がないと言うのがポイントで、要するに、嗅覚受容体は味覚受容体よりもずっと敏感なわけだ。それもそのはずで味覚の受容体、いわゆる味蕾(みらい)と呼ばれるものは口の中、例えば舌、口蓋、喉などに6000個ほどが存在するのだが、それに対し嗅覚の受容体はおよそ4000万と言われており、文字通り桁が違う。


 おまけに、人間の味覚が大雑把に5つの味しか感じられないのに対し、人間の嗅覚のそれは347を数えるらしい。この嗅覚偏重は人間のみならず哺乳類全般に言えることで、そのゲノムを紐解けば、嗅覚細胞にはかなりの割り合いが使われているらしく、どうやら動物が周囲を察知するのには、嗅覚が非常に重要な役割を果たしているようだ。


 この嗅覚受容体は哺乳類であれば鼻にあり、逆に言えば嗅覚受容体がある場所がその動物の鼻であると言える。では他の動物、例えば昆虫なんかはどうかと言えば、昆虫は触角に嗅覚受容体があり、アリを観察しているとよくわかるが、たまに触角をキョロキョロとさせていることがあるが、あれは匂いを嗅いでいるわけである。


 匂い分子、つまり特定の化学物質に触れると反応する器官であるから、別に匂いは空気中に限らず水中でも嗅げるはずで、魚だって水中で匂いを感じて餌を探している。よく、サメは血の匂いに寄ってくると言われるが、人間は水中に入ってしまうと鼻が利かなくなるから想像がつかないが、元々水中で暮らしている生物は当たり前のように水中の匂いを嗅いで生活しているわけだ。


 ところで、面白いのは精子細胞にも嗅覚受容体が存在し、実は精子が迷わず卵子の方へと向かっていくのは、その匂いをクンクン嗅いでいるからなのだとか。同人作家の皆さん、出番ですよ。


 ともあれ、味覚よりもより敏感な嗅覚受容体が、口のすぐ真上にある鼻の中にあるのは、ただの偶然ではなくて、動物が口に何かを入れようとしたとき、必ずその匂いも感じ取れるような位置に自然で出来たからだと言えよう。つまり、動物は味でそれが毒であるかを判断する前に、まず視覚と嗅覚でそれが何かと判断しているわけだ。


 従って、納豆のような見た目と臭いのものは、まず口に運ばれる前に視覚と嗅覚で毒と判断されてしまう。それが美味であると味覚が感じるよりも前に、見た目と臭いで毒を想起されてしまうと、仮に口の中に入れられたとしてもちゃんと味わうことが出来ず、記憶の中の文字通り苦い記憶が勝ってしまうわけである。


 例えば、梅干しを想像すると唾液が出てくるように、人間は味を記憶と密接につなげているのであろう。人間ってのは実は、味を味覚として覚えているのではなく、どうやら見た目や臭いなどを含めて総合的に捉えているらしいのだ。


 だから納豆のような物を美味しく食べるためには、これが毒ではないということに慣れなければいけないわけで、俗に子供の頃に色々な物を食べろと言われるのは、要するにこの記憶を増やす作業をしろということだ。尤も、それは何も味覚が敏感な子供の頃にやることもなく、大人になってから楽しみでやればいいことだと思うのであるが……


 実際、但馬は子供の頃は納豆が食べられなかった。お祖父ちゃんお祖母ちゃんは好きで毎朝食べていたが、だからと言って特に但馬にまで食べろとは言わなかった。思えば、子供が嫌いそうな野菜はクタクタになるまで煮込んでいたし、いろいろ気を配っていてくれたのだと思う。大きくなるに連れて、自然と食べられるようになるのだから、それでいいではないか。


 そんなことを考えていたら、コンコンコン……っと、ドアをノックする音が聞こえた。


「お忙しいところ失礼します。社長、工場から鰹節の生産工程を消化したので、一度見にいらしてほしいと報告があがってまいりました」

「……あ、そうなの? じゃあ、行こうかね」


 と言うと、報告にやってきた人物……リーゼロッテがツンと澄ました表情で但馬のカバンを持って立っていた。まるで秘書然としてるが、そもそもこの人にそんなことをお願いしたことは一度もない。なんでこんなことをしてるのかと言うと、自分も行きたいと言いたいわけだ。


 リーゼロッテは意外にも魚介類が好きで、特にマグロの油漬け、いわゆるシーチキンも好きなら、トロを乗せたニギリも好きだった。もともとは缶詰工場にマグロを卸していたのだが、前々から全部シーチキンにしちゃうのはもったいないなあ……と思っていた但馬は、米を生産し始めてからすぐに寿司を作ることを考えた。


 ただ、もちろん自分は職人ではないので、シャリを握る技術が無い。だから初めは、お握らずのような物を作ろうと考えたのだが、今度はパリッと乾いた海苔というものがなくて断念せざるを得ず……結局、試行錯誤の末に、型を作ってそこに酢飯を詰めて整形し、その上にネタを乗せるという寿司ロボット的な方法で寿司を作ってみたのだが、これが思いの外受けた。


 醤油も無いので、例によって塩と油をベースに、生姜やにんにく、唐辛子など、あらゆる食材で調味料を作ったのだが、それが意外とマッチして、みんな自分ごのみの調味料を作って楽しんでいた。何というか、味的にはラー油に近い。


 そんなわけで、新鮮なマグロやカツオの手に入りやすいハリチで寿司は名物になりつつあったのだが……ここまで来たら、やはり醤油が欲しくなるのが日本人としての人情だった。


 醤油に限らず、味噌や酒などの発酵に、日本人は麹菌を使う。麹菌は空気中にどこにでも存在するカビ(=菌)で、白米や大豆、小麦などを炊いて、湿度と温度を高く保って放置しておけばその内表面に麹菌が生えてきて、デンプンを分解してアルコールを作ったり、有益なアミノ酸を作ったりしてくれる……はずである。


 問題なのは天然に存在する麹菌には有毒な物も存在し、だから世界中どこにでもあるのに東南アジアの一部地域でしか使われなかったわけだが、醤油を作るならこれは避けては通れない道だった。だが、そんなものは素人には判別がつきにくい。


 そこで但馬は数撃ちゃ当たる方式に、作っては試すを繰り返していたのだが、今のところまったく上手くいっていなかった。残念ながら、まだまだ醤油にはありつけそうもない……ただ、その過程で何度も青カビにやられたことで、ふと思い出したことがあったのだ。


 鰹節というものは、いわゆるカツオの燻製のことである。実は、製法はそう難しいものではない。カツオを三枚におろして燻煙し、何度も何度も水分を蒸発させ、最後は日干しにしてしめる。元々はそうやって作られていた。


 ところが、この方法で作った鰹節はカビに弱かった。実はいくら燻煙しても、水分が完全に抜けきることはなく、かつての鰹節は生産地である土佐から大阪や江戸に運んでる間にカビにやられてしまっていたのだ。


 そうなると商品は売れなくなってしまうので、困った土佐藩は苦肉の策として、そのカビを利用して鰹節から水分を完全に吸いだす方法を編み出した。


 そもそも、鰹節につくカビはその中に残っている水分を目当てにつくので、その周辺に集まりやすく、見た目にもまばらだ。そして、ついたらすぐにその水分を利用して発酵を行おうとする。つまり、鰹節から水分を吸い出してアルコールにしようとするわけで……そのお陰でカビがついた鰹節は、ついてないものよりも水分が少なくなってるわけである。


 ならば、カビがついたら払い、ついたら払いを繰り返していけば、やがて鰹節から水分は完全に吸いだされるだろう。更に、その過程で有益なコウジカビが根を張って人間に有益なアミノ酸までをも作ってくれたのだ。この方法は上手くいき、結果、土佐藩の鰹節はカビも付かないし、他のものよりも美味であると評判になって、以降、現代に至るまで鰹節は土佐の名産品として扱われるようになった。


 漁獲量が増えるに従って、缶詰以外の保存食を考案しなければならない時に、この方法は上手くハマった。缶詰同様、鰹節にしてしまえば何年も持つ上に、シーチキンとはまた違った使い方が出来るのだ。


 問題は食品にカビをわざとつけるという衛生観念であったが、考えてもみれば普通にチーズはカビを利用した食品なんだし、見た目最悪なブルーチーズなんてものも存在するので、誰もなんとも思わなかったようだ。しかし、ブルーチーズがいけるなら納豆もそんなに抵抗無いだろうに……世知辛いものである。


 ともあれ、そんな具合に新食品を開発する度に、メイドはほっといても駆けつけてきた。思えばこの女、初めて出会った時はカフェにパフェを食べに来ていたし、新しい物には目がないらしい。但馬が商品開発の一環で工場やレストランに行くと、ただで色々食べさせてもらえるからか、彼女はどこからともなくやって来た。ハイエナのような女だが、まあ、彼女くらい消費者の生の感想に近い意見を出してくれる人もいないので、ギブアンドテイクだろう。


 ところで、そんな新食品に目がない彼女であっても……


「まあ、連れて行ってあげるのも吝かじゃないけどね。だったらこっちの方も手伝ってくれないかね、納豆菌」

「嫌ですよ、それ。臭いですもの……」


 こんな具合に、納豆に関しては見向きもしてくれなかった。新しもの好きのメイドでこの反応では、やはり納豆の商品化は断念せざるを得ないだろうか……


「平気な人もいるんだけどねえ……ちゃんと味わって食べれば、絶対美味しいんだけどなあ」

「あの神父ですか。失礼ですが、社長は少々女の子の気持ちを蔑ろにし過ぎだと存じますよ……姫様の件もそうでしたが、アナスタシアさんも今回の件で非常に傷ついておりますよ?」

「ん……うーん。そう?」

「ええ、それはもう。まさか、嫌な相手を追い返すどころか、雇い入れて接触の機会を増やすだなんて……あれは私でも怒りますかと」


 そうだろう。怒るだろう……それは分かるのだが……


 勇者が毒をばら撒いた。


 そう言ったあの男のことを思い出す度に、但馬はなんだか彼をこのままどこかへ遠ざけてはいけないような気がしていた。自分のことでは無いのだし、気にし過ぎといえば気にしすぎなのだが、どうしても心の奥にそれが引っかかっていたのだ。


 かつて勇者の従者であったエリオスに聞いてみたところ、勇者は様々な根も葉もない噂をたてられており、これもその一つに過ぎないだろうから気にするなと言った。勇者は但馬が思ってる以上に嫌われていて、そういうことは良くあったそうだ。


 だから、ザビエルの言うそれも気にしないで良いと思うのだが……彼はそれを伝聞で聞いたわけではなく、自分自身が被害者であると言った。噂ではなくて、確固たる意志でそれが事実だと言うのだ。これを放置しておくのはどうにも気が引けた。


 もちろん、その話を頭っから信じるつもりはない。だが彼が嘘をついているとも思えなかった。それは彼の醸しだす聖職者独特の雰囲気もさることながら、誰もが嫌がった納豆を平気で平らげ、そのうま味をちゃんと理解し、なおかつ、他の人たちが納豆を食べられない理由を的確に指摘したからだった。これだけでも、彼は自分の意見というものを持った人間と言えるのではないか。


 もしかしたら但馬に取り入るために、我慢して納豆を平らげてそれっぽいことを言っただけかも知れない。だが、それならば同時に勇者を批判することはなかったはずだ。それは彼が自分自身の言葉を喋っている証拠だろう。


 それに……


「ザビエルさん、仕事も出来るんだよね」


 仕事と言うのは、『味』に関するものだった。


 但馬は、結局、それが決め手となり、家中の反対を押し切って、彼に少し肩入れすることにしたのだ。


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