ハチミツとクローバー⑤
視界の隅っこでチラチラと動いた金髪を追いかけて、但馬は養蜂場を出た。周囲は牧場だから見通しが良く、まだ日も高いからすぐに見つかりそうなのだが、辺りをグルリと見渡してみても、ブリジットの姿はどこにも見当たらなかった。
おかしい……そう思いながら、見晴らしのいい丘へとテクテクと歩いて行って見るが、やっぱり彼女の姿はどこにも見当たらない。山の斜面には棚田が視界いっぱいに広がっており、収穫を待つ金色の稲穂がザワザワと風になびいていた。
ハリチでは馬産、養蜂の他に水田もやっていた。他の2つに関しては理由があったが、この稲作に関しては理由らしい理由は特に無い。それなのに何故作っているのかと言えば、理由は言うまでもなく、単に但馬が食べたいからだった。
リディアの主食はトウモロコシ、エトルリアは小麦と、コメの入り込む余地が無かったが、かと言ってコメ自体が無いかと言えばそんなこともなく、普通に存在はしていた。ただ、これを主食とする民族が居ないので数が少なく、手に入りにくいから半ば諦めていた感じである。
しかし、火山灰質で年間を通しての降雨量が多いリディアの土地は、水田が意外とあっており、恐らくトウモロコシが無ければ、こっちが主食になっていたのではないかと但馬は踏んでいた。
農場のおじさんに農業を教えたのは勇者であったそうだから、どうして稲作にしなかったのかと、同じ日本人として許しがたいものがあるが……まだこの土地に渡ってきて、その日食うにも困っていたリディア人達を見ていたら、そんなことも言ってられなかったのだろう。
なにはともあれ、ブリジットの姿が見当たらないので、見間違いだったかと諦めて、みんなの元へと戻ろうとしたら……
視界がスッと落っこちた。
ドサッと地面に四つん這いになり、ムスッと眉毛を寄せながら振り返ると、アナスタシアが立っていた。一瞬、何が起きたのかと思えば、膝かっくんである。
「アナスタシア君、君ねえ、こういうのは下手すると大怪我するからやめなさいよ」
「先生、勝手に歩き回っちゃ駄目だよ」
こっちが説教するはずが逆に怒られた。どうやら、エリオス達護衛陣は養蜂場に入らず周囲を警戒していたのに、但馬が一人でフラっと出てきて、何も言わずに離れていくから困っていたらしい。
そう言えば、見かけなかったなと思いつつ、外に居たのならと、
「ごめんごめん。ちょっと金髪を見かけてさ……ブリジット見なかった?」
「姫様……? ううん。見てないけど……」
「おかしいな。気のせいだったかしら」
「うーん……」
アナスタシアは少し考えこんでから、
「もし居たとしても、姫様が本気で隠れたら、多分見つからないと思うよ」
と言った。確かに、そんな雰囲気はある。相当昔に一度だけ剣の試合をしたことがあったが、わけがわからない内に視界がひっくり返っていた。相手が動いた気配すら感じなかったくらいだ。
そんな相手が視界の隅にでも引っかかるとも思えないし、じゃあ、やっぱり見間違いだったのかなと、但馬は四つん這いの態勢から体を入れ替えると、クローバーの草原に腰を下ろした。
アナスタシアはそれを立って見下ろしていたが、但馬が動かないのを見ると、自分もその隣に腰を下ろし、二人は一緒になってどこまでも続く棚田をぼんやりと眺めた。水田が太陽を反射してキラキラと眩しく輝く。鳥がフラフラとやって来ては、田んぼで野良仕事をしている従業員に追い立てられていた。
「アーニャちゃんも護衛に混じってたの? そういや養蜂場の中に居なかったね。護衛はエリオスさんに首にされたって聞いたんだけど」
「エリックとマイケルだけだよ、首になったのは」
「そうだったのか……まあ、そうだよな。あいつらと違って、アーニャちゃんは適正ありそうだ」
「そうかな?」
「うん。エリオスさんはなんて?」
「……筋が良いって。でも、多分、護衛の仕事はやらない」
但馬の護衛など願い下げだということか? と一瞬思ったが、そうではなく、多分、いざとなった時に人を殺せるかどうか、自信がないのだろう。今まで但馬が襲撃されたことはないが、だからと言って絶対はないと最近は思っていた。
あの海岸で目覚めた時は、自分はただの異邦人でしかなかったが、気がつけば新興企業の社長になって、大企業の社長になって、いつのまにやら国の要人になって、今や大臣として国政に携わっている。忘れてしまいそうになるが、エトルリアとは未だに戦争中なのだ。但馬が邪魔だと思っている人間は、多分、相当いる。
しかし、思えば遠くへ来たものである。別になりたくてなったわけではないのだが、人間、何がどう転んでどうなるか分かったものではないとつくづく思った。
「……アーニャちゃんは、一体、何になるんだろうね」
そんなことを考えていたら、自然と口から出ていた。アナスタシアは一瞬キョトンとしてから、難しい顔をして、
「分かんない」
「そっか」
「リオンは、きっと先生みたいな偉い学者さんになりそう」
「リオンが学者? うーん、そうだね、そうなるかも……でも、俺は学者じゃないよ?」
「そうなの? じゃあ、どうして先生って呼ばれてるの?」
但馬は思わず吹き出した。そう言えば、アナスタシアは但馬がみんなに先生と呼ばれている理由を知らないのだ。本当の理由を知ったらどう思うのだろうか……まあ、多分、呆れるだけだろうが、自分の名誉のために但馬は笑うだけでとどめておいた。
「そうだね。俺は学者か。間違っちゃないかもな……この世界にはろくな学者がいないし」
「なんだかバカにされてる気がする」
「そんなことないよ。でも、リオンが勉強ばっかりしてるのは、俺のこと学者だと思ってたからなのか。そういや、お袋さんもそんなこと言ってたな」
「ふーん……姫様は、騎士になりたかったんだって」
「……え?」
但馬は彼女の横顔を見た。しかし、アナスタシアは視線をまっすぐに田んぼに向けたまま、瞬きもしないで訥々と語った。かつて、リディアの地に初めてリリィがやって来た日のこと。彼女を連れ回して怒られたこと。
「リリィ様の体が弱いことに気づかなかったのが許せなかったんだって……だから、今度は自分が強くなって、彼女のことを守りたいんだって……そう言ってた」
「へえ……それであんなに剣ばっかり振るってたのか」
但馬は思わず感心したが、
「ううん。それは元からだって。リリィ様を連れ回したのも、騎士ごっこの延長だったみたい」
但馬はガクッと力が抜けた。
「しょうもないやっちゃなあ……まあ、彼女らしいけど」
アナスタシアは薄く笑うと、横目でチラリと但馬の目を見ながら言った。
「……だから、姫様はきっと、念願かなったんだと思うよ」
「……え?」
「姫様は、先生の騎士になったんだよ」
そう言えば……皇帝に二人が付き合っていることを報告に行った時、そんな感じのことを言っていた。あれはそういう意味だったのかと但馬は思い出し、ほんのちょっぴり呆れながらも、とても嬉しくもあった。
しかし、自分は守られる方なのか……普通に考えて、あっちはお姫様なんだから、但馬の方が騎士になるなら分かるのだが……まあ、適正というものを考えたら、どう考えても逆になるから仕方ないのだろう。
「みんな、やりたいことがあって、羨ましいな」
但馬がそんなことを考えてゲッソリしていたら、アナスタシアがポツリと呟いた。
彼女はまだ、やりたいことが見つからないでいるのだ。
彼女なら大丈夫、すぐに見つかるよと言いたかった。だが、それを口にだすことは憚られた。本当は誰だってそうなのだ。但馬だって、別にやりたいことが何なのか、分かってるわけじゃないのだ。分からないから、色んなことに首を突っ込んで、今こうなっているだけなのだ。でも、それを今但馬が言ってしまうのはきっと優しくないだろうから……だから、彼は口を閉ざした。
本当は誰だって、彼女と同じ、やりたいことを探している最中か、もしくは諦めてしまったか、そのどちらかだ。
「……働かないアリって、あれは本当なの?」
会話が途切れ、そんなことをしんみりと考えていたら、アナスタシアが言った。
「……アリ?」
「さっき、タチアナさんと話してたのが聞こえたの。リオンによく観察してごらんって……」
「ああ……」
養蜂を始めた切っ掛けの話だ。あれは元々、庭のアリの巣を観察していたリオンからヒントを得たものだったが、その時、彼に話して聞かせたのがアリの話だった。
「本当だよ。2割は全く働かない。2:8の法則とか、2:6:2の法則とも言うね。後者の場合は、2割がよく働いて、6割はたまに働く、そして2割が全く働かない。これはアリに限らず、社会性のある動物はみんな多かれ少なかれそういう傾向があるんだそうだ。と言うか、社会が円滑に機能するには、どうしてもこうならざるを得ない」
「どうして? 働かない人も必要だって言うの??」
「と言うか、2割が仕事からあぶれるんだ。例えばさっきの2:6:2の法則のうち、良く働く2割のアリと、全く働かない2割のアリを別々に分けて、違う瓶で別々の集団として巣を作らせるとするじゃない? するとどうなると思う?」
「……働かないアリの巣は全滅しちゃう」
「と、思うじゃん? でも、正解はどっちのコロニーも円滑に機能する。そして、面白いことに双方のコロニーでまた2:6:2の法則が発生する。即ち、良く働く集団の中から2割の怠け者が、全く働かなかった集団の中から2割の働き者が、それぞれ生まれるんだ」
アナスタシアは目を丸くした。
「どうしてそんなことになっちゃったの?」
「例えば、アーニャちゃんと俺とリオンが3人だけで暮らしてるとするじゃない?」
「……それは寂しいね」
「例えだから。3人でお袋さんの目がない状態で好き放題暮らしてたら、部屋がどんどん散らかっちゃうでしょう」
「……それはちょっと楽しそうだね」
「例えだからね……? で、部屋が散らかったら、誰かが片付けなきゃならない。特に当番が決まってないとしたら、一体誰が部屋の片付けをするだろうか」
「……多分、私がすると思う」
「正解。3人の中だと、アーニャちゃんが一番きれい好きだから、部屋が散らかってるのが我慢できなくて、部屋の片付けを始める。で、特にルールが決まってないんだから、また部屋が散らかってくると、アーニャちゃんが部屋の片付けを始める。それがずっと続くことになる」
「……貧乏くじだね」
「そうだね。ところで、ここでアーニャちゃんが旅行に行って、暫く留守にするとするじゃない? そうしたらどうなると思う?」
「……考えたくないけど……多分、散らかし放題で家が酷いことになる」
「まあ、そうなるだろうけど……多分、そうなったら、俺が部屋の片付けを始めるだろう。リオンと比べると、俺の方がまだきれい好きだからね」
「ホントかなあ……」
「……多分、俺のほうがきれい好きだよ。泥だらけの洋服のままで寝たりしないし……コホン……とにかくまあ、俺が部屋の片付けを始めるはずだ。実は、俺にも部屋をきれいにしようって気持ちがあったわけ。ただ、俺はずぼらだからよっぽど散らかってないと片付けを始めないんだけど、アーニャちゃんが居ると、君が俺が片付けようと思うよりもずっと前に部屋の片付けを始めちゃう」
「だから、ずっと私ばかり片付けをさせられちゃうのか……」
「そう。だから、部屋の片付けをしたくないなら、そのまま待ってればそのうち俺が片付けだすはずなんだ。でも、そうなる前にアーニャちゃんは我慢できなくなるね?」
「うん。多分……我慢しきれなくて、きっといつもよりピカピカに磨いてそう」
「ま、要はそういう事さ。アリの社会でも同じことが言える。個体によって仕事へのモチベーションが違う複数のアリが、仕事したい順に仕事を始めるから、段々と仕事がしたくても、する仕事が無くなっていく。例えば、アリの仕事と言えば、巣に餌を持ち帰ることがあげられるけど、持ち帰るにはまず餌を見つけなきゃいけないじゃない?」
アナスタシアは頷いた。
「そうだね」
「だから、まず餌を見つけるために、巣の周辺を探索しなきゃいけない。でも、巣の中の全部のアリが探しに出ちゃったら、もしも餌を発見した時困るだろう? 餌を発見したよーって、みんなに伝えに巣に戻っても、そこには誰もいない。それじゃ困るから、探索の仕事にある程度の個体数が出て行ったら、それ以上は出て行かず、残ったアリ達は巣の中でボーッとしていたり、卵の世話をしてたりする。俺達がアリは働き者だなーって思って見てるのは、実はこの探索に出ているごく一部のことだったんだ」
アナスタシアはため息を吐いた。
「そうだったのかあ……」
「で、この働き者のアリが首尾よく餌を見つけてきたとする。そして意気揚々と巣に戻ってきて、みんなに餌があったぞと伝える。そうすると、今まで巣の中でぼんやりとしていたアリ達が活発になって、彼に着いて行って餌を巣に運びこむ仕事を始めるんだ……ところで、この時もまた、全てのアリが餌を取りに巣穴から出て行ったら困るでしょう?」
「うん」
「不測の事態があるかも知れないし、もしかしたら、探索に出ていた他のアリが、もっと凄いご馳走を見つけてくるかもしれない。だから、餌を運びに出て行くアリもまた、全体のごく一部で、巣の中にはまだ仕事をせずにボーッとしてるだけのアリが残ることになる。で、まあ、こういうシステムを採用してると、何があっても梃子でも動かないアリが出てくるでしょう。かくして2:6:2の法則が成立するわけ」
「はぁ~……それじゃあ、働かないアリは、別に働きたくないわけじゃないわけ?」
「そうだね。働きたいけど、もしかしたらもっと凄い不測の事態が起こるかも知れないから、巣の中で待機してるわけだ。それが一生続いちゃうのもいるわけ」
「……なんだか、私みたいだ」
しまった、藪蛇だったか……見るとアナスタシアがシュンとしていた。但馬は慌てて続けた。
「いやいや、2割の怠け者だけを集めたら、8割はちゃんと働き出すんだから、本当に不測の事態が起きた時に、この2割がいてくれないと、巣が全滅しちゃうからね。必要不可欠。適材適所だよ」
「……適材適所」
「そうそう、外敵から巣を守るための兵隊アリってのが居てね? こいつは見た目からして他のアリよりも大きくて、普段は何もやらないで巣の中や近辺をウロウロしていて、外敵に接触すると真っ先に飛び出していって攻撃をするんだけど……だから、他のアリとは根本的に違う戦闘特化の種類だと思うじゃない」
「違うの?」
「うん。そのアリの巣から、兵隊アリ以外のアリを全部退けちゃうと、面白いことに、兵隊アリが他のアリがしていた仕事をやり始めるんだって。大きな体で卵をペロペロ舐めて世話したり、巣の修繕を行ったり、餌を探して運んできたりね。実はこいつらもやっぱり、元は同じアリで、ただ外敵を排除するという仕事に対して敏感なだけなんだ。だから、他のアリたちが健在な限りは、彼らはずっと戦闘だけを仕事にする。
この、仕事に対する好き嫌いってのは、他のアリたちにもあって、卵の世話を好むもの、巣の修繕を好むもの、外に餌を探しに行くのを好むものってが決まってる。まあ、実は年齢によって好みが変わるんだけども……とにかく、アリたちも、仕事があれば何でもやるってわけじゃないんだよ。適材適所。大きな兵隊アリには、やっぱり巣の中の仕事よりも、外敵と戦ってて欲しいじゃない」
「そう、だね……」
「歳を取ると、またやりたいことも変わるんだし、まあ、焦らないことだよ」
但馬がフォローするように一気にそう口走ると、アナスタシアはじっと耳を傾け、それを熱心に聞いていた。きっと彼女の中には腑に落ちない何かが渦巻いているのだろう。早く、彼女にも、彼女が打ち込める何かが見つかってくれると良いなと但馬は思った。
「適材適所……か。だったら先生は姫様に色々求めすぎてると思うよ」
だから、そんなアナスタシアが、突然いたずらっ子のようにニヤリとして、そんなことを口走ったのは完全に不意打ちだった。最初は何の話なのか分からず、たっぷり十数秒は沈黙してしまった。
「…………求めすぎてるかね?」
「どうせ、姫様なら許してくれると思って、きつく当たったんでしょう?」
それは今朝、ホテルで彼女についてくるなと言ったことだろう。但馬はアナスタシアにそう言われるとは思わず、う~んと唸った。見透かされているようだ。
「……そう思う?」
但馬は観念してボリボリと後頭部を掻いた。
「姫様は騎士になりたかったんだ。だから、先生の騎士として、ずっと一緒にいたいんだと思うよ。会社なんてただの口実だよ。あの人が、机に齧りついて書類とにらめっこしてるなんて、想像もつかないよ」
「うーん……」
「それも分かってて、言っちゃったんでしょう?」
「……うん」
「そういうの、ちゃんと言ってあげなきゃ可哀相だよ」
確かに、そうかもなと但馬は思った。アナスタシアの言うとおり、求めすぎているのかも知れない。ブリジットを生涯のパートナーとして、仕事でも、プライベートでも、完璧を求めすぎているのかも知れない。
よく考えてもみれば、彼女があんな感じなのは今に始まったことではない。但馬だってよく知ってることじゃないか。だとしたら、どこにイライラする要因があったというのだろうか。以前はそんなこと無かったはずだ。
「……そうだなあ……俺が悪かった。山から降りたら、ちゃんと謝りに行こう」
「その必要はないよ」
するとアナスタシアは言った。
「先生がさっき見かけたって言うなら、きっと、姫様ここに上がってきてるんだよ」
「でも、見当たらないし」
「私達が見つけられなくっても、どうせ姫様は先生のことしか見てないから……ちょっと振り返って、パッと見てみたら、案外、すぐそこにいると思うよ」
彼女の言葉はぶっきらぼうで、どこか投げやりなニュアンスがあったが、不思議と信じられる気がして、但馬は不意に背後を振り返ってみた。
すると、アナスタシアの予言通り、彼の視界の片隅で、慌てて姿を隠そうとする金髪が見えた。但馬は思わず脱力した。
「あ~……」
「居たの?」
「居た」
クスクスと彼女は愉快そうに笑った。
「……ほら、ね?」
但馬はその笑顔に苦笑で返すと、バツが悪くなって視線を外した。
「それじゃ、ちょっと行って謝ってくるよ」
「うん……先生?」
「うん?」
但馬がブリジットを追いかけようと、二三歩あるきかけたところで、彼女は言った。
「バイバイ」
その時丁度彼女の背後には太陽があって、その顔がどんなだったか、但馬の位置からは見えなかった。彼女は胸の位置で窮屈そうに、小さく手を振っていた。
そんなこと言わなくても、どうせすぐ戻るよと言いたかったが、何となく言いそびれて、但馬は何も言わずに手を振り返した。
そしてまた彼女に背を向けると、もう振り返りはしなかった。
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厩舎の陰でブリジットは青ざめていた。但馬に来るなと言われても、あんな風に言われては気になって気になって、居てもたっても居られず、つい追いかけてきてしまったのだ。だが、約束を破ったことを彼に責められたらどうしようと思うと声が掛けられず、ずっとエリオスたちに隠れてうろちょろしていたのだが、やっぱり我慢し切れず恋人の姿をウットリと見つめていたら、事もあろうにその本人に見つかってしまった。
一回目はなんとか誤魔化せたかも知れない……だが、2回目のさっきは思いっきり目が合った気がするし、多分、彼も、おいこら居るんだろ? って感じの顔をしていた。
「はわわわわわ……」
サクサクと土を踏みしめる音が近づいてくる。咄嗟に身体強化の魔法を掛けて、屋根の上に登って隠れようと思ったが、ふと但馬のレーダーマップ能力を思い出して断念した。彼がその気になったらいくら巧妙に隠れたところで無意味なのだ。
ならば、隠れていることがバレたところで見られなければ良いのだから、いっそ当身でも食らわせて気絶させてから逃げようか……角を曲がろうとする瞬間に飛び出して、足を引っ掛けてすっ転ばし、手刀で軽く延髄をバシンと叩く……これだ。
ブリジットはゴクリと唾を飲み込むと、姿勢を低くしてその瞬間を待ったが、
「おい、ブリジット」
「はいっ!」
声を掛けられて反射的に返事をしてしまって、その場にガックリと両腕をついた。
厩舎の向こうからヌッと人が現れて影が差した。
ブリジットは怒られると思って、咄嗟に頭を抱えてまるまると、
「ひぃ~! ごめんなさい、ごめんなさい。駄目って言われたのに、つい我慢しきれずついてきてしまいました。悪気は無かったんですっ!」
イモムシみたいに体をくねらせ、土下座せんとばかりに謝罪したが、
「いや、謝らないでくれ、ブリジット。俺のほうが悪かったんだ。ゴメン」
と、逆に謝られて、あれ? っと顔を上げた。
「……昼間の言い方は悪かった。あんな言い方をしたから気になって来ちゃったんだろう?」
「えーっと……はい」
「ゴメン。もう言わないから……這いつくばってないで立ち上がってくれる?」
ブリジットはおずおずと立ち上がった。
「怒ってないんですか?」
「元から怒ってないよ。ちょっとイライラして、ただの八つ当たりだったんだ。あんな言い方は無かったと思う。だからゴメン。謝るよ」
「い、いえ! 私の方こそ、いつまでも先生のお仕事の邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした!」
「……いや、俺のほうが悪かったと思うし」
「いいえ! 私のほうが絶対……」
「いやいや、俺が……」
「いいえ、私が……」
二人は互いに顔を見合わせて、バツが悪そうに苦笑いをした。これではいつまでたっても会話が続かないだろう。但馬は大きく深呼吸すると、これで最後といった塩梅にゴメンと言うと、右手をぶっきらぼうにつきだした。ブリジットは、はいっと返事を返すと、それを両手で包み込むように握りしめた。
「……アーニャちゃんに怒られたんだよ。俺はブリジットに色々と求めすぎなんじゃないかって」
アナスタシアに……と言うところに関してはちょっと不服だったが、ブリジットは口を挟まずに黙って聞いた。
「なんて言うのか、ブリジットと付き合いだしてから、ちょっと無駄なことを考えすぎてたんだと思う。ブリジットはお姫様だし、俺はいつの間にか大臣になっちゃってるし、この国のために頑張んなきゃなって、知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてたんだと思う」
「そうなんですか?」
「うん。それで、ブリジットにまで、それを延長して考えてたんだ。ブリジットはお姫様なんだから、もっと国民のために一生懸命勉強しなきゃいけないし、公務を頑張らなきゃいけない。もっと国民のためになる仕事を選ばなきゃいけないし、こんなところで油を売ってる場合じゃない」
「うっ……」
「お姫様なんだから、いつ誰に見られても良いように、綺麗な服を来て常に美しくなきゃいけないし、凛々しくて優雅で超然としてなきゃいけない。いつの間にかそんな風に考えて、ブリジットに色々と求めすぎてたんだと思う」
ブリジットは但馬の要求を聞いて絶句するとともにシュンと項垂れた。
「うぅ~……その、努力します」
しかし、もちろん但馬は首を振った。
「いや、いいんだよ、そんなことしなくたって。そんなの俺の勝手な願望で、君が気にしなきゃならないようなもんじゃないだろ」
「でも……」
「君は生真面目そうに見えて、案外享楽的で、脳筋で、調子に乗りやすくて、お子ちゃまで、犬っぽくて、バカっぽくて……ついでに結構ドジだよね」
「むかっ! いくら先生とは言え、それは言い過ぎなんじゃ……」
その上短気だ。頭に血が昇ったブリジットが、顔を真赤にして抗議をしようとキッと目を釣り上げたら、
「でも、そこが好きなんだ」
とカウンターを入れられて、更に瞬間湯沸器のように顔を熱くした。
「ブリジットはそういう子なんだ。俺はそれを知ってて好きになったんだ。ちょっと脳筋だけど、可愛くて、お人好しで、気取らなくて、みんながメディアとの戦争が終わっても、亜人を相手にソワソワしてるのに、君は全く拘らなかった。みんなと仲良くなろうとしたから、みんなが君の元へ集まってきたんだ」
「えーと、その……はい」
「だから、君はそのままで良いんだと思う。色々と求めすぎていたけど、俺が考えてるブリジットは、ブリジットじゃないよ」
「はい」
「君は君のままでいい。勉強しなくっても、剣術ばかりやってても、うざいくらいまとわり付いてきても。今まで、それで腹が立ったなんてことは無かったんだ。だから、俺がどうかしてたんだと思う」
「うっ……もう少しは勉強も頑張りますよ」
「いや、いいんだよ。俺は何かあるとすぐ頑張んなくっちゃって、自分にプレッシャーをかけて、余裕を無くしてしまうんだと思う。以前はそれで君に怒られた」
今回はアナスタシアにだったけど……
「俺の悪い癖だな」
ブリジットはモジモジしながら上目遣いで言った。
「……でも、先生のそう言う実は意外と真面目なところも好きですよ?」
「そう? ありがと……」
「どう……いたしまして……」
それきり、二人の間で言葉が無くなった。お互いに謝って、お互いに好きなところを言い合って、なんでこんなことになってんだろうと、お互いにモジモジしていると、段々とそれっぽい雰囲気になって来た。
遠くで馬がヒヒンと嘶いた。
海風が吹きつけて、草原がザワザワと揺れた。
陽は傾いて、二人の居る厩舎の影は、暗くて周りからはよく見えなくなっていた。
だから自然と二人の影が重なってきて……お互いの息が顔にかかるくらいに近寄ってきて……そして、
「コラアアアーーーーッッッ!!! いい加減にしないかっ! 社長っっ!!!」
今まさに唇と唇が重なろうとした瞬間。もの凄い大音響が耳にキンと飛び込んできて、驚いたブリジットが但馬の鼻に頭突きを食らわし、ついでに下唇をガリッと噛みきっていった。
「ほごぁわっ! ぐふぉ……ぐぶぶぶぶ……」
「わ……わあああ!! すみませんすみません! 先生ぃ~~!!!」
ノッシノッシと巨体を震わせて厩舎の影へと向かってきていたエリオスが、そこに但馬以外の人間が居ることに気づいて警戒態勢を取った。
「誰だっ!?」
しかし、彼はすぐにそれがブリジットであることに気づくと、矛を収めて難しそうな顔をしながら厩舎の影へと足を踏み入れてきた。
「なんだ……姫が来ていたのか。道理で勝手にいなくなるわけだ……しかし、どうして君はすぐ勝手に居なくなるんだっ!! 社長、君は護衛されているということをもっと自覚してくれ……! 咄嗟にアナスタシアを向かわせたのに、その彼女まで巻いてしまっては、警備に支障を来すだろう!? まったく……別に好き勝手動くなとは言わん。そのために俺達が居るのだから、ある程度は融通も聞かせよう。だが、どこか行く前に一言断ってくれても良いではないか……今回は相手が姫だったから良かったが、これがもしも姫のフリをしていた他国の襲撃者だったとしたら……ん? って、社長。どうしたんだ? その顔は……わあ! 血だらけではないかっ!!」
クドクドと小言を食らわせていたエリオスは、地面に四つん這いになりながら動かない但馬の姿を見て驚いた。見れば、彼は鼻血をダラダラと垂れ流し、唇が真っ黒に腫れ上がっていた。
まるで顔面を拳で殴打されたかのようだ……エリオスは驚愕し、目の前に居たブリジットを凝視した。
「ちっ……違うんです! 違うんです! あ、いや……でも、犯人は私なんですけど……ああー! もう! とにかく違うんです! そそそ、そうだ。ヒール! ヒールしなきゃ……」
わけがわからないエリオスは、どうしていいのか分からず、取り敢えず、いつまでも地面に這いつくばる主人を立たせようとして手を差し伸べたら……
但馬はその手を思いっきり払いのけて言うのだった。
「……減俸」
「……え?」
「減俸! 減俸! 減俸だー! エリオスさんは減俸! もう、ゆるさないぞ。主従という物を分からせてやるんだからねっ! 主に金銭的にっ!!」
「な、なにィ!? 俺が一体何をしたと言うんだ!? 何かしたのなら言ってくれ」
「うるさいうるさいっ! エリオスさんなんか減俸だ! 減俸ーーっ!!」
何故主人がこんなにブチギレてるのか分からず、エリオスは困惑して冷や汗をかいていた。
ブリジットは何か半泣きになりながらヒール魔法を唱えているし、但馬は頭のネジがぶっ飛んだオウムみたいに減俸と繰り返した。
高原にぎゃあぎゃあと、虚しい叫び声がこだまする。減俸を叫ぶ但馬、理由を問うエリオス、一心不乱にヒール魔法を唱えるブリジット。
そんな上司たちを遠巻きに見やり、どうせあの騒動はまだ長引くだろうと、エリオスの部下たちはため息を吐きながら、全員を護衛しきれるように警戒範囲を広めた。
みんな好き勝手やってるけど、タチアナたちも居るのだから、せめてバラけないで欲しい……どうやら上司は何かやらかして減俸されるようだが、自分たちの方は逆に給料上げて欲しいものだと彼らは切に願った。





